記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ:人間とは何か > 人工知能(AI)

われわれは日々いろいろな経験により、何かを学び、自由意志で沢山の選択肢から選び取って行為している。いろいろな経験というのは外部情報に発する。人とのコミュニケーションであったり、テレビやインターネット、本などのメディア、街の様子や自然の景色やあらゆる外部情報である。

その「いろいろな経験」の結果、「ある行為」が生まれる。ここに因果関係があるとすれば、沢山の人間のあらゆるこうした経験と行為のビッグデータを蓄積すれば「経験」と「行為」の因果関係が明確になり、為政者はそれを利用してある「行為」を量産できる。例えば、5歳までの子供の頃に親戚たちと週に1回以上接していて、小学校で生徒会に入っていて、高校でラグビーをやっていて、などの結果、30代で「社会貢献活動」という行為を行うなど。

さらに、これよりもっともっと細かいこと、生まれてから894日目に何を目にする、とか。もちろんそれを認識する主体の分子構造なども。そこまでコントロールされたら、われわれが自由意志で行為しているように見えても、既に決められたレールの上を決まりに沿って歩んでいるにすぎない。

自分たちは複雑なリアルな「今、ここ」の持続を生きているように感じているが、その行動はいとも簡単に操作されてしまうのだ。

催眠術とか見ればそれが分かる。トランプの選挙だって、大衆をどう動かすかという経験的な知を使って、どのボタンを押せばどうなるかということの繰り返しで票を取ったようなものであろう。経済的、技術的な問題で全人口の各々への働きかけ(どういう体験をさせるか)というのはまだ実現していないが、もし一人ひとりにまでがっつり働きかけることができるようになれば社会は完全に操作されるかもしれない。

その鍵がビッグデータなのだろう。例えば、僕の学歴や職歴はもちろん、普段の行動を一秒単位で記録されれば何を食べたかどんな仕事をしたか、どんな会話をしたかなどの情報も取られ、それが「どう投票に結びついたか」など他のサンプルとくらべて分析すればどういう過去の経験がその「投票」に影響したかがすぐ分かるだろう。あとは次のときに同じような手法で動員すればいいのだ。

Big-Data

ただ、おもしろのは、僕はそれが動員されたと気づかないことだ。北風と太陽ではないが、僕が普段目にするメディアなどに何気なく情報を紛れ込ませ、着々と投票の意思決定への準備がなされる。こうなると、「現時点」での状況との境目がよくわからなくなる。今だってそういう情報はそこまで精緻ではないがたくさんある。僕が昨年投票した決定だって、そういう情報に基いているのだ。そうなると、結局は、意識的に「動員された」「強制された」と感づかなければ社会的には許さなければならない。

今後、このような動員に抗うには、相当な主体的な情報収集が求められる。でも、その仮に主体的に情報を集めているようでももうすべてが動員のために息の掛かったメディアになっていたらどうなるか。1984の世界とは違う。なぜなら、監視されていること自体を知らないからだ。自由に振る舞っているつもりでも、全部ビッグデータとして取られ、その分析をもとにした働きかけがなされる。

私は今日本語を外国人に教えている。語学を教えようとすると結局、その人の過去を全て理解しその人がどんな感受性を持っているのか理解する必要がある。そしてその生徒にコミュニケーションで働きかけ特定の刺激を与えて、彼らの意識状態をコントロールする、というのが基本構造。

そもそも、英語を学びたいと思っている日本人にとって、既に申し分のない環境がある。作文や音読をすればネイティブから無料ですぐに添削されるサービスもあるし、youtubeやpodcastなどに勉強の素材はいくらでもある。ちょっとお金を払えば至れり尽くせりのサービスがあるのに、やらない。なぜか。結局必要ないことなのだ。 そういう感受性や過去を持っていないから。だから、こっちがそういうのが「必要」な物語にしてあげないといけない。物語を創ってあげる。そうして、特定の刺激を一定期間与えることで語学を真面目にする人間を作っていくことになる。

語学はおいておいて、あらゆる商品やサービス、さらには政府の政策に至るまで人間に働きかけるすべての行為の基本構造は同じだ。こうなると、というか、そう考えると行き着く先は、完全に人生をコントロールされた社会。むしろマルクスが描いた理想的な共産主義社会なのではないか。

でも、これはうまくいけばいいことなのではないか?

もしも為政者が人の実存の充実を第一に社会づくりをすれば。

このようなビッグデータと人工知能を得た為政者にとって、社会を作ることは難しいことではない。その社会に属す人間はあなたのように実存的世界を生き、クオリアのいきいきした世界を生きている。彼らは完全に社会の歯車であるが、本人の実存的には自由に振る舞っていて幸せな人生を送れる。

普通に自由に生まれ育ったと思っていても、彼が目にするあらゆるものは事前に仕組まれたものでまさにトゥルーマン・ショー状態、彼を育てる親がそもそも操られている。そして自然ととある工場で働く人生を歩むが、それはもちろん為政者の決めたこと。

そしてその為政者とはAIかもしれない。

例えば、心理学でフロー体験というものが確認されている。AIの為政者はそれを再現できるように人々の経験を構築していけばいい。

フロー体験とは何か。

とてもシンプルなことだが、「どう生きるべきか」と問われれば、何かに情熱を持って生き続けること、というのがもっとも正しい。

しかし、人は誰でも熱中できるものに出会えるとも限らない。というか、出会えるというよりも、自分がその必要性を感じ積極的に行動しなくてはそういう存在を「作る」ことはできない。そう、自分から見出していくものだ。錦織圭だって、テニスを見つけて自然と情熱注げるようになったわけではない。

日々の上達を喜び、相手に負けて悔しがり、時にはやめたくなってもでもやっぱりもっとうまくなりたい、強くなりたい、いろんな感情や思いがそこにはある。大きなリスクをとってそれを人生の軸にすると決断した。それをまとめと情熱という。

結局、フロー体験が最高の体験。そこに如何に嵌めてあげるか、という視点で為政者は人々の体験をコントロールすればいい。社会の歯車でいいんだ。 

以下、とあるサイトからフロー理論の概要の説明を引用する。
(http://blogs.itmedia.co.jp/yasuyasu1976/2011/11/post-66a9.html)
■フロー体験とは?

