記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ:人間とは何か > 言語

「語用論」という言語学に一分野がある。

この学の研究目標は、「会話の含意を解明する」ことにある。
例えば、ある学生2人のやり取りで次のようなものがあったとしよう。

「今日カラオケいかない?」
「明日課題の締め切りなんだよね」 

これは字義通りに取ると、論理的ではない。でも現実では通じる。

字義通りの解釈は、言語学でも「意味論」が扱う。語の意味を明らかにし、それらが組み合わさって作られる文の意味構造を取り出してくれる。言内の意味としての表意。

しかしこれは文の表面的な言内の意味(表意)にしかすぎない。その分が用いられる場面に応じて文中に閉じ込められた含意、すなわち、裏面的な言外の意味(推意)を引き出すことができて、初めて文全体の意味を理解したことになる。

そこでこのような言外の意味としての推意を研究対象とするのが「語用論」である。

語用論の中にも様々な理論があるが、ここではイギリス出身の哲学者・言語学者のポール・グライス(Herbert Paul Grice 1913年 - 1988年)の「推意」について述べる。

冒頭のカラオケに行こうという会話だが、これをどう分析するか。

「今日カラオケいかない?」
「明日課題の締め切りなんだよね」 

 一見関係がないように思えるが、推意を働かせれば両者はつながってくる。その理解の説明としてグライスは協調の原理という会話において前提とされているある原理を導入する。例えば、「十分な根拠のないことをいうな、明快な言い方をせよ、あなたの貢献を関連のあるものにせよ」など、会話に参加するものは、この協調の原理に従っているとする。

さて、ここからは個人的に思ったことを書きたい。

冒頭の例のように、なぜ人は直接に答えないのか?意味論的に冒頭の質問に答えるなら、「行かない。なぜなら忙しいから」のような感じになるだろう。

ではなぜ直接言わないのか?

補助線としてレビンソンの指摘が役に立つ。レビンソンは「推意」の意味は「取り消し可能性」がある、という。上の例でいえば、「明日は課題がある」といえば、まだ「行かない」と断ったことは決定的ではない。場合によっては変更できる可能性がある。

簡潔に言えば、これは人間関係を円滑にするための知恵である。

人は個人個人自分の欲望にしたがい企投的意図を実現するために言語を使う。そのために、各人の意図すべては同時に満たされないので調整が必要となる。さもなければ対立してしまう。

取り消し可能性を残しつつ自分の意図を伝えることで、この対立を避けている。だから推意で探りながら取り消し可能性を保持しながら進めていく。カラオケの誘いの例でも、誘い手が本当に心の底から行きたくて誘ってくれば、OKと答えて行く可能性も残している。

こうして考えると、「粋な表現」とは何か、というのも見えてくる。それは、直接的に言うと人に害や不快感を与えてしまうことを、取り消し可能性を保持し遠回しに言う、ということだ。いいかえれば、いかに協調原理から離れた推意を作るか、ということ。いかに協調していると見せつつ、協調を逸脱した言語行為をするかということなのだ。


言葉とは何か?これは言語学でずっと分析されていることである。そして、もっと根本的に「意味」とは何か、それについて今日はまとめる。まず言語について説明するところから入っていき、最後に「意味」そのものについて決定的に答える。

ウィトゲンシュタインは、言葉の意味は日常生活における具体的な使用に基づくものであり、唯一の客観的な意味が存在するわけではない。仲間と一緒に徹夜をやり終えて、ふと外の景色に目を向け、仲間に向かって「空が青いな」というなら、それは空の青さを客観的に述べているのではない。仲間と一緒に仕事をやり遂げた達成感、労働の後の晴れやかな気分を、仲間に対し意図している。どのようなコミュニケーションの文脈で語られたかにより、言葉の意味は変わってくる。言葉の意味を決定するのは、その都度の状況における言葉の用い方である。

