記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 人間とは何か

マレー・シャナハン (著)『シンギュラリティ:人工知能から超知能へ』(2016)を読んだ。ドミニク・チェン  (監修, 翻訳)。細かくは読んでいないがさらっと。

アマゾンに載っている内容紹介の通りの内容であった。

松尾豊氏(東京大学准教授)推薦
人間の脳の活動すべてを、コンピュータで模擬できるとしたら?
そしてシミュレートされた脳を物理的な身体とつなぐことができたなら?
人工知能の発展の先に浮かび上がる問題の描き方は見事である。
そして、本書が最後に投げかけるのは壮大な問いである。
人工知能は人類にとっての希望なのか?


イギリスの人工知能(AI)研究の第一人者によるAI入門書。
本書では、「全脳エミュレーション」などの最先端のAI研究を手際よく解説し、さらにAIの政治・経済的インパクト、AIと意識の問題、そしてシンギュラリティ問題までを、さまざまな思考実験を通して考察する。
はたしてシンギュラリティはやって来るのだろうか?

人間の脳の仕組みと、それを全能シミュレーションするにはどういう過程があり、課題があるかということが分かりやすく書かれている。僕はてっきり、SF的に「素粒子状態」で全状態を把握するレベルを想像していたが、それはまぁ無理なので本書では機能を再現できる程度の解像度で現実味のあるレベルで展開されている。

いくつか思ったことを書く。本書の内容をおさらいはしない。


1,意識について 
AIにどうやったら「意識」が発生するか。それに伴い、人間はAIを人間のように扱わなければならなくなる、などの議論が出てくる。

哲学的に言うと、この議論は答えがないのだ。そもそも僕らは他者(他人や物)に意識があることも確かめようがない。僕と同じようなクオリア的な世界を気分や情動と共に生きている、と勝手に想定しているだけなのだ。だって、その人の主観に入り込んだりできないし、出来てもそれが確かめたことになるのかも分からない。

結局それらは経験的に学ばれた確信にすぎない。自分と同じような身体を持ち、同じように動き、言語をしゃべる。考えなくても自然と同じような人間であれば意識を持つと前提してしまっている。確かめられないが、疑いも湧き出てこないほど前提されている他者の主観を間主観性という。

猫が好きな人は日々その行動をみて相互にコミュニケーションを取っている。そういう人にとっては猫は意識があるという感度が強くなるだろう。一方、野良猫をうざがってるような人、さらにはいたずらで虐待するような輩は、意識のない「物」に近い形で捉えているだろう。

AIも同じである。機械であっても、人が意識を持っていると思わせる特徴があれば「意識がある」のだ。「her」というアメリカの映画ではある中年男性がAI(iPhoneのSIRIのようなもの)と毎日電話して恋に落ちてしまう過程を描いている。声だけでもコミュニケーションが成り立っていれば相手がプログラムだと理解していたとしても好きになってしまうのだ。この場合、当然意識を想定しているだろう。

だから結局、人間の感受性に依る。

余談だが、あらゆることは人間の能力と感受性のレベルに依存する。AIがいくら賢くなってもそれを理解するのは人間であり、人間はもう近い将来AIの提案を鵜呑みにするしかなくなる。なぜそういう判断かは人間の能力的に理解不能なのだ。

2,「自我」と「自己保存」
158頁に、「自我(自己同一性)」と「自己保存」について面白い考察がある。これらがAIに備わるのは「期待報酬の最大化」に繋がるかに依る、というもの。「自己同一的」であることが、そのAIの目的に必要なら生まれる。人間だって同じだ。僕らは社会を築いて人がある役割を一貫して担わないと社会が存続できないから自己同一性を保っている。職業や性格を忘れたら、怒られて軌道に乗せられる。結局、同一性は他者が同一として扱うことから生まれる。

AIにとっては「自己保存」も同じく報酬関数に依る。人間は自己保存自体が目的のようだが、AIはその報酬関数は設定次第だ。本書の例ではある機械部品の製造を最大化するには、工場に命令を出した後自分も部品のために分解する、というもの。


