記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 人間とは何か

われわれはたしかに無意識的に制御され、数多くの行動をしている。しかし、意識があるときは文字通り意識があるわけで、何かしたらを言語的に志向しながら行為をしている。

だれもが意識上では、自分の物語を暗黙的に了解している。どこの出身で、どういう親に育てられてどういう学校に行ってどういう職業について、どういう趣味がある、とか。

そして、自分が行為を行う上でも前提となる方向性があるはずである。何か行為をする際の基準というか、善の了解と言ってもいい。

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人は種の保存と個体保存に衝き動かされた動物なので、突き詰めれば何ごとも「自分」のためだが、社会のなかで生きる「人間」であるわれわれはその上に幻想を築いている。

人それぞれどこに力点があるかは異なる。
大きく分けて4つ。
  1. 「自分」が気持ちいいこと、ポジティブな感情を抱けることに重点があるもの。
  2. 周囲の顔見知りレベルのため、彼らを幸せにしたい、承認されたい、ということに重点があるもの。
  3. もう少し広く、顔が見えなくても組織や業界などの仲間に重点があるもの。
  4. 国民全体、さらには広い地域や地球規模の人類の未来に重点があるもの。
あなたはどこに力点があるだろうか?

この重点が違う人とは基本的に話が噛み合いずらいので要注意。そして共通了解できなくてもめげずに頑張ってほしい。

ちなみに僕は、4である。 

出家するということは、世間からの情報と完全に断絶するということだ。

人はそれまで周りの人間やさらにはSNSで物語を承認されることでどうにか現実に適応していた。しかし、その承認獲得活動に嫌気が差し、人は出家する。世間から承認を得るのは難しい。変動の激しい社会に自分の物語を合わせるは努力が必要だ。

その競争から離脱し、そういう変動のない環境で自分の物語を固めていこうとするのが出家の本質であろう。

しかし、いくら社会からの承認競争を逃れても、物語という言語的世界を維持しないと人間は終焉する。ではどうするのか。人間として生きるのをやめ、一元的な世界を動物のように生きるのか。それとも、過去の社会の記憶を抑圧し、坊さん社会からの承認で上書きするのであろうか。

いずれにせよ、根本的な解決でないのは間違いない。

とある知人が出家したと聞いて、そんなことを考えた。
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われわれの実存、主観的な生、生の在り方といってもいいが。要は意識があり体験している「いま、ここ」の流れ。
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これは三つの状態に分けることができる。まず、「ゲームモード」。これは、あるゲームの中で具体的な目的・目標に確信を持ち生きている状態。挫折や苦悩はあるが、具体的な目的・目標のために試行錯誤し努力すればいい。スポーツ、恋愛、仕事、ゲームなどに情熱を持ち、「どう生きるか」が問題にならない生の状態である。

第二には「無気力モード」である。これは、生きる気力がない、勉強や仕事など何もする気力がない状態。この状態では何か行動を促す「欲望」や欲求がなくなっている。「どう生きるか」という問いも出てこない。社会の中に入っていき「欲望」を喚起するなどの必要があるが、これは精神分析、心理学や生理学などの領域であり適切な処置が求められる。

最後の一つは「哲学モード」である。「ゲームモード」と「無気力モード」の中間的な状態。何をしたいかよくわからなくてモヤモヤしている。「生きる意味とは何か」「何のために生きているのか」といおうような「どう生きるべきか」について論理的に物事を考えすぎ、答えがでなくて行動を促すような確信がない状態。これは言語的な世界を生きる人間に特有の状態である。実は、第二の「無気力モード」はこの「哲学モード」の極みである。 

もちろん人の生はこの三つのどれか一つにぴったりと当てはまることはない。しかし、常にどれか一つを軸にして或いは二つ以上に跨りながら、さらに軸を変えながら生きているのではないだろうか。

ここで前提にしているのは、社会的な「人間」である。社会で育って言語的な世界を生きるようになったヒトである。

われわれが必要なのは、三つ目の「哲学モード」について、どのようにして「ゲームモード」に移行できるのかを知ることだ。それは要するに、「どう生きるべきか」ということに納得のいく回答をするということである。言い方を変えれば、「世界」についてのしっかりした了解の像を持ち、そこに自分を位置づける、ということだ。

人は、 動物のように本能的に生きておらず、言語的世界を物語に生きて現実に適応している。われわれは意図的にこの物語にコミットしないと、現実から剥離され宙を彷徨ってしまう。それが「哲学モード」であり、行き着く先は「無気力モード」である。

人が何かを誰かに向けて発信する場合、それは誰かに何かしたらの変化を与えようとしているということだ。

あなたの周りでもSNS中毒者がいないだろうか?

四六時中facebookやらtwitterやらwechatに写真や近況をアップしている輩。

彼らは何故そんなことをするのか?

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一般的には、「それは人から承認されるためだ」と言われるだろう。例えば、子どもの写真を毎日アップする野郎は「おれは親になって子育てしているいいお父さん」ということをみんなにアピールしてそのような理解を促す。イケてる友達と写真をとってアップするのは、「おれはこんないい友達持っている」ということを認めてほしい。要するに、何かのその人に関する事実を認めてほしいのだ。これが承認と言われる。

では、なぜ承認されたいのか?なぜSNSを通じてそんなに多くの人にアピールして承認がほしいか?

それは、自我を安定させるため。自分の物語を安定させるためだ。 人は動物と違って、物語を作って言語的に世界に適応している。だから、物語を保つことが死活問題なのだ。幻想を保つのだ。それは自分ひとりで信じていても、すぐ崩れてしまう。なぜなら人間社会で人と交わればすぐにボロが出るから。人望のある人間だと自分で信じていても、実際に人から承認されるには一定の実績の積み重ねが必要だ。そういう状況では、一人でも多くの人から承認が助けになる。一人より二人、三人、多くの人が「いいね」を押せばそれはあなたの物語を承認してくれたのだ。

人は自分の物語を保ちたい。だから承認が欲しいのだ。これは何も卑しいことではない。そういう動物なのだ。この構造については別途他の記事で詳しく説明しているので見て欲しい。  

ただ、自我が安定していないのはこの社会では未成熟、ダメなやつと見られやすい。自我が安定しており、確固たる物語を生きている風のやつがよしとされる。そういう意味でSNSにつまらないことばかり投稿していると、(上述の理論を知っているわけではなくても)浅ましいやつだと感づくだろう。 

先日とある友人に語った自分の考えについて、以下、インタビュー形式でまとめた直した。(青字は質問者)

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質問者
あなたは何をしてきて、今、何をしているんですか?



