記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2017年06月

人はみな、被投的に始まってしまっている生を歩んでいる。被投的というのは要するに無根拠であり、神秘である。なぜ私が私としてこの色とりどりの世界を経験しているのか、誰も分からない。いや、誰もというか私は私のことしか分からないので、少なくとも私は分からない。でも、普段私(も他の人々も)そんなことは問わずに人間社会を生きている。

改めて考えてみると、私の生とは「いま、ここ」の持続、ウィリアム・ジェイムズ的にいえば「意識の流れ」がわれわれ各個人の生である。

この「意識の流れ」を「よく」したい。ポジティブなものにしたい。

と考えるのは、少し突き詰めて思考したらたどり着く考えではないだろうか。全てを自分の意識に還元するのだ。恋人や家族や友人のためというのも、結局はそれを思っていて最終的に嬉しい私に行き着く。

以下の本では、このように還元された意識内での「よいこと」を「ウェルビーイング」として、それをベースにサービスとか社会設計とか考えていくためにウェルビーイングをどう設計するかというエキサイティングな本である。

ラファエル A. カルヴォ & ドリアン・ピーターズ (著)『ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術』。監修は、渡邊淳司&ドミニク・チェン、翻訳は木村千里 。

ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術
ラファエル A. カルヴォ & ドリアン・ピーターズ
ビー・エヌ・エヌ新社
2017-01-24



アマゾンの頁での内容紹介は以下の通り。
人の「こころ」の領域にまでITが入り込んできた今、人間の潜在能力を高め、
よりいきいきとした状態(=ウェルビーイング)を実現するテクノロジーの設計、
すなわち<ポジティブ・コンピューティング>のアプローチが求められています。
近年注目されている「マインドフルネス」や「レジリエンス」、「フロー」なども
ウェルビーイングを育むための要因ですが、ではこういった心理的な要因とテクノロジーを、
どう掛け合わせることが出来るでしょうか。
本書では、ウェルビーイングに関する様々な分野の最新の研究成果を基に、
この問いを解き明かしていきます。
これからのテクノロジーの在り方や、向き合い方を考えるうえでの基盤となる一冊です。

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人間がよりよく生きるとはどういうことだろうか? 
心という数値化できないものを、情報技術はどうやって扱えばよいのだろうか? 
本書は、このような問いに答えようとする者に対して、示唆に富んだヒントを与えてくれるだろう。
(「監訳者のことば」より)
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大体想定していたことが書かれていたが、様々な具体的な情報や事例が出されておりこの分野について理解がとても深まった。面白かった部分を少し紹介し感想を述べる。本書で言われる「ウェルビーイング」という用語は、「心理的機能が人間として考えうる最適な状態にあることを強調した表現」であり、ポジティブ心理学の世界では広く受け入れられているようだ。ただ、この曖昧な定義をどう捉えるかについて3つのアプローチがある。
  1. 医学的アプローチ:精神機能障害がない状態
  2. 快楽的アプローチ:喜びの感覚の集合として(人生の何%がポジティブな感情で占められているか)
  3. 持続的幸福的アプローチ:人生に意義を見出し、自分の潜在能力を最大限に発揮している状態
の3つが現代のウェルビーイング理論の基盤となっているようだ。そしてここで取り上げられている理論はどれも単なる仮説ではなく、十分な実証的な裏付けがあるという。

少し細かく見ると、「快楽心理学」であればポジティブ感情の体験をもとにウェルビーイングを定義していく。カーネマンの議論も出てくるが、これは主観的ウェルビーイングである。研究方法は、もし幸せだという自覚があるなら、伝えてほしい、というもの。

ライフイベント、人生の満足度、充実度をはじめとする個人の人生に対する認知的評価と感性的評価からなり実際に国民総幸福量子数の開発に利用されているらしい。さらに時間軸の観点でいうと、個人の自己報告は「オンライン=リアルタイム」「想起」「長期間にわたる人生評価」の3つがある。

持続的幸福的アプローチは、エウダイモニア的アプローチとも呼ばれ、自律性、有能感、関係性を軸にした自己決定理論があり、さらに快楽的アプローチと組み合わせてフロー理論でお馴染みのチクセントミハイなどのポジティブ心理学、情動知能、仏教の心理学なども参照されている。