まず、このチクセントミハイの研究の中核をなす「フロー体験」とは、自分自身の「心理的エネルギー」が、100%、今取り組んでいる対象へと注がれている状態を表します。
この状態が満たされるためには、以下のような要素が必要となってきます。

1.自分の能力に対して適切な難易度のものに取り組んでいる
取り組んでいる内容が、自分の能力と照らしあわせて難しすぎず、簡単すぎずであり、全能力を出しきることを要求されるレベルにあること。
そして、それをやり通すことによって、その自分の能力が向上するような難易度であること。

2.対象への自己統制感がある
取り組んでいるものに対して、自分がコントロールができるという感覚、可能性を感じていること。
例えば、F1のレーサーが、自分の車を思い通りにコントロールでき、自在に操ることができるような感覚もこれに当てはまるし、ギャンブルをする人が、運頼みではなく、自分の頭を駆使すれば、きっと儲けることができるに違いないと思い込んでいる状態も、これに当てはまる。

3.直接的なフィードバックがある
取組んでいることに対して、即座に「それは良いか、よくないか」というフィードバックが返ってくること。
例えば、テニスのプレイであれば、いい球が打てたかどうかがすぐに音や感覚で分かり、文章を書いているときであれば、自分自身の感覚でよい一節になっているかが分かるなど、自分の内面的感覚で良し悪しが即座に分かることがこれに当てはまる。

4.集中を妨げる外乱がシャットアウトされている
取組対象以外のことが自分に降り掛かってくることがなく、対象にのみ集中できること。
例えば、自分が文章を書くことに集中しているときに、同僚から声を掛けられてそちらに意識が発散するようなことがないことがこれに当てはまる。

これらの要素が満たされると、自分の「心理的エネルギー」は、よどみなく連続して、100%その対象に注ぎ込まれるようになり、これによりとてつもない集中と、楽しい感覚が生み出されます。

このような状態を「フロー体験」と呼び、この状態にある間、人は時間の流れを忘れ、ひたすらそのことに没頭し、得も言われぬ高揚感に包まれます。


フロー理論は教育やマネジメントへの応用が検討されがちであるが、そもそも世界の運営の根本となる個人の幸せ(主観的幸せ、個人の救済ともいえる)を正確に捉える際に役立つ。この理論で、フロー状態を作り出すサービスを考えたり、社会システムの構築を考えるのは間違いなく社会のためになる。

ちなみにフロー理論について詳しくは以下の本を参考にしてみてほしい。私への影響大TOP3に入る本。量が多いが、その内容はどれも密である。その辺の心理学の表面的な本とは違い、人間の意識は脳内現象であることを前提にどのような環境にいれば幸せになれるかという疑問を追い求めた結果たどり着いたと思える著者のフロー理論がよく分かる。 

フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)
M. チクセントミハイ
世界思想社
1996-08



フロー理論は1つの例で紹介したが、ビッグデータが溜まって人工知能が解析すればすぐにフロー理論よりももっと精緻な「最高の実存を持てる」理論を導きだすだろう。そして、そのために人が生まれてからどのような経験をするかをトゥルーマン・ショーのように作り上げるのだ。もちろん、資源配分の問題でいきなりみんなが最高の実存を持ているようにはならない。だから例えばまずは、超有能で社会の発展に寄与する人間を量産するだろう。なので過度期はあるが、中長期てきにはみんながハッピーな状態になるだろう。

大変興味深いのは、こうしてAIが作った完成された「社会に属す全ての人間の実存を豊かにした」社会がどのような社会になるのか、ということだ。実は今と根本的に似た社会かもしれない。貧乏でも幸せであることはおうおうにしてある。個人的な予想では、人は物語を持って現実に適応しているので、要は各自が自分の物語を安定させていれば幸せなのだ。

問題は、AIが凄すぎてもう人間が与えた「社会に属す全ての人間の実存を豊かにする」というミッションを書き換えてしまう可能性である。 

われわれは「意識」を閉じていく方向に向かっているのではないか?という仮説について考えてみたい。われわれは反省的な意識なしに行動をすることがある。それは無意識であり文字とおり意識に上ることはない。われわれは常にそのような状態になることを望んでいるのではないか?

cs



なぜなら、人類が有史以来求めてきた「自由」の本質を探究してみると、無意識状態を求めているように見えるからだ。以下、それについて考えてみる。

『エロスの世界像』という本で「心」と「身体」という二項に分節される根拠を問い、心身問題に一つの道筋を提示している。以下、該当箇所。



 

もしも一切が「全能」であるような存在者がいればその存在は、「身体」を意識する必要がない。「意志」したこと、あるいは「欲求」したことがただちに実現するならば、彼にとって「身体」は存在しない。「身体」がその存在から分離され分節される理由がない。

 