こうした言葉の用い方は表立って意識されない。それは実際に使うなかで身につくものであり、完全に記述、説明することはできない。このようなルールのもので、複数の人々のあいだで交わされるふるまい(特定のルールに従った行為や態度)のことを、ウィトゲンシュタインは言語ゲームと呼んでいる。この考え方は前期ウィトゲンシュタインの写像理論とは対照的に、真理の存在を認めない。その意味では現代の分析哲学と呼応するものがだが、しかし単なる相対主義ではない。ある意味は、なんらかの観点に相関して現れるのであり、なんとでも解釈されるとは考えないからだ。これは言語の本質を捉えたきわめて重要な考え方である。

しかし、ウィトゲンシュタインはここまでで、その後の展開がないし、だから何にどう応用できるのか、といった実用性もない。

ここからスタートし、言語とは何か、そして「意味」とは何かということを竹田青嗣の「現象学は思考の原理である」から明晰に回答したい。言語の本質をしっかりと見定める、そして「意味」とは何かを理解することを目的とする。これは現代において極めて重要な意義を持っている。
 


社会の本質的理論を構想するときに、言語の本質の探求が不可欠であるということ。社会の本質は言語ゲームとしての関係的集合体であるということ。言い換えれば、社会的関係とは単なる力のせめぎ合いではなく言語ゲームこそがそれを展開する本質的力。だから言語本質論は本質学としての社会理論の基礎となるものである。
 
人間の原理論にとって必要である。とくに人間的身体論の基底をなすのは、言語によって基礎づけられた人間関係だということ。人間は幻想的エロスをその本質とする。それは、身体、欲望、関係態度、情緒性といった枠組みで捉えられるが、これらの枠組みをなすのが人間どうしのさまざまなルール関係であり、そしてルール関係は根本的には言語的関係。我々は人間の幻想的の本質を捉えるために、観念や意義の本質それ自体を形而上学的に想定するのではなく、我々の中でルール関係がどのように経験されるのかを捉える必要がある。

人間の存在の本質を捉える上で言語の本質が不可欠な前提であるから、現象学の方法で言語理論を理解する必要がある。
ところが、現代の言語学は、この本質を適切な仕方で捉えることができていない。このことを考えてみよう。

言語学的転回
近代哲学と現代哲学とを画す動向を表す概念。デカルトのコギトの自覚に始まる近代哲学は意識を確実な認識の最終的な基盤として中心にすえ、反省的方法により意識が世界を意味付け、構成する過程を解明することに努めてきた。しかし、この意識中心の哲学は、意識の私秘性という壁に阻まれ不可知論あるいは独我論というアポリアに陥らざるをえなかった。それに対して19世紀末から20世紀初頭にかけて現れた一群の哲学者たちは、意識という自己完結した世界からの脱出路を公共的な言語の中に求めた。いわざう哲学的議論の土俵を意識ではなく言語という場面に転換したのである。

これは一見妥当な意見に思えるが、竹田的には、言語の用法や意味作用を徹底的に形式的に追い詰めようとする現代言語哲学のほうが、結局は強い不可知論や独我論的傾向に陥っているのが現状であり、むしろ観念論の方法を原理的に徹底した現象学の発想が、言葉の謎をはっきりと解明している。

言語行為の本質を、多くのカードを使って意図をやりとりする複雑なルールゲームと考えよう。様々なカードは様々な言葉である。我々はこのゲームで多様な思考を作り出し、それを相互に共有し、そのことで社会というゲームをつくりなす。現代言語哲学は、いわばこのゲームにおける言語というルールの体系を正確に記述しようとする。また、そのルールが微妙に変化してゆくその理由を突き詰めようとする。さらに、言語のルールと実際の使用との間に見いだされる不思議なズレの原因を捉えようとしてきた。要するに、言語の多用なカードやルールの仕組みについて、それを正確に記述しようとするのだ。

その理由は明らかで思考自体が言語というゲームによって可能となるのだから、言語ゲームの体系的探求こそ、その個別的プレイである心的内容の探求よりも権利的に先行性を持つ、というわけだ。

しかし、これはひとことで言って、近代実証主義に特有の事実主義的思考と言わざる負えない。この思考の特質は、あるゲームの本質を探究するには、そのゲームのアイテム(将棋の駒の種類、トランプのカードの種類)とルール(規則)を体系的につまり全体性を正しく記述すればよいと考える点にある。

だがそうだろうか?

