記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

2017年07月

以下の人工知能の未来を問うNHKスペシャルで面白い場面があった。

 

ある企業の人事部では離職率を下げるために新入社員に定期的に相談の機会を設けている。人事は彼彼女たちにいろいろな質問をし相談に乗る。この結果を多く集め実際の離職のデータとともに解析する。さまざまなパターンを見出しAIは結果を導く(これをAIと呼んでいいのかは措く)。この結果は人間からは理屈が分からなかったが、後日AIの言う通りになるケースが頻発する。

人間は、こうしてAIの弾き出す結果に信頼を寄せるが、理屈も分からないでこれを信じ新入社員に対策を取ることに違和感を感じる。そもそもどうやって何をやってあげればいいのか分からないであろう(笑)

似たようなことは昔からあったはずだ。理屈は分からないがAIはそう言っている。こう言う場合どうすればいいのだろか。結局は感受性に依る。人事の相談レベルであればこれを鵜呑みにして、新入社員の相談を増やすなど対策を取るのは問題ないだろう。しかし、このドキュメントで紹介されているような刑務所の囚人に対する対応など重めの判断はかなり慎重にならざるをえない。

今後、人間のようにコミュニケーションの取れるAIが出て来るだろう。これらへの接し方も感受性次第だ。そもそも、原理的にわれわれは他者が意識を持つかどうか分からない。人間ですらそうなのだから、猫も犬も、サルも石も桜も意識を持つか否か分からない。それと面と向かって接してみて「意識を持たないモノ」として扱えるか否かの感受性に依る。

人間同士でも感受性はバラバラだ。先日の障害者殺害事件のように障害者をモノのように扱うような感受性を持つ反社会的な人間もいる。猫を子供のように可愛がり死んだら大泣きする人もいれば、猫を殺して食ってしまう感受性を持つ者もいる。結局は人間の感受性に依るのだ。映画herの主人公のように、姿形もない音声だけでも会話がうまくできれば恋をする。

今後、こうしたきわどい判断をしなければならない機会が増えるだろう。社会学者のユルゲン・ハーバーマスは、こうした変化にゆっくり着実に対応してゆこうと提言している。 

なぜ街に行きたくなるか。僕は昔から暇があると池袋の人混みを通り、そこそこ人のいるカフェで読書やぼーっとするのが好きだった。今もこうして新宿のカフェでぼーっとしている。

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こうやっていろんな人々がいるごちゃごちゃした都会が好きだ。上海にいるときもそうだった。

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なぜなのだろう。そこに生の本質を掴み取る契機があるのではないかと考えていた。

なぜ街に来てしまうのだろう。それが最近分かってきた。

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それは無根拠な生とう現事実を、人間という物語で忘れることができるからだ。いろんな見た目で色々な目的の人間が生きている。無根拠ながらそんなことは完全に忘却して自分の物語を生きる。各自それぞれが全く違うストーリーを持ち、それに没頭している。

街とは人間的なものだ。動物の世界にはない。人は何かの目的をもって街に来る。目的を探すという目的も含まれる。そこには人の「行為」の束がある。何かを意志して行う。申し開きできること。みんなが物語を生きている。

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そんな人々のいる、そんな人々が物語として作った街の中で見て、そして自分がその中にいることで無根拠の不安から逃れられるのかもしれない。

物語を作るのは欲望だ。こうした欲望の色が強ければ強いほどいい。池袋西口、新宿、上海。僕が好きな街はエロスに満ち溢れている。

ルンバは床を移動するだけだ。ルンバの前に片付けが必要。片付けは難しい。散らかった対象を認識し移動する。高度な技術がいる。しかし、これもAIとはいえない。同じように、冷蔵庫から材料を出し調理する料理ロボットもAIではない。

ではAIとは何か?人工知能。人間のようなコンピュータ、というのがもともとのニュアンスだろう。

では人間の本質は何か?

