記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 読書感想

下の赤ん坊の表情を見てほしい。

2016-08-29-19-24-00

ただただ、ひたすらに「世界がある」ことへの驚嘆である。

これがわれわれが失ってしまった「自然的思考」というものである。

では、「自然的思考」とは何か?木田元『反哲学入門』の議論を軸に考えてみよう。

反哲学入門 (新潮文庫)
木田 元
新潮社
2010-05-28


それを説明する前に、まず「哲学」とは何かを理解する必要がある。

哲学とは、
「ありとしあらゆるもの(あるとされるあらゆるもの、存在するものの全体)がなんであり、どういう在り方をしているのか」ということについてのある特定の考え方、切り縮めて言えば「ある」ということがどういうことかについての特定の考え方だと言ってもいい。

いま、「存在するものの全体」を「自然」と呼ぶとすると、自分がそうした自然を超えた「超自然的な存在」だと思うか、少なくともそうした「超自然的存在と関わりをもちうる特別な存在だと思わなければ、存在するものの全体がなんであるかなどという問いは立てられない。自分が自然のなかにすっぽり包み込まれて生きていると信じ切っていた日本人にはそんな問いは立てられないし、立てる必要もなかった。

西洋という文化圏だけが超自然的な原理を立てて、それを参照にしながら自然を見るという特殊な見方、考え方をしたのであり、その思考法が哲学と呼ばれた。

そうした哲学の見方からすると、自然は超自然的原理(イデア、純粋形相、神、理性、精神など)によって形を与えられ制作される単なる材料になってしまう。もはや自然は生きたものではなく、制作のための無機的な材料・質料にすぎない物、つまり物質になってしまう。超自然的原理の設定と物質的自然観の成立は連動している。
(著者は哲学は「自然に生きたり考えたりすること」を否定するものだとし、日本に哲学がなかったことを恥じる必要などない、日本人のものの考え方のほうがずっと自然だという)

ニーチェは、彼の時代のヨーロッパ文化がいきづまりにきていると見て、その原因をさぐった。彼はその原因が、超自然的原理を立て、自然を生命のない、無機的な材料と見る反自然的な考え方にあることを見抜く。

超自然的原理を設定して、それを参照にして自然を見るような考え方、つまり哲学を「超自然的思考」と呼ぶとすれば、「自然」に包まれ生き、そのなかで考える思考を「自然的思考」と呼んでもよさそうだ。著者が「反哲学」と呼んでいるのはそうした「自然的思考」のことなのだ。

「反哲学」或いは「自然的思考」は、ソクラテス以前に見出されたとされるが、近代の哲学者でも、ライプニッツなどは「なぜなにもないのではなく、なにかが存在するのか」と問いかけ、<存在する>というのはどういうことなのかを問題にしているし、20世紀のウィトゲンシュタインでさえ「神秘的なのは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである」という。ハイデガーはもっとはっきりと「哲学するとは<なぜ一般に存在者が存在するのであって、むしろなにもないのではないのか>を問うことである」と行っている。

「生きる意味は何なのか」「どう生きればいいのか」「よりよい社会とは何か」などの問題も全てこの上に成り立っている。そもそもわれわれが被投されているこの「世界」があることが驚きなのである。

科学技術の発展により、自然をメタ的に完全に解明しようとする人類は躍起になっているが、この赤ん坊のように素直に「自然」と向き合うことが自然なのではないだろうか。

2016-08-28-12-19-16

2016-11-17-23-55-11
 

『幻想の未来』は岸田秀の思想が最もよく体系的にまとまっている著書である。

欧米と日本との比較が目を引く。以下は本書の解説より抜粋。

岸田の言う自己放棄衝動と自己拡大衝動との解決しがたい葛藤を、唯一絶対神に自己放棄衝動を振り向け、神以外のものに自己拡大衝動を向けることによってこの葛藤をごまかす権威主義的性格を持った欧米文化に対して、日本文化は、直接的な人間関係の中でそれを表現するという線を守りながら、タテマエとホンネを使い分けるという形でその葛藤をごまかしてきた文化であるというのが、岸田の日本文化論の骨子である。(287)

岸田は人間について、
人間は自我の安定を求める
と、その本質を述べる。

自我とはそもそも何か?安定とは何か?などの詳細は本書を読んでいただくとして(ちなみに私は読んでもそこまで腑に落ちてない)、このテーゼを真と受け入れた場合、どうすれば自我の安定はできるのか?