3,AIの難点

本書の最後の方で、報酬関数のチューニングの問題が出ている。有名なロボット三原則を例に出している。「人間に危害を加えてはいけない」とロボットに組み込んでおいたとして、その報酬を最大化するために全人口を麻酔で寝たきりにしておく策に出るかもしれない。安静にしとけば危害を加えるリスクがなくなる。

これは哲学的に言えば、「語の多義性」の問題なのである。われわれは何となくある「語」は何かイデア的な意味を持っていると思っているが、それは違う。われわれは経験的に言語の使用の場、つまり言語ゲームに参加することで語の意味を学ぶ。コップは水を飲むもの、歯ブラシを立てるもの、怒ったとき人に投げるものかもしれないが、一番よく使われるものがその「意味」として辞書に登録される。普段われわれが観取する意味は、認識者の欲望に相関している。AIにとっても語は報酬関数に則して理解されるのだ。だから報酬関数の設定は難しい。この設定は言語でなされるのだから。

さて、AIがいろいろ世の中をよくするにせよ自分の生にとって最も重要なことは連続している生である。いくら自分の脳状態をコンピューターにアップロード出来たとしてもこっち側に残る今の私の連続性が私の全てである。ここに定位していろいろ考えていくべきだと思うのだが、実は意識に固執するのも今の人間社会に作られた一時的な感受性なのかもしれない。

シンギュラリティ:人工知能から超知能へ
マレー・シャナハン
エヌティティ出版
2016-01-29

 

哲学者キルケゴールが著書『死に至る病』でいう「絶望」とは何か?

端的に言うと、キルケゴールのいう絶望とは自己が様々なものとの関係性の間でバランスを欠いてしまっている状態。生きているのに死んでいるような感じ。どういうことか。要は人間は物語を持って現実に適応している。でも現実という外界に適応するために抑圧してきた物語もある。

そのような物語は外界に合わせようとすると感情などで反抗してくる。また、物語といっても言葉の束であるので、一貫性を保つのは難しい。大学を卒業してプログラマーやって、アフリカで働いて、歌手目指して、医者目指すみたいなことやっていたら、毎度他者から承認を得え物語を安定させることはできなくて、パニックになるだろう。

ではどうすればいいのか?
誰かが気絶した場合には、水だ、オーデコロンだ、ホフマン適材だ、と叫ばれる。しかし、絶望しかけている人があったら、「可能性を持ってこい、可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ」、と叫ぶことが必要なのだ。可能性を与えれば、絶望者は息を吹き返し、彼は生き返るのである。 
これがキルケゴールの答え。

では可能性はどうやって与えられるか?

教育哲学者の苫野一徳は、ルソーを手がかりに「可能性」とは、能力を挙げる、欲望を下げる、そして欲望を変える、の三つの道があるという。しかし、それは本質的ではない。現代の僕らはそもそも欲望がない。何かやりたいことを10個言えと言われてすぐに答えられる人は少ない。

これも物語という契機で考えることができる。われわれは物語を生きている。ただ単に「君はこういう世界を生きている」と言われたり、世界史を読んで「僕はいま、こういう流れにいるのか」と理解してもそれは物語として実存的に根付かない。僕らは日々リアルな世界で環境や他者と触れ合うことで世界像を更新していく。

未来への道筋は過去のリアルな経験の蓄積の延長線上でしか開けてこない。これはハイデガーの歴史性からも分かる。過去の経験がバラバラなら未来へ何も見えてこない。

キルケゴールの答えは「自己は自己自身によって措定するのではなくて、絶対的な他者によって措定される」というもの。実はキルケゴールは敬虔なキリスト教徒であり、絶対的な他者とは「神」だ。神の下でキリスト者として、常に絶望の中にある自己はどうすればよいのか?自己は自己自身によっては安定や均衡に達する事はできず、常に有限性と無限性、可能性と必然性の間でフラフラする。この間のバランスをもたらしてくれるもの、つまり措定setしてくれるものが神ということ。