獲物を狙って全力で走るとき、死に物狂いで闘っているとき動物は自分と「身体」の分裂を意識しない。だが、傷ついた動物は、はじめて「身体」の「できない」を意識する。同様に、「逆上がり」のできない子、遅くしか走れない者、障害のある人間等々は、強く自分の「身体」を意識することになる。

 

主体の「心」と「身体」が分離される根本の契機は、主体の「〜したい」と「〜できる、できない」という関係の相関の中にある。「存在可能」と「従う」ともいえる。だから「身体」の「〜できる」という契機が「心」と「身体」という二項に分節される“根拠”であって、その逆ではないのである。

 

「心」と「身体」はあらかじめ別の原理や体系として存在しているのではなく、欲望「〜したい」が可能と不可能を見出すときに、はじめて「分裂」として意識される。その意味で、およそ「身体」とは欲望存在としての生きものにとっての「存在可能の条件」だと定義することができる。(205)


これを敷衍すると、「〜したい」という主体の意図に対して、身体が「できない」、或いはついていけないときに「主体の意図」の見直しや我慢のために「意識」が生まれる、と言える。

書いてある通り、意図したことが全て瞬時に実現すればするほど「意識」される程度は少なくより「無意識(夢を見ず寝ているような意識がない状態)」に近づいていくだろう。車で運転に集中しているときなどやランナーズ・ハイのようなものだろうか。

さて、これを少し考えてみると、「無意識」状態に近い感覚をわれわれは、「自由」として理想の状態としているのではないか。

同じような議論が下條信輔『意識とは何か』の「自由な選択について」の考察がでも述べられているので簡単にまとめる。
どんなときに私たちは自由と感じるか。逆にどんなときに私たちは「自分の行為を自由な選択でない」と感じるのか。
  1. 行動が他人または外部の状況によって強制的にストップされたとき。
  2. 自分の行動を評価するとき。自分の行動を外的要因に帰属させることができるとき。ボールが飛んでくればとっさに顔を背向ける。飢えなどの身体の要因も心からみれば外的。結局、自分の行動が自由な行為でないと感じるのは外部の原因が直接的で明らかな場合。裏返すと、自由意志とは、外部要因が見当たらないときの、内的過程への原因帰属の様式そのもの。無意識の過程だから行動にいたる因果関係に気づかない。外側に要因が見当たらないから自分の好みや選択に原因を帰する。この「自分の好みや選択が原因」というのが自由意志の定義。
  3. 他者の視点から見るとき
自由意志による行為の選択を「感じる」のは一人称の私だけ。行為が機械論的決定だけに基づくようにみえるのは客観的な見方、つまり他人の視点による見方で科学的分析をしたときなので自由意志が蒸発するのはあたりまえ。

これら3つをとおして、いえること。
自由な意志の印象がもっとも妨げられるのは行動が意識され、その原因が外の世界に、誰にも観察できるかたちで見つかったとき。この3つのケースがそのまま意識が生じる3通りの状況ともほぼ一致している。

裏を返せば「自由な行為」はもっとも意識にのぼりにくいときに実現する。没頭し、われを忘れているときに。このことは直感に反するかも。普通は自由意志が人を人たらしめる高次の心的機能、意識のもっとも意識らしい部分とされ、忘我(即自)の状態は動物的とみなされるから。

いずれにせよ、自分の選択した行動を自由意志によるものと認知するためには無意識的な過程が必要。反面、そもそも無意識的な過程だけなら自由意志は存在しない。存在したとしても機械論的決定論との対立など生じない。また、自由意志を感じるためにはプランと実際の行動が一致することが必要だが、この行動のプランというのはたいていの場合明確に意識されている。

逆説的だが、意識のもっとも意識らしい頂点の部分において、心は、無意識の領域へ、そして生理、身体、世界へと際限なく漏れだす。

「自由ではないと感じること」から考えて「自由を感じること」(自由意志)を浮き彫りにしている。結論として「自由」はわれわれが「無意識」に近づくほど感度が高まるようだ。

ということはやはり、「自由」を理想にするわれわれは「無意識」状態になることを欲しているといえるのではないか。

人工知能など先端技術により、世界は確実に「安心・安全・便利・快適」さらに「不老不労」へ向かっている。その進歩が遅くても、それが目指されていることは間違いない。

仮に、寝たきりでもずっと栄養補給され、ずっと死なないのであればわれわれはどんな意思決定もする必要はなくなる。そのときに、外に遊びにいくようなこともないだろう。要するに、「意識」は閉じていくのだ。全知全能となれば赤ん坊と同じく、「意識」は必要ないのだ。
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私は以前、学校の授業で、音声認識と音声合成について学んだことがある。簡潔に言ってしまえば、音声認識とは人が発語した音声をプログラムに正しくテキスト化させることで、音声合成とはテキストをプログラムに正しく発語させることである。

 

音声生成に不可欠な、アクセント・イントネーション、リズム・タイミングといった音声言語を特徴付ける韻律特徴の制御のしくみや、言語情報との関連、聴覚心理的な観点からの理解、これらの制御規則を学習する人間の諸機能の特性についてのモデル化さらに検証をし、音声認識と音声合成の精度を高めるための作られた理論や技術の概要を学んだのである。

 

音声認識技術が高まれば、我々が発語により言語行為をした場合に、プログラムが正しく発語内容をテキスト化できる。もちろん、言語行為自体の「意味」の理解は別の問題となる。しかし、正しいテキスト化は言語行為の理解の第一歩である。

 

また、音声合成技術のほうは、既に人間の声と区別がつかないレベルに達しており、実際にウェブ上の音声合成技術を利用してみると、その精度の高さに驚いてしまう。(例えば、imtranlator.net[1]を使ってみるとそのレベルの高さに感動してしまう

