記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 人間とは何か

どこでもドアの思考実験をご存知だろうか。

東京でドアに入る瞬間、私の素粒子状態がデータ化され、東京の私の身体は抹消される。ニューヨークのドアでそのデータから素粒子状態を再現して、私の身体が出現する。素粒子状態が同じなので、以前の私と同じように振る舞えし、社会(他者)もそう認める。素粒子状態という物理的なものが心的なものに還元されることが前提になるが。

さて、ここで重要な論点は「意識の連続性」である。東京の私としての生はそこでthe endなのだ。何かしらの苦しみや恐怖を経て(或いは技術的にそれを快楽にすることもできるかもしれない)私の生は終了する。そして、ニューヨークの彼(私とは違うので)はそこから物理的には生まれるが東京の私の意図も継承している。そして社会に入っていけばみんな東京の「私」と連続体だと見なす。同じように振る舞うのだがから、10年前の思い出話もできるわけだ。

社会はそうでもいいかもしれないが、私にとってはこれは許せない。私の意識は終わるから、その後社会で彼が生きていて、親や友達を悲しませないとしても、私の生は終わるのでその「終わる体験」をしなくてはいけない。

ただ、「死」を恐れる要因として、
1,意識の連続の終わり(意識が途切れるときの痛み。仮に気持ちいいとしてもそれを経験した人が現れないので未知への恐怖は消えない)
2,周りが悲しむ、迷惑をかけるなど社会的な要因

があるが、どこでもドアのケースで2のネガティブ要因は解消されている。あとは1なのだ。それが「意識の連続」なのだ。二つのうちの一つが消えたのだがから人々の「死」への表象は変わっていくだろう。例えば、危険な作業に従事するまえにコピーをとっておき、万が一死んでしまったら身体を再現する、というようなところから実用化して、そういう再現された人間が生きる社会に慣れだしたら、「死」に対する見方は変わる。

しかし、それでもまだ1の怖さは消えない。意識がなくなる状態へ移行、この未知の体験への恐れ。

現代に生きるわれわれは「意識の連続」を重要視している。これは「いま、ここ」というありありした体験、知覚、情動、身体性などが拡がる「意識」の流れや持続が「生」だと信じているから。

なぜそのように考えるのだろうか?そこに何か前提はあるのだろうか。

それは「どう生きるか」を考えるかではないだろうか。では、人間は「どう生きるか」をどういう条件で問うのだろうか。問うているときは、ある程度落ち着いている状態だろう。思考したり反省しているのだから。そして、過去を何かしら了解し、未来にむかってどのようにするかを考える。未来をどう生きるか、とは何か。この意識状態が何かしらの経験をしながら進行していくことが想定され、そこでどのような意識状態を未来に持つのかを検討している。

また、「私」が「私」として同一であり、今後もそれが継続していくことも想定されている。だからそれをどうしていくか反省する。そのいろんな特徴の基体としての自分。反省的な状態というのは特殊だ。自分が何なのか、どう生きるかを問うときだけ出てくる状態。それ以外のときは「明日の仕事のこと」「来週の出張のこと」「家族のこと」などを漠然と了解しながら生きている。


反省している時点で、前向きに生きようとしているのは事実だ。われわれは何かよいことを今まで経験しており、それを再現するという思考で考えている。幸せな状態、快楽な状態これをわれわれの余生という時間において、できるだけ多く出現させたいというのが一般的な生き方の想定ではないか。この想定が、「意識の連続」が途絶えることを忌避させる。

しかし、そもそも「死」という概念にも影響を受けている。これも社会的なものだ。ハイデガーは「死」の本質を分析しているが、それは社会で他者の死を見て間主観的に想像しているに過ぎず、誰も体験できないものなのだ。死ぬ前にコピーで不死のロボットの身体にアップロードするような社会になれば、「死」という共同幻想はなくなり「アップロード」という一つの手続きになるかもしれない。それが痛みの質感も伴わないのであれば、過渡期を経て定着するかもしれない。現代の僕らが成人式に参加するような軽いノリで。