また、最後に生理学的に確認可能なウェルビーイングとして「生物学と神経科学」のアプローチも紹介されている。ここでは個人の感情を理解するために生理学的信号や脳信号を用い、遺伝子や身体の健康状態を調査したり、そうした生物学的システムと環境条件との相互作用を調査している人もいるらしい。脳波記録、筋電図検査、皮膚コンダクタンス、呼吸といった複数の生理システムの信号を使う。神経科学者は脳の電気的活動や科学的活動のパターンを特定しようとしている。

また、第2章ではブータンだけでなくイギリスやフランス、アメリカなども国家発展の尺度の見直しとしてウェルビーイングに取り組んでいることが紹介されている。第4章は、ウェルビーイングの決定因子として、ポジティブ感情、動機づけ&没頭、自己への気付き、マインドフルネス、心理的抵抗力・回復力、感謝、共感、思いやり、利他行動を挙げ、それをどうデザインしていくかという議論は本書の核であり、読み応えがある。また、第8章で紹介されている判断をともなわない注意「マインドフルネス」という概念は詳しく知らなかったので勉強になった。

さて、これを読んだ感想は、とても「心理学的」だということ。本書でいうポジティブコンピューティングの基本的なアプローチ方法はざっくり以下のようなもの。
  1. 主観を内省して、ポジティブだった意識状態を列挙→例えば上述の:ポジティブ感情、動機づけ&没頭、自己への気付き、マインドフルネス、心理的抵抗力・回復力、感謝、共感、思いやり、利他行動
  2. それらがどのように生じたのかを分析
  3. 分析結果を基にどうやってそれらを再現するかを研究
全て「現在の人間の感受性」で考えられている感が否めない。人間中心主義といえる。われわれは「スポーツの練習に没頭している」「家族や恋人と幸せな時間を過ごす」など経験的に学んだポジティブな状態を目指そうとする。というか、それ以外に「よいこと」をする際の指針はない。

しかし、われわれは環境や他の人や生物との相互作用の中で各個人が価値観や世界像を編み上げている。そして経験によりそれらは変わりつつまた新たな経験をするという循環。そこから何が言えるかというと各個人により何が「よいこと」になるかは違うということ。

そして、さらにいうとマルクスが主張したように生産性が向上したり人間関係が変わると下部構造により上部構造であるわれわれの感受性も変わる。例えばベーシックインカムが実現され、人との関係が薄くなっても生きていけるようになれば(極端な話)共感や感謝、思いやりなどはポジティブな状態に関係なくなるかもしれない。そもそもそのような存在の形態になったら、ポジティブな状態が気になっているか分からない。

よくSFで提起される問題だが、今の感受性では環境の変わった未来のわれわれの感受性はどうあがいても分からないのだ。それを予想しようとしている私は既に今の感受性で物事を考えている。だから何がいいたいかというと、こうした「心理学的」なアプローチがたしかに現時点では最も有効なのではないかと思っている、ということ。

どこでもドアの思考実験をご存知だろうか。

東京でドアに入る瞬間、私の素粒子状態がデータ化され、東京の私の身体は抹消される。ニューヨークのドアでそのデータから素粒子状態を再現して、私の身体が出現する。素粒子状態が同じなので、以前の私と同じように振る舞えし、社会(他者)もそう認める。素粒子状態という物理的なものが心的なものに還元されることが前提になるが。

さて、ここで重要な論点は「意識の連続性」である。東京の私としての生はそこでthe endなのだ。何かしらの苦しみや恐怖を経て(或いは技術的にそれを快楽にすることもできるかもしれない)私の生は終了する。そして、ニューヨークの彼(私とは違うので)はそこから物理的には生まれるが東京の私の意図も継承している。そして社会に入っていけばみんな東京の「私」と連続体だと見なす。同じように振る舞うのだがから、10年前の思い出話もできるわけだ。

社会はそうでもいいかもしれないが、私にとってはこれは許せない。私の意識は終わるから、その後社会で彼が生きていて、親や友達を悲しませないとしても、私の生は終わるのでその「終わる体験」をしなくてはいけない。

ただ、「死」を恐れる要因として、
1,意識の連続の終わり(意識が途切れるときの痛み。仮に気持ちいいとしてもそれを経験した人が現れないので未知への恐怖は消えない)
2,周りが悲しむ、迷惑をかけるなど社会的な要因

