記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)意識ファースト!意識がよければ何でもOK。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※基本殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 読書感想

ツイッターで話題になっていたので、佐渡島 庸平さんの『WE ARE LONELY, BUT NOT ALONE. 〜現代の孤独と持続可能な経済圏としてのコミュニティ〜』 (NewsPicks Book) を拝読した。

著者のプロフィールはこちら。
佐渡島庸平 さどしまようへい
1979年生まれ。東京大学文学部を卒業後、2002年に講談社に入社。週刊モーニング編集部にて、『バガボンド』(井上雄彦)、『ドラゴン桜』(三田紀房)、『働きマン』(安野モヨコ)、『宇宙兄弟』(小山宙哉)、『モダンタイムス』(伊坂幸太郎)、『16歳の教科書』などの編集を担当する。2012年に講談社を退社し、クリエイターのエージェント会社、コルクを創業。著名作家陣とエージェント契約を結び、作品編集、著作権管理、ファンコミュニティ形成・運営などを行う。現在、漫画作品では『オチビサン』『鼻下長紳士回顧録』(安野モヨコ)、『宇宙兄弟』(小山宙哉)『ドラゴン桜2』(三田紀房)等の編集に携わっている。従来の出版流通の形の先にあるインターネット時代のエンターテイメントのモデル構築を目指している。
http://qreators.jp/qreator/sadoshimayouhei



NewsPicks Bookで、他の落合陽一さん、メタップスの佐藤さん、コンサルタントの波頭さんの本が分かりやすく面白かったのでこちらも購入してみた。結果的に、個人としては本書が1番おもしろかった。その理由はおそらく、実存的な視点が重視されているからだと思う。今挙げた他の本は社会的でマクロな視点で書かれているので、自分の生にとっての「意味」という実存的な観点がない。

本書はその点で、自分はどう生きるべきか、というような誰もがもつ喫緊の課題が軸にあるように思えた。それは、

僕自身が幸せになるために、安心と自由の両方が確保されたコミュニティが必要なのだ。67


と言われているように、僕らの生にとっても最も重要な「自らの幸せ」を起点にしており、さらにそれは「安心と自由が確保されたコミュニティに属することで得られる」ということが著者の人間観の前提にある。

こうして本書は、

「自ら参加する、趣味を軸にしたコミュニティを持ったら、人はどのようになるだろう?」4

と、その「安心と自由が確保されたコミュニティ」の可能性を問う。

昔は村社会で社会が個人を包摂していたので安心であったが、自由がなかった。今は自由になったが社会の包摂がなく安心が得られない。

僕は本書の主題であるどうやって「幸せになるために安心と自由が確保されたコミュニティ」を作るか、よりも「どういうときに人は幸せになるか」という人間観のほうに関心があるので、本書の大半、つまりそのようなコミュニティの作り方(特に後半はこの前者の話題が中心であるが)は個人的にはあまり興味を持たなかった。

自由で安心なコミュニティに属することが幸せであることが前提にあると、次のことが言える。

「何を手に入れているか」よりも「何をやっている人か」「なぜやっているか」という理由のほうが重要になってきたのだ 33

つまり一般的な既存の仕事(高給取りのサラリーパーソンや金儲け目的でいろんなことをする中小企業の経営者など)をしていくら高級な嗜好品や資産を持っていても大して承認を得ることはできない。むしろ本当にやりたいことでもないくせに社会に合わせている痛い奴、と徐々にみんなは気づき始めている。既存のやり方であれば安心は得られるが、自由は得られない。

モノがなかった時代は、「何を持っているかの表明」が、その人を表した。モノが溢れ、すべての価値観が許容されていく中で、「個人の価値基準そのもの」に、アイデンティティが宿る時代がやってきたのだ。

これからは、物質の所有やヒエラルキー付き組織への所属ではなく自分は何を欲しいのか、何をいいと思うのか、それをわかりやすく表明している個人への注目が集まっていく。SNSでフォロワーを多く集めているのは、どんな価値観で生きてるかがわかりやすく、ブレない人だ。34

