記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 日本

日本に限らずだが、どういうやつが一番社会をダメにするのか。

なぜ、そんなことを書こうかと思ったかというと、
ある知人と接していて、「あ、こういうやつが社会をダメにするんだな」と思ったからだ。

別にその人を個人的に嫌いではないが、社会的な影響についてはクソである。

その人の特徴をいうと、
・そこそこ周りの人間に影響力がる
・自分を成功していると信じこみ、それをもとに自己の世界観、価値観を絶対化する
 
どういうやつが一番たちが悪い。

具体的にいったほうがイメージしやすいだろう。
僕の知り合いでこういう人がいる。

30代後半。
既婚、持ち家があり、不動産価格の高騰で数千万円の含み益がある。
パートナーはとある小さな会社の社長。
既に転職は4回くらいしている。語学が堪能なので、そこそこの仕事は簡単にみつかる。
真剣に働くモチベーションがないようだ。

普通に接していればいい人である。

この人は、そこまで頑張らなくても生きていける。そして、重要なのは、そうした環境を手に入れているので、自分の価値観に絶対的な自信を持ってしまっている。

こういう人は、どんなことでもかなり固定された見方しかできない。自分が間違ってると思ったら、もう話も聞こうとしない。プライドが許さない。自分の価値観や世界観が正しいと暗黙的に理解しているのだろうが、他人が同じものを持っていることをしらない。

正しいこと、というものが客観的に存在していると思い込み、自分はそれを知っている、という風に無意識で考えている。人それぞれが独自の経験で価値観や世界観を築き上げている、ということに目が行かない。

こういう人は、学ぶ意欲も少なく社会をよくしようという難題に参加しようとは思わない。そして、自分が理解できないことを素直に認めることができないので、活躍している人に対して「これ以上頑張っても無意味」といい、頑張っている人へ賞賛をしない。こういう人は、経済的に社会的にもある程度影響力を持っているので、こういう態度を蔓延させれば社会はだめになる。そして、一般人は普通こういう人と多く接する。

こういう人はいくらでもいる。僕ももしかしたらそういう風になっているかもしれないし、今もそういう部分があるかもしれない。そういうことは自覚的になっていたほうがいい。

まあ、結論、こういう人は個人的に接しているといい人と感じることもあるかもだけど、僕からするとやっぱりそれ以上理解したいと思わない。 

日本に帰るとよく聞かれる日中の違いについて。この前も書いたが、また思いついたので一つ補足。お役所仕事に携わる人の地位が低いということ。お役所仕事の定義もいろいろあるが、ようは頑張って勉強すればやり方がかなり一義的に決まるような仕事。財務、経理、法務、もっといえば会計士、弁護士も。

上の経営者やマネージャーが価値観や状況判断をして、方向が決まれば、これらの人たちのやるべきことはほぼ決められたも同然。あとはルールブックを参照しながらちゃんとしたやり方で実行するのみ。やはり、どういう方向に行くかを決め、リーダーシップで人を導けることが評価されている。会社内の人間関係を観察していても、やはりビジネスを作っていくフロントが強くバックオフィス業務は肩身が狭そうだし給料も低い。

日本だと官僚主義の伝統があるので、知識をもっているガリ勉たちが偉い。弁護士までいかなくても、勉強して知識が必要とされることは無条件に付加価値が高いみたいに思われている。これは、追いつけ追い越せで頑張ってきた日本全体がつくり出したエートスなので変わりづらい。旧帝大はそもそも大体決まったことをお役所仕事で進めていくことだ。 こうして日本の中枢となり高度経済成長も実現した官僚主義が軸にある日本。

一方、万人の万人に対する戦いというカオス状況で、それらをまとめる能力が直接的にもとめられる中国。そりゃあ違うわ。 

昨日の「雨漏りバケツ問題」をネットで調べていたら、宮台真司が一橋大学で公演したときのまとめが「ヘタレ営業マンの奮闘」ブログにあったので、お借りする。日本の問題の深いところが分かる。こうした自己の欠点を認識することは、フロイトにおける精神病の治療と同じく問題解決に一役買うはず。


①日本がダメになった理由は
「市場と共同してやっていくマインドセットがないままきちゃったから」

ということだそうです。

問題は急に出てきたわけじゃない。問題はもともとあったけど、経済が回っているうちは露呈してこなかった。
経済が回らなくなると、問題が露呈してきて今のような日本の貧困とか無縁社会になっている。

