記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ:人間とは何か > 人工知能(AI)

以下の人工知能の未来を問うNHKスペシャルで面白い場面があった。

 

ある企業の人事部では離職率を下げるために新入社員に定期的に相談の機会を設けている。人事は彼彼女たちにいろいろな質問をし相談に乗る。この結果を多く集め実際の離職のデータとともに解析する。さまざまなパターンを見出しAIは結果を導く(これをAIと呼んでいいのかは措く)。この結果は人間からは理屈が分からなかったが、後日AIの言う通りになるケースが頻発する。

人間は、こうしてAIの弾き出す結果に信頼を寄せるが、理屈も分からないでこれを信じ新入社員に対策を取ることに違和感を感じる。そもそもどうやって何をやってあげればいいのか分からないであろう(笑)

似たようなことは昔からあったはずだ。理屈は分からないがAIはそう言っている。こう言う場合どうすればいいのだろか。結局は感受性に依る。人事の相談レベルであればこれを鵜呑みにして、新入社員の相談を増やすなど対策を取るのは問題ないだろう。しかし、このドキュメントで紹介されているような刑務所の囚人に対する対応など重めの判断はかなり慎重にならざるをえない。

今後、人間のようにコミュニケーションの取れるAIが出て来るだろう。これらへの接し方も感受性次第だ。そもそも、原理的にわれわれは他者が意識を持つかどうか分からない。人間ですらそうなのだから、猫も犬も、サルも石も桜も意識を持つか否か分からない。それと面と向かって接してみて「意識を持たないモノ」として扱えるか否かの感受性に依る。

人間同士でも感受性はバラバラだ。先日の障害者殺害事件のように障害者をモノのように扱うような感受性を持つ反社会的な人間もいる。猫を子供のように可愛がり死んだら大泣きする人もいれば、猫を殺して食ってしまう感受性を持つ者もいる。結局は人間の感受性に依るのだ。映画herの主人公のように、姿形もない音声だけでも会話がうまくできれば恋をする。

今後、こうしたきわどい判断をしなければならない機会が増えるだろう。社会学者のユルゲン・ハーバーマスは、こうした変化にゆっくり着実に対応してゆこうと提言している。 

ルンバは床を移動するだけだ。ルンバの前に片付けが必要。片付けは難しい。散らかった対象を認識し移動する。高度な技術がいる。しかし、これもAIとはいえない。同じように、冷蔵庫から材料を出し調理する料理ロボットもAIではない。

ではAIとは何か?人工知能。人間のようなコンピュータ、というのがもともとのニュアンスだろう。

では人間の本質は何か?

それは、意味と価値の世界を生きているということ。

これは<わたし>にしか分からない。<わたし>は少なくとも意味と価値の世界を生き、他の人間も同じだと確信を持っている。別の言い方をすれば質的なクオリアの世界を生きているということ。意識を持っていること。

それは外観や振る舞いから判断するしかない。

それゆえ、最終的には感受性である。

ルンバに愛着を持ち、感情移入してしまえばその人にとってルンバはAIとなる。

どこでもドアの思考実験をご存知だろうか。

東京でドアに入る瞬間、私の素粒子状態がデータ化され、東京の私の身体は抹消される。ニューヨークのドアでそのデータから素粒子状態を再現して、私の身体が出現する。素粒子状態が同じなので、以前の私と同じように振る舞えし、社会(他者)もそう認める。素粒子状態という物理的なものが心的なものに還元されることが前提になるが。

さて、ここで重要な論点は「意識の連続性」である。東京の私としての生はそこでthe endなのだ。何かしらの苦しみや恐怖を経て(或いは技術的にそれを快楽にすることもできるかもしれない)私の生は終了する。そして、ニューヨークの彼(私とは違うので)はそこから物理的には生まれるが東京の私の意図も継承している。そして社会に入っていけばみんな東京の「私」と連続体だと見なす。同じように振る舞うのだがから、10年前の思い出話もできるわけだ。

社会はそうでもいいかもしれないが、私にとってはこれは許せない。私の意識は終わるから、その後社会で彼が生きていて、親や友達を悲しませないとしても、私の生は終わるのでその「終わる体験」をしなくてはいけない。

