記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)意識ファースト!意識がよければ何でもOK。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※基本殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 面白いコンテンツを創るために

幸せは自分から

これは、ある池袋のキャバ嬢が僕に言ってきた台詞である。

今、考えるとなんと素晴らしい一言なのだろうか。

これに人生の全てが詰まっているといっても過言ではない。

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 ※キャバ嬢のイメージです。実際の人物とは関係ありません。


さて、
ちょっとまず最初に、教育について述べたい。
 
僕は教育とはいいものだと思っているがずっと違和感があった。なにかこう、「既に正しいと決まっていること」を押し付けるのが「教育」という言葉にはある。教えて育てるのだが、「教える」というのが偉そうだ。

僕らは、原始的な社会から始まった。狩猟採集。獲物が見つからなかったり、作物が育たなかったり見つからなければ死んでしまう。他の社会が攻めてきたら殺されるかもしれない。病気になったら死ぬ。こうした不安定な社会から時間をかけて今の社会ができた。そのことを忘れてはならない。そのこととはつまり、根本的に僕らは荒野を生きているということ。生きるために必死なことが前提なのだ。

さて、教育の話に戻ると、教育とはこうして複雑になった社会で生き延びるために人に施すものだと多くの人が思っているだろう。その通りだ。狩猟採集で必要なスキルが、今は教育で教えられているようなものになったのだ。

でも、問題は最初に言った通りその「教育」という言葉だ。これはどこかに社会側からの押しつけがある。現代はリベラルな時代だ。基本的には個人の自由が尊重され幸福を追求することが最大の土台となっている。だからこういう物言いは疎まれるのだ。

教育の必要性は認める。それは先に述べたとおり、僕らは荒野を生きているのだからそれなりに頑張って力をつけなければいけない。その一方で社会が高度化し、自由が尊ばれている。みんなは当たり前に自分の幸せを追求する。

そう、実はその過程に教育が必要なのである。教育はまさに今述べたように狩猟採集のスキルが置き換わったようなもの。それを身に着けないと社会に適合し、荒野を生きていけないのだ。ただ単に何もしなくて生きれる +αで教育があるのではない。自分を高めないとイノシシ程度に出くわしただけで死んでしまう。 

今の時代は誰でも幸せを求める。そしてそのためには自分を社会的に高める必要がある。そして、社会では社会なりに人生を楽しむ方法もある。それも学ぶ必要があるのだ。それが教育なのである。だから、それは全く受け身なものではない。

ここで冒頭のキャバ嬢の台詞に戻るが、結局、幸せは自分から掴むものなのである。原始社会を想像してほしい。酒池肉林するなら頑張らないとだめなのはすぐ分かる。獲物をいっぱい取って、なかまをマネージメントしたりいろいろ頑張ってはじめて酒池肉林できる。

今の時代でも根本は同じだ。幸せになるには自分から頑張らなければならない。そうして僕らは現実に適応しているのだ。教育は幸せのために必要だが、その語「教育」といわれると受け入れ難くなる。

今後これを「教育」ではなく、キャバ嬢風に言えば「幸せを掴む切符」とでも言えばいいのではないか?
 
shiawase
 

僕はこのブログで松本人志について何度か書いている。僕は別に理想の人物、この人になりたいなあ、この人を目標にしたい!と思うような人物はいないが、定期的に見てしまったり、惹きつけられて、その人について知りたいと思うような人、といえば松本人志である。ごっつええ感じ、ガキの使い、ビジュアルバムなどはほとんど観たし、繰り返し観ている。

暇なときはよくガキ使を観ているが、偶然観ていた「ガキの使い きき緑茶」の一コマ。(以下に動画あり)

17:50からの「ええの?」のくだり
18:50「思てたほど違うこともないなぁ」

のところを取り上げたい。

何というのだろうか、なんの打算もない純粋な面白さを追求している感じがこの2つの笑いによく出ている。他の芸人だとどこか「仕事として笑わせなくてはいけない」とか「あの人のこう思われたい」とか何かそういう小さな打算が見えてしまう。松本にはそれがなく、純粋に面白く楽しい笑いを作りだそうとしている。というか、作っちゃっている、という感じ。

もちろんこれはこれで面白さを追求するという打算なのだが、それがなんというか広くみんなを笑わせるため、という感じなのだ。だから松本の笑いはたまにブラックであったり人を傷つけるように見えるが、根っこが「みんなが笑えること」だから嫌味がなく受け入れられる。本当にお笑いが好きでお笑いのことばかり考えたプロフェッショナルである。