それは、「絶対的な何か」を求めることである。

一昔前であれば、西洋であれば「神」、日本であれば「世間」のように絶対的な存在があり、そこに無根拠で幻想でしかない自分を帰属させることで安らかになった。それが駄目になると、今度は「真の自己」なるものを空想しだす。

「真の自己」のように個人に内在すると同時に普遍的であるものが存在していれば非常に好都合であるが、いくら探してもそのようなものは見つからないとなると、人びとは普遍性のほうはひとまずあきらめ、普遍的でないかもしれないが、たしかに個人の内部に蠢いている「欲望」に自我の支えを求めるようになった。(160) 

こうして欲望に自我の支えを求める。

実は僕自身「←いま、ここ」という感じだったので、これを読んだときは「わざわざ」と太宰小説の葉蔵が同級生に指摘されたが如く衝撃を受けた。僕も、欲望は世界の原理だからこれに従えば「よくなる」と無意識的に想定していた。カントやハイデガーの良心も突き詰めれば「降ってくるもの」に依拠するのでこれの範疇だし、陽明学もそうだろう。
 
自我は支えがなければ存立できない。その支えは、かつては個人の外部にあると考えられた神や世間に求められたが、いまや、これらに対する信仰や崇敬が崩れ、それらの自我の支えを個人の内部にある自己や欲望に求めたが、それもまた自我の支えにはならない。つまり、自我の支えは個人の外部にも内部にもない、それにもかかわらず、それ自体では存立し得ない自我の支えが必要である。そこで現代人は自我の支えを求めて、つまり、ないものを求めて右往左往することになった。日本人、欧米人を問わず、近代人がとらわれるようになった強い自我と弱い自我との葛藤は、この右往左往のあらわれである。(290)
 
欲望でもだめだとなると、僕らは何に根拠に生きていけばいいのか。つまらなければ死んでもいいし人殺しもOK、とうような価値観まで許される究極的な相対主義になりかねない。

少なくとも、自我があるということがどういう結果をもたらしているかを知った上でしがみつきつづけるべきであろう、というのが本書の結びであり、岸田の唯幻論の基本的な姿勢のようだ。
 


レヴィ=ストロースの『race and history』という短い論文を読んでいる。そこで、参考までに以前読んだ内田樹の『寝ながら学べる構造主義』を寝ながら読んだのだが、ここに素晴らしいレヴィ=ストロース理解の本質が書かれていた。何度も読んでいるのだが、今までは気づかなかったようだ。自分の観点が変わったのだろう。以下に、レヴィ=ストロースの人間観の本質をまとめてみる。

レヴィ=ストロースは家族だったり、神話だったりいろいろ分析しているが、ここでは「なぜ人間は近親相姦を禁止するのか」について見てみよう。

その理由を、
レヴィ=ストロースはを「女のコミュニケーション」を推進するためという。親族関係は親族の親密な感情に基いて自然発生的に出来上がったものではないのだ。ではなんなのか?親族関係はただひとつの存在理由しかない。それは存在し続けること。親族が存在するのは親族が存在し続けるため。

どういうことか?「
反対給付」というキーワードを見よう。これは、何か「贈り物」を受け取った者は、心理的な負債感を持ち、「お返し」しないと気がすまない、という人間に固有の「気分」に動機づけられた行為を指すものだ。この反対給付の制度は知られる限りすべての人間集団に観察される。
 

では、どうして反対給付を含む贈与システムがあるのか?

その起源を知ることは不可能だが、どういう社会的効果を持つかは分かる。
贈与と返礼の往還のせいで社会は同一状態にとどまることができない。おそらく人間社会は同一状態にとどまると滅びてしまうのだ。変化しつづけること、これが大事。

レヴィ
=ストロースは社会システムは変化を必須とするが、それは別に絶えず新しい状態を作り出すことだけでなくいくつかの状態がぐるぐる循環するだけでも十分に変化といえると考えた。ちなみに、熱い社会と冷たい社会という有名な区別もここで出る。