こうしたルールブックを読んで果たしてゲームの本質を理解できるか。できない。むしろルールブックを頼りに彼らのゲームを再現し、実際にやってみること、このゲームを実際に繰り返し行なってみることではじめてそのゲームの本質(つまりプレーヤーにとってのエロスである面白さ、意味、問題点等々)を理解できるのである。要するにゲームの本質とは単にそのルールを体系的に正確に記述することでは把握できない。実際にプレーすることを通じてはじめてそのゲームの本質を把握できる。

このことは原理的だが、なぜか?ゲームにはゲームを行う主体が存在しなければならず、この主体のゲームの経験だけがゲームの本質をつかむことができる。というのもゲームの本質はゲームが作り出すエロスにあるからである。ゲームの本質は、ゲームを行う主体のエロス的幻想の本質と相関的。このことを理解できないのが、心的内容を度外視してルールやシステムの体系を事実的に認識すれば言語の本質を把握できるとする現代の実証主義的思考の本質的な欠陥。

言語の使用や用法の本質こそが思考の本質を規定するから、これを厳密に形式化して規定すればよいというのが分析哲学の発想。言語はその基本構造を言語ゲームと考えると分りやすい。ゲームは一つのシステムなので、分析哲学はシステムの構造の本質を把握できればいいと考える。

言語やそれによって形成される社会は集合関係的ゲームといい、ここではゲームのゆるやかな規則はあるが人為的な厳密な規定性がなく、ゲームの目的も個々のプレーヤーに分散されて多様性をもつ。言語やそれによって形成される社会がそういう集合的関係のゲームであり、家族、友人関係、村、その他様々な文化共同体などもこれにあたる。ここでは、ルール自体が固定的なものでなく人間の身体の構造がそうであるようにつねに自分のルールを刷新し続けるような構造になっている。またこのルールは自覚的な部分と無自覚的部分を含んでおり、そのためその変更も集合的にしか生じない。さらにそれは一つのゲームをなしているが、ゲームの目的も一義的ではなくプレーヤーの多様な自己設定に委ねられている要素が大きい。
 
言語の諸アイテムやルールは一見、事実的な構造をしているように見えるので分析哲学という方法でそれを厳密に規定できるとみなし、そのことで言語の本質を把握できると考えるが、それはまさしく実証主義的思考の欠陥。言語というげゲームのシステムは本質的に社会的事象でありそれ自信関係的ゲームのシステム。だから使用や用法といっても科学や物理法則のような一義的な共通了解は成立しない。だからこそ、ここでもまた、心理学や歴史学や社会学と同じ理由でさまざまな意見の対立、信念対立が必然的に生じる。

現代の分析哲学は、言語規則を形式論理的においつめることでさまざまな解けないパラドクスにぶつかる。それは身体の形式的分析を推し進めると心身相関の解けない謎にぶつかるのと同じ事情。このための分析哲学は一方であくまで形式論理を追い詰めようとする論理実証派と、言語の分析を徹底することの不可能性を帰謬論理的に証明しつづけようとする相対主義派に分極している。

思考は言語使用の能力だが、また言語が思考を可能にしているといえる。だから思考を可能にしている言語システムの構造の把握こそ認識問題を解く鍵である。そう現代の言語学は考えるが、それはわれわれの身体本質を捉えるには、身体の使用を可能にする筋肉や神経の構造を把握すればよいと考える実証的思考と同じ。身体の本質はちょうどゲームの本質はそのゲームの体験の本質考察を通してしか取り出せないように、われわれが自らの身体使用の経験を内的に吟味することでしか把握できない。言語論的転回はたしかに哲学の中心問題を観念から言語へと移動させたのだが、その経緯をみるとこおには本質的な問題の転回はなく、ただ問題の一側面の移動が生じただけだったとしかいうほかない。