ただ、「死」を恐れる要因として、
1,意識の連続の終わり(意識が途切れるときの痛み。仮に気持ちいいとしてもそれを経験した人が現れないので未知への恐怖は消えない)
2,周りが悲しむ、迷惑をかけるなど社会的な要因

があるが、どこでもドアのケースで2のネガティブ要因は解消されている。あとは1なのだ。それが「意識の連続」なのだ。二つのうちの一つが消えたのだがから人々の「死」への表象は変わっていくだろう。例えば、危険な作業に従事するまえにコピーをとっておき、万が一死んでしまったら身体を再現する、というようなところから実用化して、そういう再現された人間が生きる社会に慣れだしたら、「死」に対する見方は変わる。

しかし、それでもまだ1の怖さは消えない。意識がなくなる状態へ移行、この未知の体験への恐れ。

現代に生きるわれわれは「意識の連続」を重要視している。これは「いま、ここ」というありありした体験、知覚、情動、身体性などが拡がる「意識」の流れや持続が「生」だと信じているから。

なぜそのように考えるのだろうか?そこに何か前提はあるのだろうか。

それは「どう生きるか」を考えるかではないだろうか。では、人間は「どう生きるか」をどういう条件で問うのだろうか。問うているときは、ある程度落ち着いている状態だろう。思考したり反省しているのだから。そして、過去を何かしら了解し、未来にむかってどのようにするかを考える。未来をどう生きるか、とは何か。この意識状態が何かしらの経験をしながら進行していくことが想定され、そこでどのような意識状態を未来に持つのかを検討している。

また、「私」が「私」として同一であり、今後もそれが継続していくことも想定されている。だからそれをどうしていくか反省する。そのいろんな特徴の基体としての自分。反省的な状態というのは特殊だ。自分が何なのか、どう生きるかを問うときだけ出てくる状態。それ以外のときは「明日の仕事のこと」「来週の出張のこと」「家族のこと」などを漠然と了解しながら生きている。


反省している時点で、前向きに生きようとしているのは事実だ。われわれは何かよいことを今まで経験しており、それを再現するという思考で考えている。幸せな状態、快楽な状態これをわれわれの余生という時間において、できるだけ多く出現させたいというのが一般的な生き方の想定ではないか。この想定が、「意識の連続」が途絶えることを忌避させる。

しかし、そもそも「死」という概念にも影響を受けている。これも社会的なものだ。ハイデガーは「死」の本質を分析しているが、それは社会で他者の死を見て間主観的に想像しているに過ぎず、誰も体験できないものなのだ。死ぬ前にコピーで不死のロボットの身体にアップロードするような社会になれば、「死」という共同幻想はなくなり「アップロード」という一つの手続きになるかもしれない。それが痛みの質感も伴わないのであれば、過渡期を経て定着するかもしれない。現代の僕らが成人式に参加するような軽いノリで。

ということで、あまりすっきりしないが「意識の連続を重要だと思う」のもいろいろな前提、つまり人間として社会で生きてきて経験的に学ばれた判断であるとはいえそうだ。

筑波大学助教授の落合陽一さんが以下のようにわれわれの「自己同一性」について面白い考察を行っている。

落合 人工知能と人間の違いを議論するとき、一番ネックになるのが、スワンプマン問題(死亡した人物とまったく同じ形状・記憶を持つ人物は、死亡した人物と同じなのか? という思考実験)にどう向き合うかですね。

例えば、社会の中に位置づけられた存在としての自分と、そこにある意識的に連続体じゃない自分があります。そこであなたが死んで、次の瞬間にまったく同じように復元されるとします。そのとき「世の中から見れば、あなたは生きています」って言われたときに、多くの人は「いや、死んだ俺だけが過去と同一の脳みそを持っていて、次のやつと俺は連続していない。だから、あのとき俺は死んでいる」って言うんですよね。

でも社会から見れば同じ人間なので、それを全員が許容する社会になってくると、訳が分かんなくなっていいですよね。そうすると、もうちょっと人間が寛容になると思うんですけど。僕としては、結果的にそういう社会に移行するんじゃないかってちょっと思っているんです。