熱い社会とは、
社会システムの変化を絶えず新しい状態になるという歴史的な相のもとに構想する社会をいう。冷たい社会は歴史的変化を排し、新石器時代のころと変わらない無時間的な構造を維持している社会、野生の思考が領する社会を冷たい社会という。
 

贈与と返礼は社会を同一状態に保たない。さらに重要なことは、「人間は自分が欲しいものは他人から与えられるという仕方でしか手に入れることができない」という真理を人間に繰り返し刷り込む。何かを手に入れたいと思ったら、他人から贈られるほかはない。そしてこの贈与と返礼の運動を起動させようとしたらまず自分がそれと同じものを他人に与えることから始めなければならない。それが贈与についての基本ルールである。

少し見方を変えよう。
 

人間は3つの水準でコミュニケーションを展開する。

財貨サービスの交換、経済活動

メッセージの交換、言語活動

女の交換、親族制度
 

どのコミュニケーションにおいても、最初にだれかが贈与を行い、それによって「与えたもの」が何かを失い、「受け取ったもの」がそれについて反対給付の責務を負うという仕方で構造化されている。それは絶えず不均衡を再生産するシステム、価値あるとされるものが、決して一つのところにとどまらず、絶えず往還し、流通するシステムである。

さて、ここまでで大体の論点は出尽くした。以下、レヴィ=ストロースの
本質をまとめた箇所。

 レヴィ=ストロースの構造人が苦情の知見は、私たちを「人間とは何か」という根本的な問いへと差し向けます。レヴィ=ストロースが私たちに示してくれるのは、人間の心の中にある「自然な感情」や「普遍的な価値観」ではありません。そうではなくて、社会集団ごとに「感情」や「価値観」は驚くほど多様であるが、それらが社会の中で機能している仕方はただ一つだということ。人間が他者と共生してゆくためには、時代と場所を問わず、あらゆる集団に妥当するルールがある。それは「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」と「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」という二つのルール。


これはよく考えると不思議なルール。私たちは人間の本性は同一の状態にとどまることだと思っているし、ものを手に入れるいちばん合理的な方法は自分で独占して誰にも与えないことだと思っている。しかし人間社会はそういう静止的、利己的な生き方を許容しません。仲間たちと共同的に生きてゆきたいと望むなら、このルールを守らなければならない。


いったいどうやって私たちの祖先は、おそらく無意識のうちにこの暗黙のルールに則って親族制度や言語の神話を構築してゆくことができたのでしょう。私にはうまく想像ができない。しかし事実そうなのだ。だから、もし「人間」の定義があるとしたらそれはこのルールを受け入れたものと言う他ないだろう。人間は生まれたときから「人間である」のではなく、ある社会的規範を受け容れることで「人間となる」という考え。


いかがだろうか? 実存主義を批判した構造主義から、実存に関しての本質的な示唆があった。われわれは、欲しいものはまず他者に与えないといけないし、常に変化し続けなければならない。もちろん、重要なことは、変化とは何も経済的に成功する方向にとか、進歩の一直線の幻想に囚われず、文字とおり気楽に変化すればいいのである。

 

 

丸山圭三郎を読んでいるとよく出てくる岸田 秀と木村敏。今回は岸田秀『ものぐさ精神分析』を読んでみたが、なんとも素晴らしい世界観を展開している。大きな括りでいえば丸山圭三郎とも同じで、世界の幻想性、原理的に満たされない欲望について一貫してうまく説明している。

丸山においては人間とは「動物+言語能力」により言語の世界を発展させてしまい本能が壊れていくという見方だが、岸田秀では人間=「欠陥動物」ということで「動物ーα」という人間観で述べられている。丸山においては全てはゲシュタルト、岸田においては全ては幻想ということで帰結は似ているが出発は違う。個人的には、少しシンプルすぎるが岸田の仮説のほうが一貫性があり分かりやすいのでこちらを支持したい。

では、以下に『ものぐさ精神分析』の要点をまとめる。「文化は本能の代理物である」ということ、「欲望は満たされ得ない」ということを軸に。

■前提となる人間観
まず、前提となる人間観を見てみよう。それは、胎児化説である。サルが未熟児で生まれ、「多分に胎児の特徴を残している」のが人間だという進化論的仮説のことである。胎児化の結果、本能のエネルギーが発現しているのにそれを発揮する器官が発達していない、というズレが生じ、そこでエネルギーは通路を見失って空回りする。