日常的な言語の現象では、たいていの場合、発語者と受語者との暗黙の関係が想定されている。このような日常的な言語のあり方を「現実言語」という。例えばここにチラシがあってパソコン大安売りと書かれている。暗黙のうちに読み手はある売り手から買い手に向けて発語されたものとして受け取る。

ところで今、言語からこの発語者ー受語者という暗黙の関係をそっくり抜き取るとどうなるか。竹田はこれを「一般言語表象」と呼び「現実言語」と区別した。すなわち、そこでは、信憑関係の本質が抜き取られるために、「一般的な意味」しか表示しない言語、となる。発語者ー受語者の関係が生きている言語が「現実言語」で、「現実言語」と「一般言語表象」とを区別しないことによってさまざまな言語の謎が現れてしまうのである。分析哲学が向き合っているのは現実言語ではなく一般言語表象だから色々問題起きる。

例えば、「空は青い」は誰かが誰かに語られ聞かれるかぎりで現実言語であり、コンテクストからその「意」が志向され、そのことで「意味」が分かったり分からなかったり、あいまいだったり、誤解を呼んだりする。このような「意味の動態性」が現実言語における「意味」の本質である。

「全てのクレタ島人はうそつきである、と一人のクレタ人が言った」これも現実言語ではどんなパラドクスも起こらない。(彼の言葉が決定不可能だと思って困る人がいるか?普通、この人はなにかむかつくことがあって仲間であるクレタ人を誹謗中傷しないのか?もしくは親切な人で、よく騙される旅行客に注意してくれてるのだろうか?などなど可能性をとりあえず感あえて、真意は分からなくてもいちおう了解を持つはず。)しかし、これは「一般言語表象」として抜き出すと、この文章の「一般意味」だけが表示され、そこで論理上の矛盾が現れる。つまり言語からさまざまなコンテクストを全て取り払うと一般ルールに従って一般意味だけを表示するものになり、そこではちょうど画家が二次元のキャンパスを使い三次元を書くことでだまし絵を書くようにいくらでもこのようなパラドクスを作り出すことができる。

言語の多様性や規則の規定不可能性の問題自体、じつは何ら新しい問題ではない。それは近代哲学がずっと問題にしていた認識問題の言語論的変奏形態である。つまり人間の主観的である認識は真理や客観を捉えることがえきるのかという問いが、言語は真理や客観を正しく表現できるのか、という問いに置き換えられただけ。これを言語論的転回と呼んでいる。現代言語哲学は哲学の新しい流れを作り出したと考えているが、ただ道具立てが代わっただけということに気づいていない。

***

意味とはなにか?
では、言語の謎を解明した今、言語の問題はどのような新しい主題を展開できるか?第一に、言語を人間の幻想的身体の本質契機として捉えるという視点であり、第二に言語を社会的ルールの本質契機と捉える。第一が身体論及び価値審級論の領域を形成し、第二がルール社会論の領域。とくに第一の問題が欲望論につながる。しかし、言語の本質を身体論の問題につなぐためには、まず意味の本質を現象学的に考察しておく必要がある。

言語について考えるには当然、意味について考えないとならない。なぜなら、言語学的には言葉とは意味を担うものであり、一般的には、言語の規則とは意味がそれによって伝達される或いは構成されるところのルールだから。

まずは、言葉の意味ということに狙いを絞り考察し、その後、意味それ自体について考えていく。

名詞が意味を持つとは、一般的には概念を持つということと考えていい。では概念はなにかというと、これをヒトゴトで経験の集約と呼んでおく。樹木の概念とは、われわれがさまざまな形でもつ樹木についての経験(知識を含む)の集約。

語がもつ辞書的な意味を一般意味、現実言語の中でわれわれが了解しようとしている発話者の言葉の意味を「関係企投による意味」と区別しよう。その基本関係は、言語行為は一般に言語によって他者と世界を共有しようとする関係的な試み(企投)であり、人は語の一般意味を利用して自分のその都度の「企投的な意味」を他者に投げかけようとする。