日本はアメリカの経済をマネをしてきた。

けれども、アメリカ人と日本人では市場に対する姿勢が違っていた。

日本はアメリカ経済を「市場原理主義」だと思っていた。

むき出しの個人が市場でもまれて成功を掴むのだと思っていた。

しかし、違う。
アングロサクソン系の人々は以下2つの特徴がある。

①家族主義である。 家族を死ぬ気で守る。帰るべきホームベースがあるから戦える。
②市場での戦いで敗れてしまった人を救うシステムがある。ボランティアとか、チャリティとか、宗教とか。ボランティアをすることが社会的地位を高めることにもなる。


つまり、アメリカ人は
「むき出しの個人が市場でもまれる」市場原理主義ではない。
上記のようなマインドがある。

日本人には上記のようなマインドはない。

だから、日本人は市場で負けると、助けてくれる人もいないし、
行政に頼るしかないわけ。

「政府助けてくれよ」

「政府は何やってんだ」

ってさ。 なんかさみしいよな。


経済が成長してて、市場から追い出されちゃう人が少ないうちはまだ行政が対応できてた。だから問題はそんなに大きくなってなかった。

きっかけは1997年の平成不況。 山一證券の倒産。

ここら辺から経済が回らなくなってきてる。

自殺者数も増加。

1997年以前は 2万4千人台。

1998年以降は 3万人台。

一気に日本社会が変化したんだね。


この日本の不況の原因はもちろん「グローバリゼーション」よ。

「グローバリゼーション」 → 「資本移動の自由化」 → 「BRICsの台頭」


この動きに対して政府も手を打ってきた。

①大企業身軽政策。

日本は製造業の国。
ほうっておけば、この分野は中国やインドに絶対負ける。

これからもこの分野で外貨を稼ぎ続けたいなら、製造業の大企業に競争力をつけないと!
つまり、身軽にしないと!

それで、非正規社員解禁。これが小泉・竹中路線。

②環境でリード

民主党政権になって今度は「環境でリード」という目標が掲げられた。

この政策、実は、「地球」なんてまったく意識してない
ってことを知ったのはボクにとっては収穫。

要は日本が生き残るためにはどうするか、を考えた上での結論。

日本は技術がある。その技術力でリードし、新興国がなかなか
追いつけない分野はどこだ?

って考えた結果が環境だった。

Co2削減目標なんて、製造業の足を引っ張るやんけ!

って、当たり前じゃん。産業構造改革しようぜってのがこの政策の意図。


別に、地球なんてどうでもいいんだよね。いや、大事だけど。

そもそも地球温暖化の原因はCo2なのか?

Co2を減らせば環境は改善する! は先進国が新興国を困らせるために
勝手に作り出したムードかも。


③ゆとり教育

クラスの下の生徒を救いましょう。
個性を尊重しましょう。

これは、表向き。

財界が期待したのは、消費。

日本は新しいものをクリエイトしなければいけません。
でも、大多数の人は何かをクリエイトする仕事に就けません。

そういう人には「良い消費者」になってもらいましょう。
それで、日本経済を回そうという狙い。

土曜日学校お休みにして、連休作って、家族で旅行に行きましょう。レジャーしましょう。
貯金を使って消費しましょう。

そういう狙い。

ショッキングだよね。

経済回すための政策でアホが大量生産されて、「ゆとり世代」とか言われて、
企業に「いらない」って言われて。


どーすりゃいいの日本。

テーマの②これからどう生きればいいのか についてか結論は言ってなかったような。すんません。



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この講演で宮台氏が特に強く言ってたこと。


行政が対応するとか、 「死にたい」って言う人に「生きてれば希望はありますよ」とか言うことは

雨漏りしているところに、バケツを差し出すようなものなの。

でも、問題の本質はバケツを差し出しても解決しないの。

「雨漏り」を解決しないと!!