があるが、どこでもドアのケースで2のネガティブ要因は解消されている。あとは1なのだ。それが「意識の連続」なのだ。二つのうちの一つが消えたのだがから人々の「死」への表象は変わっていくだろう。例えば、危険な作業に従事するまえにコピーをとっておき、万が一死んでしまったら身体を再現する、というようなところから実用化して、そういう再現された人間が生きる社会に慣れだしたら、「死」に対する見方は変わる。

しかし、それでもまだ1の怖さは消えない。意識がなくなる状態へ移行、この未知の体験への恐れ。

現代に生きるわれわれは「意識の連続」を重要視している。これは「いま、ここ」というありありした体験、知覚、情動、身体性などが拡がる「意識」の流れや持続が「生」だと信じているから。

なぜそのように考えるのだろうか?そこに何か前提はあるのだろうか。

それは「どう生きるか」を考えるかではないだろうか。では、人間は「どう生きるか」をどういう条件で問うのだろうか。問うているときは、ある程度落ち着いている状態だろう。思考したり反省しているのだから。そして、過去を何かしら了解し、未来にむかってどのようにするかを考える。未来をどう生きるか、とは何か。この意識状態が何かしらの経験をしながら進行していくことが想定され、そこでどのような意識状態を未来に持つのかを検討している。

また、「私」が「私」として同一であり、今後もそれが継続していくことも想定されている。だからそれをどうしていくか反省する。そのいろんな特徴の基体としての自分。反省的な状態というのは特殊だ。自分が何なのか、どう生きるかを問うときだけ出てくる状態。それ以外のときは「明日の仕事のこと」「来週の出張のこと」「家族のこと」などを漠然と了解しながら生きている。


反省している時点で、前向きに生きようとしているのは事実だ。われわれは何かよいことを今まで経験しており、それを再現するという思考で考えている。幸せな状態、快楽な状態これをわれわれの余生という時間において、できるだけ多く出現させたいというのが一般的な生き方の想定ではないか。この想定が、「意識の連続」が途絶えることを忌避させる。

しかし、そもそも「死」という概念にも影響を受けている。これも社会的なものだ。ハイデガーは「死」の本質を分析しているが、それは社会で他者の死を見て間主観的に想像しているに過ぎず、誰も体験できないものなのだ。死ぬ前にコピーで不死のロボットの身体にアップロードするような社会になれば、「死」という共同幻想はなくなり「アップロード」という一つの手続きになるかもしれない。それが痛みの質感も伴わないのであれば、過渡期を経て定着するかもしれない。現代の僕らが成人式に参加するような軽いノリで。

ということで、あまりすっきりしないが「意識の連続を重要だと思う」のもいろいろな前提、つまり人間として社会で生きてきて経験的に学ばれた判断であるとはいえそうだ。

筑波大学助教授の落合陽一さんが以下のようにわれわれの「自己同一性」について面白い考察を行っている。

落合 人工知能と人間の違いを議論するとき、一番ネックになるのが、スワンプマン問題(死亡した人物とまったく同じ形状・記憶を持つ人物は、死亡した人物と同じなのか? という思考実験)にどう向き合うかですね。

例えば、社会の中に位置づけられた存在としての自分と、そこにある意識的に連続体じゃない自分があります。そこであなたが死んで、次の瞬間にまったく同じように復元されるとします。そのとき「世の中から見れば、あなたは生きています」って言われたときに、多くの人は「いや、死んだ俺だけが過去と同一の脳みそを持っていて、次のやつと俺は連続していない。だから、あのとき俺は死んでいる」って言うんですよね。

でも社会から見れば同じ人間なので、それを全員が許容する社会になってくると、訳が分かんなくなっていいですよね。そうすると、もうちょっと人間が寛容になると思うんですけど。僕としては、結果的にそういう社会に移行するんじゃないかってちょっと思っているんです。

自己同一の問題のヒントになりそうなものとして、「銃夢」(木城ゆきとのSF格闘漫画。サイボーグの戦闘少女がさまざまな難敵と戦う)っていう漫画があるんです。主人公がガリィっていう女の子なんですけど、その子がくず鉄街で生まれてザレムという街に行くんですけど、ザレムの成人の儀式というのが、青年の脳みそを取りはずして中身をチップに変えるという作業なんですよね。そうすると一回脳みそ的には死ぬんだけど、チップに変わるから普通に生き続けるみたいな話。