自己同一の問題のヒントになりそうなものとして、「銃夢」(木城ゆきとのSF格闘漫画。サイボーグの戦闘少女がさまざまな難敵と戦う)っていう漫画があるんです。主人公がガリィっていう女の子なんですけど、その子がくず鉄街で生まれてザレムという街に行くんですけど、ザレムの成人の儀式というのが、青年の脳みそを取りはずして中身をチップに変えるという作業なんですよね。そうすると一回脳みそ的には死ぬんだけど、チップに変わるから普通に生き続けるみたいな話。

でもそんなことしたら普通の人なら「お前死ぬからマジやめろ」って感じじゃないですか。だけどそれをやらないと市民権が得られない。そこで、そのガリィって女の子が「やめろー!」って青年たちを解放するんです。ところが青年たちが口々に「脳なんかいらないのに、将来を返してよ!」ってみんなで怒るんですよ。そういう感じがすごい21世紀的だなと最初読んだときに思ったんです。結構昔で90年代前半に連載されていたんですけれど。

ひとたび自己同一性を人類が失い始めると、多分全然違った世界に行くはずです。人工知能の次のキーワードとして、我々が個別の意識と信じているものは本当に1人の人間の意識なのか、人生ってどこに切れ目があるのかみたいなことを、考えていかないといけないと思います。

人間の生死に関わる問題については、まだかなりの抵抗がありますね。まして自分が死ぬか死なないかに関しては。ですから生死観に関わるような問題については、いろんな議論が出てくるはずです。
ここで問題になっている自己同一性について考えたい。

そもそも、自己同一性はなぜ必要なのか?

僕の考えはこうだ。「時間軸のあるコミュニケーション」があることで自己同一性が要請され、保たれていく。お金の貸し借り。恩義のやりとり。共に何かする約束などなど。別の言い方をするとそれは責任問題だ。自己同一性とは「実践のカテゴリー」に属するもの。つまり「その行為をしたのは誰か」に答えるために要請される概念ともいえる。

こういうコミュニケーションがいらなくなることはありえるか?誰もが家を持ち、毎日食事も自動的に運ばれてくるようになり、体調が悪くなればボタンを押し身体をスキャンしてもらえば何かしら処方してくれる。手術が必要ならロボットが連れ出してくれて手術が始まる。家から出ず人とも会わずに一生を過ごせる。こうなれば過去や未来を考えずとも「いま、ここ」だけに反応して生きる「生」となる。


時間軸のあるコミュニケーションがなくなれば、自己同一性は不要になる。でも時間軸が必要ないコミュニケーションはあってもよい。
誰かと直接的に会う、実は30回目に会う。でも、「ああ、この前に会いましたっけ」的な感じか。いやその前に、言語能力がどれほどあるのか分からない。相手を同定する能力があるのかも分からない。動物は環境に固定されており、そこから離脱できないが、人間もそれと同じ状態になるかもしれない。でも、ロボットが知性を使って人間が知らずの内に環境を整えてくれる。そんなことになるかもしれない。そうなればもう人間ではなく「ヒト」である。


このように環境次第では、「自己同一性」は不要となり消え去る。

では、現実的な考えに戻って、現代において自己同一性を考察することは何につながるか。それが時間軸のあるコミュニケーションであるとすれば、今後の人間関係における自分という基体の在り方の吟味。つまり、人間としてどう生きていくかに直結する。

人間関係の中で生きる「人間」としてのわれわれは、他者から認められた物語を軸に、自己像を持ち、この自己像の価値を高めたいという欲望が本質である。

マレー・シャナハン (著)『シンギュラリティ:人工知能から超知能へ』(2016)を読んだ。ドミニク・チェン  (監修, 翻訳)。細かくは読んでいないがさらっと。

アマゾンに載っている内容紹介の通りの内容であった。

松尾豊氏(東京大学准教授)推薦
人間の脳の活動すべてを、コンピュータで模擬できるとしたら?
そしてシミュレートされた脳を物理的な身体とつなぐことができたなら?
人工知能の発展の先に浮かび上がる問題の描き方は見事である。
そして、本書が最後に投げかけるのは壮大な問いである。
人工知能は人類にとっての希望なのか?