ずっと自分で事業をしたいと思ってました。とは言え、起業家という狭い概念ではなく、ビジネスに限らずアートやスポーツ、NPOや政治など、分野は問わず自分で今まで「世界になかった新しいこと」をしたいと思ってました。当初はそんな強い思いではないけどだんだん軸になってきた感じです。

親が自営業で自由だったし、大学に入ってインターネット企業系のスタートアップが流行っていたので影響を受けたと思います。知人に薦められて読んだ『The world is flat』という本でインターネットが世界を変えていくのが面白い、自分もこの分野で何かしたいと思ってました。表面的にはいろんな活動をしていますが、基本的にはその流れで勉強や仕事などして今に至ってます。

フラット化する世界 [増補改訂版] (上)
トーマス フリードマン
日本経済新聞出版社
2008-01-19

フラット化する世界 [増補改訂版] (下)
トーマス フリードマン
日本経済新聞出版社
2008-01-19



質問者
社会にインパクトを与えたい的な感じですかね?


単純に言うと、そうかもしれません。ずっと「世の中になかったような新しいものを創る」という曖昧なものにコミットしてきました。というのも、シリコンバレーにしても世界各地で次々生まれてくる「創造的破壊的革新と世間で言われているサービス」が全く面白くなかったのです。どれもこれも安全、安心、便利、快適の延長でしかない。この方向にひたすら進むだけなのか?何か人間の本質を捉えてないなってずっと思ってました。だから自分が「これこそ人に幸せや快楽をもたらすものだ!」というものを「プロダクト」的な視点でずっと考えてきました。

質問者
それでそのような本質的な幸せや快楽を与えるプロダクトは見つかりましたか?



結局それは「価値」とは何かという話になります。それを探究するために人間や世界についても考えてきました。どうせ生きているなら凄いことをしたいというのが根にあって、だったら価値あることしないとダメで、じゃあ価値って何?っていう流れです。暫く探究してきましたが、その自分の「問い」自体が間違っていたと分かった。人間や世界はそもそもそういうものではない、と。

質問者
そのような凄いことをしたい、価値あるプロダクトを創ろうと思っていた根底的な問題意識はなんですか?

根本の問題意識というと、もちろん、「安定した生活基盤を築きたい」「モテたい」「ゲームを楽しみたい」など自分の幸せや快楽状態を高め、継続するという人間としての当たり前の動機だと思います。

具体的な契機でいえば、一般的に社会では「常に自分を高める」「一秒も無駄にしないで仕事する」「挨拶をしなくてはいけない」「愛想をよくしないとだめ」「人によくしないとだめ」とかいう主張が前提にしている「善悪の規準とか価値観」に疑問がありました。もちろん、みんなそれに従っていて、そのとおりにすれば評価されているのは理解していますが、なぜそれに従う必要があるのか。ずっと考えてました。

もちろん、人間は狩猟採集時代から原始共同体を作り社会が発展してきたので、価値体系が複雑に発展し、社会の規範が出来上がり、先のような主張が出来てくるというのは誰でも分かることです。が、僕はもっと深くそれを知りたかった。もっというと、そういう主張に従わないでも社会から評価されたり、幸せな生活を送れる方法はないのか、と考えていました。

それは突き詰めていくと、結局、存在とは何か、なぜ何もないのではなく何かがあるのか?というハイデガーのような根本的な存在を問う存在論につながります。なぜ、僕の意識があるのか、この「いま、ここ」があるのかに答えないとそもそも価値論すら始まらない。

それで後で詳しく述べると思いますが、やはり結局こうして存在論の領域に入っていって暫く考えると、既述のこれらのベタなルールに従っていかないとだめ。いきなり言われても分からないと思いますが、要は誰もが分かる物語的に生きないとだめだという結論になりました。一周した感じですね。

質問者
なるほど、かなり深い問題意識ですね。では、そもそも何か新しいものを作りたいという動機自体も変わったのですか?


ああ、それも詳しく僕の今の世界の見取り図を説明してから述べますが、結論だけいうと変わっていませんね。むしろ意図的にでも強くそっちの方向に行こうと思います。
 

質問者
おーなんか興味深いですね、よく分かりませんが。世界の見取り図ってことですが、これはあなたの考えている世界の根本的な構造ということだと思いますが、それが
そんな机上の学びで分かるものなんですか?


その不安は僕もたしかにあったが、実際いろんな本を読み、今かなり掴めたと思う。本だけでなく人とあったりこれまでの経験が生きているのかもしれないですけど。

質問者
では人間や世界について何が分かったんですか?




まず、スタート地点として、先も少し述べましたが、自己分析するとまずいちばん根底には、「自分が幸せになりたい」ってことがある。これは誰でも同じでしょう。ではその幸せって何かというと、自分の実存、主観的な「いま、ここ」というそれを「よい」ものにしたい、ということ。

質問者
はあ、なるほど。今の主観的な生を最高状態にしたいってことですね?結局他人どうこうじゃなくて、というか他人どうこうと利他的なことも含めて、最終的に利己的な主観が良い状態にあればいいと。



そういうことです。だって日本をよくする、社会をよくする、家族のためって言ってもやっぱりそれは最終目標にはならないですよね。それは最終的にはそれにより快不快、幸福などの感情を抱く個人の実存に還元される。だって自分の実存が苦痛だったり、ちょっとしか楽しくなかったらいやでしょう。

質問者
なるほどですね。それって基本的にはみんなそうなのではないですか?



はい、もちろん、そうです。みんな自覚無自覚を問わず、結局は自分の実存をよくしたいと思っている。自分という人間の生をよりよいものにしたい、と。家族や恋人や友達のためだと思っても突き詰めればそれを意図している本人の実存である。もっとも深く言えばハイデガーの現存在。

質問者
なんですか現存在って?