NHKのドキュメンタリーで松本は、プロフェッショナルとは「素人に圧倒的な力の違いを見せつけること」だと言っていたが、それは四六時中笑いのことしか考えてない松本の笑いに対する気迫が感じられる。松本の人生観に、笑いがなければ人生面白くない。笑いが人生を意味あるものにする、というような直観があるのかもしれない。


 

元電通の従業員であった「はあちゅう」がツイッターで呟いていた。電通の先輩からの役に立ったアドバイスとのこと。
「CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ。この会社にいる時点で普通ではないと自覚しろ。世間にはおそるべき量のおそるべきバカがいる。そしてそれが日本の『普通の人』だ」
電通にそんなに優秀なやつが行っている感はないが、たしかに地方のマイルドヤンキーに比べれば勉強や社交もできるエリートなのだろう。

さて、この指摘はたしかに理にかなっている。

一般的なエリートが、何か事業を起こして商品やサービスを作ったり、政府が施策を打つために想定する対象、それが大衆なわけだが、もし自分が本当にほしいと思うものを提供しようとすれば失敗する。例えば、自分の例で恐縮だが、僕は自分なりに最高だと思う外国語の語学方法を持っている。かなり知的好奇心をくすぐられ、日々成長も実感できるサービスとして提供できる。しかし、大衆はそんなものを求めていない。本気で語学したい、とも思っていない。(もちろんハイエンドなサービスとしてブルーオーシャンを狙うことはできる)

そこのあなた、一瞬そう思ってしまわないだろうか?

私も以前はそう思っていた。大衆が喜ぶようなレベルに合わせたサービスを作りたくないと。

でもやっぱり大衆受け=大ヒットするものって誰にとっても良いものであることが多い。人間の感性の真善美の本質を突いているのだろう。焼きそばもうまいし、プロ野球は超面白いし、村上春樹も東野圭吾も面白いし。Macは使いやすし。

結局、僕らはみんな同じ身体性をもった「人間」なんだ。

さいほど述べた語学法、たしかに効率はいいのだが実は自分でやってみるとやっぱり続けるのが難しい。そこに誰でも続けてしまうような大衆向けのプラスアルファが必要なのだ。

こう考えると、ちょっと飛躍するが結局はマスを狙っていくしかない=時代を加速させるしかないのだなあ、とも思ってしまう。

小さく流行らせてそこから長期的に人々に浸透させるやり方もあるだろうが傍流に過ぎない。それが主流にどれだけ影響を与えられるのか、なんとも言えない。
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松本人志は面白い。僕は好きだ。ただ、彼は観客に結構いちゃもんをつける。そこがいまいち理解できなかった。

しかし、最近よく分かってきた。

やっぱり、お笑いとは松本が言うとおり「生き物」なのである。その意味は、その場の状況によって活かされるもの。みんなで作り上げるもの、といえる。

このブログでも書いた通り、僕らは物語を生きている。その物語に沿うことじゃないと何も意味がない。お笑いも同じ。元気ない人、敵意丸出しの人を笑わせるのは笑いではない。笑いとはみんなで楽しもうという活動ともいえる。みんなで「笑い」リズムを作って、「楽しいね」と確認し合う、それが松本のいうような「笑い」なのだろう。

 

ビデオニュース・ドットコムの「マル激トーク800回記念」のイベント@LOFT9渋谷で宮台真司のトークを初めて生で観たが、やっぱりライブだと色々感じるものがあった。実際の現場の空気という状況コンテクストの中で人を見るのはテレビや書籍を通じてコンテクストがカットされたものとは違った印象を受ける。
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感想を一つに絞ると、宮台真司のような存在の”稀有さ”である。政治や社会について広い知見を持ち、ユーモアを交えつつ一般人を啓蒙しつつ草の根的に交流することのできる存在の大切さ、である。

少し話が逸れるが、
脳科学者の茂木健一郎がyoutubeの動画(以下の動画1:50あたり)で日本のお笑い芸人について批判していたのを思い出した。松本人志、明石家さんま、ビートたけしなどは、「政治的な風刺をする」というグローバルな定義の下ではコメディアンとはみなされない、そう主張している。この定義がどこまで正しいのかは不明だが、たしかに日本のお笑い芸人はその影響力と反比例して社会的、政治的なコミットが著しく低い。