イギリスの人工知能(AI)研究の第一人者によるAI入門書。
本書では、「全脳エミュレーション」などの最先端のAI研究を手際よく解説し、さらにAIの政治・経済的インパクト、AIと意識の問題、そしてシンギュラリティ問題までを、さまざまな思考実験を通して考察する。
はたしてシンギュラリティはやって来るのだろうか?

人間の脳の仕組みと、それを全能シミュレーションするにはどういう過程があり、課題があるかということが分かりやすく書かれている。僕はてっきり、SF的に「素粒子状態」で全状態を把握するレベルを想像していたが、それはまぁ無理なので本書では機能を再現できる程度の解像度で現実味のあるレベルで展開されている。

いくつか思ったことを書く。本書の内容をおさらいはしない。


1,意識について 
AIにどうやったら「意識」が発生するか。それに伴い、人間はAIを人間のように扱わなければならなくなる、などの議論が出てくる。

哲学的に言うと、この議論は答えがないのだ。そもそも僕らは他者(他人や物)に意識があることも確かめようがない。僕と同じようなクオリア的な世界を気分や情動と共に生きている、と勝手に想定しているだけなのだ。だって、その人の主観に入り込んだりできないし、出来てもそれが確かめたことになるのかも分からない。

結局それらは経験的に学ばれた確信にすぎない。自分と同じような身体を持ち、同じように動き、言語をしゃべる。考えなくても自然と同じような人間であれば意識を持つと前提してしまっている。確かめられないが、疑いも湧き出てこないほど前提されている他者の主観を間主観性という。

猫が好きな人は日々その行動をみて相互にコミュニケーションを取っている。そういう人にとっては猫は意識があるという感度が強くなるだろう。一方、野良猫をうざがってるような人、さらにはいたずらで虐待するような輩は、意識のない「物」に近い形で捉えているだろう。

AIも同じである。機械であっても、人が意識を持っていると思わせる特徴があれば「意識がある」のだ。「her」というアメリカの映画ではある中年男性がAI(iPhoneのSIRIのようなもの)と毎日電話して恋に落ちてしまう過程を描いている。声だけでもコミュニケーションが成り立っていれば相手がプログラムだと理解していたとしても好きになってしまうのだ。この場合、当然意識を想定しているだろう。

だから結局、人間の感受性に依る。

余談だが、あらゆることは人間の能力と感受性のレベルに依存する。AIがいくら賢くなってもそれを理解するのは人間であり、人間はもう近い将来AIの提案を鵜呑みにするしかなくなる。なぜそういう判断かは人間の能力的に理解不能なのだ。

2,「自我」と「自己保存」
158頁に、「自我(自己同一性)」と「自己保存」について面白い考察がある。これらがAIに備わるのは「期待報酬の最大化」に繋がるかに依る、というもの。「自己同一的」であることが、そのAIの目的に必要なら生まれる。人間だって同じだ。僕らは社会を築いて人がある役割を一貫して担わないと社会が存続できないから自己同一性を保っている。職業や性格を忘れたら、怒られて軌道に乗せられる。結局、同一性は他者が同一として扱うことから生まれる。

AIにとっては「自己保存」も同じく報酬関数に依る。人間は自己保存自体が目的のようだが、AIはその報酬関数は設定次第だ。本書の例ではある機械部品の製造を最大化するには、工場に命令を出した後自分も部品のために分解する、というもの。


3,AIの難点

本書の最後の方で、報酬関数のチューニングの問題が出ている。有名なロボット三原則を例に出している。「人間に危害を加えてはいけない」とロボットに組み込んでおいたとして、その報酬を最大化するために全人口を麻酔で寝たきりにしておく策に出るかもしれない。安静にしとけば危害を加えるリスクがなくなる。