なぜか?なぜブレない価値観を提示できる人が人気を持つのか。

人間の欲望とは言葉で割り切ることはできない。それを何かしらの行為で発散することには原理的な矛盾がある。しかし、それは程度の問題でもある。ある欲望が社会に既にある何か(例えば、マッサージのサービスとか、ライブを観に行く活動とか)で満たされるとは限らない。既存のサービスは既に一般化(多数の人に受け入れられるように)されているので、一回性の生を生きる個人にドンピシャで合うことはない。

しかし、かといって人はその欲望を言葉にしたり、何か行為で解消することができるわけではない。

だから、

大多数の人は自分の欲望を型にはめてしか理解していないともいえる。自分の欲望の形を正しく理解している人はAmazonのように効率的なほうがいい。しかし、もしも、自分が何をしたいかを理解していなければ、コミュニケーションの中で、それを発見する仕組みのほうがいい。91

つまりありきたりの物語(ロールモデル)を追いかけている人にとっては、明確なサービスが求められるが、そうした既存の物語はしっくりこない人は、しっくりくるものを文脈の中で一回性の経験の中で見つけたいのだ。それゆえ、こうしたコミュニケーションの場を提供することが価値を帯びる。最近、カウンセリングやコーチングというような対話型のサービスが増えているのもこのためだろう。

それゆえ、今後求められるもの、別の角度からいうと、やれば人気を博することができるのは自分の欲望をどうにかして言葉にしたり、或いは形にできる人だ。

しかし、1番の価値は欲望を喚起できることだ。僕らはもはや何かを欲しいという欲望をなかなか自発的に持つことができない。コミュニティの中のコミュニケーションによって、欲望がゆるやかに喚起される。そして、非論理的なものが欲しくなる。もはや、僕達は、役立つものだけで心を満たすことができない。139

僕らはもう既存の商品やサービスでは満足できない。そこからこぼれ落ちるものを実現していくことに価値を感じる。そしてそれを実現する方法は2つ。一つは、そういう欲望を形にしている人を追いかける。もう一つは自分が頑張ってそういう言葉にできないものを形にする。

どちらにせよそれは多数の人間がそれらを吟味しあうコミュニティが必要である。安心で自由なコミュニティの中で人は幸せになれるが、そうしたコミュニティを作るには、既存のサービスやコミュニティでは満たされないものを形にして表現し仲間を集めるか、既存のものよりは自分の欲望を体現している人のコミュニティに入っていくか、この2つの道がある。

こうやって読むと、本書は実存的な視点で自分がどう生きるべきか、一つの指針を与えてくれる。

みなさん、ゴール設定しましょう。でっかり夢にコミットしよう。そうすれば日々のいろんなことが些細なことに見えてきて惑わされずにいきいきと大きなゴールに向かっていけます。

ここでは未来の記憶を作り、ゴールに臨場感を持つ方法を苫米地さんの本から紹介します。



この本は私が苫米地さんの本を10冊程度読んだ中では一番体系的にコーチングについて述べられています。

未来 の 記憶 とは 何 かと 言え ば、 ゴール の 世界 の 記憶 です。   そこで、 ゴール を 達成 し た セルフ・イメージ の 記憶 を、 自分 の 過去 の 記憶 を 合成 し て つくり ます。 そう する と、 リアリティー が 増し ます。 もちろん、 少なくとも 物理的 な リアリティー と 同じ ところ までは、 リアリティー が 出 て くる こと に なる の です。   後 は、 それ を 何度 も 繰り返し、 同時に 高い セルフ・エスティーム を 築い て いく こと によって、 未来 の 記憶 の 方 が 目 の 前 の 現在 の 記憶 よりもより 臨場感 の 強い もの に なれなれ ば、 ゴール が 達成 さ れる、 という こと に なる わけ です。


では、この未来の記憶を定着させるのはどうすべきか?