要は、今あなたは「いま、ここ」の流れ行く体験をしていますね。それを体験している基体として自我を想定していると思いますが、実際そんなもの(自我)は確証できない。僕らが確実に言えるのは、この主観的な実存的「いま、ここ」の流れ。でもこれを指示するのは難しい。「主観」とか「今」とか「ここ」っていうのが既にいろんな社会的な前提を含んでいる。現存在というのは、できるだけそういう手垢にまみれた語を避けてクリーンにこの「現」に広がっている「存在」を指示しようとしたもの。人とか世界とか何も想定しないで。
ということで、実存をよくするためには、その実存(現存在)の構造をはっきりさせないとだめ。

質問者
なるほど、深いですね。ではその現存在=実存はどういう構造なんですか?



動物との比較で言います。動物は外からの刺激に対して一義的に反応することで《世界》に適合している。これを本能的という。一方、人間は本能が機能していない。いい意味でも悪い意味でもなく。これは証明できないが、まあそう考えてください。人間は身分け構造として本能的に生きるわけではなく、言語の世界である言分け構造を生きる。言い方を変えれば物語を作って《世界》に適合しているのだ。それによっていいことも悪いこともある。

そもそも人間が対峙している《世界》はカオスだから、それにパターンという言語を被せて秩序を保っているのが奇跡。その超複雑なカオスからパターンを見出して、自分の中で世界を組み立てる。そして自分をその世界の中で位置づける、つまり「物語」を作るということ。

だから、その物語に何か最終ゴールみたいにはないし、ただ、「現実(カオス)に適応する」ためなのだ。

僕らは「◯◯会社のサラリーマン」「どこどこの学生」という物語なしに日々の行動を取ることはできない。もしそうした記憶がなくなれば、僕らは衣食住から離されてすぐに死んでしまうだろう。もちろん、友人や家族など物語を持って生きている人がサポートしているかもしれないけど。 

強いていえば物語を保つことが目的。

これは生物学的にも支持できるでしょう。言語的に世界を捉えるにはそうした語を記憶しなければいけませんが、それはシンボルの連鎖、連合として1つの世界に生きる僕という形=世界像で何とか保持されます。これがさらに時間軸により物語化して定着する。なぜか?もっとも資源を節約して世界に対峙するやり方が「物語」なのです。

といってもこの世界像にしろ物語にしろ普通にイメージするような綺麗に整ったものではなく、ぐちゃぐちゃで継ぎ接ぎでちゃんとした構造もないのが普通です。どの語がどの語と連合するかなどわれわれは分かりません。意図的に物語を強化しないと、よりぐちゃぐちゃになり、一本の線を軸とした形が崩壊します。こうなると、生きている意味がよく掴めなくなります。

質問者
なるほどですね。そこから何が言えますか?


だから、もし今の生に何か問題があるなら、なにかこう「抜本的な解決」は望まないほうがいい。(まあ、実は普通の人はそんなもの望まず早い段階でつまらない世の中を受け入れていしまってるんですけどね(笑))何か満たされないようなもやもやはあって当然、というのをまず受け入れないとだめ。

そしてその虚しさを受け入れた上で、自分の過去を分析し、それをもとに、じゃあどういう未来を作っていくかという考え方にしたほうがいい。物語にそって生きていれば楽しくなる。そして実は、それはあなたがもともと探していたもの以上かもしれない。

質問者
なるほど、その生の限界を認めなさい、ってことですね?



そうです。

「何か自分が常に楽しめる理想的なものがある」と想定してそれを探し回る。そして、探し回っている間はいつも満たされていない感じが続く、みたいな状態に陥ってはなりません。

これはだめ。

そんなものないのです!僕らの生はそのような構造になっていない。
そういうもんじゃないんだ。

質問者
なるほど。たしかに言われてみればそうかもしれないと思いますが、ただのフィクションに過ぎませんか?実証されているわけでもないし。


たしかに、いきなりそれを言われればそう思うのが自然でしょう。それに答える前に、一度現象学という方法を導入したいと思います。

質問者
なんですかそれは?


デカルトという哲学者は、方法的にあらゆるものを疑い続け確実といえる根拠を見出そうとした。そして最終的には今何かを見たり感じているものは本当のものか確定できないが、今自分がそういう意識状態があること自体は疑えない、とした。フッサールはさらにそれを推し進め、そのような疑えない意識状態(内在)から超越(疑える何かしらの判断や認識)が生まれている構造を明らかにしました。

僕らは内在としての意識経験からいろいろな超越的(確かめのない)な認識を得え世界像を組み立てていく。この構造は自分でも試して理解できると思います。例えば、内在的にはサイコロの手前の三面しか見えていないのにそれが立方体としての超越的な認識を導いている。こうして、いろいろな経験の中で疑いが晴れない世界像が複雑化し組み上げられる。先程述べた原始共同体から価値観が編み上げられ社会規範が出来たとかいうのもただの確信に過ぎない超越です。

内在的な経験で常に世界像は変わっていく、というのは誰もが認めざるをえないでしょう。

これを推し進めていくと、僕らは言語的に世界を見ていることも認めざるをえない。五感で感じるあらゆるものは言語化できるはずです。できないものもあるでしょうが、それはないも等しい。伝達できたものだけが他者と共有され、大人数で整合性が取れてくると社会的な共同幻想となる。ミッシェル・フーコーも言った通り、「人間」という観念もただの超越に過ぎません。僕らの物の見方は既に沢山の社会や歴史の影響を被っているのです。内在だけに集中すれば、「人間」「社会」のようなあらゆる言語的なものが全く確実に見い出せないことが分かるはずです。

ここからは全て超越的なことですが、理詰めでこの構造をしっかり理解し、自分の経験と照らし合わせて反省しながら理解し腑に落とせます。確信を強める。

構造を説明しましょう。

僕らは最初は全知全能から始まる。子宮の中ではすべてが満たされる楽園。生まれてからも母親がすぐにあらゆることを満たしてくれる。そこから徐々に母親との間に邪魔者が入ることを学ぶ。その後、言語を学ぶ中でシンボル体系を築いていき、世界内存在している自我を持つ。自己意識です。世界の中に存在する自分、という視点で物事を見るようになる。

あなたは親から「おまえはこれこれという人間だ」と自我を与えられる。最初はかわいがられるので、なんかいえばすぐに満たされるという物語を持つ。これが今後の物語の軸になる。玉ねぎの一番内側の殻。時間が立つとどんどん自立していかなければならないが、それでもやはり最初の自我(物語)が軸にあるので自己放棄他人依存、自己拡大のベクトル(傾向)がある。その後もどんどん新しい物語が上書きされる。上書きは、他人と直接に交流する中で、リアリティが高められ定着していく。自分だけでこういう物語を生きていると独りよがりで空想しても定着しない。そして過去に定着したものであるほど軸となる。
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質問者
なるほど、たしかに一貫性がある説明ですね。ただこれは実証されているんですか?神話や宗教と同じでは?



