記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 人間とは何か

われわれは「意識」を閉じていく方向に向かっているのではないか?という仮説について考えてみたい。われわれは反省的な意識なしに行動をすることがある。それは無意識であり文字とおり意識に上ることはない。われわれは常にそのような状態になることを望んでいるのではないか?

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なぜなら、人類が有史以来求めてきた「自由」の本質を探究してみると、無意識状態を求めているように見えるからだ。以下、それについて考えてみる。

『エロスの世界像』という本で「心」と「身体」という二項に分節される根拠を問い、心身問題に一つの道筋を提示している。以下、該当箇所。



 

もしも一切が「全能」であるような存在者がいればその存在は、「身体」を意識する必要がない。「意志」したこと、あるいは「欲求」したことがただちに実現するならば、彼にとって「身体」は存在しない。「身体」がその存在から分離され分節される理由がない。

 

獲物を狙って全力で走るとき、死に物狂いで闘っているとき動物は自分と「身体」の分裂を意識しない。だが、傷ついた動物は、はじめて「身体」の「できない」を意識する。同様に、「逆上がり」のできない子、遅くしか走れない者、障害のある人間等々は、強く自分の「身体」を意識することになる。

 

主体の「心」と「身体」が分離される根本の契機は、主体の「〜したい」と「〜できる、できない」という関係の相関の中にある。「存在可能」と「従う」ともいえる。だから「身体」の「〜できる」という契機が「心」と「身体」という二項に分節される“根拠”であって、その逆ではないのである。

 

「心」と「身体」はあらかじめ別の原理や体系として存在しているのではなく、欲望「〜したい」が可能と不可能を見出すときに、はじめて「分裂」として意識される。その意味で、およそ「身体」とは欲望存在としての生きものにとっての「存在可能の条件」だと定義することができる。(205)


これを敷衍すると、「〜したい」という主体の意図に対して、身体が「できない」、或いはついていけないときに「主体の意図」の見直しや我慢のために「意識」が生まれる、と言える。

書いてある通り、意図したことが全て瞬時に実現すればするほど「意識」される程度は少なくより「無意識(夢を見ず寝ているような意識がない状態)」に近づいていくだろう。車で運転に集中しているときなどやランナーズ・ハイのようなものだろうか。

さて、これを少し考えてみると、「無意識」状態に近い感覚をわれわれは、「自由」として理想の状態としているのではないか。

同じような議論が下條信輔『意識とは何か』の「自由な選択について」の考察がでも述べられているので簡単にまとめる。
どんなときに私たちは自由と感じるか。逆にどんなときに私たちは「自分の行為を自由な選択でない」と感じるのか。
  1. 行動が他人または外部の状況によって強制的にストップされたとき。
  2. 自分の行動を評価するとき。自分の行動を外的要因に帰属させることができるとき。ボールが飛んでくればとっさに顔を背向ける。飢えなどの身体の要因も心からみれば外的。結局、自分の行動が自由な行為でないと感じるのは外部の原因が直接的で明らかな場合。裏返すと、自由意志とは、外部要因が見当たらないときの、内的過程への原因帰属の様式そのもの。無意識の過程だから行動にいたる因果関係に気づかない。外側に要因が見当たらないから自分の好みや選択に原因を帰する。この「自分の好みや選択が原因」というのが自由意志の定義。
  3. 他者の視点から見るとき
自由意志による行為の選択を「感じる」のは一人称の私だけ。行為が機械論的決定だけに基づくようにみえるのは客観的な見方、つまり他人の視点による見方で科学的分析をしたときなので自由意志が蒸発するのはあたりまえ。

これら3つをとおして、いえること。
自由な意志の印象がもっとも妨げられるのは行動が意識され、その原因が外の世界に、誰にも観察できるかたちで見つかったとき。この3つのケースがそのまま意識が生じる3通りの状況ともほぼ一致している。

