記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)意識ファースト!意識がよければ何でもOK。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※基本殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ:人間とは何か > 言語

言語学の一分野に「語用論」というのがある。

この学の研究目標は、「会話の含意を解明する」ことにある。
例えば、ある学生2人のやり取りで次のようなものがあったとしよう。

「今日カラオケいかない?」
「明日課題の締め切りなんだよね」 

これは字義通りに取ると、論理的ではない。でも現実では通じる。

字義通りの解釈は、言語学でも「意味論」が扱う。語の意味を明らかにし、それらが組み合わさって作られる文の意味構造を取り出す。

しかしこれは文の表面的な言内の意味(表意)にしかすぎない。その文が用いられる場面に応じて文中に閉じ込められた含意、すなわち、裏面的な言外の意味(推意)を引き出すことができて、初めて文全体の意味を理解したことになる。

そこでこのような言外の意味としての「推意」を研究対象とするのが「語用論」である。

語用論の中にも様々な理論があるが、ここではイギリス出身の哲学者・言語学者のポール・グライス(Herbert Paul Grice 1913年 - 1988年)の「推意」について述べる。

冒頭のカラオケに行こうという会話だが、これをどう分析するか。

「今日カラオケいかない?」
「明日課題の締め切りなんだよね」 

 一見関係がないように思えるが、「推意」を働かせれば両者はつながってくる。その理解の説明としてグライスは「協調の原理」という会話において前提とされているある原理を導入する。例えば、「十分な根拠のないことをいうな、明快な言い方をせよ、あなたの貢献を関連のあるものにせよ」など、会話に参加するものは、この「協調の原理」に従っているとする。

さて、ここからは個人的に思ったことを書きたい。

冒頭の例のように、なぜ人は直接に答えないのか?意味論的に冒頭の質問に答えるなら、「行かない。なぜなら忙しいから」のような感じになるだろう。

ではなぜ直接言わないのか?

補助線としてレビンソンの指摘が役に立つ。レビンソンは「推意」は「取り消し可能性」がある、という。上の例でいえば、「明日は課題がある」といえば、まだ「行かない」と断ったことは”決定的ではない”。場合によっては変更できる可能性がある。

簡潔に言えば、これは人間関係を円滑にするための知恵である。

人は個人個人自分の欲望にしたがい企投的意図を実現するために言語を使う。そのために、各人の意図すべては同時に満たされないので調整が必要となる。さもなければ対立してしまう。

「取り消し可能性」を残しつつ自分の意図を伝えることで、この対立を避けている。だから推意で探りながら取り消し可能性を保持しながら進めていく。カラオケの誘いの例でも、誘い手が本当に心の底から行きたくて誘ってくれば、OKと答えて行く可能性も残している。

こうして考えると、「粋な表現」とは何か、というのも見えてくる。

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それは、直接的に言うと人に害や不快感を与えてしまうことを、「取り消し可能性」を保持し遠回しに言う、ということだ。いいかえれば、いかに協調原理から離れた推意を作るか、ということ。いかに協調していると見せつつ、協調を逸脱した言語行為をするかということなのだ。

これは、「粋な表現」の本質を突いている。

今日は、「言語」を深く考えるために「言語哲学」について述べてみたいと思います。

いわゆる言語哲学(分析哲学)の大きな流れを掴むには、フッサールやハイデガーの研究でお馴染みの渡辺二郎氏の『英米哲学入門』をお勧めいたします。彼の著作はどれも分かりやすく内容が濃いです。

概要を抜粋しますと、、

現代哲学の二大潮流―一つは、ラッセルおよびムーアに始まり、カルナップを中心とする論理実証主義を経て、クワイン、ストローソン、オースティン、そしてローティへと至る英米哲学の流れ。もう一つは、カントに始まり、ヘーゲルらのドイツ観念論へと展開し、ニーチェ、ディルタイからフッサール、ハイデッガーの現象学に至る流れである。ところが、カルナップやクワインを熟読する人はヘーゲルをけっして繙読しようとしないし、フッサールやハイデッガーを愛読する人はラッセルを忌み嫌ってやまない。英語圏の哲学とヨーロッパ大陸の哲学との分裂を克服すべく、英米哲学の基本的主張を原理的に捉え直し、展望する、格好の入門書。