でもそんなことしたら普通の人なら「お前死ぬからマジやめろ」って感じじゃないですか。だけどそれをやらないと市民権が得られない。そこで、そのガリィって女の子が「やめろー!」って青年たちを解放するんです。ところが青年たちが口々に「脳なんかいらないのに、将来を返してよ!」ってみんなで怒るんですよ。そういう感じがすごい21世紀的だなと最初読んだときに思ったんです。結構昔で90年代前半に連載されていたんですけれど。

ひとたび自己同一性を人類が失い始めると、多分全然違った世界に行くはずです。人工知能の次のキーワードとして、我々が個別の意識と信じているものは本当に1人の人間の意識なのか、人生ってどこに切れ目があるのかみたいなことを、考えていかないといけないと思います。

人間の生死に関わる問題については、まだかなりの抵抗がありますね。まして自分が死ぬか死なないかに関しては。ですから生死観に関わるような問題については、いろんな議論が出てくるはずです。
ここで問題になっている自己同一性について考えたい。

そもそも、自己同一性はなぜ必要なのか?

僕の考えはこうだ。「時間軸のあるコミュニケーション」があることで自己同一性が要請され、保たれていく。お金の貸し借り。恩義のやりとり。共に何かする約束などなど。別の言い方をするとそれは責任問題だ。自己同一性とは「実践のカテゴリー」に属するもの。つまり「その行為をしたのは誰か」に答えるために要請される概念ともいえる。

こういうコミュニケーションがいらなくなることはありえるか?誰もが家を持ち、毎日食事も自動的に運ばれてくるようになり、体調が悪くなればボタンを押し身体をスキャンしてもらえば何かしら処方してくれる。手術が必要ならロボットが連れ出してくれて手術が始まる。家から出ず人とも会わずに一生を過ごせる。こうなれば過去や未来を考えずとも「いま、ここ」だけに反応して生きる「生」となる。


時間軸のあるコミュニケーションがなくなれば、自己同一性は不要になる。でも時間軸が必要ないコミュニケーションはあってもよい。
誰かと直接的に会う、実は30回目に会う。でも、「ああ、この前に会いましたっけ」的な感じか。いやその前に、言語能力がどれほどあるのか分からない。相手を同定する能力があるのかも分からない。動物は環境に固定されており、そこから離脱できないが、人間もそれと同じ状態になるかもしれない。でも、ロボットが知性を使って人間が知らずの内に環境を整えてくれる。そんなことになるかもしれない。そうなればもう人間ではなく「ヒト」である。


このように環境次第では、「自己同一性」は不要となり消え去る。

では、現実的な考えに戻って、現代において自己同一性を考察することは何につながるか。それが時間軸のあるコミュニケーションであるとすれば、今後の人間関係における自分という基体の在り方の吟味。つまり、人間としてどう生きていくかに直結する。

人間関係の中で生きる「人間」としてのわれわれは、他者から認められた物語を軸に、自己像を持ち、この自己像の価値を高めたいという欲望が本質である。

マレー・シャナハン (著)『シンギュラリティ:人工知能から超知能へ』(2016)を読んだ。ドミニク・チェン  (監修, 翻訳)。細かくは読んでいないがさらっと。

アマゾンに載っている内容紹介の通りの内容であった。

松尾豊氏(東京大学准教授)推薦
人間の脳の活動すべてを、コンピュータで模擬できるとしたら?
そしてシミュレートされた脳を物理的な身体とつなぐことができたなら?
人工知能の発展の先に浮かび上がる問題の描き方は見事である。
そして、本書が最後に投げかけるのは壮大な問いである。
人工知能は人類にとっての希望なのか?


イギリスの人工知能(AI)研究の第一人者によるAI入門書。
本書では、「全脳エミュレーション」などの最先端のAI研究を手際よく解説し、さらにAIの政治・経済的インパクト、AIと意識の問題、そしてシンギュラリティ問題までを、さまざまな思考実験を通して考察する。
はたしてシンギュラリティはやって来るのだろうか?

