記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ:人間とは何か > 人工知能・宇宙などのSF映画

たしかに、よかった。

押井守監督作品、映画「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」。

概要はこうだ。WIKIから。
『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』のタイトルで、2008年8月2日にアニメーション映画化。監督は押井守で、2004年の『イノセンス』以来4年ぶりのアニメ作品。アニメーション制作はProduction I.G。戦争請負会社の日本人部隊で、戦闘機に乗って戦う若者の物語。
丸の内TOEI2、渋谷東急、新宿ミラノ他東急系にて公開された。日本テレビ開局55周年記念作品。ソニー・ピクチャーズが、アメリカ、カナダ、ラテンアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、オセアニアでも配給を予定している。

公式サイトによるあらすじはこうだ。


カンナミ・ユーイチは、戦争請負会社ロストック社に所属する戦闘機のパイロット。前線基地「兎離洲(ウリス)」に配属されてきた彼には、それ以前の記憶がない。彼にわかっているのは、自分が《キルドレ》であることと、戦闘機の操縦の仕方だけ。空で戦うこと——それがユーイチのすべてだった。

 基地の女性司令官クサナギ・スイトも、かつてはエースパイロットとして空で戦ったキルドレのひとり。スイトについては、「ユーイチの前任者を殺した」「キルドレなのに子供を産んだ」……と、さまざまな噂が飛び交っている。そんなスイトに惹かれていくユーイチ。初めて会ったはずなのに、まるで彼を待ち続けていたかのような視線を注ぐスイト。二人の距離が縮まるのに、多くの言葉も、多くの時間も必要なかった。スイトは、思いもかけない言葉を口にする——「殺してくれる? さもないと、私たち、永遠にこのままだよ」
 
 一方、基地を取り巻く戦況は日ごとに激しさを増していった。彼らの前に立ちはだかるのは、ティーチャーと呼ばれるラウテルン社のパイロット。仲間たちが次々に撃ち墜とされ、基地に新たなパイロットが増員されてきたとき、ユーイチは新任パイロットが新聞を几帳面に折りたたむのに気づく。それは、ティーチャーに撃墜されて戦死した同僚、ユダガワの癖そのものだった。

 このことは、いったい何を意味するのか——?

 蘇ってゆくユーイチの記憶。キルドレが背負った運命の真実。「殺してくれる?」と言ったスイトの言葉の意味。すべてが解き明かされたとき、ユーイチは自分達に課せられた運命に立ち向かう決意をするのだった。 
 「ティーチャーを撃墜する」 

さて、まずこの作品は公式サイトの説明を読まないと一回観ただけでは分かりづらい。以下の感想は、公式サイトの情報を見てから書いている。

本作のテーマは2つ。まずは、ニーチェ的な永遠回帰を前提にした終わりなき日常の実存の問題と、戦争を演出しているという客観的な世界のあり方。

まずひとつ目のテーマについて。キレドルとは16−17歳で成長がとまり、そのままずっと生き続けることができる戦闘機のパイロットたち。(後述するが、この戦争は人工的なもの)要は、基本的に戦死するまではずっと生き続けるのだ。

ここでの問題提起は、社会学者宮台真司の言葉でいえば「終わりなき日常」である。ずっと同じようなことの繰り返し。その先に何か大きな幸せなどの変化が予期できない日々ありふれたことばかり。現代の若者が抱える状況が本作品のキレドルに抽象化されている。いや、現代に限らずどの世代においても、常に人間につきまとう問題である。ただ、現代においてそれが普及しだす。

この実存のテーマについて個人的に2つの対処を本作から見いだした。まず、本作におけるキレドルたちはウリスに配属される前の記憶がないユーイチのように、自我の拠り所となる記憶がない。デイヴィッド・ヒュームが指摘しているように私たちの実存の本質は、知覚の束でしかない。

どういうことか。

素朴な考えでは、僕ら人間は一つの生物ロボットみたいなもので、オリジナリティを持ち、何かの目的のために進んでいく、みたいな人間観を持つ人が多いだろう。しかし、実際はそんな単純なことではない。検証することはできないが、われわれは生後的に自我を持つ。いろいろな体験、特に社会の中の人間関係、育ててくれた親など、ともに成長した仲間や土地、それらと自分の生への力が紐付けられ人間は記憶し、その基体として「自我」を築いていく。

キレドルはその自我の基となる記憶がない。ただ、単調な複雑性のない戦闘パイロットというだけのストーリーしかもたない。ストーリーがないことは生物的な人間にとって問題はない。アヴァロンの野生児のように動物化した人間もありうるからだ。でも、ユーイチなどのキレドルはすでに社会的な存在(として描かれている)にも関わらずそういったものがない。