とのことです。

本書は、最後にオースティンによって展開された「言語行為」まで紹介し終了しております。言語行為とは、これまで真偽の評価軸に固執してきた言語観を一歩推し進め言明(statement)を「行為」とすることでこれまでの矛盾を解明しました。しかし、この「言語行為」を紹介し、本書の文末で渡辺は以下のように述べます。


英語圏の言語論がいかに具体化し、日常言語のあり方を射止めるほどにまで柔軟に考えられるように至ったとしても、そこでは言語が、単に人間のなす主観的ないし社会的な行為の側面においてのみ捕らえられるかぎり、世界を切り拓き、打ちたて、存在の真相を宿す場を成す言語の存在論的側面は逸せられたままである。「言葉が語りかけてくる」ような、言語における存在の開示の姿が捕らえられないかぎり、言語の持つ力の実体はまだ本当には把握されないままにとどまっていると言わなければならないように思う。(422)

 

言語とは、自分の意図を世界(社会や他者を含む)に投げかけるための「道具」というのは一つの側面にしか過ぎません。「言語」はもっと人間の思考や無意識の領域にまで関わる「現存在」のあり方に深く関与しているのです。ただし、無意識の領域にまで考察を進めると形而上学となってしまいます。フロイトやジャック・ラカン、丸山圭三郎などの考察は確かに興味深いものがありますが、検証のしようがなくどうとでもいえてしまうきらいがあります。

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(ただし、渡辺はワイスマンを引用している。「偉大な形而上学者たちは、あたかもその次代の地平を超えて見通す力を持っているかのような洞察力に溢れた姿を漂わせており、したがって、形而上学は無意味であるということ自体がまさに無意味なのである。」)

 

ここで、この言語の存在論的側面を探究したのがマルティン・ハイデガーなのです。ハイデガーは現象学的方法により、形而上学きわきわで言語について深く掘り下げていきます。以下、本書より引用します。

もともとハイデガーにおいては、「ロゴス」は「語り」として、「見えるようにさせる」働きと捉えられる。それは、何について、何かを提示し、当のものの存在の真相を見えるようにさせる働きなのである。それは、必ずしも、いわゆる言明すなわち「陳述Aussage」に限られはしない。ロゴス的な語りは、「確約」「拒否」「勧告」「警告」「言明」「相談」、さらには「演説」、また「願望」、加えて「”試作的な”語り」にまで及ぶ広範な働きにおいてある。「陳述」は、生き語りと結びついて、聴くことや沈黙、また呼ぶことも考究され、広く深い言語的経験の場が見つめられている。

 

ハイデガーにおいては、言葉が存在を樹立する力を持つと考えられている点である。本当にものを考える人は、考えることによってすでに「行動している」とハイデガーはいう。そうした人は、「或るものが持っていた本質の充実の中へとその或るものを展開してやる」。或るものが持っていた本質の充実が展開されるとき、そのものは、その存在の真実を発揮したのである。そのことが、しかし実は、最も深くは「言葉」の中で起こるとされるのである。したがって、言葉は存在の樹立なのである。言葉のうちでこそ、存在の真相が開示されるのである。ハイデガーにおいて、言葉はこうした存在の裏打ちを伴ったものとして考えられていることが重要である。

 


 

悪い意味でのかつての独断的形而上学は別として、私たちの広く深い経験全体を捉え直す、真の意味での形而上学的な、もしくは現象学的解釈学的な存在論が熟成しないかぎりは、言葉のあり方も真には捉えられず、人間と世界が真に哲学的把握されるようにはならないであろう。…真の意味での哲学的洞察力が広く深く育成されるとき、そこでは、世界の姿を映しとり、存在の真相が開示される場としての言葉の本質への理解も実ってくるはずである。