人間の脳の仕組みと、それを全能シミュレーションするにはどういう過程があり、課題があるかということが分かりやすく書かれている。僕はてっきり、SF的に「素粒子状態」で全状態を把握するレベルを想像していたが、それはまぁ無理なので本書では機能を再現できる程度の解像度で現実味のあるレベルで展開されている。

いくつか思ったことを書く。本書の内容をおさらいはしない。


1,意識について 
AIにどうやったら「意識」が発生するか。それに伴い、人間はAIを人間のように扱わなければならなくなる、などの議論が出てくる。

哲学的に言うと、この議論は答えがないのだ。そもそも僕らは他者(他人や物)に意識があることも確かめようがない。僕と同じようなクオリア的な世界を気分や情動と共に生きている、と勝手に想定しているだけなのだ。だって、その人の主観に入り込んだりできないし、出来てもそれが確かめたことになるのかも分からない。

結局それらは経験的に学ばれた確信にすぎない。自分と同じような身体を持ち、同じように動き、言語をしゃべる。考えなくても自然と同じような人間であれば意識を持つと前提してしまっている。確かめられないが、疑いも湧き出てこないほど前提されている他者の主観を間主観性という。

猫が好きな人は日々その行動をみて相互にコミュニケーションを取っている。そういう人にとっては猫は意識があるという感度が強くなるだろう。一方、野良猫をうざがってるような人、さらにはいたずらで虐待するような輩は、意識のない「物」に近い形で捉えているだろう。

AIも同じである。機械であっても、人が意識を持っていると思わせる特徴があれば「意識がある」のだ。「her」というアメリカの映画ではある中年男性がAI(iPhoneのSIRIのようなもの)と毎日電話して恋に落ちてしまう過程を描いている。声だけでもコミュニケーションが成り立っていれば相手がプログラムだと理解していたとしても好きになってしまうのだ。この場合、当然意識を想定しているだろう。

だから結局、人間の感受性に依る。

余談だが、あらゆることは人間の能力と感受性のレベルに依存する。AIがいくら賢くなってもそれを理解するのは人間であり、人間はもう近い将来AIの提案を鵜呑みにするしかなくなる。なぜそういう判断かは人間の能力的に理解不能なのだ。

2,「自我」と「自己保存」
158頁に、「自我(自己同一性)」と「自己保存」について面白い考察がある。これらがAIに備わるのは「期待報酬の最大化」に繋がるかに依る、というもの。「自己同一的」であることが、そのAIの目的に必要なら生まれる。人間だって同じだ。僕らは社会を築いて人がある役割を一貫して担わないと社会が存続できないから自己同一性を保っている。職業や性格を忘れたら、怒られて軌道に乗せられる。結局、同一性は他者が同一として扱うことから生まれる。

AIにとっては「自己保存」も同じく報酬関数に依る。人間は自己保存自体が目的のようだが、AIはその報酬関数は設定次第だ。本書の例ではある機械部品の製造を最大化するには、工場に命令を出した後自分も部品のために分解する、というもの。


3,AIの難点

本書の最後の方で、報酬関数のチューニングの問題が出ている。有名なロボット三原則を例に出している。「人間に危害を加えてはいけない」とロボットに組み込んでおいたとして、その報酬を最大化するために全人口を麻酔で寝たきりにしておく策に出るかもしれない。安静にしとけば危害を加えるリスクがなくなる。

これは哲学的に言えば、「語の多義性」の問題なのである。われわれは何となくある「語」は何かイデア的な意味を持っていると思っているが、それは違う。われわれは経験的に言語の使用の場、つまり言語ゲームに参加することで語の意味を学ぶ。コップは水を飲むもの、歯ブラシを立てるもの、怒ったとき人に投げるものかもしれないが、一番よく使われるものがその「意味」として辞書に登録される。普段われわれが観取する意味は、認識者の欲望に相関している。AIにとっても語は報酬関数に則して理解されるのだ。だから報酬関数の設定は難しい。この設定は言語でなされるのだから。

さて、AIがいろいろ世の中をよくするにせよ自分の生にとって最も重要なことは連続している生である。いくら自分の脳状態をコンピューターにアップロード出来たとしてもこっち側に残る今の私の連続性が私の全てである。ここに定位していろいろ考えていくべきだと思うのだが、実は意識に固執するのも今の人間社会に作られた一時的な感受性なのかもしれない。

シンギュラリティ:人工知能から超知能へ
マレー・シャナハン
エヌティティ出版
2016-01-29

 

哲学者キルケゴールが著書『死に至る病』でいう「絶望」とは何か?