裏を返せば「自由な行為」はもっとも意識にのぼりにくいときに実現する。没頭し、われを忘れているときに。このことは直感に反するかも。普通は自由意志が人を人たらしめる高次の心的機能、意識のもっとも意識らしい部分とされ、忘我(即自)の状態は動物的とみなされるから。

いずれにせよ、自分の選択した行動を自由意志によるものと認知するためには無意識的な過程が必要。反面、そもそも無意識的な過程だけなら自由意志は存在しない。存在したとしても機械論的決定論との対立など生じない。また、自由意志を感じるためにはプランと実際の行動が一致することが必要だが、この行動のプランというのはたいていの場合明確に意識されている。

逆説的だが、意識のもっとも意識らしい頂点の部分において、心は、無意識の領域へ、そして生理、身体、世界へと際限なく漏れだす。

「自由ではないと感じること」から考えて「自由を感じること」(自由意志)を浮き彫りにしている。結論として「自由」はわれわれが「無意識」に近づくほど感度が高まるようだ。

ということはやはり、「自由」を理想にするわれわれは「無意識」状態になることを欲しているといえるのではないか。

人工知能など先端技術により、世界は確実に「安心・安全・便利・快適」さらに「不老不労」へ向かっている。その進歩が遅くても、それが目指されていることは間違いない。

仮に、寝たきりでもずっと栄養補給され、ずっと死なないのであればわれわれはどんな意思決定もする必要はなくなる。そのときに、外に遊びにいくようなこともないだろう。要するに、「意識」は閉じていくのだ。全知全能となれば赤ん坊と同じく、「意識」は必要ないのだ。
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凄いと人に思われたら誰でも嬉しいだろう。なんとも思わない人などいないはず。

では、人は凄いと思われたら嬉しくて、しょぼいと思われたら悲しい、ということを前提にしてもいいだろう。

凄いというと、まず頭に浮かぶのはある特定の分野での熟練や天才。野球といえばイチローは凄い。誰もが尊敬する。日本の誇りである。

では、その分野で凄いだけでいいのか?

イチローは国際政治は語れないし、英語だってちゃんと勉強した人からすれば凄くない。違う分野にいけば普通以下になることもある。

じゃあ分野って何だ?
善悪の基準がはっきりしている領域といえる。野球の分野であればうまい下手というのが一義的に決まるのだ。

では、分野に別れる前の人間としての土台というものがあるのか?人格?そう、そういうものがあるかもしれない。何かの分野で成し遂げた人はその領域で凄いだけでなく、それに伴って人間としての土台も凄い。人格者として真理を見抜いている。というようなことも想像できる。

むしろ、学歴もなく社会的地位も運動能力もないような人はこういうみんな共通の土台の部分でどうにかして尊厳を保てる。全てが特定の分野での明確な善悪基準で測られたらたまったもんじゃない。

人は、いろいろな領域に属すことをオプションにしつつ、全人類共通の領域「人格」がある、と言っていいのか?それとも「人格」も1つの「分野」に過ぎないか?残念ながら後者が正しい。それも1つの分野にすぎない。リオタールというフランスの学者が指摘したように今の時代はただただいろんな言語ゲームという分野での善悪基準があるだけだ。

考えてみよう。オバマ元大統領だって、大統領のとき誰からも凄いと尊敬されていたわけでもない。マズローの欲求5段階で一番低いところにいる人からしたらオバマが目の前にいても何も思わないだろう。それより今日の飯なのだ。利害関係のある政治家からしたら、大統領への敬意よりも「おれのゆうことが分からないクソ」かもしれない。

大事なことは、みんな自分が主人公の物語を生きているということ。自分が自分の物語の主人公としてこの世界に適合しているのだ。動物と違う言分け構造の世界に。

どんなに優雅な女も、どんなにとびっきりの社会的地位と容姿や人格を兼ね備えた富豪も、みんな自分の物語が第一で現実に適応している。他人の幸せとか社会のためとかそういうのは物語の上で重要になっているだけで、物語を剥ぎ取ったらそんな高尚なものはない。