そうした基盤のない人間は、あらゆる社会的な事象について意味や価値を見出しにくい。子供の頃に、愛すべき親、友人、国などを持った経験があればそのために生きるなど自分でストーリーを作っていけるが、何もない場合それができない。そして、そのような基盤の欠落はなにもキレドルに限らず、現代のように家族関係や人間関係が薄くなってしまった若者たちにも当てはまる。

こうした実存の問題にたいして、本作が提示している処方のひとつが終わりなき日常を変えられる何かに突っ込んでいく、ということ。そうした理想の象徴として本作では「ティーチャー」が置かれている。「ティーチャー」は終わらせない戦争のために存在しているが、これはユーイチなどの実存にとっては、終わりなき日常を終わらせるためのシンボル。もちろん、それは絶対的に不可能なものとして登場する。

現代のわれわれにとっても、終わりなき日常といいつつも、大きな夢を持つことができる。そして、それが虚しい往々にしての理由は、それが実現不可能だからというもの。世界的な多国籍企業を創るとか、社会を変革するような芸術家や活動家、アスリートになるとか宇宙飛行士になるでもいいが、それになりたいという強い動機を持ちにくいのは、「実現しても幸せになれない」という絶望もあるが、やはりまだ自分の能力では実現できない、という諦めの方が強い。

「スカイ・クロラ」の中では、主にユーイチによりこのような日常を打ち破る変化に勇敢に挑む姿を描いている。一方、宮台のいう現代の女子高生のように日々の小さなことに、作中でいうその他のキレドルのように、酒や女など意図的に日々頽落状態に身をおくものも否定的には描かれていない。

二つ目のテーマは、作品の設定である”戦争を自発的に作っているという世界”である。これはひとつ目のテーマとも関わる人間の実存の問題が社会問題となって取り上げられている。あまり詳しい設定について書いていないが、ひとつ目の実存のテーマから推測ができる。

なぜ戦争を人間社会において人工的に演出するのか?公式サイトの説明によると、戦争がないと人間が平和を実感できないから、ということ。

どうだろうか、これはまさしく最初の問題に関わる。戦争がないと、それは完全に終わりなき日常の永遠回帰を意味する。生命の危機を感じ、他者や社会と関係を築くことで自我が保たれる。もし、それがなければわれわれ自分が何か、何故生きるかに苦しみ、まさにこの戦闘パイロット外の一般の人間たちもが自己同一化を保てない。

以前紹介した「エクサスケールの衝撃」という本に、まさに「スカイ・クロラ」のキレドルのように、若い肉体の状態を永遠に維持できる技術の実現が近い将来ありうるという話があった。もしこれが実現すれば、今議論してきた問題が出てきて同じような世界が到来するかもしれない。

不老、不労の状態になれば、自我を支えるものがなくなる。人はエロスの対象のために行動する中で世界と関係を強めて自我が築かれ保たれていく。もちろん、自我を持つ必要はないが、その場合は動物化することになる。

以上、映画と公式サイトの情報からファーストインプレッションをまとめた。時間があれば観返し、さらに森博嗣の原作も拝読したい。なお、僕はこの作品を中国のウェブサイトでただ観をした。罪悪感があるし、映画館で観るべき作品なので、どっかでやってたら観たい。

スカイ・クロラ [DVD]
菊地凛子
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2009-02-25

 

『カッコーの巣の上で』(カッコーのすのうえで、原題: One Flew Over the Cuckoo's Nest)を観た。

1975年のアメリカ映画である。

概要はこうだ。
 
原作は1962年に発表されたケン・キージーのベストセラー小説。精神異常を装って刑務所での強制労働を逃れた男が、患者の人間性までを統制しようとする病院から自由を勝ちとろうと試みるという物語である。
 
いわゆるアメリカン・ニューシネマの代表作の一つで、アメリカでは興行収入1億ドルを超える大ヒットになった。
 
1998年にアメリカ映画協会が選出したアメリカ映画ベスト100では20位に、2006年に選出した感動の映画ベスト100では17位に、2007年に選出したアメリカ映画ベスト100(10周年エディション)では33位にランクインしている。
 
2012年に英『Total Film』誌が「映画史に残る演技ベスト200(The 200 Greatest Movie Performances of All Time)」を発表し、第1位にこの映画でのジャック・ニコルソンの演技が選ばれた。

あらすじは以下。

主人公のマクマーフィーは刑務所から逃れるために精神病院に(詐病によって)入院してきた。向精神薬を飲んだふりをしてごまかし、婦長の定めた病棟のルールに片っ端から反抗していく。グループセラピーなどやめてテレビでワールドシリーズを観たいと主張し、他の患者たちに多数決を取ったりなどする。最初は患者たちは決められた生活を望むが、マクマーフィーとともに生活をするうちに彼に賛同するようになる。
 
またほかの患者と無断で外出し船に乗せて、マクマーフィーの女友達とともに海へ釣りへ行く。こうした反抗的な行動が管理主義的な婦長の逆鱗に触れ、彼女はマクマーフィーが病院から出ることができないようにしてしまう。
 