ルー・タイス・プリンシプル では、 ワーズ、 ピクチャー、 エモーション の 相互作用 を 重視 し ます。   〜 自分 の 過去 の 情動 体験 を 語る と、 その 時 の 情動 が まるで 同じ こと を もう 1 度 体験 する かの よう に 呼び覚まさ れ ます。   言葉 は 必ず イメージ を 想起 さ せ、 イメージ は 必ず 情動 を 引っ張り 出す から です。 それ が、 言葉 が 本来 持っ て いる 強 さ です。   言葉 の イメージ 喚起 力 を 利用 する 最も 有効 な 方法 は、 アファメーション です。 自分 で それ を 書い て、 毎日、 読む こと です。 短期 的 な 視点 から 見れ ば、 アファメーション は 望ん で いる 結果 に 直結 し た 行動 を とる ため の ツール と いえ ます。

言葉、イメージ、情動を組み合わせて未来の記憶を作るのです。

さらに次のようにその具体的な内容が言われれいます。

人生 の いろいろ な 方向性 に対して、 まんべんなく ゴール を 設定 する という こと です。


まんべんなくとは以下のような項目を検討することです。

■バランスホイール
  • 家族
  • 健康
  • 先進的な健康
  • 社会性
  • キャリア
  • 老後
  • 結婚
  • 教育
  • コミュニティ・サービス
  • お金
  • 時間
  • 個人的な事柄

これでかなり具体的になりましたね!
未来の記憶を、過去のイメージや情動を駆使して言語化し、毎日語ることで臨場感を高めていくのです!

以上、私が実践するためにポイントだけをまとめました\(^o^)/
みなさんも是非やってみましょう。

ブロックチェーン・レボリューション』を読んだが、巷で言われていることのほとんどがこの本に基いているというような印象を抱くほど、ブロックチェーンが世界をどう変えるかの物語を沢山用意している。ホリエモンとか野口悠紀雄とかが言うことも先取りされている感がある。技術解説とかではなく、世界にどういう影響があるか、私たちの生活、生にどう影響を与えるかという「本質」が掴める。(その信憑性は各自判断する必要があるが)

こういう本があることで、技術者はその技術の用途に大体の方向性を得るのである。




本書の一番重要なところをいくつか引用し説明する。これを読めば、ブロックチェーンがなぜ注目されるかの核心が掴める。

暗号通過が従来の通過と違うところは、発行にも管理にも国が関与しないという点だ。一連のルールに従った分散型コンピューティングによって、信頼された第三者を介することなく、端末間でやりとりされるデータに嘘がないことを保証する。5


神ほど全能ではないにせよ、このしくみはとんどもない力を秘めている。本書はこれを「信頼のプロトコル」と呼びたい。信頼のプロトコルをベースにして、世界中に分散された帳簿がその数をどんどん増やしている。これが「ブロックチェーン」と呼ばれるものだ。ビットコインも一種のブロックチェーンであり、今のところ世界最大規模のチェーンとなっている。6


〜従来の「情報のインターネット」に対して、ブロックチェーンは「価値とお金のインターネット」だと言えるだろう。ブロックチェーンは誰でも真実を知ることができるプラットフォームだ。7


なぜ記録なんかにこだわるのかって?真実は僕たちを自由にするからだ。分散型の信頼システムは、あらゆる場面に応用できる。絵や音楽を売って生計を立てたいとき。ハンバーグの肉が本当はどこから来たか知りたいとき。海外で働いて稼いだ金を、高い手数料をとられずに祖国の家族に送金したいとき。地震の復興支援にきて、崩れた家を立て直すためにその土地の持ち主を知りたいとき。政治の不透明さにうんざりして真実を知りたいとき。ソーシャルメディア上のデータを他人に利用されたくないとき。9−10

いかがだろうか。
 
われわれは普段、判断に必要な「真実」のために大きなコストを支払っている。そのコストが大幅に削減されるのがブロックチェーンの本質なのである。


以下の本に「フィールグッド・ステイト」にまつわる話が展開されている。とても興味深い議論なので、紹介し意見を述べたい。
 
宮台 真司  (著), 鈴木 弘輝  (著), 堀内 進之介 『幸福論―“共生”の不可能と不可避について』 (NHKブックス)  2007年 



本書の趣旨は、われわれの幸福へと向けたソーシャルデザイン(社会設計)がいかにして可能かないし不可能かを論じることである。答えが出ない問いを社会学者3人で討論し、問題に取り組み続けることの必要性を感じさせる。

さて、本筋ではないがここで一つ指摘しておきたい。本書では「幸福」をよいものとし、それをどう社会で生み出していくかというのが出発点となっている。人間社会の経験的な観念である「幸福」それ自体については問わないようだ。あくまでも「人間」を前提に考えている。