これは哲学的に言えば、「語の多義性」の問題なのである。われわれは何となくある「語」は何かイデア的な意味を持っていると思っているが、それは違う。われわれは経験的に言語の使用の場、つまり言語ゲームに参加することで語の意味を学ぶ。コップは水を飲むもの、歯ブラシを立てるもの、怒ったとき人に投げるものかもしれないが、一番よく使われるものがその「意味」として辞書に登録される。普段われわれが観取する意味は、認識者の欲望に相関している。AIにとっても語は報酬関数に則して理解されるのだ。だから報酬関数の設定は難しい。この設定は言語でなされるのだから。

さて、AIがいろいろ世の中をよくするにせよ自分の生にとって最も重要なことは連続している生である。いくら自分の脳状態をコンピューターにアップロード出来たとしてもこっち側に残る今の私の連続性が私の全てである。ここに定位していろいろ考えていくべきだと思うのだが、実は意識に固執するのも今の人間社会に作られた一時的な感受性なのかもしれない。

シンギュラリティ:人工知能から超知能へ
マレー・シャナハン
エヌティティ出版
2016-01-29

 

われわれは日々いろいろな経験により、何かを学び、自由意志で沢山の選択肢から選び取って行為している。いろいろな経験というのは外部情報に発する。人とのコミュニケーションであったり、テレビやインターネット、本などのメディア、街の様子や自然の景色やあらゆる外部情報である。

その「いろいろな経験」の結果、「ある行為」が生まれる。ここに因果関係があるとすれば、沢山の人間のあらゆるこうした経験と行為のビッグデータを蓄積すれば「経験」と「行為」の因果関係が明確になり、為政者はそれを利用してある「行為」を量産できる。例えば、5歳までの子供の頃に親戚たちと週に1回以上接していて、小学校で生徒会に入っていて、高校でラグビーをやっていて、などの結果、30代で「社会貢献活動」という行為を行うなど。

さらに、これよりもっともっと細かいこと、生まれてから894日目に何を目にする、とか。もちろんそれを認識する主体の分子構造なども。そこまでコントロールされたら、われわれが自由意志で行為しているように見えても、既に決められたレールの上を決まりに沿って歩んでいるにすぎない。

自分たちは複雑なリアルな「今、ここ」の持続を生きているように感じているが、その行動はいとも簡単に操作されてしまうのだ。

催眠術とか見ればそれが分かる。トランプの選挙だって、大衆をどう動かすかという経験的な知を使って、どのボタンを押せばどうなるかということの繰り返しで票を取ったようなものであろう。経済的、技術的な問題で全人口の各々への働きかけ(どういう体験をさせるか)というのはまだ実現していないが、もし一人ひとりにまでがっつり働きかけることができるようになれば社会は完全に操作されるかもしれない。

その鍵がビッグデータなのだろう。例えば、僕の学歴や職歴はもちろん、普段の行動を一秒単位で記録されれば何を食べたかどんな仕事をしたか、どんな会話をしたかなどの情報も取られ、それが「どう投票に結びついたか」など他のサンプルとくらべて分析すればどういう過去の経験がその「投票」に影響したかがすぐ分かるだろう。あとは次のときに同じような手法で動員すればいいのだ。

Big-Data

ただ、おもしろのは、僕はそれが動員されたと気づかないことだ。北風と太陽ではないが、僕が普段目にするメディアなどに何気なく情報を紛れ込ませ、着々と投票の意思決定への準備がなされる。こうなると、「現時点」での状況との境目がよくわからなくなる。今だってそういう情報はそこまで精緻ではないがたくさんある。僕が昨年投票した決定だって、そういう情報に基いているのだ。そうなると、結局は、意識的に「動員された」「強制された」と感づかなければ社会的には許さなければならない。

今後、このような動員に抗うには、相当な主体的な情報収集が求められる。でも、その仮に主体的に情報を集めているようでももうすべてが動員のために息の掛かったメディアになっていたらどうなるか。1984の世界とは違う。なぜなら、監視されていること自体を知らないからだ。自由に振る舞っているつもりでも、全部ビッグデータとして取られ、その分析をもとにした働きかけがなされる。

私は今日本語を外国人に教えている。語学を教えようとすると結局、その人の過去を全て理解しその人がどんな感受性を持っているのか理解する必要がある。そしてその生徒にコミュニケーションで働きかけ特定の刺激を与えて、彼らの意識状態をコントロールする、というのが基本構造。