ある日患者が騒動を起こした際、止めようとしたマクマーフィーも一緒に、お仕置きである電気けいれん療法を受けさせられてしまう。マクマーフィーは、しゃべることのできないネイティブアメリカンであるチーフとともに順番を待っていたが、実際は彼がしゃべれないフリをしていることに気づき、一緒に病院から脱出しようと約束する。しかしチーフは、自分は小さな人間だとその誘いを断る。
 
クリスマスの夜、マクマーフィーは病棟に女友達を連れ込み、酒を持ち込んでどんちゃん騒ぎをやる。一騒ぎ終わった後の別れ際になって、ビリーが女友達の一人を好いていることに気づく。ビリーはマクマーフィーに可愛がられていた。マクマーフィーは女友達に、ビリーとセックスをするよう頼み込み、二人は個室に入っていく。二人の行為が終わるのを待っている間、酒も廻り、ついに寝過ごしてしまう。
 
翌朝、乱痴気騒ぎが発覚し、そのことを婦長からビリーは激しく糾弾され、母親に報告すると告げられる。そのショックでビリーは自殺してしまう。マクマーフィーは激昂し、彼女を絞殺しようとする。婦長を絞殺しようとしたマクマーフィーは他の入院患者と隔離される。
 
チーフはついに逃げ出すことを覚悟し、マクマーフィーを待っていたが、戻ってきたマクマーフィーは病院が行った治療(ロボトミー)によって、もはや言葉もしゃべれず、正常な思考もできない廃人のような姿になっていた。
 
チーフはマクマーフィーを窒息死させ、「持ち上げた者には奇跡が起きる」とマクマーフィーが言った水飲み台を持ち上げて窓を破り、精神病院を脱走する。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%B7%A3%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%A7
比較的若めのジャック・ニコルソンであった。
ストーリーの詳細はまず置いておいても、ジャック・ニコルソンの演技と精神病患者たちと溶け込んでいくのを傍から見ているだけで面白い。

脳科学者の茂木健一郎氏は、ブログで、

人間の自由とは何か、それを縛るシステムとは何か、衝撃のラストまで、息をもつかせぬ展開です。
http://lineblog.me/mogikenichiro/archives/1974965.html
と述べているが、これは「自由」を描くには設定が極端すぎるだろう。精神病院に連れてこられた犯罪者が主役のストーリーであるぞ。

ちょっと調べてみると、権力と自由の対立ではなく、1960年代に起きた精神医学の非人道的な治療を批判する「反精神医学」という運動を背景に、閉鎖された精神病院で行われている非人道的な治療を告発する映画だと言われている。

ただ、実際に観ると、たしかに婦長たち「手を挙げてから発言しろ」「まず座れ」とか規律を強制しているのは見えるがそこまで非人道的という要素は描かれていないように思えた。

僕は率直に抱いた感想。ここに出てくる精神異常者たちは、社会に馴染めず自主的に入ってきたような感じで異常者と見られ卑屈になりつつもここでの生活を楽しくいきようとしているようにも見えた。あまり本当の基地外にはみえない。

ジャック・ニコルソン(役名を忘れた)はたしかに病院のルールを破ったり船をぱくったりといろいろ破天荒だが、病人たちを巻き込みみんなで一緒に楽しんでいる。それを療法だといい、押し付ける婦長だちが悪く見えてもくる。

実際、僕も心理学や精神医学を多少学んでことがあるが、そこにある理論などなんの根拠もない。内省したり嘘をついているかもしれない被験者の情報だけに基づいて築かれた適当なもの。

この映画で一番よくわかるのは、精神的に病んでいる人を治す適当な療法は彼らの内に入り込み接するということだ。婦長は人と触れ合うことが療法と言っているが、あからさまに病人として接している。一方、ジャック・ニコルソンは彼らをbuddyとみなしている。しゃべれないと嘘をついていた大男チーフは、ずっと絡んでくれるジャック・ニコルソンに心を開いたし、自殺に追い込まれたビリーの復讐をした。

決められたルールの「趣旨」を<世界>に照らし合わせて都度都度検討することができない人は2016年の今ではもっとたくさんいる。婦長のように自分で現実を見て判断できずルールを押し付けようとしては問題は解決できない。一方、極端であるが<世界>を生きている破天荒なジャック・ニコルソンはどんどん人を変えていく。良い方に。

いい1970年代らしいいい映画であった。

自由どうこうはこの映画ではあまり議論されてない。

ちなみに、同じ監督のモーツァルトを描いた映画「アマデウス」もよかった。

カッコーの巣の上で [Blu-ray]
ジャック・ニコルソン
ワーナー・ホーム・ビデオ
2010-10-06


『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(The Imitation Game)を観た。人工知能とは直接関係ないが、チューリングマシンは現在のコンピュータの基礎になっているのでこの理解なしにAIの可能性は検討することはできない。

