記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)意識ファースト!意識がよければ何でもOK。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※基本殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 人間とは何か

個性は価値だと思う。

いくらニートで引きこもっていようが、いくら教育水準が低かろうが、いくら教養がなく一日中エロいことしかしてなくたって、いくら社会的善を追い求めようが、いくら自己の快楽にひた走ろうが、それはその人だけの個性である。いくら、同じマンションの隣で生まれ育っても、もしくは双子で同じ家で生まれ育ってもどんな似たような体験をしても、同じ経験をすることなどありえないから、個人は個性だ。

今のところ、個性というと、自分をうまく表現したり、人の意見に流されず自分の考えを押し通したりするようなときに「個性」というが、僕はそう思わない。みんなに個性がある。というか個性があるから個人が成り立つと言える。

いま世間でいう「個性」とは、社会を変えるとか、アート性を持つみたいな努力前提がある。そうではなく、個性とは、誰もがもつ性質なのである。

そうした個性を価値とみなせる社会が本当にいい。

アーレントが言っている活動とはこういう個性を表現しあい価値化していく活動だ。自分を試行錯誤し表現し、認められれば価値となる。現代と違うのは、大きな流れとして個性が定義されるのではなく、表現を通じて、みんなが違う中で、それでも共感を得るものが価値なのである。

こういう個性を価値化することは実存的に追い求めるものだから、これを社会的に実現したい。

言語学の一分野に「語用論」というのがある。

この学の研究目標は、「会話の含意を解明する」ことにある。
例えば、ある学生2人のやり取りで次のようなものがあったとしよう。

「今日カラオケいかない?」
「明日課題の締め切りなんだよね」 

これは字義通りに取ると、論理的ではない。でも現実では通じる。

字義通りの解釈は、言語学でも「意味論」が扱う。語の意味を明らかにし、それらが組み合わさって作られる文の意味構造を取り出す。

しかしこれは文の表面的な言内の意味(表意)にしかすぎない。その文が用いられる場面に応じて文中に閉じ込められた含意、すなわち、裏面的な言外の意味(推意)を引き出すことができて、初めて文全体の意味を理解したことになる。

そこでこのような言外の意味としての「推意」を研究対象とするのが「語用論」である。

語用論の中にも様々な理論があるが、ここではイギリス出身の哲学者・言語学者のポール・グライス(Herbert Paul Grice 1913年 - 1988年)の「推意」について述べる。

冒頭のカラオケに行こうという会話だが、これをどう分析するか。

「今日カラオケいかない?」
「明日課題の締め切りなんだよね」 

 一見関係がないように思えるが、「推意」を働かせれば両者はつながってくる。その理解の説明としてグライスは「協調の原理」という会話において前提とされているある原理を導入する。例えば、「十分な根拠のないことをいうな、明快な言い方をせよ、あなたの貢献を関連のあるものにせよ」など、会話に参加するものは、この「協調の原理」に従っているとする。

さて、ここからは個人的に思ったことを書きたい。

冒頭の例のように、なぜ人は直接に答えないのか?意味論的に冒頭の質問に答えるなら、「行かない。なぜなら忙しいから」のような感じになるだろう。

ではなぜ直接言わないのか?

補助線としてレビンソンの指摘が役に立つ。レビンソンは「推意」は「取り消し可能性」がある、という。上の例でいえば、「明日は課題がある」といえば、まだ「行かない」と断ったことは”決定的ではない”。場合によっては変更できる可能性がある。

簡潔に言えば、これは人間関係を円滑にするための知恵である。

人は個人個人自分の欲望にしたがい企投的意図を実現するために言語を使う。そのために、各人の意図すべては同時に満たされないので調整が必要となる。さもなければ対立してしまう。

「取り消し可能性」を残しつつ自分の意図を伝えることで、この対立を避けている。だから推意で探りながら取り消し可能性を保持しながら進めていく。カラオケの誘いの例でも、誘い手が本当に心の底から行きたくて誘ってくれば、OKと答えて行く可能性も残している。