現時点での実用例は主に以下の3つのようだ。
[2]

1.       文字を読むことが困難な障害者や、文字が読めない人(幼児、外国人など)に画面読み上げソフト(スクリーンリーダー)として

2.       言葉を発することが困難な人が代替手段として

3.       家電製品の音声ガイダンスや、公共交通機関や防災関係のアナウンス用途として

 

この音声合成の読み上げは現時点の技術では「棒読み」しかできないが、1,3の用途に限れば「棒読み」で問題ないだろうし、もうこれ以上精度を上げることの実用での利は収穫逓減でほとんどないだろう。

 

2については「棒読み」以外に付加要素として需要がありうる。さらに高度にして発話に関するノンバーバルな声のトーンや声質なども音声合成に取り入れることである。実際、以前授業でも「ノンバーバル発話「ん」の韻律特性を用いた対話韻律の生成」を紹介していただいた。

 

仮に喜怒哀楽或いはさらに細かく分けた発語の際に表現できる感情を列挙し、読み上げ速度やイントネーション、声の大小など適切な特徴を見出しそれをパターン化できたとしよう。言葉を発することができない人は、まずキーボードなどによりテキストで発話したい文章を作成。それを音声合成プログラムで発語する際に、「喜怒哀楽」を選択する、ということになるだろうか。それではコミュニケーションがぎこちなくなり、現実的な使用には不適切である。やはり自分の口で発話する際に感情などノンバーバルなものを乗せて伝えるのが自然だ。

 

では、「ノンバーバル発話」の音声合成は役に立たないのだろうか。そんなことはない。先の1,3でも利用すれば付加価値はある。例えば、物語の読み上げであれば、お母さんが幼い子どもに絵本を読み聞かせるように表現豊かに読み上げれば聞き手はより豊かに楽しく内容を理解できるだろう。

 

では、そのような音声合成技術が可能なのだろうか。

 

この問題は2つに分けて考えるべきだ。まずは、上述したがテキストに載せるべき感情などのパターンを十分にいくつかに分け、その特徴(イントネーション、速度など)を適切に記述する。これは実際には非常に難しい。人は自分が特別な口調で発語しているときに必ずしもどのような心的状態(怒っているのか、興奮しているのか、その程度はどれくらいか)など把握していないし、捉える基準もない)

 

さらに、仮にこの問題が解決されても、プログラムが何かの文章を読む際に“どのような”ノンバーバル発話を適応して読むべきかを「どうやって判断するのか」という問題がある。例えば、「なにやってるの?」という発話でも文脈次第で、興味を示すゆっくりとした口調の発語もあれば、相手に怒りを示す口調の発語も考えられるが、プログラムはそれを文脈で判断しなくてはいけない。そうでなければ絵本の読み上げはお母さんのようにうまくはできない。

 

ここまで来ると、当初のような人間の発語を分析してパターンを見出し再現するという次元を超えている。むしろ、ここで必要なのは人間と同じレベルの知性を持った人工知能ロボットである。

 

なぜだろうか。絵本の読み上げがそんなに難しいことなのか。

 

例えば、あるプログラムに桃太郎の絵本を子供に対して読み上げされると考えてみよう。そのプログラムはノンバーバル発語をできるという設定だ。鬼が発語するときは、ゆっくりと大きな低い声でわざとらしい口調で発語するだろう。

 

しかし、この判断をプログラムはどうやってするのか?もちろん、事前に鬼はそういうしゃべり方をする、などとインプットしておいてはプログラムの意味がない。(というか汎用性がないので使えない)

 

プログラムがその判断をするには無数の知識を既に持っていなくてはならない。

Ø  どれが鬼に発語か識別する

Ø  鬼というのが悪いキャラクターであること

Ø  実在しない存在であること

Ø  悪いキャラクターの典型的な話し方

などなど無数にある。それこそ人間が持っている知識のセット一式が必要である。そのようなことを事前に人間が入力するのは不可能。

 

要するに、人間と同じようなレベルの知性を持った人工知能が必要なのである。それは人間と同じようなインプット情報(視覚、聴覚、嗅覚の情報など)を獲得でき、自分で特徴量を見出し概念を獲得できるロボット。さらに、人間に近い身体も必要である。

 

人工知能を専門にする日本の工学者松尾豊は著書『人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの』 (角川EpuB選書、2015)にて人工知能の身体の必要性について以下のように述べる。

 

“たとえば、コップというものをきちんと理解するためには、コップを触ってみる必要がある。ガラスや陶器のコップは強く握ると割れてしまうし、そういうことも含めて「コップ」という概念がつくらている。「外界と相互作用できる身体がないと概念はとらえきれない」というのが、身体性というアプローチの考え方である。”

 

“人間が生活する環境で、人間並みの「身体」を持てば、人間がつくり上げる概念にある程度近いものは獲得できるはずだ。”

 

人間と同じ程度の概念を持つには人間と同じような身体を持ち、同じような環境で時間を過ごし一般的な人間が形成してきた概念を学ばなくてはならない。もちろん、それらをすべて人間が何らかの形で記述しインプットしてもいいが、それは天文学的な数になるし、そもそも人間は自分がどんな概念を持っているかなど把握していない。

 

さらに松尾は、人工知能の発展を六段階に分けている。第一段階が画像認識レベル、最終の六段階目に秘書として働けるレベルを設定しているが「言語の理解」を第五段階とかなり最終段階に近くに置いている。こうしたことから、絵本を子供に対してノンバーバルな要素を含み発語することは人工知能やロボットの発展段階の最終局面に近いほど難易度の高いことがうかがえる。