さきほど述べた通り、もちろんこれも超越でなので内在的な確実性は持ちえません。ただ、実証というのも同じくただの確信に過ぎません。何回か繰り返して目視で確認した、というレベル。この今説明したことは、説明したように自分の意識の在り方を内省すれば確信できると思います。少なくとも、本で読んだ科学的な世界像よりかは、自分の意識状態や過去を徹底的に考えればたどり着ける世界像だと思います。
そういう意味であなたが普段信じているような科学的、客観的と言われるものより深いものです。もちろん、これも超越的な世界像のone of themなのは否めませんよ。ただ、内在から出発して確実に近いところを辿っていくとこう考えざるを得ないので、ちゃんと考え抜けば科学の世界観より誰にとっても確実なものとなるでしょう。

質問者
なるほど、哲学や思想のほうではどう言われてます?


はっきり同じことを言っているのはフロイト研究者の岸田秀さんですね。人間は本能が壊れているから自我を持つことで現実に適応していると。ただ、彼は「物語」という発想には無自覚ですし、なぜそうなっていることについては沈黙的です。あとは、フッサール、ハイデガーもそういう風に読むことも可能。

廣松渉の循環図式なんかも似たようなことです。人は自由に振る舞うほど、共同性が溢れ出る。現象学的な意味での志向性が現実構成をもたらし、この現実構成をベースに様々な実践的価値意識が抱かれ、現実構成と価値意識をベースに協働聯関が構成され、この協働聯関をベースにハイデガー的な用在性を介して志向性がもたらされる。この構造は自我を保つ(=物語を保つ)といえる。

フッサールに言わせれば、そもそも、言語的(にシンボル体系としての)世界を物語の中で「経験」 しないと「意味」を感じることができない。「意味」とは物語にどう位置づけられるかという実存的視点です。動物などはそういうのがほとんどないのでただ体験流があるだけで自分を意識する自己意識がない。AI研究者の松尾豊さんが言ってましたが、意識とは「世界をシミュレーションすること」と言ってます。世界の中に自分を位置づけそれを上から見ている構造の中で意識が生まれる。
 
質問者
なるほど、ある程度共通の見取り図に収束している感じですかね?



そういっていいと思います。

結局、ハイデガーにしろデリダにしろ、問題意識は同じです。この言語的な世界から抜け出して過去に想定される一元的で動物的で本能的な世界にたどり着こうとするのがハイデガーで、その不可能性を強調するのがデリダと言えるでしょう。すでに僕が述べた超越的な見取図にしろ全ての文章が言語という社会的、歴史的なもののくぐって身につけた記号、一般性です。これを使って思考する限りそれのない一元的な世界には戻れない。でも、過去のプラトン以前などの状態を探っていけばある程度接近することはできるかもしれない。そこについてはまだまだ議論の余地があるでしょう。

結局今いった構造的な見取り図も超越に過ぎないのですが、ただ、疑いようのない内在からスタートして考えているので最も揺らぎにくい見取り図ということは間違いないです。普段はこんな構造なんて意識していません。僕だって日々、人から褒められたら嬉しいしけなされたらムカつくというゲームの中を物語を作って生きています。だからこの見取り図には特権はないです。暫定的に自分の生を見直すことができる見取り図、ってところです。 

質問者
なるほど、たしかに人は物語を生きている、というのは内在から超越が生まれるという構造ほど確信を持てませんね。はっきり言ってしまえば、ただの一つの世界観ということですね。ただ、実存の構造を突き詰めていけばそう考えざるを得ないという意味で他の見取図よりも揺さぶりに強度があるといえそうですね。ではその超越的な見取り図を根っこから理解できてその見取り図にコミットできたらどうなるんですか?


こうなってくると、どう生きるべきか分かってくるでしょう。現存在をコントロールしやすくなる。僕は最近、どんなことでも楽しもうとするマイルドヤンキー的なギャルを尊敬してしまう。まさに宮台の言う終わりなき日常を生きている。無理しないで目の前を楽しむという物語。もちろん、物語を安定させるには、資本主義社会という物語である程度安定できる物語がよい。フリーターなどその日暮らしでは生活そのものが厳しいとそもそも自我は安定しない。
 
質問者
なるほどですね。


よく「成功の掟」とかそういう自己啓発系の本を読むと必ず大きな夢を持つべきだとか、それをイメージしろって書いてありますよね。それって正しいんだけど、僕の場合、なんで正しいのか無根拠じゃないか、と思ってずっと馬鹿にしてました。でも、要はそうやって「夢を持って筋の通った物語を持つこと」が人間には必要だと悟りました。だってそれがないと現実に適応できないんですから。意図的に、無理にでも確固とした物語を生きる!これが必要なのです。 

先の質問に戻りますと、
「人は物語的に生き、現実に適応しているので、物語の維持が最も重要な課題」 
という世界の見取り図に僕は行き着いた訳です。
もちろん、これも世界像であるから超越なんですね。幾つか飛躍もあると感じる人もいるかもしれません。 

質問者
ふむふむ。ではこのような原理的な見取り図を得た今、あなたはどう変わりましたか?最初は「価値あるサービス」の探究だったと思いますが。


やっぱり、生きていく上でモヤモヤが大分減りましたね。世界ってある部分は絶対に分からないけど、その他はこういう構造だったのか、という見取り図を得ましたから。まあそれも超越で覆る可能性はありますけど。僕はとりあえず、この世界像を基にゲーム(自分の物語)を楽しみたいと思います。

最初の質問に戻ると、ある意味僕は「人を幸せにするサービス」を求めてこの世界像に行き着いたわけですが、僕も漏れなくこの世界像の中にいます。僕も物語を生きているのです。だからやっぱり「現存在をよくするものは何か」を探してきて、今この見取り図によりそれが分かったのだから、それをやると思います。一般人に向けて、本当に価値あることを提供したいです。もちろん、それは究極的に現存在のためです。

質問者
では一般的に人に生き方についてどのようにアドバイスしますか?