■結論
そこから何が帰結するか?簡単にいうと、「人間は欠陥動物であり、そうした「欠陥のある本能」の代用物、いわば松葉杖のごときものとして「文化」と「自我」を創り出さざるをえなかったのだ。

■「本能」とは何か 
さて、ここで壊れてしまった「本能」とはそもそもどういうものか?クモは“だれからも教えられず”に精巧な巣をつくって獲物を捕らえ、生きていく。こうした「予めプログラムされた現実との対処の方法、行動形式」を「本能」と呼ぶのだ。

■ 胎児として生まれてきた人間の「個体保存の本能」と「種族保存の本能」の湾曲
では、胎児として生まれきた人間はどういう過程をたどるのか。人間には「個体保存の本能」と「種族保存の本能」があるがこれらはどうなるのか。

■「個体保存の本能」
まず、「個体保存の本能」についてみてみよう。人間の幼児は感覚運動器官がきわめて未熟な状態で生まれ、親の保護=「厳しい現実からの遮断」のもとにあって、自他の区別がなく、欲求が直ちに満足されるという状態、客観的には無能であっても「主観的には全知全能の状態」から出発する。

そして、全知全能状態を夢見る習慣が根付く。人間はこの全能の状態、全きナルチシズムの状態を復元したい、という衝動を一生涯持ち続けるのである。こうして本来なら現実我を保存するはずの「個体保存の本能」は、全能の幻想我を保存する方向へずれてしまうことになった。

■「種族保存の本能」
では「種族保存の本能」はどうか。ここでの結論は、「文化とは本能の代理物である」ということだ。「種族保存の本能」の場合も同様で性欲の発現と生殖器官の成熟との間に数年の時間的なズレがあるため、人間の性欲は、まず「不能の性」として出発する。

性欲はあっても生殖器官はまだまだ未成熟だから性交は不可能。したがって性欲のエネルギーはもともと性器から分離されており、それが何に向けられどのようにして満足されるかは個人によってまちまち。つまりもともと人間は性倒錯者として出発するのである。たしかに、その後性器へと性欲を向けるようになっていくが、生殖へと向かう本能的な性欲を人間はもともと具えていないということになる。「性欲」すら人間は学習によって獲得するのである。
 
■「本能」は解体し、生命エネルギーは「ナルチシズム」および「倒錯的なリビドー」と化す
こういうわけで、人間においては「本能」つまり「個体保存と種族保存のために生命エネルギーを方向づける予め用意された通路」はほぼ解体してしまい、生命エネルギーは「ナルチシズム」および「倒錯的なリビドー」と化してしまった。

■本能の代理物としての「文化」
そこで、文化の登場である。生命エネルギーにそれなりの方向付けを与えて「現実への適応をある程度可能にする必要」が出てくるが、それを行うのが「文化」である。だから「文化」とは「本能の代理物」だが、「現実への適応」と「ナルチシズムおよび倒錯的リビドーの満足」という矛盾することがらをそれなりに果たす必要があるので予め必然的な形が存在するわけではなく、いわば妥協の産物としてしか成立しえないのである。

以上。
この考えを軸に、自己、心理学、日本、言語などいろいろなことの見方を覆している。是非一度本書を読んでみてほしい。 
 
ものぐさ精神分析 (中公文庫)
岸田 秀
中央公論社
1996-01-18

 

清水 真木『感情とは何か: プラトンからアーレントまで』でデイヴィッド・ヒュームの感情論がまとめられているので、私なりに敷衍してみたい。
ヒュームは感情を情念というのでこれに統一する。主張は、
道徳は情念に基礎を持つ!情念は合理的な基礎を持たない。合理的な推論は行動に結びつかない、行動に結びつくのは情念だ!