それは、意味と価値の世界を生きているということ。

これは<わたし>にしか分からない。<わたし>は少なくとも意味と価値の世界を生き、他の人間も同じだと確信を持っている。別の言い方をすれば質的なクオリアの世界を生きているということ。意識を持っていること。

それは外観や振る舞いから判断するしかない。

それゆえ、最終的には感受性である。

ルンバに愛着を持ち、感情移入してしまえばその人にとってルンバはAIとなる。

「物自体」とは言うまでもなくカント哲学の基本概念である。
カント哲学の基本概念。「本体」とも訳される。「物」「現象」に対する語。カントによれば,現象は認識主観によって構成されるものであり,物自体ではない。物自体はむしろ現象の根源にあるもので不可知物であるが,思惟可能な仮定であり,カントはこれを現象の背後に仮定せざるをえない思惟の要請であるとした。また彼は実践哲学においても,自由の可能性を保証するものとして物自体の世界を実践理性の要請であるとした。カント以後,この物自体の概念をめぐって,ドイツ観念論,新カント学派,弁証法的唯物論の立場からさまざまな解釈や批判や展開が試みられた。
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%87%AA%E4%BD%93-142650 
われわれが知覚しているものは全て「現象」であり、「物自体」はその背後の根源であり過程せざるをえない思惟の要請である。

一見、「外部」のことだと思うかもしれないが、われわれはそもそも「外部」にアクセスできないので「物自体」は外部ではない。

いくらわれわれが刺激を独自の認識装置で歪めて現象として知覚していても、われわれの生に関与する時点で現象となる。生に関与できるものはすべて現象だ。コウモリの超音波のやり取りをわれわれは知覚できないが、それが身体に痛みをもたらすようなものとして現象する可能性はある。超音波を想定している時点でわれわれに関与しているので、「外部」ではない。

「物自体」は「外部」のようなイメージがあるが、外部であれば生に関与しようがないので「物自体」は外部ではない。それはただ、自分に現象したものが、他者にとって違う現れである可能性、よく見たら子となっているという可能性、未来の出現の可能性などの視点から要請されているに過ぎない。 

以下の本に「フィールグッド・ステイト」にまつわる話が展開されている。とても興味深い議論なので、紹介し意見を述べたい。
 
宮台 真司  (著), 鈴木 弘輝  (著), 堀内 進之介 『幸福論―“共生”の不可能と不可避について』 (NHKブックス)  2007年 



本書の趣旨は、われわれの幸福へと向けたソーシャルデザイン(社会設計)がいかにして可能かないし不可能かを論じることである。答えが出ない問いを社会学者3人で討論し、問題に取り組み続けることの必要性を感じさせる。

さて、本筋ではないがここで一つ指摘しておきたい。本書では「幸福」をよいものとし、それをどう社会で生み出していくかというのが出発点となっている。人間社会の経験的な観念である「幸福」それ自体については問わないようだ。あくまでも「人間」を前提に考えている。

さて、本題に入る。「フィールグッド・ステイト」についてだ。

まずはソーシャルデザインについて説明する。それは、何かのターゲットを基に社会を設計すること。既に多くの国でソーシャルデザインが既に行われている。立憲制の下で国民が統治権力に権力を付託した瞬間にデザインが始まったとも言えるし、古くは家産官僚制という形にせよ官僚制が登場した際にすでに始まっていたともいえる。

しかし、問題は「このデザインが「われわれ」の幸福へと向けたものであることが原理的に不可能だ」ということ。これは、かつて社会学者や政治学者しかしらなかったらしい。公正ないし平等という原則に反しないソーシャルデザインは原理的にない、という驚愕の事態である。

われわれの幸福といっても「われわれ」の範囲は恣意的で、「われわれ」内での公正や平等を測る場合も恣意的な選別と排除を前提とする。コンドルセの指摘にもあるがごく特殊な条件がないかぎり、投票での意思決定は、投票以前的な決定過程を前提とする。それゆえ、われわれは社会をそれが近代社会である限り恣意的な事実性factualityを前提としたうえで運営するしかない。このことを最も早くに理解したのがウェーバー。市民倫理と区別される政治倫理の結果責任性を論じた。 