まずは自分の過去を振り返り、そこから確信を持てる未来を創っていこう、といいたいです。これまで田舎でほそぼそと生きてきたのに、いきなり東京に出てきて大企業で働く、というような物語はあまり一貫性がないですよね。ちゃんと過去を振り返って自分がやってきたこと、楽しかったことをベースに何をやるかを考えて道を選べばいい。そうすればどんどん一貫性のある物語が安定してくる。逆に、こういうふうに考えて選んだ道が、さっきの田舎の例のような一見一貫性がなくても物語として成り立つならそれでいい。
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質問者
なるほど、分かりやすいですね。要は就職活動のときの自己分析みたいなものですね?


はい、まさにそういう感じですね。ただ就職活動の学生はやっぱり働くことについてや業界についての知識も本で読んだりした程度だからあまり分からないでしょうね。逆に学生時代インターンとかして働いていた人はどういうところに進みたいか物語に確信をもちやすい。だから、大学生のときに自己分析しても「これだ!」と思える道が見えないのは当然。そもそも僕らは無理やりに言語的な世界(物語)を生きようとしているわけですから。


質問者
なるほどですね。そうやって多くの人が自分の物語に確信を持てるようになればいいわけですね。物語を持てないと不幸になる?


そうだと思います。例えば、社会問題を起こす人。犯罪者の多くは周り人たちの人間関係が安定していない。良好な人間関係を築けていない。これはよく「承認の欠乏」とか言われますが、要は物語というのは他人が認めてくれないと確信できないのです。僕らの現実のすべては間主観的に作られています。他人がそれをそう見ているから僕もそう見る、ということ。

あらゆる言語はそのように出来ています。自我という物語も他人に認められて初めて物語で現実に適応できる。おれはこういうすごい人間だ!と思っていても、誰からもそれにあった反応をリアルな世界で得られなければ確信もてないですよね。逆にたとえいじられキャラだろうと物語が安定していればそれでいい。もちろん人は幼少期に全知全能の物語を軸に持っているからそれに回帰したいという衝動はずっと残るから、満たされない感はずっと残ります。万人の万人に対する戦いを防ぐにはそれしかない。

ハーバード大学が75年に及ぶ研究で、幸せな人に共通する条件を抽出しました。それは「周囲の人々との良好関係」です。周りの人があなたのあり方を認めて(接して)くれる環境に身をおいていれば、自分の物語が確証でき、現実へ適応できる。それは金持ちだったりスーパスターだったりする必要はなく、リアルな身近な人間に認められていればいいのです。

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質問者
なるほどっすね、


あと、「本音で語りあえる友達の大切さ」というベタな物言いの基礎づけにもなる。やっぱり語れる友達より大切なものはないんです。こんなどっかの高校教師がいうようなこと古いとか何の根拠があるんだ、と反論したくなることもありますが、実はマジで大事なのです。そんなもんいらねえじゃすまない根本的な問題です。彼らと語り、物語が強化され自我が安定する。そうすれば世界がはっきりと彩られます。

質問者
なるほどっすね、やはり実際にあって面と向かって話すことは大事なんですね。


そうです。よく、できる仕事マンぶって「意味もなく人と会おうとするような暇人や馬鹿には会わん!」って言う人いますが、本質を捉えていない。人は語りあうことで物語を強化するんだから、会って現状を語るだけというのが実は一番生に必要なこと。それで話を聞いてもらいお互いに共通了解が生まれることで物語が明確になっていく。もちろん、アポとって会っても自分について語ろうとしないやつであればそれは馬鹿ですが。

質問者
なるほど〜、そこにも繋がるわけですね。人と熱く交わることの大切さは誰でも重要だといいますが、理由についてはこれまで曖昧だったので、その背景が分かるとすっきりしました。他にアドバイスはありますか?あらゆる人に対して。


物語を意識的に、意図的に作っていく姿勢を持つことですね。やっぱり今世間(社会)で活躍している人って演技がうまいことが多いです。役者みたいに物語を演じるわけです。普通にニュートラルに考えたらコミュニケーション上、ただテキストを読み上げればいいけどそれじゃあ物語がない。誇張しすぎくらいに自分が明確にしたキャラクターとその物語を演じることが重要です。要は、幻想だと分かっていながらも、それに意図的にコミットすることが重要です。

この人間社会で大きなことを成し遂げる人は、ある物語に深く共鳴している場合がほとんどです。例えば、毛沢東は水滸伝を幼少期からよく読んでいた。
 

質問者
なるほど、たしかにそれも本質ですね。結局、あなたが「何が価値あるか分かった」というのは、自我を安定するのが最終目的ということですね?その見取り図に従って具体的にはどんなことしたいのですか?


はい、そうです。具体的には2つの方向があります。まず一つは人々が「自我安定」するのを手助けするってことですかね。例えば、これまでずっと大企業で物語を作ってきたのに、いきなり会社潰れて異業種に転職したりしたら物語は安定しません。特に今の時代、自我の安定が難しいです。特にインターネットの発達で他の人が何をしているかグローバルに分かってしまう時代。上述したように、人の物語の軸は幼少期に作られます。みんな全知全能に戻りたい。でも妥協しながら物語を作っていく。そんな中、他の人達が自由にいろいろやっていて幸せそうなのをみると、「おれももっといい物語を持ちたい」と現状の物語に不満が出てしまう。ISとかも基本的にはその構図から出てきたんでしょう。

アマゾンの奥地の民族みたいな原始共同体ではみんな物語が同じようなものです。だから、幼少期の全知全能に戻りたいときはみんなで蕩尽(祭り)をしてたまに発散すればそれで社会が安定する。でも今は、物語が多様化し、みんな同時に祭りで発散、というわけにはいかない。フロイト心理学者の岸田秀は、現代ではお金の消費で各自が自分の発散(エスの解放)をしていると言ってます。

質問者
なるほど。大変意義がありそうですね。なんとういうか本質的ですね。



そうですね、やっぱりもともと「安心、安全、便利、快適」に猛進する社会に疑問があったので。人間は意味の世界を生きていますから、数値化してそれを高めるという考えベースでは本質になりえません。

質問者
同意します。でも、いくら自我が安定しても、負け犬的な物語は嫌じゃないですか?最悪ホームレスとか。



自我が安定するということにそれも含まれています。坂口恭平さんも言ってますが、楽しく充実した生活を送っているホームレスもいます。ただ、何かやりたいことがあるのに妥協し、挑戦しないでホームレスになっている人はダメですね。内側の深い自我への回帰が強まり安定しない。まあ、結局は周囲の人に認められていれば大体どんな負け組的人生でもいいものだ、と思ってます。実際わたしも上野でホームレスネットワークで楽しそうに生きる方々を見たことがあります。一方、高学歴で大企業に勤めている人でも人付き合い薄くて自我が不安な人もいます。

質問者
なるほど。ただ大抵の人って素朴に自分の物語を生きているんじゃないですか?あなたのように論理的に哲学的に世界はどうなっているのかって気にしないのでは?