これは、神を中心にした筋立てで物語(自我)を安定させるという方法である。でもしかし、先に書いた通り本を読んでも納得感はない。過去の蓄積からその筋立てに正当性がないと、未来につながらない。まずは過去を反省的に考える。現代とはどういう時代か考える。どういう欲望を持っているか考える。そしておのずと物語が見えてくる。そこで宗教を手がかりにするのももちろんOKだ。しかし、重要なのはハイデガーも言うとおり、世界からではなく自分に固有なところから物語を作っていくことである。 

ある天才エンジニアな若手(つまり理系)に哲学の話をした。彼は、死んだ後どうなるかについての哲学に興味があったが、僕は哲学はその問題を扱わず、死後を扱えるのは宗教だ、と言った。彼はそれは思考停止ではないかと言うので、哲学は「誰もが納得できる概念を使って組み上げていくものだ」と返すが不満そうであった。

そもそも暗黒時代の中世からデカルトの近代になり、物語的に世界を説明した恣意的な世界観は否定され始める。誰も調べようのないことを使って人に何かを強制するのは無理がある。そこで、みんなが納得できるような世界や生の説明をするようになる。それが近代以後、現代にも続く哲学の流れである。

まあ、これはこれでいいとして、

さて、僕はなぜ哲学をしているかというと「善い生」を生きたいし、みんなにもそうなってほしいからだ。しかしその理系の若手は結局は「 脳内の状態」がすべてなんだからそこを起点に科学的にやらないとだめだという。麻薬でも何でもいいから「気持ちいい」「幸せ」と思う状態を突き止めて、それを再現すればいい、という考え。

これについてはどうだろうか? 

たしかに、麻薬はやったことがないが気持ちいいのだろう。或いはセックスでもいい。こういうのは短期的に数時間なりパラダイスを味わえる。その時の脳内状態を測定できるとして、これを再現すればいいということになる。別の方法で、というよりはずっと麻薬やセックス、ということになるだろう。

これだと、身体が持たない。とまず反論できる。麻薬は身体を破壊するし、セックスはたしかに体力的に厳しい。しかし、彼がいうのは「このような快楽を身体に負荷のない形で再現する」ということ。 でも、それは科学の発展を待つというシンプルな道をまっすぐ突き進むしかない。仮にそうしたものができても、まずは贅沢品として一部の人しか利用できない。それにそうした快楽のために働く構図は生き残ることになる。

なので、僕が言っているのは「生」全体の話だ。短期的なことではなく、僕らは80年くらい生きるわけで、それをうまくマネージしなければならない。一番よいのは常に幸せな状態。麻薬のような快楽状態が80年続いてもいいが、それは上述の科学の発展の道筋である。そのためには、まずは地球上の人類全てが働かなくても衣食住が提供され、そうした快楽も無尽蔵に与えられることが前提となる。

達成できるかの問題は置いておいて、そこには2つの疑問がある。まず、衣食住が無償になればわれわれの感受性は大きく変わるはずだ。人と付き合う必要がないため、幼少期の経験も変わり他者の実存における位置づけが変わる。麻薬などの快楽も、現代のようなストレス社会を前提にしての快楽なので、そもそも日々自由であれば、それが必要かも分からない。二つ目に、そういう快楽があったとしても慣れてしまえば人間はさらなる快楽を求めるだろう。麻薬の奪い合いや、もっと刺激の強いものを求める。であれば今と構図は同じ。

なので、もっと本質的なことを哲学したいのだ。

では、われわれの「生」はどういう構造をしているのか。これは科学では分からない。いくら脳の素粒子状態が分かっても、それは事実的なことであり、それがどういう「意味」や「価値」を持つかは主観的に語られる以外にはない。