さて、本題に入る。「フィールグッド・ステイト」についてだ。

まずはソーシャルデザインについて説明する。それは、何かのターゲットを基に社会を設計すること。既に多くの国でソーシャルデザインが既に行われている。立憲制の下で国民が統治権力に権力を付託した瞬間にデザインが始まったとも言えるし、古くは家産官僚制という形にせよ官僚制が登場した際にすでに始まっていたともいえる。

しかし、問題は「このデザインが「われわれ」の幸福へと向けたものであることが原理的に不可能だ」ということ。これは、かつて社会学者や政治学者しかしらなかったらしい。公正ないし平等という原則に反しないソーシャルデザインは原理的にない、という驚愕の事態である。

われわれの幸福といっても「われわれ」の範囲は恣意的で、「われわれ」内での公正や平等を測る場合も恣意的な選別と排除を前提とする。コンドルセの指摘にもあるがごく特殊な条件がないかぎり、投票での意思決定は、投票以前的な決定過程を前提とする。それゆえ、われわれは社会をそれが近代社会である限り恣意的な事実性factualityを前提としたうえで運営するしかない。このことを最も早くに理解したのがウェーバー。市民倫理と区別される政治倫理の結果責任性を論じた。 

ここで、ソーシャルデザインの一つ「フィールグッド・ステイト」について見ていこう。近代社会の正当性や正当性を保ち、それらを前提とした市民の積極的政治参加を通じて、不安のポピュリズムに勝るとも劣らない有効なアウトプットを調達するべく、徹底的に研究したうえでアーキテクチャを設計しようとする流れ。そうした類のソーシャルデザイン主義だ。
 
アーキテクチャ(環境の仕組み)とは建築構造よりも広い意味である。長居する客に退店を命じるまでもなく、冷暖房の温度、BGMの音量、証明の明るさ、椅子の硬さを管理すれば、自由意志を損なうことなく、人々の行動を方向付けられる。これがアーキテクチャによるコントロール。アーキテクチャのなかで自発的に心地良さ(フィールグッドな状態)を追求することで、人々は自覚されないまま動員されていく。

先の恣意性の問題がここでも見える。アーキテクチャをめぐる情報格差。真の意図を知っているのは、デザイナー(設計者)だけだ。だがレッシグいわく、アーキテクチャをめぐる情報格差は消せない。できるのは情報アクセス可能性を開くことだけだ。だが開かれた機会が利用される保証はない。

ソーシャルデザインがわれわれの幸福へと向けたものであることは、原理的に不可能だった。「われわれ」の範囲は恣意的であり、どんな構成原理も排除と選別を前提とする。近代社会は恣意的な事実性を前提として運営される以外はない。

フィールグッド・ステイトについてまとめよう。それは、人々の心地良さを求めようとする欲求を利用することによって統治された国家のこと。ディズニーランドがそうであるように、目障りなもの、面倒なものを徹底的に隔離・隠蔽しつつ、いくつかの選択肢を提示することで快適さを演出して、統治の疑念を抱かせないようにする。

そのことの何が問題かと言えば、それはフィールグッド・ステイトを維持するための環境負荷や外部にいる貧困者たちの存在者が忘却されてしまうからであり、またステイト内部の人々が自分で物事を考える契機を奪ってしまうからである。要は「知らぬが仏」状態への危惧。

以上が、本書で述べられていることである。

問題の前者、「環境や一部の人間が犧牲になること」はあってはならない。これは議論の余地はなく正論だ。ちなみにこれは先の恣意性の問題と同じだ。設計者以外が不利益を蒙る可能性の話だからだ。これはフィールグッドの定義をはっきりさせないと議論できない。フィールグッドがあらゆることを意識に還元して、それが「よい状態」とするなら、それ以上の社会設計のターゲットはない。要するに、外部(設計者など)を気にしたりもしないほどうまく騙されているとうことだ。完全に意識に還元された「よい状態」を元に社会を作れば、恣意性の問題も解決されるのだ。そのような恣意性すらも気にしない心の習慣を作ってしまえばいいのだから。

では、後者の「ステイト内部の人々が自分で物事を考える契機がなくなる」というのはどうだろうか。 要するに新しい刺激に対処できる能力を持っておかないとまずい、とうこと。設計者もびっくりの設計外の出来事が起こったら、問題が起きるのではないか?という意味。