みんな平等なのだ。同じ動物としてのヒトになれば同じ。そこが分かれば冒頭から述べているある分野で凄いとかそんなもんがどうでもよくなる。

あなたがやるべきは他人と競争することじゃない。ただ自分の物語を安定させること。その上に他人との競争があるかもしれないが、それはまさに「その上」でのことであり、物語という幻想なのだ。

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最近、日本語を外国人に教える機会がある。

一見、些細なことのように見えるが、実は日本語を教えるということはとても奥が深い。というか、別に日本語を教えるということに限らず普段われわれが何かしらの目的を持ってする行為はどれも深いのだ。

早稲田大学は留学生の日本語サポートの体制を整えている。留学生支援システムの構図というのがあり、その理念や構想が描かれている。もし時間があればリンクを読んでみてほしい。

この内容ってとてつもなく深いと思わないだろうか?
これを見ると、たかだか日本語教育が、全人格や人生そのものに繋がっているのが分かる。

留学生サポートの理念についての箇所を引用すると、
 
「主体性を もって取り組む自律的な学習姿勢を育むことは,一生役立つ問題発見解決能力を身につけ,生涯に渡って学び続ける人間を育成する」
 
「自分自身のことを十全に分析し,主体的な学びを継続 的に成す姿勢を備えた人間,つまり,生涯に渡って学ぶ姿勢を備えた人間を育む」
ということ。
結局、留学生にとって「日本語を身につける」みたいなある程度努力を継続しなければいけない課題っていうのは、主体的な学びを継続できる人間に近づく必要があるということ。これはどんな課題についても共通である。テニスにしろ、エンジニアになるにせよ、デザイナーになるにせよ哲学するにせよ全く同じだ。

これは、見方を変えると次のように言い換えることができる。日本語学習に限らず、実現可能な目標でさらに具体的な目標であれば、まさに「実現可能」なのである。例えば、40歳のサラリーマンのおっさんが「英語をネイティブ並みの発音で話す」というのはどうか。この目標は具体性が欠ける。「話す」となると無限の語彙の可能性とかがちらつき目標がブレる。だから、「ある英語の本を丸々一冊、パーフェクトな発音で暗誦する」であればOKだ。これであれば、少し試してみたりすれば、マイルストーンが立ち、最終目標までの道のりが具体的に決まる。後は着実に一日ずつ遂行していくだけ。もちろん、遂行が難しいのも分かるが、本当に一日単位でブレイクダウンしてできた超具体的な計画はけっこう続くもんだ。

今、30歳のテニス未経験者の男が「錦織圭」みたいに活躍したい、というのはどうか?これは現実的に厳しい。テニスという肉体的なもので、幼い頃から動きをめいいっぱい時間をかけて体得している人間が競い合っているレベルに到達するのは正直超難しい。可能性は0ではない。日本でトップ10というのであれば可能性はある。ただし、時間やコーチなどのリソースをめいいっぱい投入すること。その人は四六時中お金を稼ぐ活動から免除され優秀なコーチ群に囲まれテニスやトレーニング漬けになればの話だ。

そう考えると、「目標をいかに具体的にするか」「どれだけのリソース(時間やお金)を投入できるか」、さらに「モチベーション」ということに依存しそうだ。実はこの3つはどれも相互に関係しあっている。

冒頭の日本語教育の話に戻るが、結局日本語を修得できる留学生はこれら3つが総合的にうまくいっているのだ。私の知り合いの中国人留学生は2年早稲田で修士をやっており(授業は全て英語)、いちおう日本語のクラスも2年間とっていたが結局帰国時には全然日本語でコミュニケーションできなかった。具体的な目標ももってなかった、それゆえ時間も割かなかったし、そもそもモチベーションもなかったのだ。残念。

逆にスウェーデン人の友人は日本で働くことを夢見ていたから日本語専攻ではなくても1年の留学でぺらぺらであった。どういう風に仕事をするかなど言語化はしていないかもしれないが具体的なイメージをもっていたのだろう。それに多くの時間図書館で勉強もしていたし、実践で常に日本語を使っていたから目標管理もうまくできていたのだろう。