茂木の「政治的な風刺をする」という定義は、要するに日本という社会、引いてはグローバルな社会、人類という視点で責任を引き受けているか、という趣旨であろう。この世に生まれ社会で育てられたのであれば、その成員としての自覚が必要。実際、欧米であれば影響力が増すにつれ社会的な責任も比例して増していく。日本の場合、仮に影響力を身につけても社会的な責任を負うための教養がない場合がほとんど。基本的な政治経済の知識や、社会がどのように回っているのかを経験的に知らないどころか知識的にも持ち合わせていない場合が多い。何億も稼ぐお笑い芸人や俳優、タレントでもこうした責任を果たす人は少ないし、それが社会的にも求められていないのが現状だ。

だからといって、即刻日本のお笑い芸人も政治的な風刺をしろ、というのはおかしい。僕ら日本人にはそういう風土がなかったのであり、しかもそれでいてうまく社会が回ってきたのだ。そうしたエートスが長い歴史をかけて築かれてきた。

しかし、日本はグローバル化に弱い立場で巻き込まれ、グローバルスタンダードに従わざるをえない状況になっている。そうなると、日本人のあり方を変えていかないと日本はグローバルな戦いの勝者の餌食となってしまうだろう。西洋的な思想や制度は取り込もうとしてきたが、一般的な国民レベルまでは全く浸透していない。なので、グローバル資本主義を日本も採用する以上、変えていかなくてはいけない。特に外国人労働者を受け入れより多様化するようなこれからにおいてはなおさら。

そういえば、僕も昔はダウンタウンやさまぁ〜ずなど好きでよく観ていたが、大学卒業後くらいからほとんど観なくなった。宮台もそうだが、比較的メディア(インターネット)に出ている知識人の話を聴くほうが面白いし、ときにはそっちのほうが笑える。youtubeには一昔前の小林秀雄、鶴見俊輔、三島由紀夫など聴くだけ価値あるコンテンツが沢山ある。もちろん彼らはお笑い芸人ではないが、社会の中で自分がどういう位置づけでどうやって社会をよくしようかを常に考え行動している。(もちろん、彼らの仕事でもあるのだが)そういう人の知的な風刺のほうがノリだけの芸よりも断然笑える。

一般のサラリーパーソンなどは目の前の仕事が手一杯で必然的に視野が狭くなるだろう。しかし、サラリーパーソンといえど、自分の企業の歴史や企業が属する産業や制度、さらに資本主義社会、世界に向けて人類的な視座で自分を位置づけることが望ましい。

視野の狭い一般人にとって、日本について、社会について、普段の生活について、こうした誰もが抱く問題について話し合いができる場は重要だ。そして、いろんな意見が出る中でそれらをうまく取捨選択し、まとめたり、道を示すファシリテーター、というか先生的な役割が不可欠。

今回のイベントでは質疑応答やインタラクションは少なかったが、宮台は、参議院選について、表現の自由について、都知事選について、子育てについてなど幅広い質問について適切に意見を述べ対応していた。いろんな発言を見ていると結構同じことをいっているが、あらゆることを網羅的に説明できる枠組みや知識を持っていることが分かる。そして何より、こういうアドリブ的な場で素を晒すことを厭わない態度。綜合的にいって、かっこいい大人、である。

こういう存在に憧れ勉強し、自己を磨いていく人が増えることは社会にとっての意義は絶大だ。技術の進歩などより多くの人が感染(ミメーシス)し、人類社会をよくしたいと思うことのほうが圧倒的に人類にとっての影響は大きい。日本にも沢山の所謂知識人は多いが、実際に大衆に向けて発信し交流している人はどれだけいるだろうか。冒頭で述べた通り、宮台真司は非常に稀有な存在である。個人的にこれからもウォッチしていきたい。(なお、ビデオニュース・ドットコムの創業者神保さんもそういう人の中の一人だ)

もちろん、スポーツ選手とか、アーティストとか、会社の上司とか、先輩とか身近なところで人に憧れ、ヘーゲル的に「ほんもの」を目指すことも良い。ただし、少なくとも自分も人類のある社会の成員であり、世界中で起きていることに全くの無関心ではいられない、ということは気に止めておくべきだ。普段こういう政治や社会に疎い人にこそ一度、ライブでこういう話を聴いてみてほしい。

日本のテレビでも、こういう人が人気になれば人びとのエートスが変わり、社会も良くなるだろう。


昨日、ドワンゴ川上会長の「コンテンツの秘密」という本を紹介したが、その中で鈴木敏夫の作品を評価する視点が紹介されていた。

作品を見るときにはないを見ればいいか、それはつくった人が何をやろうとしたのか、それを見ればいい。そしてそれがうまく行ったのかいかなかったのか。それだけだ。

これは深い洞察だ。ニーチェ的。ただ、もう少し掘り下げたい。

というのも、クリエイターは大体のおいて、自分が何を創作したいか明確にわかっていない。村上龍はインタビューで「この小説で何を伝えたかったか」と問われ「そんなこと言えたら小説書きませんよ」と述べていたが、作品とはそういうものだ。特にストーリーやキャラクターなどが複雑に絡むもの。