この「知らぬが仏」問題、これも意識状態が完全にコントロールされる社会であれば問題ない。この時点では、人間は意識経験をコントロールされるほど人工知能に知能格差を拡げられている。既に人工知能が人間を遥かに超える知能や生存能力を持っている。何か新しい刺激(宇宙人がやって来る、隕石の衝突)があれば、それを人間が気付いて対処のではなく、社会設計と運営を司る人工知能にまかせておいたほうが有効であろう。

それゆえ、私たちが向かう道はシンプルだ。あらゆる生への関与を”徹底的に”意識に還元し、これをコントロールできるような人工知能を作る、この方向に進んでいけばよい。意識ファーストである。それがどれだけ先の話になるかは分からないが。 

人はみな、被投的に始まってしまっている生を歩んでいる。被投的というのは要するに無根拠であり、神秘である。なぜ私が私としてこの色とりどりの世界を経験しているのか、誰も分からない。いや、誰もというか私は私のことしか分からないので、少なくとも私は分からない。でも、普段私(も他の人々も)そんなことは問わずに人間社会を生きている。

改めて考えてみると、私の生とは「いま、ここ」の持続、ウィリアム・ジェイムズ的にいえば「意識の流れ」がわれわれ各個人の生である。

この「意識の流れ」を「よく」したい。ポジティブなものにしたい。

と考えるのは、少し突き詰めて思考したらたどり着く考えではないだろうか。全てを自分の意識に還元するのだ。恋人や家族や友人のためというのも、結局はそれを思っていて最終的に嬉しい私に行き着く。

以下の本では、このように還元された意識内での「よいこと」を「ウェルビーイング」として、それをベースにサービスとか社会設計とか考えていくためにウェルビーイングをどう設計するかというエキサイティングな本である。

ラファエル A. カルヴォ & ドリアン・ピーターズ (著)『ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術』。監修は、渡邊淳司&ドミニク・チェン、翻訳は木村千里 。

ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術
ラファエル A. カルヴォ & ドリアン・ピーターズ
ビー・エヌ・エヌ新社
2017-01-24



アマゾンの頁での内容紹介は以下の通り。
人の「こころ」の領域にまでITが入り込んできた今、人間の潜在能力を高め、
よりいきいきとした状態(=ウェルビーイング)を実現するテクノロジーの設計、
すなわち<ポジティブ・コンピューティング>のアプローチが求められています。
近年注目されている「マインドフルネス」や「レジリエンス」、「フロー」なども
ウェルビーイングを育むための要因ですが、ではこういった心理的な要因とテクノロジーを、
どう掛け合わせることが出来るでしょうか。
本書では、ウェルビーイングに関する様々な分野の最新の研究成果を基に、
この問いを解き明かしていきます。
これからのテクノロジーの在り方や、向き合い方を考えるうえでの基盤となる一冊です。

****
人間がよりよく生きるとはどういうことだろうか? 
心という数値化できないものを、情報技術はどうやって扱えばよいのだろうか? 
本書は、このような問いに答えようとする者に対して、示唆に富んだヒントを与えてくれるだろう。
(「監訳者のことば」より)
****
大体想定していたことが書かれていたが、様々な具体的な情報や事例が出されておりこの分野について理解がとても深まった。面白かった部分を少し紹介し感想を述べる。本書で言われる「ウェルビーイング」という用語は、「心理的機能が人間として考えうる最適な状態にあることを強調した表現」であり、ポジティブ心理学の世界では広く受け入れられているようだ。ただ、この曖昧な定義をどう捉えるかについて3つのアプローチがある。
  1. 医学的アプローチ:精神機能障害がない状態
  2. 快楽的アプローチ:喜びの感覚の集合として(人生の何%がポジティブな感情で占められているか)
  3. 持続的幸福的アプローチ:人生に意義を見出し、自分の潜在能力を最大限に発揮している状態
の3つが現代のウェルビーイング理論の基盤となっているようだ。そしてここで取り上げられている理論はどれも単なる仮説ではなく、十分な実証的な裏付けがあるという。