3つの要素を書いたが、結局は「夢」を持っているかということに集約される。具体的にこうなりたいというイメージ。留学生だったら、日本で就職したい!日本の伝統的な大企業に入りたい!◯◯社に入りたい!など具体的なイメージを抱いていれば、自然とどうすれば入れるか情報収集し必要なことが分かるし、その中で初めて語学の必要も出てきて、何年以内に1級をとって、とか計画ができる。◯◯社に入りたい、ではなくても「日本人と日本の政治について議論したい」とかでもいい。そうすれば、「議論」とはどういうことか、「政治の知識」とかもっと掘り下げて具体的にすればいい。

だから、日本語教育を考えるなら結局は「どうやって夢を持たせるか」ということに行き着く。どうやって夢を持たせるか?どうやってなりたい自分の物語をもたせる?

だから、本当の意義ある教育をしたら、今の目先の取り組み、例えば政治経済部で政治を学ぶ、とかいうのが実は全然不要であって、転部させたり、留学させたり、退学させる必要も出てくるかもしれない。特に日本に留学に来ている中国人のほとんどは「日本語を学ぶ」ことが夢への一歩になっていることはなく、ただ中国でいい仕事に就くためなど自分で考えたり感じ取った物語の一部となっていない。

また、生徒に夢を持たせる手助けをするには、「そもそも教育者として被教育者に夢を持たせることが必要か?」ということにも答える必要がある。

そこについて私は答えを持っている。それは端的に、われわれは一義的に世界に反応している動物と違って、言分け構造の世界を物語的に生きている。それは、不安定なものだ。幻想をどうにかして共同化しているのだ。僕はこれを心から理解できたのは30歳のときだ。つまりつい最近。ここから言えることは、どうにかして自分が生き生きとコミットできる物語を「積極的に」作っていく必要性がある、ということだ。木のように種から目が出てすくすく育って花を咲かせるような本能的な生き方を人間はしない。われわれは物語を作り言語的な世界を生きているのだ。積極的に作るといっても理詰めでおれはこういう過去を持ってるからその延長でこう生きるのがいい!といってすぐできるものでもない。そういう過程も重要だが、やっぱり直接経験として人と話したりする中でその物語にリアリティが出て来るのだ。だから僕の結論は、人と「語り」合うことだということ。

教育者としては、使命は広く人類の歴史を知識的に学ばせ、自分を位置づけさせ、その上でリアルな世界でいろいろな人と接し、語り、自分の物語を築くことを支えることである。

ではどういう施策をすればいいのか?

これを直接伝えて、「はい、そうですか」となるだろうか。いや、むしろこんなメタ的に理解されたら物語にコミットできなくなるだろう。だったら、いろんなものに触れさせ自分が自然とコミットできるものを見つけさせるのだ。そして何かにコミットするには、この社会においては沢山の概念を知っていて社会的行為に意義を見いだせないとだめだ。そのために知識も幅広く身に着けさせる。

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哲学者の千葉雅也氏がツイッターで「友人と会ったとき、この人と話してよかったと相手に思わせるための方法」として2つ紹介していた。
 
1 相手に話をよく聞いてもらえたという感じを与える。そのために、相手の話を適度に言い直しながら話す。
2 何かを断言してあげること。極論すれば何を断言してもいい。

であるという。

これは一つの観点として妥当であると思うが、私としては一つ疑問がある。 それは、「なぜ相手を立てなければならないのか?」ということ。哲学者であれば、最終的に自分の実存に紐付けて意見してほしい。要は、相手をいい気分にすることは引いては私のためにもなる、ということだ。

仮に相手の言っていることが、自慢ばっかりだとか、意見に同意できなかったり、極端な場合自分を誹謗中傷するものであった場合でも、そいつを言い負かしたり意見を変えさせようとするのはよくない。それだとお互い不満がつのりLOSEーLOSE状態で解散となってしまう。極端なクソが相手ならうまいこと縁を切ればいいが、そうでない場合、相手が多少うざくても関係を継続しておくべきである。

なぜか?