今後、さらに深い言語の本質へ迫っていきたいと思います。

よろしくお願いします。
 

認知言語学者今井 むつみは、 『ことばと思考 (岩波新書) 』(2010)は言語がわれわれの実存にとってどのようなものかを深く科学的に洞察した良書である。

本書の大まかな内容は以下の通り。

私たちは、ことばを通して世界を見たり、ものごとを考えたりする。では、異なる言語を話す日本人と外国人では、認識や思考のあり方は異なるのだろうか。「前・後・左・右」のない言語の位置表現、ことばの獲得が子どもの思考に与える影響など、興味深い調査・実験の成果をふんだんに紹介しながら、認知心理学の立場から明らかにする。

違う言語を使うと認識や思考の在り方も異なると簡単に白黒はっきり付けられないということが結論であるが、一つ自身を持って著者が断言しているのが最後の一節で、「外国語を習熟することの意義」を「様々な言語のフィルターを通した様々な認識の枠組みが存在することを意識すること」だとして本書を締めくくっている。
外国語に習熟することは、別の意味で、認識を変えるといってよい。一つの言語(つまり母語)しか知らないと、母語での世界の切り分け方が、世界中どこでも標準の普遍的なものだと思い込み、他の言語では、まったく別の切り分けをするのだ、ということに気づかない場合が多い。外国語を勉強し、習熟すると、自分たちが当たり前だとおもっていた世界の切り分けが、実は当たり前ではなく、まったく別の分け方もできるのだ、ということがわかってくる。この「気づき」は、それ自体が思考の変容といってよい。

言い換えれば、外国語を勉強し、習熟することで、その外国語のネイティブと全く同じ「思考」を得るわけではないにしても、母語のフィルターを通してしか見ていなかった世界を、別の視点から見ることができるようになるのである。つまり、バイリンガルになることにより、得ることができるのは、その外国語の母語話者と同じ認識そのものではなく、母語を通じた認識だけが唯一の標準の認識ではなく、同じもの、同じ事象を複数の認識の枠組みから捉えることが可能であるという認識なのである。自分の言語・文化、あるいは特定の言語・文化が世界の中心にあるのではなく、様々な言語のフィルターを通した様々な認識の枠組みが存在することを意識すること−それが多言語に習熟することによりもたらされる、もっとも大きな思考の変容なのだと筆者は考える。(222−223) 
われわれ人間は、言語というゲシュタルトを現実に被せ世界を認識している。外国語を使えば、違うゲシュタルト群で世界を捉えることになる。しかし、人間という種の共通性、身体の共通性によりそこまで異なるゲシュタルトを持つことはないだろう。それはむしろ風土や社会における人間関係において歴史的に差異が出て来るものであろう。

今井むつみをさらに推し進めて言えば、われわれ外国語を学ぶことの意義は、違う言語を話せば違うフィルターで世界を眺めるということにとどまらず、われわれ人間は言語という一般性を介してしか世界と向き合っていないという事実を突きつけられることとも言えるのではないか。

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ことばと思考 (岩波新書)
今井 むつみ
岩波書店
2010-10-21

 

われわれが使う「語」はある対象を表す。長い歴史の中で対象は細かく分けられ無数の「語」が生まれた。しかし、最近の若者はこうした細かい区別をせずなんでも簡単な表現で済ませ、細部を捨象する。

以下の清水真木著『感情とは何か』ではそうした問題が議論されている。



■「やばい」を使えば選択に頭を悩ませるつらい作業を免れる
「やばい」は、大変に便利な言葉です。注意を向けるに値するような性質を具えた事柄はすべて、「やばい」と表現することが可能だからであり、「やばい」の使い方さえ身につければ何についても、適切な言葉の選択に頭を悩ませるつらい作業をすべて免れることができるからです。(11)

「やばい」の一語を使えば、事柄の性質や自分の気持ちに適合する言い回しを工夫する面倒な作業を省略することが可能になります。しかし、たとえば、100種類の表現を「やばい」によって置き換えることが許されるようになるとき、生き残るのは「やばい」であり、100種類の表現の方は死語になることを避けられません。(12)
100種類の表現を捨て「やばい」の一語を使うことは、100種類の表現が区別していた100種類の事柄を味わい分ける力を捨てることと同じだからです。(13)