いいポイントだと思います。実存には、3つの状態があると思っています。ゲームモード、無気力モード、哲学モードです。詳しくはこちらに書いてありますが、基本人は物語に確信をもち疑わないゲームモードを生きています。でも、先程述べたようにそもそも僕らはどうにかして物語を持ち言語的に世界に適応している。意図的に物語を維持しないと世界像が崩れ、世界に適応できなくなります。物語が崩れ始め、疑問を持った状態が哲学モードといえるでしょう。これが深刻になると無気力になります。だから、僕は人々に物語の重要性を理解してもっと自分をコントロールできるようになってほしい。ゲームモードといえどもやはり物語を生きている以上必ずそれに疑問を持つわけです。ちなみにもちろんこれも超越です。

まとめると、ゲームモードに疑問を持ち、哲学モードや、無気力モードになってしまった人をゲームモードに引き戻すということですね。

質問者
なるほど。疑問を持たずにゲームに熱中させる、即ち物語でしっかりと現実に対応させるということですね。もう一つは何ですか?具体的なアクションの方向性として。


もう一つは、ゲームモードの中で困っている人を助けることです。人は誰でも全知全能への回帰のベクトルを持っています。誰もが恵まれた環境で生きたいのです。ゲームモードの世界で貧困や生まれつきの原因でこうした環境からかけ離れた生活をしている人は、自我が安定している人が助けてあげるべきです。


質問者
なるほど。まとめとして、これまでの探究の中での最大の収穫はなんですか?



最大の収穫的発見は、僕らの進むべく道が分かったことですね。要は、僕が哲学モードから脱してゲームモードに戻れたことです(笑)これまでは正直何が正しいか分からなかった。最悪人殺しや自殺も論理的に支持できてしまっている無秩序状態でしたが、そこがはっきりした。われわれ人間が進むべく道とは、繰り返しになりますが、「意図的に物語を安定させる」ということです。僕らはどうにかして、言語的世界を保って現実に適応している。もしこれをやめるなら、言語を使わない意識のない状態に戻るしかない。なので、要は社会から外れて生きて幸せになろうとする「逃げ道」がない、と腑に落ちた。出家したとしても、やはり物語を安定させるのは難しいということが分かったことが要諦。厳しいことですが、「らしく」振る舞えないようなやつは諦めるしかない。そもそも生物が生命維持することはデフォルトで厳しいことですよね。

質問者
なるほど。多くの人はそこまで考えてないでゲームを生きていると思いますが、確かにあなたのようにそこに疑問を持ってしまった人は、ゲームに戻るためにそのような見取図に行き着くことでまたゲームに戻れますね。最後の質問ですが、あなた自身今後どう生きていくのですか?


僕も漏れなくその見取り図(picture)の中にいるわけで、過去の中から発想して自分の物語を作らざるをえない。それは現実に適応するためです。いくらこの見取り図で世界をうまく了解していても、やっぱり普段のリアルなこと、人との出会いなどの中から世界像や価値観が揺さぶられることも沢山あるでしょう。それに他の人も基本はゲームモードです。恋人に、この見取図を詳しく説明して、「だから一緒にいたい」とか説明したらマズイですよね(笑)ゲームの中で経験的にどうしたら相手がどう実存的に感じるかと学ばなくてはいけません。基本的にはゲームモードを喜怒哀楽の中で試行錯誤し前進していくのみです。

個人的にはこれまで絶対これだ!という錦織圭でいうテニスみたいなものはなかったので、比較的コミットしてきた語学、スポーツ、中国などを軸に人の自我安定サポートに関わることをやっていきたいと思います。

質問者
おお、面白そうですね!より具体的には?



ポイントを言うと、今言った見取り図(picture)と僕の得意分野から考えていく必要があります。人の自我を安定させるということとと、例えば、語学、スポーツ、中国の組み合わせ。自我安定させるには、端的に「時代に乗る」ことが重要です。僕は「時代に乗る」なんて発想昔は微塵もなかった。「なんてオリジナリティがないんだ、おれは0からオリジナルな発想をしてやる!という素朴さでした。

多くの人はここまで素朴ではないでしょうが、時代に乗れ!と言われてもその意義が分からないでしょう。やっぱり世界のトレンドを見ると、今はカントの「永遠平和のために 」ベースの世界観ではなく、社会同士がマージされている時代。そして中国も台頭しているのは隣国日本にとって影響大。そういう時代にあったことをしたい。具体的には日中の草の根交流は絶対今後必要。アメリカ・カナダみたいに。

そのために中国人の日本語学習と日本人の中国語学習を支援したいですね。そうすることで、彼らも自分の物語をはっきりさせていけるでしょう。ただもちろん、それはあくまでも大きな方向性なので、語学関連の会社に就職するとか、はたまた商社みたいな大企業に就職して直接経験の幅を拡げて世界観をリアルに拡大していくという選択肢もあります。はたまた全く違う業界やアーティスト的な仕事に関わるかもしれません。まあ、物語に位置付けられればどんな可能性もありますので、今のところは何ともいえませんね(笑)

質問者
なるほど、
大分深いところから具体的なとこまで一貫してますね!表面だけみれば、ありきたりですが奥が深い…
本日はありがとうございました!