ということで、あまりすっきりしないが「意識の連続を重要だと思う」のもいろいろな前提、つまり人間として社会で生きてきて経験的に学ばれた判断であるとはいえそうだ。

筑波大学助教授の落合陽一さんが以下のようにわれわれの「自己同一性」について面白い考察を行っている。

落合 人工知能と人間の違いを議論するとき、一番ネックになるのが、スワンプマン問題(死亡した人物とまったく同じ形状・記憶を持つ人物は、死亡した人物と同じなのか? という思考実験)にどう向き合うかですね。

例えば、社会の中に位置づけられた存在としての自分と、そこにある意識的に連続体じゃない自分があります。そこであなたが死んで、次の瞬間にまったく同じように復元されるとします。そのとき「世の中から見れば、あなたは生きています」って言われたときに、多くの人は「いや、死んだ俺だけが過去と同一の脳みそを持っていて、次のやつと俺は連続していない。だから、あのとき俺は死んでいる」って言うんですよね。

でも社会から見れば同じ人間なので、それを全員が許容する社会になってくると、訳が分かんなくなっていいですよね。そうすると、もうちょっと人間が寛容になると思うんですけど。僕としては、結果的にそういう社会に移行するんじゃないかってちょっと思っているんです。

自己同一の問題のヒントになりそうなものとして、「銃夢」(木城ゆきとのSF格闘漫画。サイボーグの戦闘少女がさまざまな難敵と戦う)っていう漫画があるんです。主人公がガリィっていう女の子なんですけど、その子がくず鉄街で生まれてザレムという街に行くんですけど、ザレムの成人の儀式というのが、青年の脳みそを取りはずして中身をチップに変えるという作業なんですよね。そうすると一回脳みそ的には死ぬんだけど、チップに変わるから普通に生き続けるみたいな話。

でもそんなことしたら普通の人なら「お前死ぬからマジやめろ」って感じじゃないですか。だけどそれをやらないと市民権が得られない。そこで、そのガリィって女の子が「やめろー!」って青年たちを解放するんです。ところが青年たちが口々に「脳なんかいらないのに、将来を返してよ!」ってみんなで怒るんですよ。そういう感じがすごい21世紀的だなと最初読んだときに思ったんです。結構昔で90年代前半に連載されていたんですけれど。

ひとたび自己同一性を人類が失い始めると、多分全然違った世界に行くはずです。人工知能の次のキーワードとして、我々が個別の意識と信じているものは本当に1人の人間の意識なのか、人生ってどこに切れ目があるのかみたいなことを、考えていかないといけないと思います。

人間の生死に関わる問題については、まだかなりの抵抗がありますね。まして自分が死ぬか死なないかに関しては。ですから生死観に関わるような問題については、いろんな議論が出てくるはずです。
ここで問題になっている自己同一性について考えたい。

そもそも、自己同一性はなぜ必要なのか?

僕の考えはこうだ。「時間軸のあるコミュニケーション」があることで自己同一性が要請され、保たれていく。お金の貸し借り。恩義のやりとり。共に何かする約束などなど。別の言い方をするとそれは責任問題だ。自己同一性とは「実践のカテゴリー」に属するもの。つまり「その行為をしたのは誰か」に答えるために要請される概念ともいえる。

こういうコミュニケーションがいらなくなることはありえるか?誰もが家を持ち、毎日食事も自動的に運ばれてくるようになり、体調が悪くなればボタンを押し身体をスキャンしてもらえば何かしら処方してくれる。手術が必要ならロボットが連れ出してくれて手術が始まる。家から出ず人とも会わずに一生を過ごせる。こうなれば過去や未来を考えずとも「いま、ここ」だけに反応して生きる「生」となる。


時間軸のあるコミュニケーションがなくなれば、自己同一性は不要になる。でも時間軸が必要ないコミュニケーションはあってもよい。
誰かと直接的に会う、実は30回目に会う。でも、「ああ、この前に会いましたっけ」的な感じか。いやその前に、言語能力がどれほどあるのか分からない。相手を同定する能力があるのかも分からない。動物は環境に固定されており、そこから離脱できないが、人間もそれと同じ状態になるかもしれない。でも、ロボットが知性を使って人間が知らずの内に環境を整えてくれる。そんなことになるかもしれない。そうなればもう人間ではなく「ヒト」である。