  • デイトレで予想外に大儲けする
  • 隣家が家事になる
  • 街頭ですれ違ったばかりの女性が美しい
  • グーテンベルクの四十二行聖書が10円でうりに出ているのも
  • 硬い煎餅を噛んで歯が欠けるのも
  • すべてはやばい点では同じことになってしまう 

「感動を言葉にすること」は、「私のあり方と世界のあり方を同時に指し示す」ことに繋がるという。

■感情を言葉にして正体を明らかにする
芸術作品を教授するときに惹き起こされる複雑な感動の正体を見極めるには、何よりもまず、説明に多くの言葉を必要とするからであり、さらに、もどかしい感じとともに説明を重ねるうちに、感動の正体が少しずつ明らかになり、感情が経験として獲得されるからです。感情というのは、決して単純なものではないのです。(14−15)

■感動の正体
  • 感動した私たち一人ひとりの在り方を示し、自己了解の手がかりとなるもの
  • 感動は表現を与えられ、他人と共有されることにより普遍的な意義を獲得
  • 私のあり方と世界のあり方を同時に指し示す
さらに、進んで「感情は世界の真理を示す」という。

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私たちは、言語を手がかりにして感情を獲得し、感情を理解し、感情を共有する。感情は、私たち一人ひとりが何ものであるかを告げるものであるとともに、私たちが身を置く世界の真相を普遍的な仕方で明らかにするものでもある。具体的な感情をその都度正しく受け止めることは自律的な自足的な生存への通路。みずからの心に姿を現す感情の一つひとつを丁寧に吟味し、これを言葉に置き換える努力は、誰にとっても必要であり、価値あるものであるに違いない。(15)
 
感情とは、信念を左右し行動を支配するものとしてではなく、思考と懐疑への道として、そして、根源的な真理への道として把握され吟味されねばならない、これがこの書物の前提となる考え方です。(16)

う〜ん、しかし根源的な真理なんてあるのか?「真理」を前提として措定しているのはOKなのだろうか。なぜ。なぜそれを追い求めるのか、真理を求めるのかを探るのが本質ではないか。
 
さらに、真理という表現以外にも筆者の考えが述べられている。
 
感情は「私は何者か」を教えてくれる
気分や知覚はものの見方や価値評価とは関係なく成立するものであり、この限りにおいて、自然現象に分類されるべきもの。特定の気分や知覚を人工的に作り出すことができるのはそのため。これに反し、感情は、各人の個性を反映します。当然に、人工的に作り出すことなど不可能です。(18)
 
感情は私と世界の関係を表す
感情の本質は、私と世界の関係をめぐる真理(=真相)の表現である点にあるからです。「感情とは何か」という問は、私と世界の関係を存在論的な仕方で問うものであると言うことが出できます。自分が何者かを知ることを望むのなら、「本来の私」になることを望むのなら、さらに世界と和解し調和することを望むのなら、自分の心に生まれる感情の一つひとつが告げるものを丁寧に吟味することは、大切な課題となるはずです。これが、「感情とは何か」が哲学的に問われねばならない理由です。この書物は、このような作業のための最初の手がかりを哲学史から捜す試みとなります。(21)

真理とは「私と世界をめぐる真相」のことのようだ。そしてこれは感情を言語化して捉えることができるらしい。

自分が何者かを知る、「本来の私」になる、さらに世界と和解し調和することを人は求めているだろうか?そうだとしたら、感情を丁寧に吟味することが大切だという。

私の意見を述べよう。著者の結論は正しい。しかし、まだ根源的ではない。人間はなぜ世界と自分の在り方を正確に理解したいのだろうか?それが説明されていない。

答えは簡単だ。人間は、言語の世界を生きている。刺激に一義的な反応をして生きる本能中心の動物とは違う。世界内存在をして、自我をもち言語の世界を生きる。「私は◯◯で働くサラリーマン」「これは食べられる」というような言語に理解により日々の行動を規定している。言語的世界でないともう生きていけないのである。そしてこうした言語世界は幻想である。人間が勝手に一般性を付与し作り上げたものだ。常にメンテナンスしていないと崩れ去ってしまう。