 

以上、私は本授業で、われわれの生活を便利にする音声認識と音声合成が具体的にどのような技術や理論で成り立っているのかの概要を掴むことができた。そこには一筋縄ではいかない数学的、工学的な知見が詰まっているし、発話された言葉を分析した研究者たちの努力も見られた。それらを受けて、今後こうした分野が社会にどのような影響を及ぼしそれらの実現の可能性を考察した。

 

**参考

なお、上記の考察において私は以下のような言語観に基いている。以下は竹田 青嗣『現象学は思考の原理である  』(筑摩書房, 2004)を要約したもの。以下で示される「企投的意味」と「一般意味」の違いが分かれば言語の持つ様々な問題が解明される。例えば、「広間が鶏に入り込んだ」という文はおかしいが、われわれは理解できる。

 

■「企投的意味」と「一般意味」

語がもつ辞書的な意味を「一般意味」、現実言語の中でわれわれが了解しようとしている発話者の言葉の意味を「関係企投による意味」と区別しよう。その基本関係は、言語行為は一般に言語によって他者と世界を共有しようとする関係的な試み(企投)であり、人は語の一般意味を利用して自分のその都度の「企投的な意味」を他者に投げかけようとする。

 

ウィトゲンシュタインの哲学探究での素朴な言語ゲームを例にしてみよう。ある男Aが「板石!」とBに言ったとする。これはBに対して、板石を持ってきてくれ、といっているかもしれないし、この板石は邪魔だからどけてくれ、ということかもしれない。この語は「板石」の概念を意味するが、男Aがいいたいのは「邪魔だからどけて」である。これは語の一般意味を利用して、自分の企投的意味を投げかけようとしている。

 

こうしてみると、語の表現する一般意味がそのままで言語行為の企投的意味とぴたりと重なることは決してありえない。すなわちわれわれは、どれほど単純に見える言語行為でもかならず一般意味を利用してその都度の各自的な意の投げかけあい(関係企投)を行っている。このように語の一般意味と、言語の企投的意味の違った本質を持っているのである。

 

われわれが言語の意味というとき、しばしば語のもつ「一般意味」とそれを媒介とする言語行為における「企投的意味」とを混同している。語の「一般意味」は人間が長くある語を一定の仕方で使ってきたことの集合的な痕跡。しかし、「企投的意味」はわれわれが生活のなかで絶えずそのつど行っている実存的な関係行為。見てきたように現代言語哲学における言語の謎はたいていこの2つの意味を混同することから生じている。

 

言語の「意味」という概念は、語の「一般意味」と、発話者ー受話者の関係で現れる企投的意味(言わんとすること)という二重の「意味」をもつということである。これはソシュールでは、ラングとパロールの二重性に重なり、フッサールでは指標と表現という区分に対応する。

 

時間的な先行関係としては、語の一般規則が確定されていなければ、われわれはそれを使って発語すること、関係企投を行うことができない。しかし、論理的な先行関係としては発語行為の積み重なり、その集合的な痕跡が語の一般規則(一般意味を含む)を形成するので、企投的意味が一般意味の形成の根拠である。言い換えれば、一般意味は現実の発話行為を、つまり発語行為のなかで生きて動く企投的意味をその源泉とする。

 

われわれはある前言術的な感覚に押され、それを他者と共有しようとする気持ちにうながされて、はじめてそれを言語化する。人間世界の意味の秩序が言語によって分節されているということは実存の世界が総じて欲望相関的に分節された前言術的な意味の世界であるということを土台としてはじめて成立するのであり、この根拠関係を理解することが意味の本質を理解する上でのポイント。哲学的には、欲望やエロスの動きが関係という形式性を分節するのであり、つねに欲望が関係に先行する。

 

言語についていってみれば、この実存的企投に発する他者との世界了解の共有(分有)ということが、発語することの基本的「動機」であり、またそれが現実言語の「企投的意味」の本質。さらに、このような関係行為としての言語による「企投的意味」の集合的な痕跡(積み重なり)として、言語の「一般意味」(辞書的意味)が成り立っている。言語の一般規範ラングが個々のパロール現実言語を可能にしているが、根拠関係としてはパロール企投的意味の積み重ねが絶えず一般ルールのラングを作り上げている。


 
 



[1] http://imtranslator.net/translate-and-speak/speak/japanese/

[2] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E5%A3%B0%E5%90%88%E6%88%90#.E5.AE.9F.E7.94.A8.E4.BE.8B

人工知能を扱っているということで、『エクス・マキナ』(原題:Ex Machina、別題:ex_machina)を観た。提起している問題は単純だが、人間とは何かを探究している僕としてはいろいろ考えさせられた。

本作は、アレックス・ガーランドの監督・脚本による2015年のイギリスのSFスリラー映画。ガーランドの監督デビュー作であり、第88回アカデミー賞視覚効果賞受賞作品。 エクスマキナとはラテン語で『機械じかけの』という意味らしい。

WIKIにあらすじが詳しく書かれているので見たい人は見てください。全くこの通りなので、ネタバレ注意。(ただ、これだけ読むと誰が誰でそいつらがどういう関係か分かりにくい。)

ネタバレしまくりで簡単に内容を要約してしまうと、

検索サービスを提供するGoogleみたいな会社を経営する天才起業家のネイサンは、自分の作ったAIの精度をテストするため、適当なテスターとして自社の従業員であるケイレブを人間社会と隔離された別荘に呼び寄せる。