概要はこうだ。

2014年の歴史スリラー映画。アンドリュー・ホッジス(英語版)による伝記『Alan Turing: The Enigma』を基にグレアム・ムーア(英語版)が脚本を執筆し、モルテン・ティルドゥムが監督、ベネディクト・カンバーバッチが主演を務めた。映画は第二次世界大戦中にエニグマ暗号の解読に取り組み、のちに同性間性行為のかどで訴追を受けたイギリスの暗号解読者アラン・チューリングを描く。
 
ムーアの脚本はハリウッドの優れた製作予定のない脚本を挙げる『ブラック・リスト(英語版)』2011年版の1位を飾り、映画は2014年2月、ワインスタイン・カンパニーによりヨーロピアン・フィルム・マーケットで支払われた米配給権購入額としては最高となる700万ドルで購入された。映画は2014年11月14日にイギリスで、11月28日にアメリカで、2015年3月13日に日本で公開された。
 
本作は批評的にも興行的にも成功を収めた。ナショナル・ボード・オブ・レビューおよびアメリカン・フィルム・インスティチュートの年間トップ10に入選し、第87回アカデミー賞では作品賞、監督賞(ティルドゥム)、主演男優賞(カンバーバッチ)、助演女優賞(キーラ・ナイトレイ)を含めた8部門で候補に上がり、ムーアに脚色賞をもたらした。第72回ゴールデングローブ賞では5部門、第21回全米映画俳優組合賞では3部門、第68回英国アカデミー賞では9部門にノミネートされた。また本作の製作関係者はチューリングの功績を広く知らしめたことでLGBT権利の推進団体ヒューマン・ライツ・キャンペーン(英語版)によって表彰された。1400万ドルの予算に対し、映画の興行収入は2015年3月までに2億850万ドルに上り、2014年のインディペンデント映画としては最高の売り上げを収めている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9F%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0/%E3%82%A8%E3%83%8B%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%81%A8%E5%A4%A9%E6%89%8D%E6%95%B0%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86

ストーリーは以下。

1951年、数学者アラン・チューリング(ベネディクト・カンバーバッチ)の家が荒らされ、2人の警官が捜査に当たる。刑事に取り調べを受けたチューリングは、ブレッチリー・パークで働いていた頃を回顧する。
 
1927年、若きチューリング(アレックス・ローサー(英語版))は寄宿学校で不遇の日々を送っていた。チューリングは友人クリストファー・モーコム(ジャック・バノン)に触発され、暗号の世界にのめりこんでいく。チューリングは同性ながらモーコムに恋心を抱くが、告白しようとした矢先にモーコムは結核で死んでしまう。
 
イギリスがドイツに宣戦布告した1939年、チューリングはブレッチリー・パークを訪れ、アラステア・デニストン(英語版)中佐(チャールズ・ダンス)の指揮の下、ヒュー・アレグザンダー(マシュー・グッド)、ジョン・ケアンクロス(英語版)(アレン・リーチ)、ピーター・ヒルトン(マシュー・ビアード(英語版))、キース・ファーマン、チャールズ・リチャーズとともにナチスの暗号機エニグマの解読に挑むチームを結成する。
 
同僚を見下すチューリングは協調性を欠き、ひとり暗号解読装置の設計に没頭する。デニストンが装置の組立資金拠出を拒否すると、チューリングはウィンストン・チャーチル首相に直訴する手紙を送る。チャーチルは拠出を許可し、チューリングをチームの責任者に任命する。チューリングはファーマンとリチャーズをチームから解任し、新聞に難解なクロスワードパズルを載せて後任を探す。ケンブリッジ大学の卒業生ジョーン・クラーク(キーラ・ナイトレイ)はチューリングのテストに合格するが、男性と同じ職場で働くことを両親に反対される。チューリングは彼女が通信傍受係の女性職員と同じ場所で働けるよう手配し、彼女に解読装置の計画を教える。
 
「クリストファー」と名付けられたチューリングの装置は完成するものの、独軍が毎日暗号を変えるためエニグマの解読に至らない。デニストンは装置の破棄とチューリングの解雇を命じるが、チューリングの同僚たちは辞職をちらつかせてこれを阻止する。クラークが両親の意向に従って職場を去ろうとすると、チューリングは彼女に求婚し、彼女もこれを承諾する。酒場でチューリングが彼の性的指向を知らされたケアンクロスは、チューリングにそれを隠し続けるよう忠告する。チューリングは通信の傍受内容にまつわる女性職員の会話を耳にし、あることに気づく。通信内容に特定の言葉が含まれると分かっていれば、装置がそれを復号するようにプログラムすればよいのだ。彼が調整を施すと、装置は即座に暗号の解読に成功し、職員たちは祝福する。しかしチューリングは、解読された通信に逐一反応してしまっては、エニグマが破られたことが独軍にばれてしまうことに気づくのだった。
 