ありがとうございました!謝謝

faf

幸せは自分から

これは、ある池袋のキャバ嬢が僕に言ってきた台詞である。

今、考えるとなんと素晴らしい一言なのだろうか。

これに人生の全てが詰まっているといっても過言ではない。

yn

 ※キャバ嬢のイメージです。実際の人物とは関係ありません。


さて、
ちょっとまず最初に、教育について述べたい。
 
僕は教育とはいいものだと思っているがずっと違和感があった。なにかこう、「既に正しいと決まっていること」を押し付けるのが「教育」という言葉にはある。教えて育てるのだが、「教える」というのが偉そうだ。

僕らは、原始的な社会から始まった。狩猟採集。獲物が見つからなかったり、作物が育たなかったり見つからなければ死んでしまう。他の社会が攻めてきたら殺されるかもしれない。病気になったら死ぬ。こうした不安定な社会から時間をかけて今の社会ができた。そのことを忘れてはならない。そのこととはつまり、根本的に僕らは荒野を生きているということ。生きるために必死なことが前提なのだ。

さて、教育の話に戻ると、教育とはこうして複雑になった社会で生き延びるために人に施すものだと多くの人が思っているだろう。その通りだ。狩猟採集で必要なスキルが、今は教育で教えられているようなものになったのだ。

でも、問題は最初に言った通りその「教育」という言葉だ。これはどこかに社会側からの押しつけがある。現代はリベラルな時代だ。基本的には個人の自由が尊重され幸福を追求することが最大の土台となっている。だからこういう物言いは疎まれるのだ。

教育の必要性は認める。それは先に述べたとおり、僕らは荒野を生きているのだからそれなりに頑張って力をつけなければいけない。その一方で社会が高度化し、自由が尊ばれている。みんなは当たり前に自分の幸せを追求する。

そう、実はその過程に教育が必要なのである。教育はまさに今述べたように狩猟採集のスキルが置き換わったようなもの。それを身に着けないと社会に適合し、荒野を生きていけないのだ。ただ単に何もしなくて生きれる +αで教育があるのではない。自分を高めないとイノシシ程度に出くわしただけで死んでしまう。 

今の時代は誰でも幸せを求める。そしてそのためには自分を社会的に高める必要がある。そして、社会では社会なりに人生を楽しむ方法もある。それも学ぶ必要があるのだ。それが教育なのである。だから、それは全く受け身なものではない。

ここで冒頭のキャバ嬢の台詞に戻るが、結局、幸せは自分から掴むものなのである。原始社会を想像してほしい。酒池肉林するなら頑張らないとだめなのはすぐ分かる。獲物をいっぱい取って、なかまをマネージメントしたりいろいろ頑張ってはじめて酒池肉林できる。

今の時代でも根本は同じだ。幸せになるには自分から頑張らなければならない。そうして僕らは現実に適応しているのだ。教育は幸せのために必要だが、その語「教育」といわれると受け入れ難くなる。

今後これを「教育」ではなく、キャバ嬢風に言えば「幸せを掴む切符」とでも言えばいいのではないか?
 
shiawase
 

われわれは日々いろいろな経験により、何かを学び、自由意志で沢山の選択肢から選び取って行為している。いろいろな経験というのは外部情報に発する。人とのコミュニケーションであったり、テレビやインターネット、本などのメディア、街の様子や自然の景色やあらゆる外部情報である。

その「いろいろな経験」の結果、「ある行為」が生まれる。ここに因果関係があるとすれば、沢山の人間のあらゆるこうした経験と行為のビッグデータを蓄積すれば「経験」と「行為」の因果関係が明確になり、為政者はそれを利用してある「行為」を量産できる。例えば、5歳までの子供の頃に親戚たちと週に1回以上接していて、小学校で生徒会に入っていて、高校でラグビーをやっていて、などの結果、30代で「社会貢献活動」という行為を行うなど。

さらに、これよりもっともっと細かいこと、生まれてから894日目に何を目にする、とか。もちろんそれを認識する主体の分子構造なども。そこまでコントロールされたら、われわれが自由意志で行為しているように見えても、既に決められたレールの上を決まりに沿って歩んでいるにすぎない。

自分たちは複雑なリアルな「今、ここ」の持続を生きているように感じているが、その行動はいとも簡単に操作されてしまうのだ。

催眠術とか見ればそれが分かる。トランプの選挙だって、大衆をどう動かすかという経験的な知を使って、どのボタンを押せばどうなるかということの繰り返しで票を取ったようなものであろう。経済的、技術的な問題で全人口の各々への働きかけ(どういう体験をさせるか)というのはまだ実現していないが、もし一人ひとりにまでがっつり働きかけることができるようになれば社会は完全に操作されるかもしれない。

その鍵がビッグデータなのだろう。例えば、僕の学歴や職歴はもちろん、普段の行動を一秒単位で記録されれば何を食べたかどんな仕事をしたか、どんな会話をしたかなどの情報も取られ、それが「どう投票に結びついたか」など他のサンプルとくらべて分析すればどういう過去の経験がその「投票」に影響したかがすぐ分かるだろう。あとは次のときに同じような手法で動員すればいいのだ。

Big-Data

ただ、おもしろのは、僕はそれが動員されたと気づかないことだ。北風と太陽ではないが、僕が普段目にするメディアなどに何気なく情報を紛れ込ませ、着々と投票の意思決定への準備がなされる。こうなると、「現時点」での状況との境目がよくわからなくなる。今だってそういう情報はそこまで精緻ではないがたくさんある。僕が昨年投票した決定だって、そういう情報に基いているのだ。そうなると、結局は、意識的に「動員された」「強制された」と感づかなければ社会的には許さなければならない。

今後、このような動員に抗うには、相当な主体的な情報収集が求められる。でも、その仮に主体的に情報を集めているようでももうすべてが動員のために息の掛かったメディアになっていたらどうなるか。1984の世界とは違う。なぜなら、監視されていること自体を知らないからだ。自由に振る舞っているつもりでも、全部ビッグデータとして取られ、その分析をもとにした働きかけがなされる。

私は今日本語を外国人に教えている。語学を教えようとすると結局、その人の過去を全て理解しその人がどんな感受性を持っているのか理解する必要がある。そしてその生徒にコミュニケーションで働きかけ特定の刺激を与えて、彼らの意識状態をコントロールする、というのが基本構造。

そもそも、英語を学びたいと思っている日本人にとって、既に申し分のない環境がある。作文や音読をすればネイティブから無料ですぐに添削されるサービスもあるし、youtubeやpodcastなどに勉強の素材はいくらでもある。ちょっとお金を払えば至れり尽くせりのサービスがあるのに、やらない。なぜか。結局必要ないことなのだ。 そういう感受性や過去を持っていないから。だから、こっちがそういうのが「必要」な物語にしてあげないといけない。物語を創ってあげる。そうして、特定の刺激を一定期間与えることで語学を真面目にする人間を作っていくことになる。

語学はおいておいて、あらゆる商品やサービス、さらには政府の政策に至るまで人間に働きかけるすべての行為の基本構造は同じだ。こうなると、というか、そう考えると行き着く先は、完全に人生をコントロールされた社会。むしろマルクスが描いた理想的な共産主義社会なのではないか。

でも、これはうまくいけばいいことなのではないか?