自我を保つためにも言葉を正確に使って、自我を緻密に作り上げ保つ必要があるのだ。感情を正確に言葉にするとはそういうことだ。
 
感情は私たちと世界の関係をめぐる根源的な真理を開示して自己了解を促すもの(28)

であると筆者は述べる。

言語がなければわれわれは自我を保てない。

言語の本質を突く議論であった。

みなさん、こんなことを聞いたことがありますか。

「どうせ近い未来に人工知能(AI)が同時通訳とか翻訳してくるから
語学をする意義なんてなくなるんじゃないかな


みたいな、

これについては2つの観点から考えることができます。まず、仮に日本の通訳の第一人者である戸田奈津子ばりの、いやそれ以上の通訳・翻訳AIができたとしたら(要するに、母国語で発話した言語行為について、外国語で同じ意味をもたらす言語行為へと通訳・翻訳)もうそれで外国語を学ぶ意義がなくなるのでしょうか。また、もう一つの観点は、そもそも戸田奈津子ばりの通訳翻訳能力を持ったAIの実現は可能なのでしょうか。そしてそれはいつ頃になるのでしょうか?

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写真:アーノルド・シュワルツェネッガーの通訳をする戸田奈津子

今回は、後者の観点で通訳・翻訳AIについて考えてみたいと思います。(前者の観点も大事なので改めて考察したいと思います)

結論からいうと、戸田奈津子ばりの
通訳・翻訳AIは早くても2025年以降になりそうです。

戸田奈津子ばりのレベルになるにはどんな能力が必要なのでしょうか?一言でいうなら、人間と同じようなレベルの知性を持った人工知能が必要なのです。それは人間と同じようなインプット情報(視覚、聴覚、嗅覚の情報など)を”獲得”でき、自分で特徴量を”見出し”概念(ソシュールでいうシニフィエ)を”獲得”できるロボット。さらに、人間に近い”身体”も必要なのです。

人工知能を専門にする日本の工学者 松尾豊氏のインタビュー記事から言語理解が可能なAIまでのロードマップを見てみましょう。

松尾 まず今は画像の特徴の抽象化が可能になったというステージです。次に画像以外のデータ。音声などもそうですが、そうしたデータの抽象化が可能になるでしょう。視覚や聴覚などの五感や,体性感覚(平衡感覚,空間感覚など)といった複数の感覚、いわゆるマルチモーダルなデータの抽象化のステージになっていきます。


そしてその次のステージは、自分の行動のデータと観察データを含めた抽象化です。赤ちゃんは0歳から1歳の頃に、手でものを触ったり、叩いて音を出したりできることに気づきます。自分が動くことで、モノが変化することを理解する。行動計画につながっていく。そういうステージです。同様にこの段階では、ロボットに搭載された人工知能は、回りのものを触ったり、叩いたりすることで、自分の行動データと観察データの抽象化ができるようになります。


――赤ちゃんが手足を使い始めるステージですか。


松尾 そうです。そして、その次のステージは、行為を介しての抽象化です。ガラスを認識するには、ガラスは割れやすいという認識が必要。自分が動くことで、モノが変化するということを利用して、モノを理解していくステージ。これによって壊れやすいものをやさしく触る、などということができるようになるのです。


――赤ちゃんは手当たり次第に、身の回りのモノを叩いたり、口の中に入れますよね。そうすることで、身の回りのモノがどういうものなのか理解していく。口の中に入れることで、食べることができるものか、おもちゃかを判断していく。そういうステージということですね。


松尾 そうです。そうして概念を抽象化できるようになると、その次のステージは、概念に言語をマッピングしていくステージになります。


――もう既に概念を理解しているので、その概念に「まんま」「ぶーぶー」「ワンワン」と名前をつけていくステージだということですか。


松尾 そして最後のステージは言語を理解したので、次にウェブや書籍から情報を取り込み、理解していくことで、どんどん賢くなるステージです。


――言葉を覚えた子どもが本を読んだり、学校へ行って、知識を習得し、その知識に基づいて行動するステージというわけですね。


いかがでしょうか。人間と同じ概念を習得するには、(1)「概念を獲得する仕組み」(2)「それを人間と同じような身体に対応させて獲得する仕組み」が必要であり、現段階では(1)について画像情報からその画像の特徴を自分で見つけて獲得することに成功している程度だといいます。例えば、ネット上の猫の画像を沢山プログラムに見せて、そこから猫の本質的な特徴を引き出す、という感じ。