少し細かく見ると、「快楽心理学」であればポジティブ感情の体験をもとにウェルビーイングを定義していく。カーネマンの議論も出てくるが、これは主観的ウェルビーイングである。研究方法は、もし幸せだという自覚があるなら、伝えてほしい、というもの。

ライフイベント、人生の満足度、充実度をはじめとする個人の人生に対する認知的評価と感性的評価からなり実際に国民総幸福量子数の開発に利用されているらしい。さらに時間軸の観点でいうと、個人の自己報告は「オンライン=リアルタイム」「想起」「長期間にわたる人生評価」の3つがある。

持続的幸福的アプローチは、エウダイモニア的アプローチとも呼ばれ、自律性、有能感、関係性を軸にした自己決定理論があり、さらに快楽的アプローチと組み合わせてフロー理論でお馴染みのチクセントミハイなどのポジティブ心理学、情動知能、仏教の心理学なども参照されている。

また、最後に生理学的に確認可能なウェルビーイングとして「生物学と神経科学」のアプローチも紹介されている。ここでは個人の感情を理解するために生理学的信号や脳信号を用い、遺伝子や身体の健康状態を調査したり、そうした生物学的システムと環境条件との相互作用を調査している人もいるらしい。脳波記録、筋電図検査、皮膚コンダクタンス、呼吸といった複数の生理システムの信号を使う。神経科学者は脳の電気的活動や科学的活動のパターンを特定しようとしている。

また、第2章ではブータンだけでなくイギリスやフランス、アメリカなども国家発展の尺度の見直しとしてウェルビーイングに取り組んでいることが紹介されている。第4章は、ウェルビーイングの決定因子として、ポジティブ感情、動機づけ&没頭、自己への気付き、マインドフルネス、心理的抵抗力・回復力、感謝、共感、思いやり、利他行動を挙げ、それをどうデザインしていくかという議論は本書の核であり、読み応えがある。また、第8章で紹介されている判断をともなわない注意「マインドフルネス」という概念は詳しく知らなかったので勉強になった。

さて、これを読んだ感想は、とても「心理学的」だということ。本書でいうポジティブコンピューティングの基本的なアプローチ方法はざっくり以下のようなもの。
  1. 主観を内省して、ポジティブだった意識状態を列挙→例えば上述の:ポジティブ感情、動機づけ&没頭、自己への気付き、マインドフルネス、心理的抵抗力・回復力、感謝、共感、思いやり、利他行動
  2. それらがどのように生じたのかを分析
  3. 分析結果を基にどうやってそれらを再現するかを研究
全て「現在の人間の感受性」で考えられている感が否めない。人間中心主義といえる。われわれは「スポーツの練習に没頭している」「家族や恋人と幸せな時間を過ごす」など経験的に学んだポジティブな状態を目指そうとする。というか、それ以外に「よいこと」をする際の指針はない。

しかし、われわれは環境や他の人や生物との相互作用の中で各個人が価値観や世界像を編み上げている。そして経験によりそれらは変わりつつまた新たな経験をするという循環。そこから何が言えるかというと各個人により何が「よいこと」になるかは違うということ。

そして、さらにいうとマルクスが主張したように生産性が向上したり人間関係が変わると下部構造により上部構造であるわれわれの感受性も変わる。例えばベーシックインカムが実現され、人との関係が薄くなっても生きていけるようになれば(極端な話)共感や感謝、思いやりなどはポジティブな状態に関係なくなるかもしれない。そもそもそのような存在の形態になったら、ポジティブな状態が気になっているか分からない。

よくSFで提起される問題だが、今の感受性では環境の変わった未来のわれわれの感受性はどうあがいても分からないのだ。それを予想しようとしている私は既に今の感受性で物事を考えている。だから何がいいたいかというと、こうした「心理学的」なアプローチがたしかに現時点では最も有効なのではないかと思っている、ということ。

マレー・シャナハン (著)『シンギュラリティ:人工知能から超知能へ』(2016)を読んだ。ドミニク・チェン  (監修, 翻訳)。細かくは読んでいないがさらっと。

アマゾンに載っている内容紹介の通りの内容であった。

松尾豊氏(東京大学准教授)推薦
人間の脳の活動すべてを、コンピュータで模擬できるとしたら?
そしてシミュレートされた脳を物理的な身体とつなぐことができたなら?
人工知能の発展の先に浮かび上がる問題の描き方は見事である。
そして、本書が最後に投げかけるのは壮大な問いである。
人工知能は人類にとっての希望なのか?