端的に言うと、キルケゴールのいう絶望とは自己が様々なものとの関係性の間でバランスを欠いてしまっている状態。生きているのに死んでいるような感じ。どういうことか。要は人間は物語を持って現実に適応している。でも現実という外界に適応するために抑圧してきた物語もある。

そのような物語は外界に合わせようとすると感情などで反抗してくる。また、物語といっても言葉の束であるので、一貫性を保つのは難しい。大学を卒業してプログラマーやって、アフリカで働いて、歌手目指して、医者目指すみたいなことやっていたら、毎度他者から承認を得え物語を安定させることはできなくて、パニックになるだろう。

ではどうすればいいのか?
誰かが気絶した場合には、水だ、オーデコロンだ、ホフマン適材だ、と叫ばれる。しかし、絶望しかけている人があったら、「可能性を持ってこい、可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ」、と叫ぶことが必要なのだ。可能性を与えれば、絶望者は息を吹き返し、彼は生き返るのである。 
これがキルケゴールの答え。

では可能性はどうやって与えられるか?

教育哲学者の苫野一徳は、ルソーを手がかりに「可能性」とは、能力を挙げる、欲望を下げる、そして欲望を変える、の三つの道があるという。しかし、それは本質的ではない。現代の僕らはそもそも欲望がない。何かやりたいことを10個言えと言われてすぐに答えられる人は少ない。

これも物語という契機で考えることができる。われわれは物語を生きている。ただ単に「君はこういう世界を生きている」と言われたり、世界史を読んで「僕はいま、こういう流れにいるのか」と理解してもそれは物語として実存的に根付かない。僕らは日々リアルな世界で環境や他者と触れ合うことで世界像を更新していく。

未来への道筋は過去のリアルな経験の蓄積の延長線上でしか開けてこない。これはハイデガーの歴史性からも分かる。過去の経験がバラバラなら未来へ何も見えてこない。

キルケゴールの答えは「自己は自己自身によって措定するのではなくて、絶対的な他者によって措定される」というもの。実はキルケゴールは敬虔なキリスト教徒であり、絶対的な他者とは「神」だ。神の下でキリスト者として、常に絶望の中にある自己はどうすればよいのか?自己は自己自身によっては安定や均衡に達する事はできず、常に有限性と無限性、可能性と必然性の間でフラフラする。この間のバランスをもたらしてくれるもの、つまり措定setしてくれるものが神ということ。

これは、神を中心にした筋立てで物語(自我)を安定させるという方法である。でもしかし、先に書いた通り本を読んでも納得感はない。過去の蓄積からその筋立てに正当性がないと、未来につながらない。まずは過去を反省的に考える。現代とはどういう時代か考える。どういう欲望を持っているか考える。そしておのずと物語が見えてくる。そこで宗教を手がかりにするのももちろんOKだ。しかし、重要なのはハイデガーも言うとおり、世界からではなく自分に固有なところから物語を作っていくことである。 

われわれは本能が壊れているから、物語(言語的な世界)を持ち、世界に適合している。無秩序では日々の行動が取れない。ただただ言語で対象化していても全体の見取り図はできない。そこには筋立てが必要。特に今のような多種多様なあらゆる情報が飛び込んでくる情報化社会においては特に一本の一貫性が必要。

「人間」とはそういう言語的な世界で作られた概念に過ぎない。われわれの存在の在り方は変わっていく。

ただ、現時点では「人間」であることに定位して考えよう。

われわれの生にとっての理想形は何か。麻生太郎が国会答弁でこんなことを言っていた。

生きていく上に大事なことは朝は希望を持って目覚め、昼は懸命に働き、夜は感謝と共に眠る。 

素晴らしい。まさにこれだろう。 社会の構成員である個々人の実存的生(われわれ)は、このような在り方であるべきだ。

目標ができたところで、ではどうすればいいのか?