(2)についてはまだ実現していないようですが、翻訳するのに「人間と同じような身体」がなぜ必要か分かりますか?松尾氏
は著書『人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの』 (角川EpuB選書、2015)にて人工知能の身体の必要性について以下のように述べる。

 

“たとえば、コップというものをきちんと理解するためには、コップを触ってみる必要がある。ガラスや陶器のコップは強く握ると割れてしまうし、そういうことも含めて「コップ」という概念がつくらている。「外界と相互作用できる身体がないと概念はとらえきれない」というのが、身体性というアプローチの考え方である。”

 

“人間が生活する環境で、人間並みの「身体」を持てば、人間がつくり上げる概念にある程度近いものは獲得できるはずだ。”

 

人間と同じ程度の概念を持つには人間と同じような身体を持ち、同じような環境で時間を過ごし「一般的な人間が日常生活で形成してきた概念」を学ばなくてはならないのです。もちろん、それらをすべて人間が何らかの形で記述しインプットしてもいいのですが、それを一つ記述していくのも大変であるのに、天文学的な数になってしまい、そもそも人間は自分がどんな概念を持っているかなど把握していません。


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松尾は、人工知能の発展を六段階に分けている。第一段階が画像認識レベル、最終の六段階目に秘書として働けるレベルを設定しているが「言語の理解」を第五段階とかなり最終段階に近くに置いています。こうしたことから、絵本を子供に対してノンバーバルな要素を含み発語することは人工知能やロボットの発展段階の最終局面に近いほど難易度の高いことがうかがえます。

今のところ「猫の概念を獲得」以降あまりいいニュースを聞いておりません。動画から視覚概念を獲得したり、音声や味覚、嗅覚などから特徴を抽出したりすることもできていないようです。さらに、それらを統合して一つの概念を獲得するような仕組みも必要です。2025年はちょっと厳しいのではないか、とも思えます。


 

中国で生活していた頃、一つの問題意識が生まれた。若者の仕事についてである。中国では無数の大学があり、非常に沢山の若者がおり、就職の競争は激しい。無名大学でコネも無ければいい職を探すのは難しい。私が心配しているのは職がないことではなく、「いい職」がないということ。さらに、農民工というもっと資本主義市場においてスキルもなくリテラシーもない人民はもっと悲惨な状態にある。

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そこで、これを解決する方法を模索している。頑張れば少しは余裕のある暮らし、貯金のできる生活をできる仕事を提供することはできないか。中国でも日本と同じで、カフェの店員やコンビニのアルバイトは簡単に見つかる。給料は少ないが毎日休まず働けばギリギリ生活できる。ただし、給料はほぼ上がらないし身につくスキルが少ない。年を取り、体力も衰え、病気にかかるリスクも高まれば、このようなその日暮らし的な生活は危ない。
 
南京で日本語を話せる中国人だったり、会社の同僚の友達、カフェの店員、スナックの店員など、自分と同世代の80年代生まれの中国人と話すことが多かった。その日暮らし的な生活をしている。一番の問題は、仕事を通じて専門技能を磨く磨くことができないことだ。また、彼らは生活のためほぼ毎日、月に2,3日の休みだけで1日中働いている。スキルがつかない上、オフの時間にスキルを学ぶことができないのでこのネガティブループから抜け出せない。

毎日働いて月に3,000元程度の収入は生活費で大体なくなり貯金もできない。 頑張れば、少し贅沢な暮らしができるくらいの仕事を作れないものか。具体的に言えば、毎日8時から20時くらいまで頑張って働けば7,000元(91,000円)くらい稼げるような仕事を創出できないだろうか。
 