って言ってた。


当然、雨漏りしてればバケツの需要はあるから、
バケツを一生懸命差し出して役人は「いい仕事をした」と考えているわけ。

応急処置的な対応をずーっとしてて、それで政府も役人も
「いい仕事した」って思ってたら、永遠に問題は解決しないね。

そして、一般の人々も問題の本質に気づいていなかったら
「早くバケツをくれよー!」って訴えることしかしないよね。

これじゃあ、バケツ代で国の借金が増えて日本は破綻しちゃう。

ボクも初めて知ることが多く、自分の無知さを思い知りました。

この講演を聴いて思ったのは、

これから、新聞やニュースで言っていることをそのまま受け取るのではなく、
様々な情報、本などを元に、物事の本質まで知って考えた上で
自分の意見を形成しようと思いました。

ありきたりだけど、これを強く意識しました。

特に本を読むっていうのが重要だね。

表面だけをすくった新聞やニュースだけじゃなく、知識人が深く考えた上での意見を考えてみてやっと物事の本質がみえる気がした。

まぁ、自分が知識人になればいいんだけど(笑

まだまだ頭の悪いボクは人のアウトプットを吸収するので精一杯あせる


そんな講演でした。
一方で、自分の自己実現につながらないような仕事を与えられ、

 要するに、
自分探しとかいってねえで、
自分を操って幸せになれ!ってこと。 

宮台真司は「父として考える (生活人新書)」のあとがきで雨漏りバケツ問題を提起している。


【共同体と市場、共同体と国家の、両立可能性】 
■1980年代、北イタリアから始まったスローフード運動、カナダから始まり大英帝国圏に拡がったメディアリテラシー運動、全米に拡がったアンチ巨大スーパー運動など、先進各国で同時多発的に、共同体と市場、共同体と国家の、両立可能性を問う運動が展開した。 
■同じ1980年代、皮肉にも日本では、何かというと国家権力の呼出線を使う傾向に代表される、共同体を国家に譲り渡す「法化社会」が展開し、あるいは、米国の要求を背景にした大店法規制緩和に代表される、共同体を市場に譲り渡す「市場化社会」が展開した。 
■共同体と市場、共同体と国家の、両立可能性を問う運動とは「雨漏り・バケツ」問題の比喩で語れる。村中の家が雨漏りしまくっていれば、バケツの需要が高まり、バケツを提供する市場や国家がほめられる。そのようにほめるのが日本の国民生活選好度調査である。 
■歴代内閣毎に実施される幸福度調査も国民選好度調査の亜流に過ぎない。市場や国家がバケツを提供できていることに胸を張って現行政権を正当化するだけ。だがおかしくないか。緊急避難は別にして、本来なら雨漏りしないよう屋根を葺き直すべきではないか。。 
■スローフード運動・メディアリテラシー運動・アンチ巨大マーケット運動などの共通項は、市場や国家が提供するバケツに依存して自らの手で屋根を葺き直す本義を忘れてしまうことに対する--市場や国家への共同体の過剰な依存性に対する--気づきと戒めにある。 
■「手つかずの自然」が敢えて手をつけないという「不作為の作為」であること(に気づくこと)に象徴されるようち、選択の前提もまた選択されたものに過ぎないという「再帰性」(への気づき)が拡がる後期近代。不作為は、共同体を依存させ、空洞化させる。 
■僕は、これを「〈システム〉の全域化による〈生活世界〉の空洞化」と呼ぶ。〈システム〉とは匿名性が支配する計算可能性の領域であり、これが拡がる動きを「近代化」と呼ぶ。当初は〈生活世界〉の「我々」が、便利だからと〈システム〉の利用を拡げる。 
■流れに任せれば、やがて〈システム〉が全域化し、〈生活世界〉という表象も「我々」という表象も、〈システム〉の生産物に過ぎないという気づきが社会を覆う。この状態が後期近代で、それに抗して〈生活世界〉保全を企図するのが、先に述べた一連の運動だ。 
■だがこの〈生活世界〉は「手つかずの自然」が敢えて手をつけない作為的選択の産物なのと同じく、まさに作為的選択の産物に過ぎぬ。だから生活世界とは記さず〈生活世界〉と記す。つまり一連の運動は、オルタナティブな〈システム〉を選ぶ営みに当たるのだ。 
■同じく学問領域でも、ハーバマスの「生活世界の植民地化」、ベックの「予測不能・計測不能・収拾不能なリスクを伴う高度技術に共同体が隅々まで覆われたリスク社会」、ギデンズの「主体の像をシステムが供給する再帰的近代」等の概念が、人口に膾炙した。 