もしも為政者が人の実存の充実を第一に社会づくりをすれば。

このようなビッグデータと人工知能を得た為政者にとって、社会を作ることは難しいことではない。その社会に属す人間はあなたのように実存的世界を生き、クオリアのいきいきした世界を生きている。彼らは完全に社会の歯車であるが、本人の実存的には自由に振る舞っていて幸せな人生を送れる。

普通に自由に生まれ育ったと思っていても、彼が目にするあらゆるものは事前に仕組まれたものでまさにトゥルーマン・ショー状態、彼を育てる親がそもそも操られている。そして自然ととある工場で働く人生を歩むが、それはもちろん為政者の決めたこと。

そしてその為政者とはAIかもしれない。

例えば、心理学でフロー体験というものが確認されている。AIの為政者はそれを再現できるように人々の経験を構築していけばいい。

フロー体験とは何か。

とてもシンプルなことだが、「どう生きるべきか」と問われれば、何かに情熱を持って生き続けること、というのがもっとも正しい。

しかし、人は誰でも熱中できるものに出会えるとも限らない。というか、出会えるというよりも、自分がその必要性を感じ積極的に行動しなくてはそういう存在を「作る」ことはできない。そう、自分から見出していくものだ。錦織圭だって、テニスを見つけて自然と情熱注げるようになったわけではない。

日々の上達を喜び、相手に負けて悔しがり、時にはやめたくなってもでもやっぱりもっとうまくなりたい、強くなりたい、いろんな感情や思いがそこにはある。大きなリスクをとってそれを人生の軸にすると決断した。それをまとめと情熱という。

結局、フロー体験が最高の体験。そこに如何に嵌めてあげるか、という視点で為政者は人々の体験をコントロールすればいい。社会の歯車でいいんだ。 

以下、とあるサイトからフロー理論の概要の説明を引用する。
(http://blogs.itmedia.co.jp/yasuyasu1976/2011/11/post-66a9.html)
■フロー体験とは?

まず、このチクセントミハイの研究の中核をなす「フロー体験」とは、自分自身の「心理的エネルギー」が、100%、今取り組んでいる対象へと注がれている状態を表します。
この状態が満たされるためには、以下のような要素が必要となってきます。

1.自分の能力に対して適切な難易度のものに取り組んでいる
取り組んでいる内容が、自分の能力と照らしあわせて難しすぎず、簡単すぎずであり、全能力を出しきることを要求されるレベルにあること。
そして、それをやり通すことによって、その自分の能力が向上するような難易度であること。

2.対象への自己統制感がある
取り組んでいるものに対して、自分がコントロールができるという感覚、可能性を感じていること。
例えば、F1のレーサーが、自分の車を思い通りにコントロールでき、自在に操ることができるような感覚もこれに当てはまるし、ギャンブルをする人が、運頼みではなく、自分の頭を駆使すれば、きっと儲けることができるに違いないと思い込んでいる状態も、これに当てはまる。

3.直接的なフィードバックがある
取組んでいることに対して、即座に「それは良いか、よくないか」というフィードバックが返ってくること。
例えば、テニスのプレイであれば、いい球が打てたかどうかがすぐに音や感覚で分かり、文章を書いているときであれば、自分自身の感覚でよい一節になっているかが分かるなど、自分の内面的感覚で良し悪しが即座に分かることがこれに当てはまる。

4.集中を妨げる外乱がシャットアウトされている
取組対象以外のことが自分に降り掛かってくることがなく、対象にのみ集中できること。
例えば、自分が文章を書くことに集中しているときに、同僚から声を掛けられてそちらに意識が発散するようなことがないことがこれに当てはまる。

これらの要素が満たされると、自分の「心理的エネルギー」は、よどみなく連続して、100%その対象に注ぎ込まれるようになり、これによりとてつもない集中と、楽しい感覚が生み出されます。

このような状態を「フロー体験」と呼び、この状態にある間、人は時間の流れを忘れ、ひたすらそのことに没頭し、得も言われぬ高揚感に包まれます。


フロー理論は教育やマネジメントへの応用が検討されがちであるが、そもそも世界の運営の根本となる個人の幸せ(主観的幸せ、個人の救済ともいえる)を正確に捉える際に役立つ。この理論で、フロー状態を作り出すサービスを考えたり、社会システムの構築を考えるのは間違いなく社会のためになる。

ちなみにフロー理論について詳しくは以下の本を参考にしてみてほしい。私への影響大TOP3に入る本。量が多いが、その内容はどれも密である。その辺の心理学の表面的な本とは違い、人間の意識は脳内現象であることを前提にどのような環境にいれば幸せになれるかという疑問を追い求めた結果たどり着いたと思える著者のフロー理論がよく分かる。 

フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)
M. チクセントミハイ
世界思想社
1996-08



フロー理論は1つの例で紹介したが、ビッグデータが溜まって人工知能が解析すればすぐにフロー理論よりももっと精緻な「最高の実存を持てる」理論を導きだすだろう。そして、そのために人が生まれてからどのような経験をするかをトゥルーマン・ショーのように作り上げるのだ。もちろん、資源配分の問題でいきなりみんなが最高の実存を持ているようにはならない。だから例えばまずは、超有能で社会の発展に寄与する人間を量産するだろう。なので過度期はあるが、中長期てきにはみんながハッピーな状態になるだろう。

大変興味深いのは、こうしてAIが作った完成された「社会に属す全ての人間の実存を豊かにした」社会がどのような社会になるのか、ということだ。実は今と根本的に似た社会かもしれない。貧乏でも幸せであることはおうおうにしてある。個人的な予想では、人は物語を持って現実に適応しているので、要は各自が自分の物語を安定させていれば幸せなのだ。

問題は、AIが凄すぎてもう人間が与えた「社会に属す全ての人間の実存を豊かにする」というミッションを書き換えてしまう可能性である。 

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