こうして考えると、「粋な表現」とは何か、というのも見えてくる。

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それは、直接的に言うと人に害や不快感を与えてしまうことを、「取り消し可能性」を保持し遠回しに言う、ということだ。いいかえれば、いかに協調原理から離れた推意を作るか、ということ。いかに協調していると見せつつ、協調を逸脱した言語行為をするかということなのだ。

これは、「粋な表現」の本質を突いている。

今日は、「言語」を深く考えるために「言語哲学」について述べてみたいと思います。

いわゆる言語哲学(分析哲学)の大きな流れを掴むには、フッサールやハイデガーの研究でお馴染みの渡辺二郎氏の『英米哲学入門』をお勧めいたします。彼の著作はどれも分かりやすく内容が濃いです。

概要を抜粋しますと、、

現代哲学の二大潮流―一つは、ラッセルおよびムーアに始まり、カルナップを中心とする論理実証主義を経て、クワイン、ストローソン、オースティン、そしてローティへと至る英米哲学の流れ。もう一つは、カントに始まり、ヘーゲルらのドイツ観念論へと展開し、ニーチェ、ディルタイからフッサール、ハイデッガーの現象学に至る流れである。ところが、カルナップやクワインを熟読する人はヘーゲルをけっして繙読しようとしないし、フッサールやハイデッガーを愛読する人はラッセルを忌み嫌ってやまない。英語圏の哲学とヨーロッパ大陸の哲学との分裂を克服すべく、英米哲学の基本的主張を原理的に捉え直し、展望する、格好の入門書。


とのことです。

本書は、最後にオースティンによって展開された「言語行為」まで紹介し終了しております。言語行為とは、これまで真偽の評価軸に固執してきた言語観を一歩推し進め言明(statement)を「行為」とすることでこれまでの矛盾を解明しました。しかし、この「言語行為」を紹介し、本書の文末で渡辺は以下のように述べます。


英語圏の言語論がいかに具体化し、日常言語のあり方を射止めるほどにまで柔軟に考えられるように至ったとしても、そこでは言語が、単に人間のなす主観的ないし社会的な行為の側面においてのみ捕らえられるかぎり、世界を切り拓き、打ちたて、存在の真相を宿す場を成す言語の存在論的側面は逸せられたままである。「言葉が語りかけてくる」ような、言語における存在の開示の姿が捕らえられないかぎり、言語の持つ力の実体はまだ本当には把握されないままにとどまっていると言わなければならないように思う。(422)

 

言語とは、自分の意図を世界(社会や他者を含む)に投げかけるための「道具」というのは一つの側面にしか過ぎません。「言語」はもっと人間の思考や無意識の領域にまで関わる「現存在」のあり方に深く関与しているのです。ただし、無意識の領域にまで考察を進めると形而上学となってしまいます。フロイトやジャック・ラカン、丸山圭三郎などの考察は確かに興味深いものがありますが、検証のしようがなくどうとでもいえてしまうきらいがあります。

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(ただし、渡辺はワイスマンを引用している。「偉大な形而上学者たちは、あたかもその次代の地平を超えて見通す力を持っているかのような洞察力に溢れた姿を漂わせており、したがって、形而上学は無意味であるということ自体がまさに無意味なのである。」)

 

ここで、この言語の存在論的側面を探究したのがマルティン・ハイデガーなのです。ハイデガーは現象学的方法により、形而上学きわきわで言語について深く掘り下げていきます。以下、本書より引用します。

もともとハイデガーにおいては、「ロゴス」は「語り」として、「見えるようにさせる」働きと捉えられる。それは、何について、何かを提示し、当のものの存在の真相を見えるようにさせる働きなのである。それは、必ずしも、いわゆる言明すなわち「陳述Aussage」に限られはしない。ロゴス的な語りは、「確約」「拒否」「勧告」「警告」「言明」「相談」、さらには「演説」、また「願望」、加えて「”試作的な”語り」にまで及ぶ広範な働きにおいてある。「陳述」は、生き語りと結びついて、聴くことや沈黙、また呼ぶことも考究され、広く深い言語的経験の場が見つめられている。