チューリングはケアンクロスがソ連のスパイであることを知る。チューリングが問いただすと、ケアンクロスは英ソは共通の目標を持った仲間だと主張し、身分を明かせば仕返しにチューリングの同性愛を暴露すると脅迫する。しかしMI6の諜報員スチュアート・ミンギス(マーク・ストロング)がチューリングにクラークの身の危険をほのめかすと、チューリングはケアンクロスがスパイであることをミンギスに告げる。ところがミンギスは既にこれを知っており、彼こそが英国の利益のためケアンクロスをチームに配属しソ連に情報を流すよう仕向けていたのだった。クラークに危険が迫っていることを予感したチューリングは、彼女に同性愛を明かしてブレッチリー・パークを去るように促す。終戦後、ミンギスは職員たちに自分たちの仕事の一切を破棄するよう指示し、仕事内容の口外や再び互いに会うことを禁じた。
 
1950年代、チューリングは淫らな行為を犯したとして有罪となり、服役か化学的去勢のどちらかの選択を迫られ、仕事を続けるために後者を選ぶ。クラークはチューリングの家を訪れ、彼の心身の衰えを目の当たりにする。彼女はチューリングに彼が多くの命を救ったことを思い出させ、かつてモーコムがチューリングに、チューリングが彼女に言った台詞を言って聞かせる。「時として誰も想像しないような人物が想像できない偉業を成し遂げる」
なんやろか。事実ベースということで観ていて普通に歴史の勉強になり面白ろかった。本作を観てあまり思うところはないが一点だけ。

「時として誰も想像しないような人物が想像できない偉業を成し遂げる」

この台詞が作中何度か出てくる。

これは、本作品の一つの軸である。チューリングは天才でプライドが高く協調性がない。人の心が理解できない。さらにゲイであるため、より集団から離れていく。みなから変な目でみられ、誰も彼が何かを成し遂げるなど想像しないであろう。

しかし、彼はエニグマを解読し、チューリングマシンを発明し英雄となる。

これは物事の表裏一体を見事に表現している。社会性に富み、人とのコミュニケーションがうまいと社会をよく理解した人間が出来上がる。その反面、社会に適合しすぎて、<世界>という本当の土台が見えなくなる。

逆に、<世界>に生きていれば、社会に入る必然性はない。そして社会から孤立して生きていればより<世界>に真っ向し、その本質を見出す。そうして<世界>に慣れた人間は社会からみたら異端児だが、<世界>とは調和の方向にいく。

こうして彼は人間社会では独創的となり、慣れ親しんだ<世界>から何かを掴み、人間社会で評価されている。

社会から外れて自己の道を行くプロスアンドコンズに目を向けさせるいい映画である。


 

『ダークナイト』(原題: The Dark Knight)を久々に観直した。

概要はこうだ。

2008年のアメリカ・イギリス共作映画。
監督はクリストファー・ノーラン、主演はクリスチャン・ベール。
「DCコミック」のボブ・ケインによるアメリカン・コミック『バットマン』を原作とした実写映画作品。「ダークナイト三部作(Dark Knight Trilogy)」の第2作。
第81回アカデミー賞助演男優賞、撮影賞、美術賞、メイクアップ賞、視覚効果賞、音響編集賞、編集賞ノミネート。助演男優賞、音響編集賞受賞。

あらすじは、
 
道化師の姿をした犯罪者の一団がゴッサム・シティ銀行を強盗する。裏切りあって、最後の一人になるまで殺しあった。残ったジョーカーは、マフィアの金を奪い逃走する。
バットマン、地方検事ハービー・デント、ゴッサム市警のジム・ゴードンは、ゴッサムから組織犯罪をなくすため行動していた。ブルース・ウェインはデントの理想に感銘を受け、彼のキャリアをサポートする。堂々と悪と戦うハービーこそがゴッサムの求める真のヒーローであると考え、バットマンの引退を考える。レイチェル・ドーズに想いを寄せているが、レイチェルの気持ちはブルースとハービーの間で揺れていた。
マローニ、ギャンボル、チェチェン人の会計士・ラウが会議を始める。ジョーカーが割り込み、バットマンは法律によって妨げられないことを警告する。マフィアの財産の半分と引き換えにバットマンを殺す提案する。ギャンボルはジョーカーに懸賞金をかけるが、ジョーカーは彼を殺し、彼の組織を引き継ぐ。マフィアは最終的にジョーカーの提案を受けることにした。
バットマンとジョーカーの戦いが始まろうとしていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88
本作はよく倫理の本質を問われる作品であると評される。

ただ、僕は西洋育ちではないので、キリスト教など一神教も言葉では理解しているが、エートスとして身についていない。なので、絶対的正義と悪という対立に感情移入できないのが現実だ。日本は世界的にみれば平和で穏やか、二項対立的な志向が軸になっていない。