そもそも、英語を学びたいと思っている日本人にとって、既に申し分のない環境がある。作文や音読をすればネイティブから無料ですぐに添削されるサービスもあるし、youtubeやpodcastなどに勉強の素材はいくらでもある。ちょっとお金を払えば至れり尽くせりのサービスがあるのに、やらない。なぜか。結局必要ないことなのだ。 そういう感受性や過去を持っていないから。だから、こっちがそういうのが「必要」な物語にしてあげないといけない。物語を創ってあげる。そうして、特定の刺激を一定期間与えることで語学を真面目にする人間を作っていくことになる。

語学はおいておいて、あらゆる商品やサービス、さらには政府の政策に至るまで人間に働きかけるすべての行為の基本構造は同じだ。こうなると、というか、そう考えると行き着く先は、完全に人生をコントロールされた社会。むしろマルクスが描いた理想的な共産主義社会なのではないか。

でも、これはうまくいけばいいことなのではないか?

もしも為政者が人の実存の充実を第一に社会づくりをすれば。

このようなビッグデータと人工知能を得た為政者にとって、社会を作ることは難しいことではない。その社会に属す人間はあなたのように実存的世界を生き、クオリアのいきいきした世界を生きている。彼らは完全に社会の歯車であるが、本人の実存的には自由に振る舞っていて幸せな人生を送れる。

普通に自由に生まれ育ったと思っていても、彼が目にするあらゆるものは事前に仕組まれたものでまさにトゥルーマン・ショー状態、彼を育てる親がそもそも操られている。そして自然ととある工場で働く人生を歩むが、それはもちろん為政者の決めたこと。

そしてその為政者とはAIかもしれない。

例えば、心理学でフロー体験というものが確認されている。AIの為政者はそれを再現できるように人々の経験を構築していけばいい。

フロー体験とは何か。

とてもシンプルなことだが、「どう生きるべきか」と問われれば、何かに情熱を持って生き続けること、というのがもっとも正しい。

しかし、人は誰でも熱中できるものに出会えるとも限らない。というか、出会えるというよりも、自分がその必要性を感じ積極的に行動しなくてはそういう存在を「作る」ことはできない。そう、自分から見出していくものだ。錦織圭だって、テニスを見つけて自然と情熱注げるようになったわけではない。

日々の上達を喜び、相手に負けて悔しがり、時にはやめたくなってもでもやっぱりもっとうまくなりたい、強くなりたい、いろんな感情や思いがそこにはある。大きなリスクをとってそれを人生の軸にすると決断した。それをまとめと情熱という。

結局、フロー体験が最高の体験。そこに如何に嵌めてあげるか、という視点で為政者は人々の体験をコントロールすればいい。社会の歯車でいいんだ。 

以下、とあるサイトからフロー理論の概要の説明を引用する。
(http://blogs.itmedia.co.jp/yasuyasu1976/2011/11/post-66a9.html)
■フロー体験とは?

まず、このチクセントミハイの研究の中核をなす「フロー体験」とは、自分自身の「心理的エネルギー」が、100%、今取り組んでいる対象へと注がれている状態を表します。
この状態が満たされるためには、以下のような要素が必要となってきます。

1.自分の能力に対して適切な難易度のものに取り組んでいる
取り組んでいる内容が、自分の能力と照らしあわせて難しすぎず、簡単すぎずであり、全能力を出しきることを要求されるレベルにあること。
そして、それをやり通すことによって、その自分の能力が向上するような難易度であること。

2.対象への自己統制感がある
取り組んでいるものに対して、自分がコントロールができるという感覚、可能性を感じていること。
例えば、F1のレーサーが、自分の車を思い通りにコントロールでき、自在に操ることができるような感覚もこれに当てはまるし、ギャンブルをする人が、運頼みではなく、自分の頭を駆使すれば、きっと儲けることができるに違いないと思い込んでいる状態も、これに当てはまる。