 

ハイデガーにおいては、言葉が存在を樹立する力を持つと考えられている点である。本当にものを考える人は、考えることによってすでに「行動している」とハイデガーはいう。そうした人は、「或るものが持っていた本質の充実の中へとその或るものを展開してやる」。或るものが持っていた本質の充実が展開されるとき、そのものは、その存在の真実を発揮したのである。そのことが、しかし実は、最も深くは「言葉」の中で起こるとされるのである。したがって、言葉は存在の樹立なのである。言葉のうちでこそ、存在の真相が開示されるのである。ハイデガーにおいて、言葉はこうした存在の裏打ちを伴ったものとして考えられていることが重要である。

 


 

悪い意味でのかつての独断的形而上学は別として、私たちの広く深い経験全体を捉え直す、真の意味での形而上学的な、もしくは現象学的解釈学的な存在論が熟成しないかぎりは、言葉のあり方も真には捉えられず、人間と世界が真に哲学的把握されるようにはならないであろう。…真の意味での哲学的洞察力が広く深く育成されるとき、そこでは、世界の姿を映しとり、存在の真相が開示される場としての言葉の本質への理解も実ってくるはずである。

今後、さらに深い言語の本質へ迫っていきたいと思います。

よろしくお願いします。
 

今後のわれわれや世界の在り方は、どのような方向に進んでいくべきであろうか。ただただ目の前のことをこなす生き方はつまらない。どのような未来に自分がコミットするかを決めるべきだ。以下、大きな枠組みとして人間存在が今後どのように進んでいくべきかという三つの方向の型を概述する。どれも同時並行で進むであろうが、どこに軸があるかという話。

1 人間性キープ型
自由の相互承認を土台に、一人ひとりが個人を表現できる時代(今は表現どころか生存するのがやっと、あるいは生存できない人も大勢いる)。よりよいものを表現し、承認を重ねる。最低限の生活は保証されているが、承認の競争は残る。アーレントのいう活動が人間の条件となる。喜怒哀楽、波乱万丈に富んだ個性的な生が人間的である(よいもの)だと考える。ある意味ここに到達すれば人間社会は最終形態と考える。現在の状況からここに到達するために働かなくても生きていける社会がまず目指される。いわゆる知識人や文化人でこういう考え方の人が多いのではないか。

2 意識状態の最適化型
意識状態ベースでよい状態を定義し、それを実現する社会を目指す。行き着く先は生まれてから死ぬまでのあらゆることが仕組まれている(が最高に楽しい)完全に予定調和の世界。意識状態が全てなので人間という概念に固執する必要はない。『ウェルビーイングの設計』で書かれているような取り組みの徹底した実現。こうなるともしかしたら意識がどんどん閉じて消滅するかもしれない。SF小説『ハーモニー』で描かれるような世界。SF好き、現実離れした考え方を好む人が支持する。

ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術
ラファエル A. カルヴォ & ドリアン・ピーターズ
ビー・エヌ・エヌ新社
2017-01-24





3 ガンガンいこうぜ型
あまり打算的にならず未知の面白そうなことにとりあえずガンガン取り組んでいく。人間がどんどん宇宙へ進出。事実的な道の領域で突き進む。意識のアップロード、仮想現実など。人間の概念に固執しないでただどんどん新しいこと現実化していく道。人同士のコミュニケーションも不要或いは任意と見なされ、今の人間存在と全くことなった在り方に変わる可能性を秘めている。ホリエモンや落合陽一氏など行動型で未来に希望を持つものが抱く型。

僕はどれだろう…

あなたはどうでしょう?