僕からすると、「極端に行き過ぎた善悪の危うさ」を描き、アリストテレス的な中庸を再認識させる作品であるように見える。

どういうことか。

まず、本作の特筆すべき設定は2つ。ジョーカーの悪に理由がないということと、バッドマンが正義のヒーローでありながら、盗聴したり街を破壊したり悪事を行っていること。

さて、人間がこの社会で「悪」とされる行為をしたと看做されるのは何か?本質を問う。

自己保存(複製)のため、環境をよくし、食を安定し確保し異性と生殖するということだ。誰もがこのベクトルをもっている。そして、万人の万人に対する戦いを避けるため、社会をつくり社会性を身につけた。そこで規範や法が生まれる。

個人レベルでいえば、善とはまさに自己保存に繋がることであり、悪とはそれが妨げられたり、究極的には身体を害され殺されることだ。一方、集団でいえば、根底にはこの個人レベルの善悪があるが、基本的には「他者に危害を加えなければ何をやってもいい」という価値観をもとに善悪が決められる。近代以降の社会においては。

ここで注目したいのは、すべて一つのベクトルの上でのこと。原始的な自己保存と、他人に親切にする、礼儀正しくという社会規範は同一線上にある。そこから考えてみれば分かるとおり、社会的な悪というのは善の延長で生まれた概念なのである。中国では人に身体が少しぶつかっただけでは謝らないが、社会性が高まった日本ではそれが悪となる。

本来、動物的な人間は自己保存ができればそれで満足であったが、それをより確実に長く実現するために社会を築き未来に向けてその善悪を感じる精神を延長した。

ウェインのようなスーパーエリートはこうした人間社会においてマズローの欲求5段階説の最上級まで上り詰め、あまりにこのベクトルが進み過ぎてしまった。ここまで利他的な行動は、そのベクトルの起原からあまりにも離れすぎて、その反作用として極端な反対分子を生みだす。

本来の善悪は、主観的な快苦が起原である。バッドマンのヒーロー行為はこの原点に紐付かず、社会全体に混乱を生み出したのであった。それが、バッドマンシリーズの主題である「善が本当に善なのか、悪が本当に悪なのかわからない」「行き過ぎた善は悪を生み出す」のさらに原点にある事実なのではないか。


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クリスチャン・ベール
ワーナー・ホーム・ビデオ
2010-04-21

 

『プレステージ』(原題: The Prestige )を観た。

概要はこうだ。

2006年公開のアメリカ映画。クリストファー・ノーラン監督。
過去の因縁によって互いに競い合う2人のマジシャンを描くサスペンス映画。クリストファー・プリーストの1995年の小説『奇術師』を映画化した作品である。主役である二人のマジシャンにはヒュー・ジャックマンとクリスチャン・ベールが配役された。
第79回アカデミー賞では撮影賞と美術賞にノミネートされた。

あらすじはこう。 

19世紀末のロンドン。ボーデンはライバルであるアンジャーの瞬間移動マジックを調べるため、彼のマジックの最中に舞台下に侵入する。するとアンジャーはボーデンの目の前で、2人にとっていわくつきの水槽に落ちて溺死。そばにいたボーデンはアンジャー殺害の容疑で逮捕される。
遡ること数年前。若きアンジャーとボーデンは、ある奇術師の下で互いに修行していた。ある時、助手であったアンジャーの妻が水中脱出マジックに失敗し溺死する。その原因はボーデンが結んだロープであった。2人は決裂し、アンジャーは復讐のためにボーデンの手品を失敗させ、ボーデンは左手の第4・第5指を失う。以後、2人は互いの邪魔をしながら激しく競い合うようになる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B8_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

この作品、クリストファー・ノーランらしく普通のエンタメムービー的に観れるが実は奥深い問題提起をしている。彼の作品はいつも「人間の本質」に関わる部分を浮かび上がらせる。


簡単にいうと、この作品では「スワンプマン問題」を扱っている。これはある人間の素粒子状態を完全にコピーしたもう一人の人間を作り、オリジナルを殺した場合、実存的には最初に人間は死んでいるが、社会的にはコピーの人間が今までと同じように社会に溶け込めるということ。

小鳥の手品が伏線になっている。当時は、小鳥がいなくなってまた出てくるというあの手品、一回ずつ鳥を殺していた。映画の前半で、この小鳥の手品を子どもに見せる。最後に小鳥が戻ってくるという手品のラストを見ても子どもは泣き続けてる。最初の鳥が死んだことを嘆いているのだ。

さて、アンジャーの場合は毎回瞬間移動のときに、そしてボーデンの場合は死刑になるときに「スワンプマン問題」が生じている。意識に連続がなくなっているのだ。瞬間移動でもともとステージにいるあんじゃーは溺死するし、死刑になるボーデンは普通に死を体験する。だが、社会的にみれば各固体は同じ分岐点までは同じ記憶を持っているので問題ない。(ちなみにボーデンの双子はテスラの機械によるものか、本当の双子かは謎だか僕は前者を想定してる)