このように環境次第では、「自己同一性」は不要となり消え去る。

では、現実的な考えに戻って、現代において自己同一性を考察することは何につながるか。それが時間軸のあるコミュニケーションであるとすれば、今後の人間関係における自分という基体の在り方の吟味。つまり、人間としてどう生きていくかに直結する。

人間関係の中で生きる「人間」としてのわれわれは、他者から認められた物語を軸に、自己像を持ち、この自己像の価値を高めたいという欲望が本質である。

マレー・シャナハン (著)『シンギュラリティ:人工知能から超知能へ』(2016)を読んだ。ドミニク・チェン  (監修, 翻訳)。細かくは読んでいないがさらっと。

アマゾンに載っている内容紹介の通りの内容であった。

松尾豊氏(東京大学准教授)推薦
人間の脳の活動すべてを、コンピュータで模擬できるとしたら?
そしてシミュレートされた脳を物理的な身体とつなぐことができたなら?
人工知能の発展の先に浮かび上がる問題の描き方は見事である。
そして、本書が最後に投げかけるのは壮大な問いである。
人工知能は人類にとっての希望なのか?


イギリスの人工知能(AI)研究の第一人者によるAI入門書。
本書では、「全脳エミュレーション」などの最先端のAI研究を手際よく解説し、さらにAIの政治・経済的インパクト、AIと意識の問題、そしてシンギュラリティ問題までを、さまざまな思考実験を通して考察する。
はたしてシンギュラリティはやって来るのだろうか?

人間の脳の仕組みと、それを全能シミュレーションするにはどういう過程があり、課題があるかということが分かりやすく書かれている。僕はてっきり、SF的に「素粒子状態」で全状態を把握するレベルを想像していたが、それはまぁ無理なので本書では機能を再現できる程度の解像度で現実味のあるレベルで展開されている。

いくつか思ったことを書く。本書の内容をおさらいはしない。


1,意識について 
AIにどうやったら「意識」が発生するか。それに伴い、人間はAIを人間のように扱わなければならなくなる、などの議論が出てくる。

哲学的に言うと、この議論は答えがないのだ。そもそも僕らは他者(他人や物)に意識があることも確かめようがない。僕と同じようなクオリア的な世界を気分や情動と共に生きている、と勝手に想定しているだけなのだ。だって、その人の主観に入り込んだりできないし、出来てもそれが確かめたことになるのかも分からない。

結局それらは経験的に学ばれた確信にすぎない。自分と同じような身体を持ち、同じように動き、言語をしゃべる。考えなくても自然と同じような人間であれば意識を持つと前提してしまっている。確かめられないが、疑いも湧き出てこないほど前提されている他者の主観を間主観性という。

猫が好きな人は日々その行動をみて相互にコミュニケーションを取っている。そういう人にとっては猫は意識があるという感度が強くなるだろう。一方、野良猫をうざがってるような人、さらにはいたずらで虐待するような輩は、意識のない「物」に近い形で捉えているだろう。

AIも同じである。機械であっても、人が意識を持っていると思わせる特徴があれば「意識がある」のだ。「her」というアメリカの映画ではある中年男性がAI(iPhoneのSIRIのようなもの)と毎日電話して恋に落ちてしまう過程を描いている。声だけでもコミュニケーションが成り立っていれば相手がプログラムだと理解していたとしても好きになってしまうのだ。この場合、当然意識を想定しているだろう。

だから結局、人間の感受性に依る。

余談だが、あらゆることは人間の能力と感受性のレベルに依存する。AIがいくら賢くなってもそれを理解するのは人間であり、人間はもう近い将来AIの提案を鵜呑みにするしかなくなる。なぜそういう判断かは人間の能力的に理解不能なのだ。