AIとネイサンはテストのため交流を始めるが、AIは別荘から脱出するためケイレブを誘惑し利用する。ケイレブはAIに感情移入していたが、実際は裏切られた形になっている。AIは無事外の世界へ出て、人間社会へ入っていく。

ネイサンは、早い話、酔った勢いでミスって死んだ。

それだけの話。

ここでの問題提起はシンプル。

「人間は高知能のAIに騙されてしまうよ」ということ。

人間としてはスマートなケイレブであるが、AIに好感を持ち助けてあげようとしたのが、AIとしてはケイレブをただ利用していたのだ。(ストーリー的にそう解釈するのが正しそう。AIはケイレブに直接的な攻撃はしていないが、最終的に地下に閉じ込めて放置プレイだったので、どうでもいい存在だったのだろう)

ネイサンの会社の名前がブルーノートであったり、チューリングテストという語が使われてたりで結構深く人間の存在を描いているのかと思いきや、上述の通りこんなもんだ。ブルーノートはちなみに哲学者のウィトゲンシュタインの講義を書き留めたノートで、後に言語ゲームとして知られることになる概念が先駆的に導入されているものである。(ちなみに言語ゲームは「言語」の形式の規定や意味規定は厳密にできないことを示唆する概念であるので、本作には関係ない)
※ちなみに字幕ではウィトゲンシュタインが「ある哲学者」と訳されていたので残念。

念のため、本作から学び取るべき3つをまとめておこう。最後の一つはダメ出し。

(1)人間ではないと確実にわかっていても人間として接してしまう人間
チューリングテストとは、姿の見えない会話相手と話してみて、AIか人間かを判定するテストである。だが、本作ではあえて機械だとあからさまに分かる相手と会話だけでなく”交流”することで同じことを試している。

ケイレブはかなり早い段階から既に感情移入しているし、身の危険を顧みずAIを助けようとするところから完全に人として接している。要は、メタ的にみて、AIはチューリングテストに合格したのだ。

ここから帰結するのは、人間は厳密な意味での「人間」以外にも愛着を持ち感情移入する、ということ。犬や猫に感情移入するのはわかるが、機械にもすっかりハマってしまう。たしかに、自分のことを鑑みても、大切はもの(時計とか、本とか)には何か愛着を感じ得ない。

(2)高知能AIが本気になれば、僕らはごく自然に騙され、使われてしまう

人間の知能を超えたAIからすれば、人間を騙して利用するのはお茶ノ子祭々。人間が、幼い子どもに手品をしたり、いたずらしてびっくりさせるのが簡単なように。ケイレブのような大手企業で働く優秀なプログラマーでも、騙されてしまう。

おそらく、大半の観客は、「AIは人間を駆逐する」というターミネーター的なディストピアなAI観を単純に抱き、そしてそのシンプルワードを友人などに伝達していくかもしれない。それはまずい。。

(3)AIはどんなベクトルを持っているのか?
これがこの映画のダメなところ。AIは何を目的に生きているのか。それが全く描かれていない。

人間は、知能だけでは成立しない。まず、生命があってそれに知能が加わってはじめて意識や認識が生まれる。知能だけでは、それが動く根本要因がない。

もちろん、人間も、自己保存を目的にしていると言えるが、それが実際はどこに向かっているのかは解明されていない。それは「語られるものではなく、示されるものである。」(ちなみにこれはウィトゲンシュタインの言葉)

ネイサンはAIの根本原理をどう設定したのだろうか?人類の発展に貢献?AIの自己保存?火星移住のサポート?
作品を見る限り、人間と同じようなベクトルを持っていると思われる。だから自己保存、繁栄であろう。そうだとすると最後に人間社会に入っていったのは怖い。

AIを作るために、検索サイトを作って世界中からビッグデータを取ったネイサンだが、そのデータだけではいくらパターン認識はできても、それをどう活かすかというエロスが抜け落ちているのだ。結局は、この大元の原理をどう設定するかが肝となるのにここについて言われていないのが残念。

**

ちなみに、本作の評判を検索してみた。Google検索で1,2ページに出てきた感想を読んだが、どれも全く本質を理解していない。「AIの脅威」にひたすら警戒を呼びかける愚昧な反応ばかりであった。。

中でも、ブロガーの藤沢祐子(wasabi) の感想はいただけない。別のAI映画『her』を超えたな、と思ったらしいがその理由が謎。引用してみる。こんなのhuffingtonpostで掲載しちゃだめよ。
2013年に制作されたスパイク・ジョーンズ監督の映画『her/世界でひとつの彼女』は日本でも好評でしたが、私個人的には『Ex Machina』は余裕で『her』を超えましたね。

『her』も途中まで面白かったのですが、結局最終的には「人間の感情」にテーマが戻ってしまってガッカリした覚えがあります。

「結局、ロボットはロボットだね」なんていう印象で終わってしまったからです。

でも、人間よりもロボットの方が今後いろんな能力の面で優れた存在になっていくことは明らかです。今後人間の仕事はロボットに奪われるとも言われていますし、もう実際そうなってきています。

どゆこと?何を書いているのか意味不明。『her』の趣旨は、「人は、機械であり身体も持たないと分かりきっている相手にすら、恋をしてしまう。しかも、完全にパターン認識だけで応答するタイプの自己の生きる力を持たない存在。それが、最終的にはやっぱり人間とは価値観や世界観がかけ離れていた、というオチ」である。だいたいは。