一つはありきたりだが方法がある。物価の高い先進国の人々に対してサービスを提供することだ。インターネットがあれば中国のどこからでもサービスは提供できる。インドや東欧、中国は先進国のバックオフィスとして沢山の仕事を受注してきた。しかし、これはどれも企業レベルの話だし、スキルの要求のレベルが高い。誰でも頑張ればできる、というものではない。実際は大学でプログラミングなどの学んだ人が中心となる。
 
それでは、中国にいる誰もが持っている専門的な価値ある能力は何か。それは中国語の能力と、自分の生まれ育った場所に関する知識や経験である。要するに母国語力と地元の土地勘。現在、中国の市場拡大に伴い中国語学習者は増える一方だし、中国のあらゆる地域に関する情報や中国人の生活や習慣、考え方を研究する需要増している。

この二つの能力に対してはそこそこ専門的な能力であるといえる。ただし、これだけではきちんと対価を貰える仕事にはならない。そこに、中国語の効率的な教え方や中国のローカル情報の品質が加わり、さらに中国の物価の低さを加えれば、先進国からの需要がありうる。
 
一つ例をあげよう。私はあるオンライン中国語の事業に携わったことがある。有名なフィリピン英会話(レアジョブやラングリッチなど)のように外国で直接講師を雇い、スカイプで日本の生徒に授業をするのだ。これの中国語版の授業である。この事業で、講師は頑張れば頑張るほど授業の単価が上がり、また生徒から授業の予約も入るので、給料があがる。ちゃんと自分の授業方法を確立させ、改善していけば給料はあがる。人気講師になると月に1万元以上を稼ぐ講師もいる。この事業は中国の若者に希望を与えるものだ。
 
ただし講師は日本語がある程度話せることが条件になっている。それ故、誰にでもチャンスがある仕事とは言えない。私は今後、中国語学習者の初心者でも、中国語だけで中国語を学べるカリキュラムを考えていき、日本語を話せない中国人でも会話相手など何かしらの方法で付加価値を提供できる方法を模索したい。
 
さらに、上述した中国のローカル情報などの事業以外にも、誰でも頑張れば対価を貰えることができるサービスを創りだしたい。世界のリーダーになる中国は恵まれている。世界中の多くの人々が中国語や中国の情報を欲しているからだ。また、物価が上がっているとはいえ、まだまだ先進国から比べれば低い水準である。今後こうした機会を生かし、中国と先進国の消費者がWin-Winになる事業やムーブメントを企画し実行したい。
 
最後に一つ思ったのだが、よくよく考えると、日本の若者もかなりやばい状況だということ。スキルが身につかずにぎりぎりの給料から抜け出せない人々が多数いるだろう。ただ正直に言うと私はそういう人たちと今まで接する機会がなかったのが事実だ。高卒や無名大学卒業では正直、スキルが身につく職には中々つけないだろう。かといって自分から事業を起こしたりする発想や能力がある人も稀だろう。
 
さらに経済が縮小し世界から存在感が消えつつある日本では、世界から注目されている中国と違い需要は小さい。さらに物価もかなり高い。こう考えると日本のほうがやばい可能性もある。ただし、日本人には、誰でも持っているスキルとして、ホスピタリティや礼儀正しさなどがある。これを逆に新興国にあらわれている富裕層などと結びつけることも考えるべきだろう。日本では優秀な人が海外市場に挑戦するみたいな傾向があるが、どのレベルでも需要があれば積極的に海外に出ていくべきだ。これについてはまた考えたい。

語学の資格試験、例えば英語なら英検、TOEFL、TOEICなどが中国語では中国語検定やHSKが有名。これらで満点近く獲得した後、一般的に学習者は目的を失う。というか、満点近く前に諦めることが多い。

仮に、これらのメジャーな資格を終えた学習者はどうするのか?

日本語を学ぶ中国人を例に取ると、N1という最難関試験に受かった後の中国人の90%以上がなんとなく、

Wさん
「N1受かった後は日本人と自然な交流できることを目指すかもしれない」

Yさん
「仕事で問題なく使えるようにしたい」
と答えている。

結局そうなのだ。彼らが語学を理由はそこにある。もちろん、日本のアニメやドラマや小説などを楽しみたいというのもあるが、正当な語学は、その言語を使って高度なコミュニケーションをすることだ。

今、適当に高度なコミュニケーションと書いたがこのレベルをどう定義するか?試験のコスト面や実現性などはさておいて考えてみよう。

例えば、われわれ日本人が外国人を「この人の日本語力は問題ないな、なんでも話せるな」と思うレベルだろう。でも、それは具体的にどんなレベル?