3.直接的なフィードバックがある
取組んでいることに対して、即座に「それは良いか、よくないか」というフィードバックが返ってくること。
例えば、テニスのプレイであれば、いい球が打てたかどうかがすぐに音や感覚で分かり、文章を書いているときであれば、自分自身の感覚でよい一節になっているかが分かるなど、自分の内面的感覚で良し悪しが即座に分かることがこれに当てはまる。

4.集中を妨げる外乱がシャットアウトされている
取組対象以外のことが自分に降り掛かってくることがなく、対象にのみ集中できること。
例えば、自分が文章を書くことに集中しているときに、同僚から声を掛けられてそちらに意識が発散するようなことがないことがこれに当てはまる。

これらの要素が満たされると、自分の「心理的エネルギー」は、よどみなく連続して、100%その対象に注ぎ込まれるようになり、これによりとてつもない集中と、楽しい感覚が生み出されます。

このような状態を「フロー体験」と呼び、この状態にある間、人は時間の流れを忘れ、ひたすらそのことに没頭し、得も言われぬ高揚感に包まれます。


フロー理論は教育やマネジメントへの応用が検討されがちであるが、そもそも世界の運営の根本となる個人の幸せ(主観的幸せ、個人の救済ともいえる)を正確に捉える際に役立つ。この理論で、フロー状態を作り出すサービスを考えたり、社会システムの構築を考えるのは間違いなく社会のためになる。

ちなみにフロー理論について詳しくは以下の本を参考にしてみてほしい。私への影響大TOP3に入る本。量が多いが、その内容はどれも密である。その辺の心理学の表面的な本とは違い、人間の意識は脳内現象であることを前提にどのような環境にいれば幸せになれるかという疑問を追い求めた結果たどり着いたと思える著者のフロー理論がよく分かる。 

フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)
M. チクセントミハイ
世界思想社
1996-08



フロー理論は1つの例で紹介したが、ビッグデータが溜まって人工知能が解析すればすぐにフロー理論よりももっと精緻な「最高の実存を持てる」理論を導きだすだろう。そして、そのために人が生まれてからどのような経験をするかをトゥルーマン・ショーのように作り上げるのだ。もちろん、資源配分の問題でいきなりみんなが最高の実存を持ているようにはならない。だから例えばまずは、超有能で社会の発展に寄与する人間を量産するだろう。なので過度期はあるが、中長期てきにはみんながハッピーな状態になるだろう。

大変興味深いのは、こうしてAIが作った完成された「社会に属す全ての人間の実存を豊かにした」社会がどのような社会になるのか、ということだ。実は今と根本的に似た社会かもしれない。貧乏でも幸せであることはおうおうにしてある。個人的な予想では、人は物語を持って現実に適応しているので、要は各自が自分の物語を安定させていれば幸せなのだ。

問題は、AIが凄すぎてもう人間が与えた「社会に属す全ての人間の実存を豊かにする」というミッションを書き換えてしまう可能性である。 

われわれは「意識」を閉じていく方向に向かっているのではないか?という仮説について考えてみたい。われわれは反省的な意識なしに行動をすることがある。それは無意識であり文字とおり意識に上ることはない。われわれは常にそのような状態になることを望んでいるのではないか?

cs



なぜなら、人類が有史以来求めてきた「自由」の本質を探究してみると、無意識状態を求めているように見えるからだ。以下、それについて考えてみる。

『エロスの世界像』という本で「心」と「身体」という二項に分節される根拠を問い、心身問題に一つの道筋を提示している。以下、該当箇所。



 

もしも一切が「全能」であるような存在者がいればその存在は、「身体」を意識する必要がない。「意志」したこと、あるいは「欲求」したことがただちに実現するならば、彼にとって「身体」は存在しない。「身体」がその存在から分離され分節される理由がない。

 

獲物を狙って全力で走るとき、死に物狂いで闘っているとき動物は自分と「身体」の分裂を意識しない。だが、傷ついた動物は、はじめて「身体」の「できない」を意識する。同様に、「逆上がり」のできない子、遅くしか走れない者、障害のある人間等々は、強く自分の「身体」を意識することになる。

 

主体の「心」と「身体」が分離される根本の契機は、主体の「〜したい」と「〜できる、できない」という関係の相関の中にある。「存在可能」と「従う」ともいえる。だから「身体」の「〜できる」という契機が「心」と「身体」という二項に分節される“根拠”であって、その逆ではないのである。