普通、自分が死ぬのであればいくら社会的には生き続けるとしても死を受け入れないだろう。しかし、アンジャーもボーデンも意識が持続していなくても、社会的に自分が生きていればOKという選択をしているところが興味深い。

と、主に後半部分がメインだがこういう感想を持った。

もちろん、中国人から手品のポイントを盗んだボーデンは、日常生活まで演じきって勝利したというオチも爽快。

プレステージ [Blu-ray]
クリスチャン・ベール
ギャガ・コミュニケーションズ
2012-07-03



『マトリックス』(The Matrix)を観た。うすうす気づかれているかもしれないが最近ちょくちょく人工知能に関する映画を観ている。実は僕、マトリックスは中学1年生のときに友だちと映画館で観て以来。当時あまり中1の僕らはあまり意味が分からなく観終わった後映画の話をほとんどしなかった記憶がある。

概要はこうだ。

1999年のアメリカ映画。もしくは、それ以降のシリ-ズの総称でもあり、この映画を題材にしたアメリカンコミックのこと。1999年9月11日日本公開。
SF作品であるが、従来から人気のカンフーファイトのテイストも含んでいる。ストーリーの各所にメタファーや暗示を置き、全体に哲学や信仰という奥深いテーマも表現している。従来のCGにはない、ワイヤーアクションやバレットタイムなどのVFXを融合した斬新な映像表現は「映像革命」として話題となった。
1999年のアカデミー賞では視覚効果賞、編集賞、音響賞、音響編集賞を受賞。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

あらすじはこう。

トーマス・アンダーソンは、大手ソフトウェア会社のメタ・コーテックスに勤めるプログラマである。しかし、トーマスにはあらゆるコンピュータ犯罪を起こす天才ハッカー、ネオという、もう1つの顔があった。平凡な日々を送っていたトーマスは、ここ最近、起きているのに夢を見ているような感覚に悩まされ「今生きているこの世界は、もしかしたら夢なのではないか」という、漠然とした違和感を抱いていたが、それを裏付ける確証も得られず毎日を過ごしていた。
 
ある日、トーマスは「起きろ、ネオ」「マトリックスが見ている」「白ウサギについて行け」という謎のメールを受け取る。ほどなくしてトリニティと名乗る謎の女性と出会ったトーマスは、トリニティの仲間のモーフィアスを紹介され「貴方が生きているこの世界は、コンピュータによって作られた仮想現実だ」と告げられ、このまま仮想現実で生きるか、現実の世界で目覚めるかの選択を迫られる。日常の違和感に悩まされていたトーマスは現実の世界で目覚める事を選択する。次の瞬間、トーマスは自分が培養槽のようなカプセルの中に閉じ込められ、身動きもできない状態であることに気付く。トリニティ達の言ったことは真実で、現実の世界はコンピュータの反乱によって人間社会が崩壊し、人間の大部分はコンピュータの動力源として培養されているだけという悲惨な世界だった。覚醒してしまったトーマスは不良品として廃棄されるが、待ち構えていたトリニティとモーフィアスに救われた。
 
トーマスは、モーフィアスが船長を務める工作船「ネブカドネザル号」の仲間として迎えられ、ハッカーとして使っていた名前「ネオ」を名乗ることになった。モーフィアスはネオこそがコンピュータの支配を打ち破る救世主であると信じており、仮想現実空間での身体の使い方や、拳法などの戦闘技術を習得させた。こうして人類の抵抗軍の一員となったネオは、仮想現実と現実を行き来しながら、人類をコンピュータの支配から解放する戦いに身を投じる事になった。

みなさん観ましたよね。
どのような感想を持っただろうか。

今生きている世界が、仮想現実世界である、というの着想は一般的だが多くの人はマトリックスでその概念が定着したのではないか。

2つ思うところを述べる。

まず、僕がこの作品で一番強いメッセージを感じたのは「仮想現実世界(マトリックス)はあえて楽園ではなく、普通の世界にしている」というところ。コンピュータが世界を支配しだした最初のころの、仮想空間マトリクスは楽園のような場所で、何も努力しなくても生きていける世界だったが、人間はそれでは満足できなかったらしい。そこの詳しいところは描かれていない。

以前このブログで、「エクサスケールの衝撃」という本の感想を書いたことがあるが、その本では人類が近い未来に不老で不労となることが予測されていた。これはまさに楽園であり、僕は人間の実存のあり方が大きく変わることに興味を持った。個人的にそれがいいものか悪いものか熟考していないが、マトリックスが想定する世界では、人間はその環境に適用できなかったようだ。ここが地味に一番考えさせられる部分。