近代以後、数世紀に渡り我々は自由に悩まされてきた。どのように生きるべきか、 その道筋が分からない。ポストモダンを経て何をすれば認められるのかどんどん分からなくなっていく。それでも、なにか卓越したものを作れてば少なからず賞賛されるのも事実。

しかし、卓越したことを行うには相当な強い動機や確信が必要。それはどうやって身につけるのか?

2つの視点がある。

まず、ヒトは基本的に、モチベーションにあふれている。子供が暇すぎて不安や絶望しているのを見たことはないだろう。でも、社会に入り「人間」になるにつれて他者との関係からモチベーションを抑圧してしまう。現実原則に従ってしまうのだ。この「抑圧」を無くそう!というのが一つの方向性。これは臨界期の幼少期の教育を見直すことと、既に育ってしまった大人の抑圧を取り除くことが考えられる。

もう一つは、教育方針として、各自、自分からより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得させることだ。本で読むエピステーメー的な知識だけでなく、身体でいろいろなものを経験しすること。世界でよく行動し、読書することだ。これをやらせる!ということ。理想的な人間像など僕らは記述できない。できるのは各個人が動き回っていろいろなゲシュタルトを得て自分なりの世界像に確信を持ち、どう生きるかにコミットできることだ。

もし自分の物語を見つけたら、上記の引用のような生を送ることができるだろう。ただモチベーションがあっても自分の道を見いだせなければ自我は安定しない。見つけ出すにはひたすら行動する必要がある。そういう教育が必要。これは一つ目のモチベーションと被っているが、もう少し表面的なスキルなども含む。

われわれはこうした環境を整えるべきだ。それが結論。 

教育にビッグデータが持ち込まれたらどうだろうか。効率よく生徒はスキルや知識を身につけることができる。僕がフランス語を習いたければ、30万円くらい払ってちょっとの労力、そうだな、今でいう毎週2回くらい3キロ走るくらいの労力を割くだけでペラペラになれるとしよう。

それで簡単に身についたらどうなるか。僕だけではない。他の人たちも簡単にフランス語を話せるようになる。文系の学生であればそうして、どんどんフランス語の原文を読み始める。全体のレベルが上がり競争は厳しくなる。そこにタイムラグができ一瞬競争環境が弱まるかもしれないが、また相対的にもとの水準に戻る。

なので、こういうスキルを身につける(=個人の競争力を高める) ことは社会的にあまり意味がない。

何にせよマズローの欲求5段階説でいう下の方の欲求、最低限生きていけるところが安定しているような社会を作ることが先決(まあ、それまではスキルアップのためのサービスも必要だが)。そうすればアーレントのいう活動に専念できる。ホリエモンたちがいう遊びが重要な時代。そしてホリエモンに言わせれば、すでにその状態は実現されているようだ。もう誰でも働かなくても生きていける。

それを技術的にやるか?

それに時間がかかるなら、人のマインドを変えることでも解決できる(そっちのが時間かかるかもしれないが)。

仮に路上生活すれば家賃はかからない。公園で洗濯や風呂も済ませられる。であれば、後は飯だ。これはコミュニケーション能力があれば解決する。図々しくも相手に嫌な思いをさせずに協力を引き出す力。コンビニ店員と仲良くなればいい。

そうして、最低限の生活保障を得た人間はどうするか。特に嫌な人間関係もなくなり、フロイト的な現実原則適応のための抑圧がなくなり全知全能へ回帰したいと思うようになる。何かに熱中するだけのベクトルが出て来る「はず」である。

正直これについては保証できない。いままで社会で抑圧されきった人間がこうした現実社会から離脱できるようになったとして、何かしらやりたいことが出てくるのだろうか。

われわれは人とぶつからないように教育された。人と協調するようなしつけ。ドリル教育。周りと同じやり方で同じようにやる。人とぶつかるのを恐れるエートス。欲望が抑圧される。そのような教育で育ったわれわれは何かする際に人に頼んだり命令したりするのを恐れるようになっている。

今必要なことは、1こうした大人たちの欲望を解放してあげること。2子供たちへの教育をモチベーションを殺さずにしてみんななかよくできるような教育をする、である。

まあ、こうした欲望が出てこなくても、問題なく生きていけるならそれでいいだろう。まずは衣食住の確保が先決。

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