仮に全素粒子状態が24/7で捉えられるようになったとしても、主観で何が起きているかは私しか語れない。行動主義的にわたしが嬉しそう、幸せそうにしていれば「幸せ」とみなすことはできるだろう。さらに私の意識状態をシミュレーションしようとするなら、全宇宙の素粒子状態を把握しなければならないだろう。私は宇宙の繋がって「いま、ここ」の経験をしているのだから。

麻薬やセックスのようなただの「脳内の物理的な化学反応」的な快楽ではなく、幸せという人間独自の感情は、より高度なものだ。ただ、化学反応を起こせばいいわけではなく、外部世界や他者とも繋がった経験なのである。われわれの過去の全記憶が身体に保有され、それと外部からの刺激で意識が生じるので、それは全宇宙的な現象なのである。そんな計算まずできないだろう。猫の画像からの概念獲得にスパコン何台も使っているのに。なので、全素粒子状態からシミュレーションするやり方は不可能と結論。

そもそもそういう人間的な経験自体をなくしてしまえ!マトリックスみたくカプセルに入っとけばいいよ!みたいな世界を目指すのであれば、それはそれで確かに筋が通っている。どういうことか。要は、不労不老が達成されたら、今の「人間」の定義がなくなるだろう。人と接しながら他者関係をいきる人「間」が終焉する。これはフーコーが1960年代くらいから言っているが、まだまだ終わりが見えない。そして、もし人間が終わるのであればわれわれ「人間」はその先の実存的な在り方について原理的に語ることはできない。人とうまくやっていく必要のない状態で育ったヒトの在り方など想像もできないからだ。

だから僕は人間が人間である限り、まずは、物語的な動物としての生を前提にして考えていきたい。

われわれはたしかに無意識的に制御され、数多くの行動をしている。しかし、意識があるときは文字通り意識があるわけで、何かしたらを言語的に志向しながら行為をしている。

だれもが意識上では、自分の物語を暗黙的に了解している。どこの出身で、どういう親に育てられてどういう学校に行ってどういう職業について、どういう趣味がある、とか。

そして、自分が行為を行う上でも前提となる方向性があるはずである。何か行為をする際の基準というか、善の了解と言ってもいい。

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人は種の保存と個体保存に衝き動かされた動物なので、突き詰めれば何ごとも「自分」のためだが、社会のなかで生きる「人間」であるわれわれはその上に幻想を築いている。

人それぞれどこに力点があるかは異なる。
大きく分けて4つ。
  1. 「自分」が気持ちいいこと、ポジティブな感情を抱けることに重点があるもの。
  2. 周囲の顔見知りレベルのため、彼らを幸せにしたい、承認されたい、ということに重点があるもの。
  3. もう少し広く、顔が見えなくても組織や業界などの仲間に重点があるもの。
  4. 国民全体、さらには広い地域や地球規模の人類の未来に重点があるもの。
あなたはどこに力点があるだろうか?

この重点が違う人とは基本的に話が噛み合いずらいので要注意。そして共通了解できなくてもめげずに頑張ってほしい。

ちなみに僕は、4である。 

出家するということは、世間からの情報と完全に断絶するということだ。

人はそれまで周りの人間やさらにはSNSで物語を承認されることでどうにか現実に適応していた。しかし、その承認獲得活動に嫌気が差し、人は出家する。世間から承認を得るのは難しい。変動の激しい社会に自分の物語を合わせるは努力が必要だ。

その競争から離脱し、そういう変動のない環境で自分の物語を固めていこうとするのが出家の本質であろう。

しかし、いくら社会からの承認競争を逃れても、物語という言語的世界を維持しないと人間は終焉する。ではどうするのか。人間として生きるのをやめ、一元的な世界を動物のように生きるのか。それとも、過去の社会の記憶を抑圧し、坊さん社会からの承認で上書きするのであろうか。

いずれにせよ、根本的な解決でないのは間違いない。

とある知人が出家したと聞いて、そんなことを考えた。
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われわれの実存、主観的な生、生の在り方といってもいいが。要は意識があり体験している「いま、ここ」の流れ。
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これは三つの状態に分けることができる。まず、「ゲームモード」。これは、あるゲームの中で具体的な目的・目標に確信を持ち生きている状態。挫折や苦悩はあるが、具体的な目的・目標のために試行錯誤し努力すればいい。スポーツ、恋愛、仕事、ゲームなどに情熱を持ち、「どう生きるか」が問題にならない生の状態である。