ただし、ハイデガー的にいえば、人間は必ず何かの「気分」が契機となり未来へ向けて行動する。それは奇想天外なストーリーで受け手をあっと驚かせたいのか、キャラクターの動きの主観的な面白さを見てほしいのか、自分のよく分からない生きることへの不安を感じ取ってほしいのか、などあまり具体的に明確には言語化できないがたしかに根底にはどのクリエイターにもその動機があるはずだ。

簡素であるが、至極的を得た評価の仕方である。



 

川上量生「コンテンツの秘密  ぼくがジブリで考えたこと」を読んだ。ドワンゴの会長である彼の作品は平易な言葉で書かれているので読みやすいが、その内容は結構深い。それに、実際にコンテンツ作りという分野で世界的に成功している宮﨑駿を中心に沢山のクリエイターの側で実際に仕事を見たり話したりして得られたものをまとめた形になっているので信頼性も高い。

では、結局、川上にとってコンテンツとは何だったのか。

以下、ほぼ引用で書きだしてみる。

  • コンテンツの定義:コンテンツとは現実の模倣=シュミレーション
  • コンテンツが進化するというのはよりリアルになりどんどん情報量が増えていくことでありコンテンツの発展の歴史とは情報量が増えていく過程と考えることもできる  現実世界を模倣したコンテンツをつくることを好む本能を持つことが、人類という種の生存に有利だったということ
  • コンテンツの本質とは、現実世界を特徴だけで単純化してコピーした脳のなかのイメージの再現である 
  • コンテンツが現実の模倣であるなら、客観的情報量を多くすればより現実に近づいていくはずだが、人間が認識している現実とは実は主観的情報で見た現実。だから客観的情報量を増やしても必ずしも主観的情報量は増えない。むしろ人間が現実を学ぶ教材として現実の代替を務めるのがコンテンツであると考えるなら、少ない客観的情報で多くの主観的情報を提供するのがコンテンツであるということになるのではないか        
  • オリジナリティとは何か?すべての創作物はクリエイターの過去の経験が元になっている。そして過去の経験とは人生経験だけでなくクリエイターが過去に摂取したコンテンツすべてを含む 

これだけだとわかりづらいか。

要は、脳内に澑められた対象の概念というのは主観的なもので、それを作品などに客観的な形にしたものがコンテンツ、ということ。似顔絵というのがわかりやすい。似顔絵というのはその人をよく知っている人、言い換えれば本質を知っている人がかくと、客観的にはあまり絵が一致しないが、見る人が見ると客観的な写真よりもしっくりくる。

ここで、「しっくりくる」というのが、だから何なのか。と思う。ただ主観的なリアリティが上がるとうことではないのか?(ちなみに本書では「しっくりくる」という表現ではない)


それは本書内では「なぜ再現(模倣)するのか」という疑問で答えが与えられている。
 

  • まず再現(模倣)することは子供の頃から人間にそなわった自然な傾向である。しかも人間はもっとも再現を好み再現によって最初にものを学ぶという点で他の動物と異なる 
  • コンテンツとは現実世界の模倣であり、人間は現実世界のシュミレーションとして最初にコンテンツから学ぶと指摘
  • 人間が成長していく過程で現実社会を学ぶための教材がコンテンツ 

やはり、そっけいない言い方になるが、「自己保存」のために世界を学ぶための「道具」としてコンテンツが位置づけられている。それを主観的に理解しやすい形で提供すればするほどよいコンテンツであることだという。

それは、世界をより深く認識し、自分が強くなることへの確信である。ニーチェのいう力への意思が満たされたとでもいえるだろう。

さらに川上は別の本で以下のようにも書いている。

「コンテンツの価値は、誰かの人生を変えられるかどうかで決められる」

と。これは、言い換えれば誰かの認識を大幅に変化(深める)させた、ということと等しい。

ヘーゲル的な世界観でいえば、認識が深まるのは成長でありより強い生だと言える。

本書の中身は非常に濃いが、もっと人類的な視点でまとめ直すと、誰かの人生を変えられるようなコンテンツになりうる。

時間があれば僕が取り組もう。


 

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