 

「心」と「身体」はあらかじめ別の原理や体系として存在しているのではなく、欲望「〜したい」が可能と不可能を見出すときに、はじめて「分裂」として意識される。その意味で、およそ「身体」とは欲望存在としての生きものにとっての「存在可能の条件」だと定義することができる。(205)


これを敷衍すると、「〜したい」という主体の意図に対して、身体が「できない」、或いはついていけないときに「主体の意図」の見直しや我慢のために「意識」が生まれる、と言える。

書いてある通り、意図したことが全て瞬時に実現すればするほど「意識」される程度は少なくより「無意識(夢を見ず寝ているような意識がない状態)」に近づいていくだろう。車で運転に集中しているときなどやランナーズ・ハイのようなものだろうか。

さて、これを少し考えてみると、「無意識」状態に近い感覚をわれわれは、「自由」として理想の状態としているのではないか。

同じような議論が下條信輔『意識とは何か』の「自由な選択について」の考察がでも述べられているので簡単にまとめる。
どんなときに私たちは自由と感じるか。逆にどんなときに私たちは「自分の行為を自由な選択でない」と感じるのか。
  1. 行動が他人または外部の状況によって強制的にストップされたとき。
  2. 自分の行動を評価するとき。自分の行動を外的要因に帰属させることができるとき。ボールが飛んでくればとっさに顔を背向ける。飢えなどの身体の要因も心からみれば外的。結局、自分の行動が自由な行為でないと感じるのは外部の原因が直接的で明らかな場合。裏返すと、自由意志とは、外部要因が見当たらないときの、内的過程への原因帰属の様式そのもの。無意識の過程だから行動にいたる因果関係に気づかない。外側に要因が見当たらないから自分の好みや選択に原因を帰する。この「自分の好みや選択が原因」というのが自由意志の定義。
  3. 他者の視点から見るとき
自由意志による行為の選択を「感じる」のは一人称の私だけ。行為が機械論的決定だけに基づくようにみえるのは客観的な見方、つまり他人の視点による見方で科学的分析をしたときなので自由意志が蒸発するのはあたりまえ。

これら3つをとおして、いえること。
自由な意志の印象がもっとも妨げられるのは行動が意識され、その原因が外の世界に、誰にも観察できるかたちで見つかったとき。この3つのケースがそのまま意識が生じる3通りの状況ともほぼ一致している。

裏を返せば「自由な行為」はもっとも意識にのぼりにくいときに実現する。没頭し、われを忘れているときに。このことは直感に反するかも。普通は自由意志が人を人たらしめる高次の心的機能、意識のもっとも意識らしい部分とされ、忘我(即自)の状態は動物的とみなされるから。

いずれにせよ、自分の選択した行動を自由意志によるものと認知するためには無意識的な過程が必要。反面、そもそも無意識的な過程だけなら自由意志は存在しない。存在したとしても機械論的決定論との対立など生じない。また、自由意志を感じるためにはプランと実際の行動が一致することが必要だが、この行動のプランというのはたいていの場合明確に意識されている。

逆説的だが、意識のもっとも意識らしい頂点の部分において、心は、無意識の領域へ、そして生理、身体、世界へと際限なく漏れだす。

「自由ではないと感じること」から考えて「自由を感じること」(自由意志)を浮き彫りにしている。結論として「自由」はわれわれが「無意識」に近づくほど感度が高まるようだ。

ということはやはり、「自由」を理想にするわれわれは「無意識」状態になることを欲しているといえるのではないか。

人工知能など先端技術により、世界は確実に「安心・安全・便利・快適」さらに「不老不労」へ向かっている。その進歩が遅くても、それが目指されていることは間違いない。

仮に、寝たきりでもずっと栄養補給され、ずっと死なないのであればわれわれはどんな意思決定もする必要はなくなる。そのときに、外に遊びにいくようなこともないだろう。要するに、「意識」は閉じていくのだ。全知全能となれば赤ん坊と同じく、「意識」は必要ないのだ。
vn
 

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