相変わらず、抽象的で多く意味を含む単語の羅列で分かりにくいが、要は、根本的な問いを見逃しているのが日本である。

人の主観的体験が全てであるはずだ。実存がハッピーならそれでいい。そこを起点に社会を構築していくのが、社会ができた起原であり、後付の理由もそうだ。

われわれ、人間というものが何かについてまだはっきりした答えはないが、ある程度普遍的な考え方はある。それをベースに考えていくべきだ。深いコミュニケーション、コミットメントのある人間関係が軸にあるような社会でないと、くそみたいな生になることを必要以上に問いたりシステムに反映させるべきである。

そうしたことのために、いくら表面的な政策しても意味ない。幼少体験を通じてそういうの自覚できる人間を育てることが急務だし、僕ら大人世代でそういうことを学べなかった人が論理でどうにかしてキャッチアップしないと。

立花隆の「アメリカ性革命報告 」を読んだ。

アマゾンのレビューよりモチヅキさんのサマライズで、本の内容を紹介。
 
70年代の米国男性雑誌等の丹念な読み込みを通じて行なった『諸君!』誌上での1978年の連載に加筆して、クライマックスに達しかけていたアメリカ性革命と、その背後にあるアメリカ社会自体の変動について論じた、300頁弱の文庫本である。

1960〜70年代に米国では性の解放が急激に行われたが、それは1950年代までの米国で支配的な、日本以上に厳格なピューリタン的性道徳への反動であった。この性革命によって、同性愛や同棲関係、人工妊娠中絶への社会的な寛容さが増し、性行動の多様性が顕在化し、法的な統制もやや後退し、人々は性についてオープンに語れるようになり、それは若い世代を中心として、他の世代にも徐々に波及していった。

しかし主として宗教的な理由によって、乱交や全裸露出や多様な性的「前衛」行為には社会の多数派は嫌悪感(理屈というより感情で)を示しており、日本で宣伝されたほどには米国の性解放は進んでいない。むしろ、性がオープンに語られることにより、良い性のあり方に対する脅迫観念が生まれ、性交を忌避する傾向さえ見られる(逆に一部ではより過激な性の追求傾向も見られ、殺人にまで至ることもあるが)。

また保守派からの巻き返しも強まり、性革命は女性解放運動とも交錯しつつ、政治化している。本書はこうしたアメリカ性革命のさまざまな側面(米国と世界の多様な性癖、性産業の膨張、老人の性、性政治等)についての詳細な報告であり、表紙、使われている用語、挙げられている事例(これらは全て事実なのだろうか?)こそ露骨であるが、きわめて丹念な調査に基づいた、まじめな読みやすく興味深い研究である。日米の道徳の差異についても触れられているが、本書の内容は現在の日本を考える上でも示唆的である。トリビアも満載。

アメリカでエロ雑誌を買いまくる立花隆の姿を想像すると面白いものだ。

僕が一番感心したのは、日米のエートスの分析である。立花は、革命があってもキリスト教を軸にしたエートスを持つアメリカ人は、内的に規範を持つ、という。一方日本人は他人の目、というものしか規範がなく、これがなくなれば性に対して一気にタガが外れアメリカを追い越すだろうと。実際、日本ではどんどん人間関係が薄くなり、恥じらうこともなく性的に解放されまくり世界的に認知されるほどのエロ大国となった。

これは、ルース・ベネディクトが「菊と刀」で戦時中に分析済。立花の結論は日本は恥が、アメリカは罪の意識が内的な規範の源泉であるとした説とも通ずる。余談だが、宮台真司いわく、アメリカではセックスでoh yes oh yesというのは「ああ、こんなに気持ちくて獣になってしまう〜」という心境で、日本の「あんあん」いうのは「ああ、誰かに見られてるかもしれない、でも気持ちいい〜」ということらしい。さすがに、これは論証できないが、一理あるかも(笑)本書は立花隆らしく具体的な情報が多く読み物として面白いのでおすすめ。
 


 

昨日、中国で日本語教師として生きることについて簡単に考察した。

ちょうどいいタイミングで日本語教師に言及する記事を東洋経済オンラインで見つけた。
「中国の若者、本当は日本人に好意的だった 関係悪化の裏にある中国人エリートの本音 」