ここで、ソーシャルデザインの一つ「フィールグッド・ステイト」について見ていこう。近代社会の正当性や正当性を保ち、それらを前提とした市民の積極的政治参加を通じて、不安のポピュリズムに勝るとも劣らない有効なアウトプットを調達するべく、徹底的に研究したうえでアーキテクチャを設計しようとする流れ。そうした類のソーシャルデザイン主義だ。
 
アーキテクチャ(環境の仕組み)とは建築構造よりも広い意味である。長居する客に退店を命じるまでもなく、冷暖房の温度、BGMの音量、証明の明るさ、椅子の硬さを管理すれば、自由意志を損なうことなく、人々の行動を方向付けられる。これがアーキテクチャによるコントロール。アーキテクチャのなかで自発的に心地良さ(フィールグッドな状態)を追求することで、人々は自覚されないまま動員されていく。

先の恣意性の問題がここでも見える。アーキテクチャをめぐる情報格差。真の意図を知っているのは、デザイナー(設計者)だけだ。だがレッシグいわく、アーキテクチャをめぐる情報格差は消せない。できるのは情報アクセス可能性を開くことだけだ。だが開かれた機会が利用される保証はない。

ソーシャルデザインがわれわれの幸福へと向けたものであることは、原理的に不可能だった。「われわれ」の範囲は恣意的であり、どんな構成原理も排除と選別を前提とする。近代社会は恣意的な事実性を前提として運営される以外はない。

フィールグッド・ステイトについてまとめよう。それは、人々の心地良さを求めようとする欲求を利用することによって統治された国家のこと。ディズニーランドがそうであるように、目障りなもの、面倒なものを徹底的に隔離・隠蔽しつつ、いくつかの選択肢を提示することで快適さを演出して、統治の疑念を抱かせないようにする。

そのことの何が問題かと言えば、それはフィールグッド・ステイトを維持するための環境負荷や外部にいる貧困者たちの存在者が忘却されてしまうからであり、またステイト内部の人々が自分で物事を考える契機を奪ってしまうからである。要は「知らぬが仏」状態への危惧。

以上が、本書で述べられていることである。

問題の前者、「環境や一部の人間が犧牲になること」はあってはならない。これは議論の余地はなく正論だ。ちなみにこれは先の恣意性の問題と同じだ。設計者以外が不利益を蒙る可能性の話だからだ。これはフィールグッドの定義をはっきりさせないと議論できない。フィールグッドがあらゆることを意識に還元して、それが「よい状態」とするなら、それ以上の社会設計のターゲットはない。要するに、外部(設計者など)を気にしたりもしないほどうまく騙されているとうことだ。完全に意識に還元された「よい状態」を元に社会を作れば、恣意性の問題も解決されるのだ。そのような恣意性すらも気にしない心の習慣を作ってしまえばいいのだから。

では、後者の「ステイト内部の人々が自分で物事を考える契機がなくなる」というのはどうだろうか。 要するに新しい刺激に対処できる能力を持っておかないとまずい、とうこと。設計者もびっくりの設計外の出来事が起こったら、問題が起きるのではないか?という意味。

この「知らぬが仏」問題、これも意識状態が完全にコントロールされる社会であれば問題ない。この時点では、人間は意識経験をコントロールされるほど人工知能に知能格差を拡げられている。既に人工知能が人間を遥かに超える知能や生存能力を持っている。何か新しい刺激(宇宙人がやって来る、隕石の衝突)があれば、それを人間が気付いて対処のではなく、社会設計と運営を司る人工知能にまかせておいたほうが有効であろう。

それゆえ、私たちが向かう道はシンプルだ。あらゆる生への関与を”徹底的に”意識に還元し、これをコントロールできるような人工知能を作る、この方向に進んでいけばよい。意識ファーストである。それがどれだけ先の話になるかは分からないが。 

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