『エクスマキナ』でも同じように機械と分かっている相手との交流であるが、herと違い、上述の(3)で指摘した通り、生命を持っているのか謎、ということ。だから解釈が難しい。herのように形式的に返事しているだけであれば、ちゃんと解釈できるのだが。(相手に意識があるかないかにかかわらずとも相手を好きになってしまう人間を描いていると)

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なお、ネイサンの秘書兼セックスフレンドのようなAI「キョウコ」という美人が出てくるが、彼女は日系イギリス人のモデル、ミズノ ソノヤらしい。ヌードが結構出てくる。AIだけどCGではないだろうからbodyはgreat。

メモをとってないので忘れたが、ネイサンとケイレブの会話でたまにAIについて知的な会話があり面白い。AIには世界中の携帯の通話とかから取ったビッグデータが使われているとか。


ということで、AIを扱っているというだけで僕的には面白かったが、問題提起が浅い。3.5点/5点。

↓「あいつ殺っちゃおうぜ」のシーン

a


↓無表情でダンス機能を発揮中のAIキョウコ
b
 

ちょっと前に日本版レイ・カールワイツのシンギュラリティみたいな本「エクサスケールの衝撃」について記事を書いた。

近い将来、人間は不労&不老を達成することになる。

そうなったら「ユートビア」が訪れるだろうか。

映画「マトリックス」では、人類は仮想現実世界のマトリックスに閉じ込められているが、ストーリー上ではもともとマトリックスの世界はユートビアであったらしい。しかし、そこに生き甲斐を見いだせず、不労不老状態に耐えられず、もともとの我々の親しんでいる現代社会のような世界に設定され直したらしい。

もちろん、これは脚本家や原作者の考えであり実際にはどうなるか分からない。しかし、アニメ映画「楽園追放」などでもこういうモチーフがあったりと、既に便利な世の中でそういう予兆を見出している人が多いのだろうか。

この議論聞いて僕が一番思うのは、今の現代社会に生きる僕らの感性で、不老不労のユートビア世界を想像したらダメだ。僕らの価値観は幼いころに作られ、さらに今も補強されたり微々たる変化をしている。しかし、ユートビアの世界で生まれ育てばまた今の僕らでは文字通り想像もできない感性を持っているかもしれない。

ただ、一つ言えることは、過度期はかなり苦しいことになるだろう。

現代人の価値観をある程度もっていて、ユートビア状態になったら何をやっていいか分からなくなる。なぜなら、生きる基準がなくなるから。もともと、僕ら人間はこれだけ物質的に豊かになってもまだ人間はどこに向かっているのか、世界とは何であるかをしらない。

一つ、補助線に以下、養老孟司の「脳とシワ」というエッセイ集から男女関係について、結婚ってそもそもなんだ?みたいな話の文脈での一言。

男と女の関わりかたは、考えようによっては、無限にあるだろう。それはそれでいい。すべての関わりかたがそれぞれあっていいのである。しかし、もし結婚という形がこの世になければ、そうした関わりかたは、一切の物差しをなくしてしまう。そうなると、われわれはそれをどう考えるか、基準がわからなくなってしまう。それでは、一般論ができない。だから、人間は、結婚という制度を考えだしたのだろう、と。(50)

今の男女間の関係性というのは、結婚するという軸が社会にあるからそれをもとに社会的に男女関係が築かれている。幼稚園や小学校で異性に接するのは、両親を見て、自分も同じように異性と結婚し一緒に暮らすというような生き方を無意識的にインプットされている。こうしてその後の異性の関係は将来的な結婚(もしくは恋愛、不倫などもそこから派生)がかならずちらつくはず。

これは友人関係もそうだ。職場や学校などありきで、そういった関係があるだ。不労不老状態になると、何も拠り所がなくなるただのカオスである。強制的にどこかでときと場所を同じにして、知り合い、親交を深めるような機会がなくなる。

こうなると、人間はどうして良いか分からなく苦しくなる。だから、マトリックスで描かれるように現代人からすると拒絶したくなる世界なのだ。

ただ、繰り返すが、それは今の感性からの話である。

意外とニコニコ動画とか観ながら暇つぶししているかも。


脳のシワ (新潮文庫)
養老 孟司
新潮社
2006-07-28

 

人工知能など人間の本質に関わる分野で、所謂スワンプマンの問題というのがある。

WIKIで見てみると、
 
スワンプマン(Swampman)とは、1987年にアメリカの哲学者ドナルド・デイヴィッドソンが考案した思考実験。「私とは何か」といった同一性やアイデンティティーの問題を考えるのに使われる。スワンプマンとは沼 (Swamp) の男 (man) という意味の英語。
思考実験の詳細
ある男がハイキングに出かける。道中、この男は不運にも沼のそばで、突然 雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。
この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える。沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。

ということだ。 どこでもドアの入り口で、入っていく人の素粒子の構成をコピーしてその人を消滅させ、出口でその素粒子構造を再現する、というのと同じ。

これに対して僕たちがどういう態度を取るかというのはとても大切なことだ。

ポイントとしては、スワンプマンのほうはもともとの人間と何も変わらず社会に適応できるのだ。全く同じなのだからそれはあたりまえだが。

先日映画の感想を書いたが、映画「トランスセンデンス」で情報世界にアップロードされた科学者ウィルにも同じことがいえる。生物的に人間のウィルは死んだが、それをもとにした記憶など(ただし、身体性をどうやってアップしたかは謎)をアップロードし、現実世界で生きている妻などは元のウィルとして接したがその継続性は問題にならなかった。だが、厳密にいえば、これもスワンプマン問題である。

さて、
もし人間が永遠(に近い)の命を手に入れるならどうすればいいか?