やっぱり人と交流することは必要だ。なぜなら、人間とは他人に自我を認めてもらう必要があるから。人は世界内存在という根本形式により生を体験しているが、それは他者と共に生きることを不可欠とする。人と交わり、人に自分を認めさせ、自分も人を認める中でこの在り方が支えられる。だから、相手といい関係を保つことは重要。

そしてさらに、これに私はは三つ目として、「相手の感受性を把握する」ということも付け加えたい。 言い換えると、「どのような物語を望んでいて、今どういう物語を受け入れているのか」ということ。

その人がどういう人なのかを理解することはその人と良好関係を維持する上で重要なことだ。

感受性とは何か?そもそも人間はどういう存在なのか?

人は、突き詰めれば各個体の生存と、種の繁栄のために生きている。だからどんな行為もそのベクトルに起源を持つ。でも、それをいったら個人の差がなくなってしまう。しかし、人は生まれてから各個人固有の体験をしていき、そのベクトルを編み変えていき独自の「感受性」を築いていく。そしてあらゆる体験はその感受性に従って実存に影響する。それゆえ、実存における最も重要な価値は各個人で異なる。

  1. 自分自身のために生きている
  2. 自分の好きな一人のために生きる
  3. 自分の好きな少人数の人々のために生きる
  4. 自分の好きな大人数の人々のために生きる
  5. 社会のために生きる

大きく分けると人は大体このどれかに価値を置きながら生きている。もちろん、意識的にはではなく、感受性が無意識の中で反応する。どこのためになったかで、自分の幸不幸が決まる。自分のためになったと確信できれば、第一類の人はハッピーだろう。

これは、別の観点から見ると、どのような自我を持っているか、ということ。つまり、世界内存在において自分はどんな物語に位置づけたいのか、そして、現実はどのような物語を受け入れているのか、ということ。「私はスポーツ選手になって世界で活躍したい」と考えていても現実でそうでない場合は、そのギャップに苦しむことになる。人は理想を下げるか、現実を変えていくかしかない。そして現実を変えるというのは他者にそう理解させるということ。

誰かとコミュニケーションを取るなら、その人の感受性がどのようなものか、そしてどんな物語に自我を位置づけているのかを理解すれば一緒に何かやったり関係を良好に保つために使える。
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僕が基本的にずっと関心を寄せているのは、「どんなことをすれば人のためになるか」ということ。あらゆる企業は最終的にはこれを考えてユーザーに商品やサービスを提供している。しかし、彼らの人間観は甘すぎる。

「人のためになる」ものとして安心・安全・便利・快適のようなものや快楽くらいしか考えていない。でもこれでは答えになっていない。仮にインターネットという技術が普及してコミュニケーション手段が増えて「便利になった」と思っても、それにより直接的なコミュニケーションが減り人間関係がどんどん薄くなり、人と共感するという幸せの根本が失われる、というような見方もできる。(人との共感が幸せになるということの正しさはここでは問わず、ただ1つの見方の例)

さて、
実証の世界では、もっとも人に価値のあることはどんなことだと言っているか?
価値=個人の実存がよい状態である=「幸せ」 
ということで、「価値がある」とは「幸せ或いは幸せに繋がる」と等しい。

では人はどうやったら幸せになるのか?