現実世界からマトリックスの世界に戻ろうとするやつも登場するが、これが意味するのは、さらなる便利で快適な世界を目指しつづけてもその未来の人間は「今」レベルの生活に戻ってくるということ。要は、今われわれが向かう方向性に対して警笛を鳴らしているのだ。

次に、あるブログで的はずれなことが書かれていたのでそれについて。参考:「映画『マトリックス』が本当に伝えたいこと ~君は心の囚人 (http://sanmarie.me/matrix/)」モーフィアスが「思い込みからの開放= free your mind」といっているが、この記事によると心を自由に解き放てば、今まで見えなかった現実が目の前に開け、不可能と思い込んでいたことが可能になる、というころらしい。

これは一見いいことを言ってそうにみえるが完全に誤読。思い込みからの解放をして、スーパージャンプできたり銃弾を躱せたりするのは、仮想現実世界マトリックス内での話である。だからネオというコンピュータを理解できる神経を持つ人間が起用された。現実世界に目を向けたら、発展だけを目指し続けた結果悲惨な状態に陥る世界が描かれている。一点目に述べた結論と同じで、未来の現実世界は壊滅状態。そこに希望はない。そのために、今、冷静になって「人間の生」について考えなおそう、というのが本作の要諦、と解釈した。

実は、第二部三部とまだ観ていない。

暇があれば観る。

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2015-10-09




 

『インセプション』(原題: Inception)を観た。クリストファー・ノーラン監督・脚本・製作による2010年のアメリカのSFアクション映画。

WIKIによるあらすじはこうだ。
主人公のドム・コブは、人の夢(潜在意識)に入り込むことでアイディアを盗み取る、特殊な企業スパイ。
そんな彼に、強大な権力を持つ大企業のトップの斉藤が仕事を依頼してきた。依頼内容はライバル会社の解体と、それを社長の息子ロバートにさせるようアイディアを“植え付ける”こと(インセプション)だった。極めて困難かつ危険な内容に一度は断るものの、妻モル殺害の容疑をかけられ子供に会えずにいるコブは、犯罪歴の抹消を条件に仕事を引き受けた。
古くからコブと共に仕事をしてきた相棒のアーサー、夢の世界を構築する「設計士」のアリアドネ、他人になりすましターゲットの思考を誘導する「偽装師」のイームス、夢の世界を安定させる鎮静剤を作る「調合師」のユスフ、そして斉藤を加えた6人で作戦を決行。首尾よくロバートの夢の中に潜入したコブ達だったが、直後に手練の兵士たちによって襲撃を受けてしまう。これはロバートが企業スパイに備えて潜在意識の防護訓練を受けており、護衛部隊を夢の中に投影させていた為であった。
インセプション成功の為に、さらに深い階層の夢へと侵入していくコブたち。次々と襲い来るロバートの護衛部隊に加え、コブの罪悪感から生み出されたモルまでもが妨害を始めた。さらに曖昧になる夢と現実の狭間、迫り来るタイムリミット、果たしてインセプションは成功するのか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

記憶に関する映画ということで、人間の本質に迫る何かが得られることを期待したが特筆すべきことはなかった。クリストファー・ノーラン作品は相性が悪いかもしれない。メメントと同じく、観客を時間軸で混乱させて分かりそうで分からないというコンテンツの面白さの本質(以前の記事参照)を簡単に作ろうとしている気さえする。

この手の時間が行き交いするストーリーって作る方が圧倒的有利だ。普通に時間軸を幾つかノートに書いたり図を書いたりすれば、整合性の取れたストーリーに仕上がるのはあたりまえ。こっちは初見でそれを見て解読に疲れる。まあ、そんな簡単な話じゃないのかもしれないが。

本作では、「現実と夢の境界のなさ」を考えさせられる。ネタバレになるが、最後のピンが回るシーンではそれがディカプリオの第四層以下の深い夢である可能性を示唆している。観客は、現実と何層もある夢を行き来する世界に混乱する。これは、トータルリコールやブレードランナーと同じような感じ。

もちろん、映像も迫力あるしストーリーもどんどん展開していくのでエンタメとして面白いとはいえる。実は、愛が中心のテーマということだが正直あまりピンとこなかった。むしろ夢の中でのルールとか現実的にどういう理論に基づいているのかが分からなくなって(というかSFなので分かる必要ないが)むかついてきた。148分長いし。

実際、夢に潜って世界を共有するのは無理だろう。ニューロンとかシナプスがどうこういっている脳であるかぎりは不可能で、脳が電子的なデータになればありえる話かもしれない。(でもそうするとスワンプマン問題が発生する。ようするに一回死ぬ必要があるということ。)

といっても、ここはあえて技術的な整合性は問わないパターンの映画っぽいのでOK。「2001年宇宙の旅」の黒い板みたいな感じで、暗喩的に何かを示したり、思考実験のための馬鹿げた設定は突っ込む必要はない。

まとめると、僕の評価は平均点といったところ。

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