記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ:人間とは何か > 心の哲学

子どもをバイリンガルに育ていると思考が安定しない、みたいなことをたまに聞く。

二ヶ国語を同時に学ぶことで、概念形成する際にこんがらがって、変な形で記憶してしまいその後の他者とのコミュニケーションであったり、思考において支障が出る、というようなことだろうか。 

ただ、これはよく考えると育てる”環境”が大事なのだ。育てる環境を一定にすれば、一般的に言われているような問題は起きないだろう。 

どういうことか。

環境というのは、その語の通り、周囲の環境のこと。東京の街、とかそういうこと。

ウィトゲンシュタインという哲学者は、その後期に「語の意味は使用だ」と言った。ここで詳しくは説明できないが、語とは「語」とそれが意味する(或いはその語に触れると喚起される)「イメージ」のリストを暗記するというようなものでは、全然ない。

「明日は雨が降るかもね」と聞いて、いちいち「明日」「雨が降る」のイメージを描かないだろう。言語というは事実を述べるだけでなく、言語行為と呼ばれるようにさまざまな行為自体でもある。(この辺は語用論に詳しい)さらに、もっといえば、発話者の企投的意図という世界や社会や人への意図の投げかけが根源にある。そのために、語は道具として使われる。

また、もちろん、先のリスト的な語の役割もある。あるイメージ(ソシュール的にいえばシニフィアン)と語という記号の結びつきを経験的に増やす必要もある。これは辞書的意味として使う際に重要。

さて、こうした深い言語観をもとに考えるなら、子供をバイリンガルに育てる際どのようなことが言えるだろうか。

それは、冒頭に述べた通り、環境を一定にする、ということ。子供は語の使われ方(ある状況、文脈)さらに語が示す対象(辞書的意味)を学ぶことで言語を習得するが、そのためには一定の蓄積が必要である。赤くて丸いちいさな甘いものを一回見ただけではそのゲシュタルトは形成されない。何度か見ることで観念が安定してくる。語の用法も同じだ。どのような状況でどのようにいうと、どのような企投的意図があるか、を理解し自分も使うようになる。

すると、この過程で一番やってはいけないのは、こうしたゲシュタルトの対象となるもの、企投的意図の投げ合いがされている状況を”ころころ変える”ことである。われわれ大人からみれば簡単なことだが、例えば、「机」といっても、日本の机とドイツの机だと一般的なイメージが異なるだろう。

子供からすれば視覚的情報から入るわけで、これらを違うシニフィアンだと理解するだろう。そして、これにそれぞれ語があてがわれれば混乱してしまう。こうした名詞ならまだしも、もっと実践的な語であればなおさらだ。日本語と英語の翻訳が難しいように、シニフィアンが一致することはない。こうしたズレがある中では子供は語を正しく理解できず、記憶もままならなくなる。

ということで、日本という国の中で日英とか日中とかのバイリンガルにするのはいいが、土地を変えて育てるのはバイリンガルに育てるどうこうの前に問題となる。
biling
 

クオリアとは、簡単にいえば「意識」ということ。質感。「赤色」といって思い浮かべるアレのこと。

さて、「クオリア」とは情報を重ねるための手段として生まれたのではないか、とふと思った。エクセルとか使っていると、縦横だと2つの情報しか表せないが、そこに強引にもう一個情報追加しようとすると、色で塗り分けると意味を付加できる。

人間は主に五感で外部環境を認識している。

というか、少し話が逸れるが五感から取れる情報とは全部波なのではないか。

視覚
聴覚
嗅覚
味覚
触覚  

視覚と聴覚は波を感知しているし、その他も素粒子レベルでいうと波を感知していると言えるのではないか。特に触覚については僕らは絶対的にどの主体(あらゆる動物など)に共通だと思っているが、素粒子レベルや放射線など特殊なものからすれば、人間の触覚(人間が通れないもの)も通過できちゃう。宇宙を光ではなく重力波とか違うもので観測すると違う世界が見えるのと同じこと。

何がいいたいかというと、人間は外部世界という「カオス」をいろんな波長の波で理解している「唯識」的存在と捉えることができる。

そして、これだけいろいろな波長の波を多量に取ってくると、分析が大変だ。そのとき、それらを統合し、一つの世界として外部情報を重ねて意味を持つ世界を生成することで情報を凝縮する。最初のエクセルに色をつけるのと同じ原理だ。ここでクオリア、意識が発生。こうして、人間は、沢山の情報を統合し外部環境に向かい合う。

これは非常に面白い発想ではないか。ただ、もちろん根本的な問題は解決されていない。

もともとあるカオスは何なのか。また、人間は外部環境を認識しどこに向かっているのか。これは分からない。 

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