これに最も適切に答えているのは以前話題になったハーバード大学の75年間に渡る壮大な研究である。いろんなメディアで取り上げられているが趣旨がばらばらなので、原文をそのままのせているこちらを参照、引用させてもらう。この研究の現在の責任者心理学者ロバート・ウォールディンガーのスピーチからだ。

史上最も長期間にわたって人を追跡しているハーバード成人発達研究(Harvard Study of Adult Development)を行うハーバード・メディカル・スクールのロバート・ウォールディンガー教授(臨床精神医学)が2015年11月、研究で明らかになった「人生を幸せにする教訓」についてTEDトークで語りました。

1938年に始まったこの研究では、当時ハーバード大学2年生の男子学生とボストンの極貧環境で育った少年たちを追跡調査しています。調査開始時は724人いた被験者のうち、現在でも約60人が健在で調査に参加しています。そのほとんどが90歳代です。開始時に聞き取り調査と健康診断を行い、その後、1年おきに本人への質問票調査、本人や家族への聞き取り調査、医療記録の確認、血液検査等を行ってきました。

4代目の研究責任者である同教授によると、人を幸福にし、健康にするのは何よりも良い人間関係であり、その人間関係について大きな教訓が3つあることが明らかになりました。

それは、(1)家族、友人、コミュニテイ等、周りとのつながりを持っている人はそうでない人よりも幸せで健康で長生きする、(2)身近な人たちとの関係の質が重要である、(3)良い関係は脳も守る、というものです。(3)は、いざという時に本当に頼れると感じている人と80代までしっかりした関係を持ち続けている人は記憶がずっと明瞭で、逆に、パートナーは全く頼れないと感じている人に記憶障害が早期に出現したことから、結論付けられました。

要諦は、「近い周囲の人間関係が良好なら幸せ」ということ。幸せとは何かとか深く考える必要はない。彼らは自分の「いま、ここ」の生をいいものと感じているから、幸せだというのだ。そして、それを創り出すのは身近な人達と良い関係にあるということだ。

これは正直、実証研究どうこうではなく、個人的な経験からも支持できる。むしろ、だから取り上げた。実際、実証といってもこれだけでは納得できない側面もあるしツッコミどころもあるだろう。でも、僕は個人的な体験で分かる。やっぱり家族や普段接する身近な人達との関係が悪いときは何をやってもだめ。政治や国際情勢をとやかく言いたくなるのも、他のいろんな人に悪く接してしまうのも、根源は周囲の人間関係である。報道で見る犯罪者はみんな何かしら身近な人間関係をこじらせているケースが多い。

ということで、「近い周囲の人間関係が良好が幸せに繋がる」ということを僕の世界観の根底に置く。なので、今後の僕の行動、例えば仕事とかの行動指針はこれにどう繋がるか?という観点で全て見ていく。こうなると冒頭に書いた、価値ある商品やサービスの方向性も分かってくる。人間関係の薄い人にそうした機会やスキルを身に着けさせる、或いはもうそういうのが無理なら強制的に結婚させる、とかいろいろなアイデアが生まれてくる。ここはもっと考えていこう。

また、引き続き、この弱い根拠をもっと客観的な調査や研究結果を探して補強していきたい。さらに、身近な人達と良い関係にあることが、なぜ幸せに繋がるのか?これについても別途哲学的に考えていきたい。

以下、できれば英語の原文スピーチをご覧ください。



 TEDの字幕付きの動画はこちらから観れる。
英語で報道された記事はこちら

最近僕は読書を中心にして自身の感受性を編み変えている。

難しい古典などを含め色々呼んでいるが、結局今はシンプルな世界観に確信を持っている。

え、そんなこと誰でもわかってるよ、と言われそうだが、いろいろ巡り巡って来たからおそらく普通の人より根をしっかりとおろしているので視界良好。

われわれの各個人の生を、ここでは現存在といいたい。いろいろ理由はあるが、「現存在」という語は「意識」とか「自我」とかよりも中立的にクリーンに「いま、ここ」の持続である個人の実存を表せるから。

まず、最重要事項。

現存在の本質は被投性である。

われわれはこの現に存在している状態にわけも分からなく投げ込まれているのだ。「なぜ何も無いのではないのか」「なぜ私は私なのか」「このありありした彩りある世界はなんなのか」というような類の問いの大元である。この現存在という生は、既に気づいたら始まっていたのだ。