この記事の中で、日本語教師の中国の若者に対する大きな影響が語れれている。

まず、実際の日本人に接触する機会がなく、政府主導で漠然とネガティブな印象を抱かせる環境について書かれている。

実際には日本のカルチャーを通した日本ファンが大勢います。ただ多くの若者は生身の日本人に直接触れる機会が非常に少ないんです。

歴史教育とともに、連日流される抗日戦争のテレビや映画が若者たちに日本憎しの感情を刷り込んでいく。番組自体は正直全然面白くないですよ。でも政府の方針だし、ほかの企画では予算が通らない。中国人自身、そうした事情はよく承知しています。日中交流をもっと別の角度からとらえ直す企画や民間交流におカネを回すべきだと、私はブログで書き、中国のメディアも取り上げてくれました。中国のマスコミ関係者も問題はよくわかってるんです。 

05年から日中作文コンクールを主催している段躍中氏は、今回初めて、日本語教師を対象にした賞も創設したことについて以下のように述べる。
はい。北京での表彰式では日本大使の手から表彰状をお渡しして、体験談を語ってもらいました。われわれが差し上げられるのはそうした名誉だけで、到底力不足です。国や政府にもっと日本語教師を応援してほしいと思っています。

ここで強調させていただきたいのが日本人先生の持つ力です。今中国全土で日本人教師の数は2500人くらいですが、日中関係の冷たい空気の中、薄給で言葉もままならないまま、日本をよく知らない若者たちに日本語と日本文化を教えてくれている。発音練習を兼ねた朗読用にと、毎朝日本から家族に新聞のコラムをファクスしてもらったり、それは献身的です。まさに日本国を代表する民間大使です。そうした先生方にもっとライトを当ててほしい。

2011年に最優秀賞を取った青年の作文は、東日本大震災直後、ネット掲示板で日本に声援を送った彼をののしる友人に対し、理性を持って説得し、最後は共に支援するまでを描いた話でした。このときも日本人の先生の影響が大きかった。

中国の若者、特に高校生、大学生という人格形成に大きな影響がある時期に、彼(彼女)らが日本人を知る機会というのはメディアを通じてとアニメなどの文化で間接的に知るだけだ。なのでそれが政府の意図だとなんとなしに分かっていてもネガティブキャンペーンで日本人に対する悪いイメージは無意識に蓄積される。

しかし、こうしたものも、物理的に直接日本人に接すれば一気に解消されうるものである。実際の体験とはそれほど大きなもの。

この時期にこうしたことができるのは日本語教師しかいない。授業や課外において相互的にコミュニケーションして日本人から直接日本語や文化について学ぶということの意義は計り知れない。

こうした日中関係に甚大なる役割を果たしている日本人教師であるが、彼ら自身ちょっとこのことを理解していない。日本人教師というと昨日も書いたように給料が低く、そこまで高度な仕事と見なされず社会的地位が低いのが現状。そして彼ら自身ちょっと自虐的な人が多い。以前僕が読んでいたこのブログもタイトルが「ポンコツ日本人教師」である。 

日本人教師のみなさま、もっとこの未来の日中関係の責任を意識し、自身を持ち世界に貢献していきましょう。できればもっと中国の学生について、日本語や文化を教える中での難しさや中国人の反応、学生の勉強のモチベーションや将来の夢など情報発信してください。 

久々に中国の人気お見合い番組の非诚勿扰を見た。この江蘇テレビの番組については以前このブログで書いたことがある。

土曜夜に家にいるときは大体見ているこの番組。最近、忙しく昨日まで久しく観ていなかった。

観ていてふと気づくと、

女性ゲストとして、なんと、
佐藤未生さんという日本人の女性が出ていた。
僕が3年半前からみてきた記憶では日本人女性ゲストは二人目。(男性ゲストは何度か出てた。ちなみに女性ゲストはレギュラーで、男性は単発のみ。)

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こちらの記事に詳しいことが載っている。我が母校の後輩にあたる早稲田大学(政治経済学部4年)の学生で今、北京に留学中のようだ。 収録がどれくらいの周期か知らないけど毎回南京までくるの大変だな。

まだ中国語学習は長くないようで拙い中国語で、番組内では、話すと場が和む天然キャラになっており、司会の孟非がいい感じにいじっている。でも、まだ1年程度の割には中国語結構うまい。

しかし個人的にこの番組は僕が中国に来たての2012年6月から見ているので、なんか見ていると落ち着く。さらに南京に住んでいたあの頃を思い出す。

佐藤さんには中国留学中の間に是非とも「対象(dui xiang)」を見つけてほしい。加油! 

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