2,「自我」と「自己保存」
158頁に、「自我(自己同一性)」と「自己保存」について面白い考察がある。これらがAIに備わるのは「期待報酬の最大化」に繋がるかに依る、というもの。「自己同一的」であることが、そのAIの目的に必要なら生まれる。人間だって同じだ。僕らは社会を築いて人がある役割を一貫して担わないと社会が存続できないから自己同一性を保っている。職業や性格を忘れたら、怒られて軌道に乗せられる。結局、同一性は他者が同一として扱うことから生まれる。

AIにとっては「自己保存」も同じく報酬関数に依る。人間は自己保存自体が目的のようだが、AIはその報酬関数は設定次第だ。本書の例ではある機械部品の製造を最大化するには、工場に命令を出した後自分も部品のために分解する、というもの。


3,AIの難点

本書の最後の方で、報酬関数のチューニングの問題が出ている。有名なロボット三原則を例に出している。「人間に危害を加えてはいけない」とロボットに組み込んでおいたとして、その報酬を最大化するために全人口を麻酔で寝たきりにしておく策に出るかもしれない。安静にしとけば危害を加えるリスクがなくなる。

これは哲学的に言えば、「語の多義性」の問題なのである。われわれは何となくある「語」は何かイデア的な意味を持っていると思っているが、それは違う。われわれは経験的に言語の使用の場、つまり言語ゲームに参加することで語の意味を学ぶ。コップは水を飲むもの、歯ブラシを立てるもの、怒ったとき人に投げるものかもしれないが、一番よく使われるものがその「意味」として辞書に登録される。普段われわれが観取する意味は、認識者の欲望に相関している。AIにとっても語は報酬関数に則して理解されるのだ。だから報酬関数の設定は難しい。この設定は言語でなされるのだから。

さて、AIがいろいろ世の中をよくするにせよ自分の生にとって最も重要なことは連続している生である。いくら自分の脳状態をコンピューターにアップロード出来たとしてもこっち側に残る今の私の連続性が私の全てである。ここに定位していろいろ考えていくべきだと思うのだが、実は意識に固執するのも今の人間社会に作られた一時的な感受性なのかもしれない。

シンギュラリティ:人工知能から超知能へ
マレー・シャナハン
エヌティティ出版
2016-01-29

 

哲学者キルケゴールが著書『死に至る病』でいう「絶望」とは何か?

端的に言うと、キルケゴールのいう絶望とは自己が様々なものとの関係性の間でバランスを欠いてしまっている状態。生きているのに死んでいるような感じ。どういうことか。要は人間は物語を持って現実に適応している。でも現実という外界に適応するために抑圧してきた物語もある。

そのような物語は外界に合わせようとすると感情などで反抗してくる。また、物語といっても言葉の束であるので、一貫性を保つのは難しい。大学を卒業してプログラマーやって、アフリカで働いて、歌手目指して、医者目指すみたいなことやっていたら、毎度他者から承認を得え物語を安定させることはできなくて、パニックになるだろう。

ではどうすればいいのか?
誰かが気絶した場合には、水だ、オーデコロンだ、ホフマン適材だ、と叫ばれる。しかし、絶望しかけている人があったら、「可能性を持ってこい、可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ」、と叫ぶことが必要なのだ。可能性を与えれば、絶望者は息を吹き返し、彼は生き返るのである。 
これがキルケゴールの答え。

では可能性はどうやって与えられるか?

教育哲学者の苫野一徳は、ルソーを手がかりに「可能性」とは、能力を挙げる、欲望を下げる、そして欲望を変える、の三つの道があるという。しかし、それは本質的ではない。現代の僕らはそもそも欲望がない。何かやりたいことを10個言えと言われてすぐに答えられる人は少ない。

これも物語という契機で考えることができる。われわれは物語を生きている。ただ単に「君はこういう世界を生きている」と言われたり、世界史を読んで「僕はいま、こういう流れにいるのか」と理解してもそれは物語として実存的に根付かない。僕らは日々リアルな世界で環境や他者と触れ合うことで世界像を更新していく。