以下の人工知能の未来を問うNHKスペシャルで面白い場面があった。

 

ある企業の人事部では離職率を下げるために新入社員に定期的に相談の機会を設けている。人事は彼彼女たちにいろいろな質問をし相談に乗る。この結果を多く集め実際の離職のデータとともに解析する。さまざまなパターンを見出しAIは結果を導く(これをAIと呼んでいいのかは措く)。この結果は人間からは理屈が分からなかったが、後日AIの言う通りになるケースが頻発する。

人間は、こうしてAIの弾き出す結果に信頼を寄せるが、理屈も分からないでこれを信じ新入社員に対策を取ることに違和感を感じる。そもそもどうやって何をやってあげればいいのか分からないであろう(笑)

似たようなことは昔からあったはずだ。理屈は分からないがAIはそう言っている。こう言う場合どうすればいいのだろか。結局は感受性に依る。人事の相談レベルであればこれを鵜呑みにして、新入社員の相談を増やすなど対策を取るのは問題ないだろう。しかし、このドキュメントで紹介されているような刑務所の囚人に対する対応など重めの判断はかなり慎重にならざるをえない。

今後、人間のようにコミュニケーションの取れるAIが出て来るだろう。これらへの接し方も感受性次第だ。そもそも、原理的にわれわれは他者が意識を持つかどうか分からない。人間ですらそうなのだから、猫も犬も、サルも石も桜も意識を持つか否か分からない。それと面と向かって接してみて「意識を持たないモノ」として扱えるか否かの感受性に依る。

人間同士でも感受性はバラバラだ。先日の障害者殺害事件のように障害者をモノのように扱うような感受性を持つ反社会的な人間もいる。猫を子供のように可愛がり死んだら大泣きする人もいれば、猫を殺して食ってしまう感受性を持つ者もいる。結局は人間の感受性に依るのだ。映画herの主人公のように、姿形もない音声だけでも会話がうまくできれば恋をする。

今後、こうしたきわどい判断をしなければならない機会が増えるだろう。社会学者のユルゲン・ハーバーマスは、こうした変化にゆっくり着実に対応してゆこうと提言している。 

なぜ街に行きたくなるか。僕は昔から暇があると池袋の人混みを通り、そこそこ人のいるカフェで読書やぼーっとするのが好きだった。今もこうして新宿のカフェでぼーっとしている。

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こうやっていろんな人々がいるごちゃごちゃした都会が好きだ。上海にいるときもそうだった。

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なぜなのだろう。そこに生の本質を掴み取る契機があるのではないかと考えていた。

なぜ街に来てしまうのだろう。それが最近分かってきた。

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それは無根拠な生とう現事実を、人間という物語で忘れることができるからだ。いろんな見た目で色々な目的の人間が生きている。無根拠ながらそんなことは完全に忘却して自分の物語を生きる。各自それぞれが全く違うストーリーを持ち、それに没頭している。

街とは人間的なものだ。動物の世界にはない。人は何かの目的をもって街に来る。目的を探すという目的も含まれる。そこには人の「行為」の束がある。何かを意志して行う。申し開きできること。みんなが物語を生きている。

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そんな人々のいる、そんな人々が物語として作った街の中で見て、そして自分がその中にいることで無根拠の不安から逃れられるのかもしれない。

物語を作るのは欲望だ。こうした欲望の色が強ければ強いほどいい。池袋西口、新宿、上海。僕が好きな街はエロスに満ち溢れている。

ルンバは床を移動するだけだ。ルンバの前に片付けが必要。片付けは難しい。散らかった対象を認識し移動する。高度な技術がいる。しかし、これもAIとはいえない。同じように、冷蔵庫から材料を出し調理する料理ロボットもAIではない。

ではAIとは何か?人工知能。人間のようなコンピュータ、というのがもともとのニュアンスだろう。

では人間の本質は何か?

それは、意味と価値の世界を生きているということ。

これは<わたし>にしか分からない。<わたし>は少なくとも意味と価値の世界を生き、他の人間も同じだと確信を持っている。別の言い方をすれば質的なクオリアの世界を生きているということ。意識を持っていること。

それは外観や振る舞いから判断するしかない。

それゆえ、最終的には感受性である。

ルンバに愛着を持ち、感情移入してしまえばその人にとってルンバはAIとなる。

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