第二には「無気力モード」である。これは、生きる気力がない、勉強や仕事など何もする気力がない状態。この状態では何か行動を促す「欲望」や欲求がなくなっている。「どう生きるか」という問いも出てこない。社会の中に入っていき「欲望」を喚起するなどの必要があるが、これは精神分析、心理学や生理学などの領域であり適切な処置が求められる。

最後の一つは「哲学モード」である。「ゲームモード」と「無気力モード」の中間的な状態。何をしたいかよくわからなくてモヤモヤしている。「生きる意味とは何か」「何のために生きているのか」といおうような「どう生きるべきか」について論理的に物事を考えすぎ、答えがでなくて行動を促すような確信がない状態。これは言語的な世界を生きる人間に特有の状態である。実は、第二の「無気力モード」はこの「哲学モード」の極みである。 

もちろん人の生はこの三つのどれか一つにぴったりと当てはまることはない。しかし、常にどれか一つを軸にして或いは二つ以上に跨りながら、さらに軸を変えながら生きているのではないだろうか。

ここで前提にしているのは、社会的な「人間」である。社会で育って言語的な世界を生きるようになったヒトである。

われわれが必要なのは、三つ目の「哲学モード」について、どのようにして「ゲームモード」に移行できるのかを知ることだ。それは要するに、「どう生きるべきか」ということに納得のいく回答をするということである。言い方を変えれば、「世界」についてのしっかりした了解の像を持ち、そこに自分を位置づける、ということだ。

人は、 動物のように本能的に生きておらず、言語的世界を物語に生きて現実に適応している。われわれは意図的にこの物語にコミットしないと、現実から剥離され宙を彷徨ってしまう。それが「哲学モード」であり、行き着く先は「無気力モード」である。

人が何かを誰かに向けて発信する場合、それは誰かに何かしたらの変化を与えようとしているということだ。

あなたの周りでもSNS中毒者がいないだろうか?

四六時中facebookやらtwitterやらwechatに写真や近況をアップしている輩。

彼らは何故そんなことをするのか?

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一般的には、「それは人から承認されるためだ」と言われるだろう。例えば、子どもの写真を毎日アップする野郎は「おれは親になって子育てしているいいお父さん」ということをみんなにアピールしてそのような理解を促す。イケてる友達と写真をとってアップするのは、「おれはこんないい友達持っている」ということを認めてほしい。要するに、何かのその人に関する事実を認めてほしいのだ。これが承認と言われる。

では、なぜ承認されたいのか?なぜSNSを通じてそんなに多くの人にアピールして承認がほしいか?

それは、自我を安定させるため。自分の物語を安定させるためだ。 人は動物と違って、物語を作って言語的に世界に適応している。だから、物語を保つことが死活問題なのだ。幻想を保つのだ。それは自分ひとりで信じていても、すぐ崩れてしまう。なぜなら人間社会で人と交わればすぐにボロが出るから。人望のある人間だと自分で信じていても、実際に人から承認されるには一定の実績の積み重ねが必要だ。そういう状況では、一人でも多くの人から承認が助けになる。一人より二人、三人、多くの人が「いいね」を押せばそれはあなたの物語を承認してくれたのだ。

人は自分の物語を保ちたい。だから承認が欲しいのだ。これは何も卑しいことではない。そういう動物なのだ。この構造については別途他の記事で詳しく説明しているので見て欲しい。  

ただ、自我が安定していないのはこの社会では未成熟、ダメなやつと見られやすい。自我が安定しており、確固たる物語を生きている風のやつがよしとされる。そういう意味でSNSにつまらないことばかり投稿していると、(上述の理論を知っているわけではなくても)浅ましいやつだと感づくだろう。 

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