という感じ。

順を追って見ていこう。
  1. 理性だけでは何の意志作用も生み出さない。合理的な推論は行動(選択、意思決定)とは結びつかない。行動に結びつくのは「情念」である
  2. 道徳的判断は私たちを行動に導く
  3. ゆえに、道徳的判断は「情念」を基礎とするものである
  4. 理性の力を用いて情念を修正することはできない。
  5. 理性が情念を制御しうるのは情念が発生するきっかけとなった観察に誤りが認められる場合、具体的には、事実の有無をめぐる誤認または「原因と結果の誤った組み合わせ」だけ

ヒュームが情動主義の立場を引き受け、感情が価値判断に先立つものであることを主張するかぎり、感情が合理的な思考の結果として導かれたものではないことを明らかにしたが、それだから何が言えるか?まだ不十分。

ここで疑問。感情に支えられた価値判断が恣意的でなく、「私たちが規範や道徳というものを共有しうる理由」を説明する作業こそ、課題ではないか。要は、どうやったら受動的な情念をもとに社会をよくしていくための合意を形成できるのか、ということ。

ヒュームの試みは一つの回答を与える。道徳的判断を支え、「よい悪い」を直感的に区別する情念としての道徳的感情、そしてこのチャンネルを具えた人間本性による社会的合意という枠組みに訴えるという解決方法を提示しているようだ。

ただ詳細がない。では、どうやって受動的な情念で社会的合意を形成していくのか。そこで、昨日のアーレントの感情論が役に立つ。たしかに、ヒュームの言うとおり、わわわれは合理的な推論ではなく「情動」に押されて「行動」をする。では「情動」を認識するにはどうすればいいのか。

詳しいことは昨日の投稿で書いたが、アーレントによると「公共性にコミット」することである。社会と深く交わり多様な人びとと交流する、これが大切。こうすると情動が強くなり、行動が取れる。

でも、そもそも「行動」する必要あるの?と問われればよくわからない。しかし、現代において人間は社会で生きるしかない。そこから離れていきるならまだしもそんなことは非現実的である。複雑な社会で生きることを決めたらなら、そこにしっかりと入っていき感情を明確化し、世界と自分の関係を明晰に理解し生きていくのがいい。

ちなみに、エイヤーの批判にも少し触れたい。エイヤーは情動に道徳的判断の基礎を置くことを批判。好き嫌いには真偽もない、感情にも真偽はない、だから価値判断にも真偽の区別はない、これが情動主義の基本的な考え方である、と。

しかし、われわれの実存を反省するなら、情動に押されて「いま・ここ」の経験が進行していることが分かる。ハイデガー的図式でいえば、情状性(情動)があり、それに基づいて世界に意味が開示される。肩がこっていれば目の前のハンマーは肩たたき道具になるし、犯罪者がいれば武器になるし、釘があれば打つ道具である。情動に押されて行動(企投)がある。価値判断という言葉が不適切だとしても、情動によりわれわれの行動は方向付けられていることは確かなこと。

清水 真木『感情とは何か: プラトンからアーレントまで』でアーレントの感情論がまとめられているので、私なりに敷衍してみたい。
好き嫌いや真善美に関するものを「趣味判断」というなら、趣味判断は概念にもとづく合理的な判断ではなく主観的なもの。それは「感情」に基礎を持つ、とアーレントはいう。
 
さらに、趣味判断の基礎に見いだせるのが「個人的感情」ではなく「共通の共同体の感情(共通感覚)」であることを主張する。どういうことか?他人が趣味に関し私と異なる判断を持つことに私が抵抗を覚えるが、それは共通感覚が理想的規範であり、「判例的妥当性」を具えているからである。

感情は「伝達可能」であるかぎりにおいて、公的であるかぎりにおいて感情として受け止めることが可能となる。感情は単なる内面的、個人的、私的な現象なのではなく、むしろこれが有意味な経験となるためには、何よりもまず、他人からの承認を“想定して”何らかの仕方で言葉へと置き換えられるプロセスが必要。このかぎりにおいて私の感情はその都度あらかじめある特別な仕方で普遍性を備えていると考えなければならない。

さらに、アーレントはこういう。感情は公共性への意志から生まれる、と。

私がみずからの感情を感情として受け止めることが可能になるためには、これを「言葉に置き換える作業」が必要であること、「言葉によって置き換える作業」が「他人による承認、他人との共有」を想定して遂行されるものであること、また、他人による感情の承認の基準が「共通感覚」あるいは「趣味」と呼ばれるものであること、さらに、このような基準の正体が「共同体感覚」であり、公的領域に由来するものであること、アーレントはこう教える。