抽象的に言えば、
こちらが話したことの意味を理解でき、相手の発話をこちらが理解できるということ。これを仮に「実践的コミュニケーション力」といおう。

もう少し具体的にいうと4つの観点で言える。
  1. 【表現】まず、自分の言いたいことを外国語にするということ。この段階で相手が理解できる文章を作らないと、どんなに発音がよくても相手は理解できない。ここではさまざまな語彙力や言い回しのデータベースが必要となる。
  2. 【音の発音】二つ目は、作った文章を適切に発音することです。内容が正しくても、発音が悪ければ相手に伝わらない。ここでは、大きなデータベースは必要ない。発音内容は限られた文字の組み合わせだから、一度発音スキルを身につければどんな文章も音読できる。
  3. 【音の認知】そして、三つ目は、相手が自分に向かって発話することを聴き取ること。実践の場合は、教科書のようにはっきり発音されなかったり個人個人に様々な発音の特徴がありますのでこれに慣れる必要がある。理論的にいえば、これもデータベースはあまり必要ない。音を発音記号的に理解できればよい。
  4. 【理解力】そして最後に、聴き取った文章を理解するということ。発音だけでなく表現方法も実践において個人ではバラバラ。ここでも様々な単語と言い回しなどのデータベースが必要。音的にどんなことが発話されているか分かっても、単語や文法を知らなければ意味がわからない。
もちろん人間は、聞いたものをいちいち単語や言い回しに分解して組み立てて理解しているわけではないが、全体として理解するにも個々の要素が大体分かってないと理解できないのは間違いない。


この力をどう定義できるか?

2と3は、音の聴き取りと発音で測ることができる。日本人でも難しいような文章を読み上げ、ひらがなでディクテーションさせればいい。それで音が一音ずつわかっているかが試せる。発音も、五十音のよくある組み合わせが含まれるある程度の長文を音読させれば分かる。

では、1と4はどうする?ある知識セットとして定義するのは不可能だ。なぜなら人との会話でどのような単語や言い回しが出て来るかをすべて想定して網羅することなど不可能だからだ。

こうなると、 
結局、実践で使って「うまくいっている」ことを確認するしかない。でも、ある中国人学生の日本語力をどう測るか?はきはき分かりやすく話す日本人と、中国での生活について話を日本語でスムーズに会話できたらOKといえるか?ある言語コミュニケーションが必要なアルバイトのような仕事を実際に数週間やってもらってうまく仕事をこなせていれば合格とする?

いや、これらでは状況が限られすぎている。人と場面について。それゆえ背後のデータベースが充実しているかはわからない。 

ではどうするか? 

「多種多様な人」と「いろんな場面」で交流して、「うまくいっている」ことを確認するしかないのだ。
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これは一長一短には測れない。

まず多種多様って何?
年代、職業、出身地、性別などで区切ってそれぞれと交流させる?日本人でも普段交流する人など限られているだろう。

いろんな場面って何? 

見知らぬ人として

 道端で道を聞く

 何かの集いで

友達として

 共感的

 議論

仕事として

 サービス提供者と受け手

 会議
 
 プレゼン

これはまだ本の一部だ。

まあ、一言でまとめるなら、いろんな経験を積むということだ。

ということで冒頭の問いに戻る。
N1を合格した後の学生は何を目標とし、どう勉強すればいいのか?

「多種多様な人」と「いろんな場面」で交流(「実践的コミュニケーション」)「できる」ことが目標 !「できる」とはこちらが話したことの意味を理解でき、相手の発話をこちらが理解できるということ。そのためには、「多種多様な人」と「いろんな場面」で交流を増やすしかない。トートロジーになるが、道は開けた。あとは「多種多様な人」と「いろんな場面」で交流すればいいのだ。 

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