そして現存在の存在には三つの契機がある。これは仮説の域を出ることはないが、自身の経験に照らし合わせれば確信を深めていけるはず。

1,同一化能力
外から内からの刺激をパターン化(同一化)し、一般化した対象するのだ。モジャモジャしたちいさなものを何度か見たらそれを「犬」として一般化する。さらにそうしたものを高度に構造化すること。次第に、自分自身も対象化し、世界内存在となる。詳しくは前の記事を見てほしい。

現象学的にいえば、事実には本質が必ず含まれていることから分かる。 

2,記憶
こうした同一化したものを記憶すること。記憶しているから新しく世界というカオスに接したときは既にもっている概念で世界を認識する。世界内存在となった現存在はあらゆるものを世界内存在の中に位置づけて理解する。

そして、あらゆる経験した意味は記憶に残る。仏教の阿頼耶識と同じ。だからどんな些細なできごとも自我の形成に繋がるので、もし誠実な人間という理想を持つなら、些細な不正が自我を崩す。 

3,身体性
われわれは生命なので、自己保存や種の保存に突き動かされている。本当にそうなのか分からないが、現存在は常に何かを気遣っていることは内省すれば分かる。これを生のベクトルといおう。1の一般化能力もこの生のベクトルのために行われている。

この世界観をもとにすると、どう生きるべきかははっきりするのだ。2つの方向性がある。

1,自我の安定
われわれは世界内存在として存在している。宇宙、地球という客観的な世界に主観を持った人間が存在し、私はその中の一人としてこの質感ありありとした生を持っていると。だから、この一般性が意義、意味を持ち得る。「パソコン」というのも、そういった世界内存在の自我という土台がないと現存在と紐付きがなくなり了解されないだろう。 

われわれは本能として「ふぐの毒」を避けることはできない。言語(一般性)の世界=世界内存在の現存在として「食べられないもの」としてでないと「生きていけない」のである。だから、自我が必要。すべての刺激は世界内存在の自我のストーリーの中で位置づけられる。

自我は自分だけで勝手に決めることはできない。他者にも認められた部分だけがリアリティを持つ。だから安定させるためには頑張って自分の理想の自我を他人に認めてもらうか、満足いかない自我に向き合うしかない。

2,固定化した世界観の流動化
世界内存在の自我はあくまでも経験の蓄積によって作られたものであり実体ではなくネガティブなもの。もし何かに悩んでいたり囚われていたら、現存在の構造を思い出し実際に行動することでこの凝り固まった幻想を解放してやればいい。

ということで、基本的な生き方はこうだ。自我のストーリーをブラッシュアップしてよくしていく。自分の歴史を押さえつつそれでいてかっこいいものにしていけばいい。ときには現実に目を向けて自我と世界のバランスを取る。そして何かに行き詰まったら幻想性を自覚する。基本的にはこれの繰り返しになるだろう。

これは何も無味乾燥な世界観ではない。あまりにもわくわくできる現存在のゲームである。

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人間の本質は、「同一化」である。

一つのまとまりである生物としての人間が対峙するのは、連続体としてのカオスである。 全てが異なる。そこに同じものなどない。
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混沌としているのだ。

しかし、人間は、こうしたばらばらでぐちゃぐちゃのカオスからあるパターンを見出し、それを一つの対象として同一化する。例えば上の画像でいうと右の方のぐちゃぐちゃと左の方のぐちゃぐちゃが、あるぐちゃぐちゃのパターンとして似ているので「A」と呼んで同一として扱おう、というのが「同一化」である。もっと右にいくと他の「A」に出会い、人間は「A」だと認識できるようになる。もちろん、その「A」も私が「同一化」した上で「A」なのであり、カオスのぐちゃぐちゃでいえば、違う部分のぐちゃぐちゃである。

こうして、「A」のようなものを経験により増やしていく。2つ3つと増やし、今では何千何万という語を持つに至っている。

■生のベクトル
なぜ増えるのか?なぜ同一ととらえる対象を増やすのか?