未来への道筋は過去のリアルな経験の蓄積の延長線上でしか開けてこない。これはハイデガーの歴史性からも分かる。過去の経験がバラバラなら未来へ何も見えてこない。

キルケゴールの答えは「自己は自己自身によって措定するのではなくて、絶対的な他者によって措定される」というもの。実はキルケゴールは敬虔なキリスト教徒であり、絶対的な他者とは「神」だ。神の下でキリスト者として、常に絶望の中にある自己はどうすればよいのか?自己は自己自身によっては安定や均衡に達する事はできず、常に有限性と無限性、可能性と必然性の間でフラフラする。この間のバランスをもたらしてくれるもの、つまり措定setしてくれるものが神ということ。

これは、神を中心にした筋立てで物語(自我)を安定させるという方法である。でもしかし、先に書いた通り本を読んでも納得感はない。過去の蓄積からその筋立てに正当性がないと、未来につながらない。まずは過去を反省的に考える。現代とはどういう時代か考える。どういう欲望を持っているか考える。そしておのずと物語が見えてくる。そこで宗教を手がかりにするのももちろんOKだ。しかし、重要なのはハイデガーも言うとおり、世界からではなく自分に固有なところから物語を作っていくことである。 

ある天才エンジニアな若手(つまり理系)に哲学の話をした。彼は、死んだ後どうなるかについての哲学に興味があったが、僕は哲学はその問題を扱わず、死後を扱えるのは宗教だ、と言った。彼はそれは思考停止ではないかと言うので、哲学は「誰もが納得できる概念を使って組み上げていくものだ」と返すが不満そうであった。

そもそも暗黒時代の中世からデカルトの近代になり、物語的に世界を説明した恣意的な世界観は否定され始める。誰も調べようのないことを使って人に何かを強制するのは無理がある。そこで、みんなが納得できるような世界や生の説明をするようになる。それが近代以後、現代にも続く哲学の流れである。

まあ、これはこれでいいとして、

さて、僕はなぜ哲学をしているかというと「善い生」を生きたいし、みんなにもそうなってほしいからだ。しかしその理系の若手は結局は「 脳内の状態」がすべてなんだからそこを起点に科学的にやらないとだめだという。麻薬でも何でもいいから「気持ちいい」「幸せ」と思う状態を突き止めて、それを再現すればいい、という考え。

これについてはどうだろうか? 

たしかに、麻薬はやったことがないが気持ちいいのだろう。或いはセックスでもいい。こういうのは短期的に数時間なりパラダイスを味わえる。その時の脳内状態を測定できるとして、これを再現すればいいということになる。別の方法で、というよりはずっと麻薬やセックス、ということになるだろう。

これだと、身体が持たない。とまず反論できる。麻薬は身体を破壊するし、セックスはたしかに体力的に厳しい。しかし、彼がいうのは「このような快楽を身体に負荷のない形で再現する」ということ。 でも、それは科学の発展を待つというシンプルな道をまっすぐ突き進むしかない。仮にそうしたものができても、まずは贅沢品として一部の人しか利用できない。それにそうした快楽のために働く構図は生き残ることになる。

なので、僕が言っているのは「生」全体の話だ。短期的なことではなく、僕らは80年くらい生きるわけで、それをうまくマネージしなければならない。一番よいのは常に幸せな状態。麻薬のような快楽状態が80年続いてもいいが、それは上述の科学の発展の道筋である。そのためには、まずは地球上の人類全てが働かなくても衣食住が提供され、そうした快楽も無尽蔵に与えられることが前提となる。

達成できるかの問題は置いておいて、そこには2つの疑問がある。まず、衣食住が無償になればわれわれの感受性は大きく変わるはずだ。人と付き合う必要がないため、幼少期の経験も変わり他者の実存における位置づけが変わる。麻薬などの快楽も、現代のようなストレス社会を前提にしての快楽なので、そもそも日々自由であれば、それが必要かも分からない。二つ目に、そういう快楽があったとしても慣れてしまえば人間はさらなる快楽を求めるだろう。麻薬の奪い合いや、もっと刺激の強いものを求める。であれば今と構図は同じ。

なので、もっと本質的なことを哲学したいのだ。

では、われわれの「生」はどういう構造をしているのか。これは科学では分からない。いくら脳の素粒子状態が分かっても、それは事実的なことであり、それがどういう「意味」や「価値」を持つかは主観的に語られる以外にはない。