イギリスの人工知能(AI)研究の第一人者によるAI入門書。
本書では、「全脳エミュレーション」などの最先端のAI研究を手際よく解説し、さらにAIの政治・経済的インパクト、AIと意識の問題、そしてシンギュラリティ問題までを、さまざまな思考実験を通して考察する。
はたしてシンギュラリティはやって来るのだろうか?

人間の脳の仕組みと、それを全能シミュレーションするにはどういう過程があり、課題があるかということが分かりやすく書かれている。僕はてっきり、SF的に「素粒子状態」で全状態を把握するレベルを想像していたが、それはまぁ無理なので本書では機能を再現できる程度の解像度で現実味のあるレベルで展開されている。

いくつか思ったことを書く。本書の内容をおさらいはしない。


1,意識について 
AIにどうやったら「意識」が発生するか。それに伴い、人間はAIを人間のように扱わなければならなくなる、などの議論が出てくる。

哲学的に言うと、この議論は答えがないのだ。そもそも僕らは他者(他人や物)に意識があることも確かめようがない。僕と同じようなクオリア的な世界を気分や情動と共に生きている、と勝手に想定しているだけなのだ。だって、その人の主観に入り込んだりできないし、出来てもそれが確かめたことになるのかも分からない。

結局それらは経験的に学ばれた確信にすぎない。自分と同じような身体を持ち、同じように動き、言語をしゃべる。考えなくても自然と同じような人間であれば意識を持つと前提してしまっている。確かめられないが、疑いも湧き出てこないほど前提されている他者の主観を間主観性という。

猫が好きな人は日々その行動をみて相互にコミュニケーションを取っている。そういう人にとっては猫は意識があるという感度が強くなるだろう。一方、野良猫をうざがってるような人、さらにはいたずらで虐待するような輩は、意識のない「物」に近い形で捉えているだろう。

AIも同じである。機械であっても、人が意識を持っていると思わせる特徴があれば「意識がある」のだ。「her」というアメリカの映画ではある中年男性がAI(iPhoneのSIRIのようなもの)と毎日電話して恋に落ちてしまう過程を描いている。声だけでもコミュニケーションが成り立っていれば相手がプログラムだと理解していたとしても好きになってしまうのだ。この場合、当然意識を想定しているだろう。

だから結局、人間の感受性に依る。

余談だが、あらゆることは人間の能力と感受性のレベルに依存する。AIがいくら賢くなってもそれを理解するのは人間であり、人間はもう近い将来AIの提案を鵜呑みにするしかなくなる。なぜそういう判断かは人間の能力的に理解不能なのだ。

2,「自我」と「自己保存」
158頁に、「自我(自己同一性)」と「自己保存」について面白い考察がある。これらがAIに備わるのは「期待報酬の最大化」に繋がるかに依る、というもの。「自己同一的」であることが、そのAIの目的に必要なら生まれる。人間だって同じだ。僕らは社会を築いて人がある役割を一貫して担わないと社会が存続できないから自己同一性を保っている。職業や性格を忘れたら、怒られて軌道に乗せられる。結局、同一性は他者が同一として扱うことから生まれる。

AIにとっては「自己保存」も同じく報酬関数に依る。人間は自己保存自体が目的のようだが、AIはその報酬関数は設定次第だ。本書の例ではある機械部品の製造を最大化するには、工場に命令を出した後自分も部品のために分解する、というもの。


3,AIの難点

本書の最後の方で、報酬関数のチューニングの問題が出ている。有名なロボット三原則を例に出している。「人間に危害を加えてはいけない」とロボットに組み込んでおいたとして、その報酬を最大化するために全人口を麻酔で寝たきりにしておく策に出るかもしれない。安静にしとけば危害を加えるリスクがなくなる。