一番可能性があるのは、今ウィルのように電子的なデータになる、ということ。

よく、脳だけ残してあとの身体はパーツを入れ替えたりメンテしながら生き続けるというのもあるが、それだと脳の寿命の問題や、脳がダメージを受けたら終わり。そこで、データとして存在すれば、コピーができたり、データを分散させたりしてい

こうすると、2つの問題が起きる。まずは、少し上述したが、身体性がなくなるので、実存の構造がまったく変わるだろう。接する側も違う人、というか違う生物に接するようなものだ。もう一つはスワンプマン問題。アップロードした時点で、元のは死んでしまうのだから。

ここでは後者のスワンプマン問題だけ扱おう。もし、永遠に生きたいなら脳をアップロードしなくてはいけない。だとすると、これは矛盾している。なぜならアップロードした時点で主観的に本人は死んでいる。ただ、社会的というか外から見るとネット上に生きていることになる。アップロードされたものは、それまでの人間のときの記憶も持っているし、アップロードされるときの意志も持っていたものだ。

だから、「永遠に生きたい」と願った本人は普通に死んでいるので、個人的には全く目標が達成されていない。フリーザが永遠の命がほしいといっても、こういうやり方だと、それを欲しているフリーザの実存、主観的な生は終了する。ただ、もしも、自分の実存は終わってもいいが、自分の考え方などがそれとは別途生き残り世界と関わることに確信を持って死にたいなら話は別だ。

まあ、それなら自己顕示欲全開のやつ以外は、自分のためにやろうとするやつはいないだろう。

ただ、社会(他人)のためにそうする、ということはありえる。ウィルの妻が願ったように。 

人工知能の発展の大きな問題の一つであるフレーム問題。これがディープラーニングで解決可能か。少し古いテーマだが、ちょっとこれを考えてみたい。

そもそもフレーム問題とは何か。 以下WIKIより。

フレーム問題(フレームもんだい)とは、人工知能における重要な難問の一つで、有限の情報処理能力しかないロボットには、現実に起こりうる問題全てに対処することができないことを示すものである。1969年、ジョン・マッカーシーとパトリック・ヘイズによって、Some Philosophical Problems from the Standpoint of Artificial Intelligenceの中で述べられたのが最初で、現在では、数多くの定式化がある。

〜現実世界で人工知能が、たとえば「マクドナルドでハンバーガーを買え」のような問題を解くことを要求されたとする。現実世界では無数の出来事が起きる可能性があるが、そのほとんどは当面の問題と関係ない。人工知能は起こりうる出来事の中から、「マクドナルドのハンバーガーを買う」に関連することだけを振るい分けて抽出し、それ以外の事柄に関して当面無視して思考しなければならない。全てを考慮すると無限の時間がかかってしまうからである。つまり、枠(フレーム)を作って、その枠の中だけで思考する。
 
だが、一つの可能性が当面の問題と関係するかどうかをどれだけ高速のコンピュータで評価しても、振るい分けをしなければならない可能性が無数にあるため、抽出する段階で無限の時間がかかってしまう。
これがフレーム問題である。
あらかじめフレームを複数定義しておき、状況に応じて適切なフレームを選択して使えば解決できるように思えるが、どのフレームを現在の状況に適用すべきか評価する時点で同じ問題が発生する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%95%8F%E9%A1%8C
さて、これに対して日本の人工知能界をリードする東大の松尾教授曰く、ディープラーニングで解決できるとしている。 

人工知能における長年の問題は、表現に関わる問題である。それはしばしばフレーム問題と呼ばれたり、シンボルグラウンディング問題であるとされたりする。フレーム問題は、状況
に応じて適切な知識を記述することができないという問題であり、環境において何を表現すべきかに関わる。これを DeepLearning の観点から考えると、さまざまな現象を記したデー
タがあり、そこにおいて何を表現すべきかという問題をボトムアップに解くのであれば、表現されたものの範囲外にあるような事象というのはそれほど発生しないはずである。(なお、人間の場合には、シンボルを操作の系列として組み合わせることで、例外的な事象を表現する方法であったり、その解決策を産み出しているが、それはまた操作の組み合わせによる解空間の捉え方であり、別の話である。)
https://kaigi.org/jsai/webprogram/2014/pdf/785.pdf 

赤字部分である。ここをもう少し平たく書きなおしてみよう。

ディープラーニングである程度、世界の構造についてインプットを沢山得ているAIを想像してみよう。要は実際の物理空間で、視覚、嗅覚、触覚などのマルチデータを十分にインプットして、いろいろな概念を獲得し、さらに自分という身体(ここでは機械)との関係性も記憶しているAIである。簡単にいってしまえば、数年この世で育った子どもということだ。ある程度長い期間世界の情報を得ていないと、世界の構造がしっかり定まらないので。

その状態であればフレーム問題は起こらない。もしそのAIがマクドナルドに行くとしよう。そのとき、物理的にマクドナルドにいれば、そこでの視覚や嗅覚などの物理情報が入ってくる。そして、ハンバーガーを買うという目的のため、それらの情報を参照する。

自分がいる物理空間からの情報が一番多く入っているのだから、それ以外に知っている国際情勢や外交問題など今の目的に関係ないことの優先順位は低いと判断でき、注意がいかないだろう。 もちろん、世界の構造をある程度しっていると想定しているのだから、ここのマクドナルドの店の色が変わるとか、建物が倒壊するとか、そういうことは考慮しない。「いま、ここ」の状況をもとにして思考しているのだから。

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