「言葉にする」というのは言葉という「普遍なもの」で語ることで、共感されるものであると確信をリアリティを得る、ということに等しい。

感情の経験が共通感覚に依存するものであるかぎり、感情は、意見を異にする者たちのあいだにオープンな討議と合意形成の場としての公的領域を形成し維持する意欲、「公共性への意志」のような意欲を基礎とするものである。

したがって反対に、このような意欲を持たないものには本当の意味における感情に与る可能性が閉ざされている。自分が何者であるか、自分が身を置いている世界がどのようなものか、このような点に関する真理に与る可能性もまた閉ざされている。

公的領域に関わっていく姿勢がないと、公的感覚にリアリティを持てないので、共感されているリアリティを持てなくて感情に与れない。そうすると世界と自分の関係などの真理にも辿りつけない。でも、公共性への意志ないからってその道とざされるのか?要は感情がそもそも人間関係など言葉による関係世界でうまれるから、そこに深くコミットしていないと、感じられないということだろう。

感情を感情として受け止めることは、それ自体として稀な経験である 感情は誰にとっても馴染みのあるもの、平凡なものであるわけではないばかりではなくむしろ虚偽意識から区別された本当の感情なるものはときには日常生活においてときには芸術作品の力を借り、特別な努力によって奪い取ることの必要なものなのである。

最後に、私なりに展開する。

「感情」とは「関係世界」の出来事である。人間は生物の本能として自己保存のため性欲や食欲に快不快を感じる。動物の基本である。しかし、人間は記憶ができ、言語を使う。こうすると、世界が身体的な世界(快不快)から幻想的な社会的な世界となる。いろいろな経験により対象同士やエロス性が連合し、複雑な系列を結び網の目のように発展していく。これが「関係世界」である。網の目上のどこかが刺激されれば、そのこ起点に刺激が広がる。これが、「感情」である。快不快のように一義的なものではない。各個人の経験により編み上げられた網の目は千差万別。

アーレントは、以下の二点を強調している。
感情の基準は共通感覚にある
感情は公共性への意志から生まれる

では、だからどうすればいいのか。

なぜ「感情」を理解できることがいいのか?

感情がはっきりすれば趣味判断もはっきりするのである。この複雑な関係世界で、何をすべきか導いてくれるだろう。よくわからないふわふわした状態では仕方がない。自分が何者であるか、自分が身を置いている世界がどのようなものか、このような点に関する真理に与れる。

だからそのためには、公共性へコミットし共通感覚を磨き、感情をはっきりしたものにする。そうすれば世界が見えてくる、というわけだ。  

昨日堂目 卓生氏の著書を通じてアダム・スミスを「実存」を軸に紹介したが、スミスは「愛国心」についても極めて深い洞察をしている。これはナショナリズムや国とはそもそも何かを考える上で大変意義ある内容である。




祖国への愛は、人類全体に対する愛でも、祖国が地球の一部であるからではない。日本人が日本人であることに愛着をもつのは日本人が人類の一部であるからではない。

日本という国の中に、あるいは日本人という集団の中に、「自分と家族、そして自分が愛する人々」のほとんどが含まれてるからであり、自分たちの安全と繁栄が、”日本の安全と繁栄”に依存すると思うからである。そして、自分の行為が実際に影響しうる最大の社会が日本社会であると考えるからである。このように祖国への愛は、普遍的仁愛からではなく、”私的な愛着”から導かれる

祖国に対する愛は近隣諸国民に対する国民的偏見を生み、近隣諸国民に対する嫉妬、猜疑、憎悪を増幅させる。結果自国民に対しては守られる正義の感覚が他国民に対しては守られなくなる。国際法がしばしば蹂躙されるのはこのためである

国際問題に対する私たちの道徳的腐敗は、他国民への国民的偏見によって、そして中立的な観察者が存在しないことによって生じる

国民的偏見は諸個人が他国の人々と交流し、同感しあうことを繰り返すことによって弱めることができるであろう。他国の人々との交際を進め、同感しあうことによって異なった慣習や文化を理解するとともに生命、身体、財産、名誉が侵害されること、つまり正義については他国の人々も自分たちとほとんど同じ感覚をもっていることを知ることができるからである。

僕は、こうした取り組みを増やして世界に貢献したい。語学の事業をやるか、学生に留学をさせるか、外国人を呼びこむか、どういうやり方がいいのだろうか。 

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