これは哲学的に言えば、「語の多義性」の問題なのである。われわれは何となくある「語」は何かイデア的な意味を持っていると思っているが、それは違う。われわれは経験的に言語の使用の場、つまり言語ゲームに参加することで語の意味を学ぶ。コップは水を飲むもの、歯ブラシを立てるもの、怒ったとき人に投げるものかもしれないが、一番よく使われるものがその「意味」として辞書に登録される。普段われわれが観取する意味は、認識者の欲望に相関している。AIにとっても語は報酬関数に則して理解されるのだ。だから報酬関数の設定は難しい。この設定は言語でなされるのだから。

さて、AIがいろいろ世の中をよくするにせよ自分の生にとって最も重要なことは連続している生である。いくら自分の脳状態をコンピューターにアップロード出来たとしてもこっち側に残る今の私の連続性が私の全てである。ここに定位していろいろ考えていくべきだと思うのだが、実は意識に固執するのも今の人間社会に作られた一時的な感受性なのかもしれない。

シンギュラリティ:人工知能から超知能へ
マレー・シャナハン
エヌティティ出版
2016-01-29

 

下の赤ん坊の表情を見てほしい。

2016-08-29-19-24-00

ただただ、ひたすらに「世界がある」ことへの驚嘆である。

これがわれわれが失ってしまった「自然的思考」というものである。

では、「自然的思考」とは何か?木田元『反哲学入門』の議論を軸に考えてみよう。

反哲学入門 (新潮文庫)
木田 元
新潮社
2010-05-28


それを説明する前に、まず「哲学」とは何かを理解する必要がある。

哲学とは、
「ありとしあらゆるもの(あるとされるあらゆるもの、存在するものの全体)がなんであり、どういう在り方をしているのか」ということについてのある特定の考え方、切り縮めて言えば「ある」ということがどういうことかについての特定の考え方だと言ってもいい。

いま、「存在するものの全体」を「自然」と呼ぶとすると、自分がそうした自然を超えた「超自然的な存在」だと思うか、少なくともそうした「超自然的存在と関わりをもちうる特別な存在だと思わなければ、存在するものの全体がなんであるかなどという問いは立てられない。自分が自然のなかにすっぽり包み込まれて生きていると信じ切っていた日本人にはそんな問いは立てられないし、立てる必要もなかった。

西洋という文化圏だけが超自然的な原理を立てて、それを参照にしながら自然を見るという特殊な見方、考え方をしたのであり、その思考法が哲学と呼ばれた。

そうした哲学の見方からすると、自然は超自然的原理(イデア、純粋形相、神、理性、精神など)によって形を与えられ制作される単なる材料になってしまう。もはや自然は生きたものではなく、制作のための無機的な材料・質料にすぎない物、つまり物質になってしまう。超自然的原理の設定と物質的自然観の成立は連動している。
(著者は哲学は「自然に生きたり考えたりすること」を否定するものだとし、日本に哲学がなかったことを恥じる必要などない、日本人のものの考え方のほうがずっと自然だという)

ニーチェは、彼の時代のヨーロッパ文化がいきづまりにきていると見て、その原因をさぐった。彼はその原因が、超自然的原理を立て、自然を生命のない、無機的な材料と見る反自然的な考え方にあることを見抜く。

超自然的原理を設定して、それを参照にして自然を見るような考え方、つまり哲学を「超自然的思考」と呼ぶとすれば、「自然」に包まれ生き、そのなかで考える思考を「自然的思考」と呼んでもよさそうだ。著者が「反哲学」と呼んでいるのはそうした「自然的思考」のことなのだ。

「反哲学」或いは「自然的思考」は、ソクラテス以前に見出されたとされるが、近代の哲学者でも、ライプニッツなどは「なぜなにもないのではなく、なにかが存在するのか」と問いかけ、<存在する>というのはどういうことなのかを問題にしているし、20世紀のウィトゲンシュタインでさえ「神秘的なのは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである」という。ハイデガーはもっとはっきりと「哲学するとは<なぜ一般に存在者が存在するのであって、むしろなにもないのではないのか>を問うことである」と行っている。

「生きる意味は何なのか」「どう生きればいいのか」「よりよい社会とは何か」などの問題も全てこの上に成り立っている。そもそもわれわれが被投されているこの「世界」があることが驚きなのである。

科学技術の発展により、自然をメタ的に完全に解明しようとする人類は躍起になっているが、この赤ん坊のように素直に「自然」と向き合うことが自然なのではないだろうか。

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