仮に全素粒子状態が24/7で捉えられるようになったとしても、主観で何が起きているかは私しか語れない。行動主義的にわたしが嬉しそう、幸せそうにしていれば「幸せ」とみなすことはできるだろう。さらに私の意識状態をシミュレーションしようとするなら、全宇宙の素粒子状態を把握しなければならないだろう。私は宇宙の繋がって「いま、ここ」の経験をしているのだから。

麻薬やセックスのようなただの「脳内の物理的な化学反応」的な快楽ではなく、幸せという人間独自の感情は、より高度なものだ。ただ、化学反応を起こせばいいわけではなく、外部世界や他者とも繋がった経験なのである。われわれの過去の全記憶が身体に保有され、それと外部からの刺激で意識が生じるので、それは全宇宙的な現象なのである。そんな計算まずできないだろう。猫の画像からの概念獲得にスパコン何台も使っているのに。なので、全素粒子状態からシミュレーションするやり方は不可能と結論。

そもそもそういう人間的な経験自体をなくしてしまえ!マトリックスみたくカプセルに入っとけばいいよ!みたいな世界を目指すのであれば、それはそれで確かに筋が通っている。どういうことか。要は、不労不老が達成されたら、今の「人間」の定義がなくなるだろう。人と接しながら他者関係をいきる人「間」が終焉する。これはフーコーが1960年代くらいから言っているが、まだまだ終わりが見えない。そして、もし人間が終わるのであればわれわれ「人間」はその先の実存的な在り方について原理的に語ることはできない。人とうまくやっていく必要のない状態で育ったヒトの在り方など想像もできないからだ。

だから僕は人間が人間である限り、まずは、物語的な動物としての生を前提にして考えていきたい。

われわれはたしかに無意識的に制御され、数多くの行動をしている。しかし、意識があるときは文字通り意識があるわけで、何かしたらを言語的に志向しながら行為をしている。

だれもが意識上では、自分の物語を暗黙的に了解している。どこの出身で、どういう親に育てられてどういう学校に行ってどういう職業について、どういう趣味がある、とか。

そして、自分が行為を行う上でも前提となる方向性があるはずである。何か行為をする際の基準というか、善の了解と言ってもいい。

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人は種の保存と個体保存に衝き動かされた動物なので、突き詰めれば何ごとも「自分」のためだが、社会のなかで生きる「人間」であるわれわれはその上に幻想を築いている。

人それぞれどこに力点があるかは異なる。
大きく分けて4つ。
  1. 「自分」が気持ちいいこと、ポジティブな感情を抱けることに重点があるもの。
  2. 周囲の顔見知りレベルのため、彼らを幸せにしたい、承認されたい、ということに重点があるもの。
  3. もう少し広く、顔が見えなくても組織や業界などの仲間に重点があるもの。
  4. 国民全体、さらには広い地域や地球規模の人類の未来に重点があるもの。
あなたはどこに力点があるだろうか?

この重点が違う人とは基本的に話が噛み合いずらいので要注意。そして共通了解できなくてもめげずに頑張ってほしい。

ちなみに僕は、4である。 

出家するということは、世間からの情報と完全に断絶するということだ。

人はそれまで周りの人間やさらにはSNSで物語を承認されることでどうにか現実に適応していた。しかし、その承認獲得活動に嫌気が差し、人は出家する。世間から承認を得るのは難しい。変動の激しい社会に自分の物語を合わせるは努力が必要だ。

その競争から離脱し、そういう変動のない環境で自分の物語を固めていこうとするのが出家の本質であろう。

しかし、いくら社会からの承認競争を逃れても、物語という言語的世界を維持しないと人間は終焉する。ではどうするのか。人間として生きるのをやめ、一元的な世界を動物のように生きるのか。それとも、過去の社会の記憶を抑圧し、坊さん社会からの承認で上書きするのであろうか。

いずれにせよ、根本的な解決でないのは間違いない。

とある知人が出家したと聞いて、そんなことを考えた。
 shukke

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