ウィトゲンシュタインの哲学探究での素朴な言語ゲームを例にしてみよう。ある男Aが「板石!」とBに言ったとする。これはBに対して、板石を持ってきてくれ、といっているかもしれないし、この板石は邪魔だからどけてくれ、ということかもしれない。この語は「板石」の概念を意味するが、男Aがいいたいのは「邪魔だからどけて」である。これは語の一般意味を利用して、自分の企投的意味を投げかけようとしている。

こうしてみると、語の表現する一般意味がそのままで言語行為の企投的意味とぴたりと重なることは決してありえない。すなわちわれわれは、どれほど単純に見える言語行為でもかならず一般意味を利用してその都度の各自的な意の投げかけあい(関係企投)を行っている。このように語の一般意味と、言語の企投的意味の違った本質を持っているのである。

われわれが言語の意味というとき、しばしば語のもつ一般意味とそれを媒介とする言語行為における企投的意味とを混同している。語の一般意味は人間が長くある語を一定の仕方で使ってきたことの集合的な痕跡。しかし、企投的意味はわれわれが生活のなかで絶えずそのつど行っている実存的な関係行為。見てきたように現代言語哲学における言語の謎はたいていこの2つの意味を混同することから生じている。

***

では、今見てきたのは「言葉の意味」ということの本質的区分であるが、さらにつっこんで今度は意味それ自体の本質とはなにかを問うてみよう。「意味」の本質についてはすでにハイデガーが卓越した本質観取を行っているのでここでは必要な範囲でこれを借りる。

「意味とは、あるものの了解可能性がそのうちに保たれている当のもののことなのである。了解しつつ開示することにおいて分節可能であるものを、われわれは意味と名付けるのである。意味という概念は、了解しつつある解釈が分節するものに必然的に属する当のものの形式的な骨組みを包括している。意味は、予持、予視、および予握によって構造づけられている企投の基盤なのであって、そうした基盤のほうから、あるものとしてのあるものが了解可能になるのである。」

これを竹田は解説する。言語の「意味」という概念は、語の「一般意味」と、発話者ー受話者の関係で現れる企投的意味(言わんとすること)という二重の「意味」をもつということであった。これはソシュールでは、ラングとパロールの二重性に重なり、フッサールでは指標と表現という区分に対応する。

時間的な先行関係としては、語の一般規則が確定されていなければ、われわれはそれを使って発語すること、関係企投を行うことができない。しかし、論理的な先行関係としては発語行為の積み重なり、その集合的な痕跡が語の一般規則(一般意味を含む)を形成するので、企投的意味が一般意味の形成の根拠である。言い換えれば、一般意味は現実の発話行為を、つまり発語行為のなかで生きて動く企投的意味をその源泉とする。

われわれはある前言術的な感覚に押され、それを他者と共有しようとする気持ちにうながされて、はじめてそれを言語化する。人間世界の意味の秩序が言語によって分節されているということは実存の世界が総じて欲望相関的に分節された前言術的な意味の世界であるということを土台としてはじめて成立するのであり、この根拠関係を理解することが意味の本質を理解する上でのポイント。哲学的には、欲望やエロスの動きが関係という形式性を分節するのであり、つねに欲望が関係に先行する。

ハイデガーのいう「了解しつつ開示することにおいて分節可能であるもの」とはどういうことか。補助線をひこう。ハイデガーによれば、人間の実存の本質契機は3つある。情状性、了解、語り、である。情状性とは「気分が動くこと」といえる。机に向かって書物をしているとなんだか頭が重い感じがしてたとえば首を動かしてみる。これがある不快な気分がいつのまにかやってくること、である。気分は、快苦の情動、感情、欲望、関心などとして到来する。われわれは、あるいは意識をもった生物はこの情状性の到来を制御することはできない。それは意識のむこうからたえず自らの告知するかたちで到来しつづけている。そしてこれがいきものの実存の源泉。というのは、われわれは頭の重い感じをもったらそれをなんとかしようとするから。不安や苦痛が到来したらこれを避けようとしたり取り除こうとする。また、快やエロスの可能性が到来したら、これを持続しようとしたり、より確実につかもうとする。これが実存のエロス的原則。