人間は、何かしらの方向へ衝動を持っているからだ。自己保存や種の保存といわれているものを包括するがそれに限定されないようなベクトルがある。われわれは経験上何かに惹かれるのを知っている。美味しそうな食べ物、強く美しい異性など。同一化された対象は、このベクトルに合わせて色を帯びる。「車」「コップ」「汚物」「家」など中立的な一般的な語も何かしらこのベクトルに沿って了解されているのだ。

もう一回、同一化について詳しくみてみよう。

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ここに金太郎飴が沢山ある。どれも「同じ」だと一般的には考えられる。でも、細かく見れば違いはある。顔の形や丸の形、飴の厚さ、表面の切れ方などなど無数に違うところはある。そして仮に百万分の1センチレベルで同じ構造をした二つの金太郎飴があったとしても、それは存在している場所が違うから、「同じ」ではない。でも、一般的にはこの写真の中の飴は全部「同じ」とされる。1年前にあった君と昨日あった君を「同じ」とするのも同じ「同一化」の話だ。

■「同一化」の「適度な基準」
人間は、それを「適度な基準」で「同一化」する。
「同一化能力」これが人間の本質。それは、人工知能の語でいえば「パターン認識能力」、哲学的に言えば一般化とでもいうのだろうか。それは決して最大公約数的なものではなく、家族的類似性と言われるものであり、状況に依ってその規準も変わる。

興味深いのはこの適度な規準だろう。われわれは山田くんと手塚くんを区別するが、豚は人間はどれも同じだろうし、宇宙人からうれば豚も人間も全部同じかもしれない。人間は人間独自の細部を気にかけた規準で同一性を認める。

■認識における「同一性」
人のあらゆる認識は既に「同一化」された対象群が関与している。

いま、あなたが経験している「いま、ここ」という質感。私は今、パソコンをタイピングしているが、そのパソコンも「パソコン」として、「画面」「キーボード」という一般性を基に了解している。 これを「私の」「固有の」「MacBook」だという認識も、もちろん一般性を帯びている。

■世界内存在
こうした一般性の語の背景には、「世界内存在」としての「自我」が前提となっている。宇宙、地球という客観的な世界に主観を持った人間が存在し、私はその中の一人としてこの質感ありありとした生を持っていると。だから、この一般性が意義、意味を持ち得る。「パソコン」というのも、そういった世界内存在の自我という土台がないと現存在と紐付きがなくなり了解されないだろう。 


■発生
赤ん坊は母親から生まれ、楽園から離脱する。しかし、まだまだ弱い楽園は続く。全て母親が面倒を見てくれる。さもなければ人間の赤ん坊は死んでしまう。欲求はすぐに満たされる。しかし、徐々に母親も全ての欲求を満たしてくれなくなる。そこで母親がまず生のベクトルにとって最重要な対象として捉えられる。そのときに五官の作用などで家族的類似性として母親を同一化するゲシュタルトを得る。その後、食べ物や服、父親、人など生のベクトルの重要度の高いものを次々に一般化していきゲシュタルトを蓄積し、世界を分節していく。

以下のマッハの絵を見てみよう。

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赤ん坊だったら、この視点で見ても対象化できるのはぼんやりとした「世界がある」というようなことだろう。われわれであれば「窓」「髭」「左手」「ズボン」「椅子」「床」…などなど無数に一般性を見出すことができるし、ぼーっとしていても無意識的にそれらを了解していていつでも注意を向ければ「窓」「髭」など「として」解釈することができる。

■経験
同一化したパターンをどれだけもっているかはどれだけ経験したかによる。狭い範囲で同じようなカオスにしか出会ってなければ蓄積パターンは少なくなる。ただ、多くの一般性を持っていればいいというものでもない。多すぎれば、一つの状況が過剰な意味をもたらし疲れ果ててしまうだろう。

動物は同一化することはなく、すべて新たなフレッシュな対象として外部から刺激を受けている。
 
ということで、人間の最も重要な本質である「同一化能力」 について述べた。 

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