もう少し進む。頭痛の気分を感じて、私は頭を動かそうとする。あるいはすぐ近くの窓をあけて新鮮な空気を入れようとするつまりいきものは気分、情動、感情、欲望におされ、それに対応して身体的行為をとうろとする。そしてまさしくこのときにもっとも原型的な意味というものが生起してくるのである。

頭痛を感じる、ほとんど無意識に私はこれを除きたいと思う。そして私は首を回したり、近くの窓をあけようとしたりする。このとき、私のまわりの世界は「了解しつつ開示することにおいて分節可能である」ようなある意味の連関として浮かび上がる。

つまり、ふつう頭痛の気分(情状性)は、
頭痛をなんとかしたいという気分(了解)に繋がる。
このなんとかしたいという気分(了解)がどうすればいいか→窓がある、これを開けば新鮮な空気がはいる→頭痛がおさまるかも、という世界の意味連関(分節性)を開示するのである。

このようにして私の世界はつねに到来する気分(情状性)とその了解(なんとかしたい)に応じて、その分節性を編み換える。このような意味の網の目は、言語をもった人間だけに生じるのであって、だから「痛い」や「苦しい」などの内的な気持ち(心)は、言語によって作られたもので、動物には生じないなどと考えることはできない。動物では、意味の網の目は、言語の分節によって行われず、経験の積み重ねによって「身体的直観」として形成されるというだけであり、その実存に意味の連鎖と網の目が存在しなどということはできない。

なにはともあれ、こういうわけで「意味」の最も根源的な本質は、いきものの実存から発する「情状性ー了解」すなわり、情動の動きと、これに応じた何らかの存在可能へのめがけ、から立ち上がる、世界の有意義性の連関の絶えざる編み換えということにある。すなわち私のまわりの世界は私の気分、感情、欲望、関心に相関してまたそこから現れる存在可能性に相関して、つねに「了解しつつ開示することにおいて分節可能である」ような意味の連関として展開している。

言語についていってみれば、この実存的企投に発する他者との世界了解の共有(分有)ということが、発語することの基本的「動機」であり、またそれが現実言語の企投的意味の本質。さらに、このような関係行為としての言語による企投的意味の集合的な痕跡(積み重なり)として、言語の一般意味(辞書的意味)が成り立っている。言語の一般規範ラングが個々のパロール現実言語を可能にしているが、根拠関係としてはパロール企投的意味の積み重ねが絶えず一般ルールのラングを作り上げている。

***

言葉の意味という概念を考察するとき、言語学者たちは例外なく語の一般意味の形式的分析を徹底しようとするが、そこから言語の意味の本質を取り出すことは決してできない。哲学探究において、言語についての反語的なアフォリズムを積み重ねてウィトゲンシュタインが指摘しようとしているのはこのことだが、ウィトゲンシュタインは現実言語としての言語の本質を自覚しているわけではない。彼は一般意味の分析ではこの謎を解けないという指摘を繰り返し行なっただけなのである。

この問題は、実存論的、エロス論的な言語本質論をおかないとけっして解明できない問題。その理由は、実存的な関係企投が言語の意味の基底的本質であり、記号としての言語の意味はそれを根拠として成立しているから。ちょうど貨幣の謎が貨幣の価値自体をいくら分析しても理解できないのと同じ。貨幣は集合的な信憑システムとしてはじめてその実効性をもつが、それを支える本質条件は貨幣の記号論的分析だけからではけっして捉えることができない。

まとめると、
第一に、言語の謎は、言語を形式論理的に分析しつづけるかぎりけっして終わらないこと。第二に、実存論的、欲望論的分析を通じてはじめて意味の本質的な根拠関係が明らかになり、そのことで言語の謎というスコラ議論は終焉する。最後に、この本質が解明されることで人間存在を本質的に規定するものとしての言語、というより重要な主題が現れるということ。

 

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