記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 読書感想

人はみな、被投的に始まってしまっている生を歩んでいる。被投的というのは要するに無根拠であり、神秘である。なぜ私が私としてこの色とりどりの世界を経験しているのか、誰も分からない。いや、誰もというか私は私のことしか分からないので、少なくとも私は分からない。でも、普段私(も他の人々も)そんなことは問わずに人間社会を生きている。

改めて考えてみると、私の生とは「いま、ここ」の持続、ウィリアム・ジェイムズ的にいえば「意識の流れ」がわれわれ各個人の生である。

この「意識の流れ」を「よく」したい。ポジティブなものにしたい。

と考えるのは、少し突き詰めて思考したらたどり着く考えではないだろうか。全てを自分の意識に還元するのだ。恋人や家族や友人のためというのも、結局はそれを思っていて最終的に嬉しい私に行き着く。

以下の本では、このように還元された意識内での「よいこと」を「ウェルビーイング」として、それをベースにサービスとか社会設計とか考えていくためにウェルビーイングをどう設計するかというエキサイティングな本である。

ラファエル A. カルヴォ & ドリアン・ピーターズ (著)『ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術』。監修は、渡邊淳司&ドミニク・チェン、翻訳は木村千里 。

ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術
ラファエル A. カルヴォ & ドリアン・ピーターズ
ビー・エヌ・エヌ新社
2017-01-24



アマゾンの頁での内容紹介は以下の通り。
人の「こころ」の領域にまでITが入り込んできた今、人間の潜在能力を高め、
よりいきいきとした状態(=ウェルビーイング)を実現するテクノロジーの設計、
すなわち<ポジティブ・コンピューティング>のアプローチが求められています。
近年注目されている「マインドフルネス」や「レジリエンス」、「フロー」なども
ウェルビーイングを育むための要因ですが、ではこういった心理的な要因とテクノロジーを、
どう掛け合わせることが出来るでしょうか。
本書では、ウェルビーイングに関する様々な分野の最新の研究成果を基に、
この問いを解き明かしていきます。
これからのテクノロジーの在り方や、向き合い方を考えるうえでの基盤となる一冊です。

****
人間がよりよく生きるとはどういうことだろうか? 
心という数値化できないものを、情報技術はどうやって扱えばよいのだろうか? 
本書は、このような問いに答えようとする者に対して、示唆に富んだヒントを与えてくれるだろう。
(「監訳者のことば」より)
****
大体想定していたことが書かれていたが、様々な具体的な情報や事例が出されておりこの分野について理解がとても深まった。面白かった部分を少し紹介し感想を述べる。本書で言われる「ウェルビーイング」という用語は、「心理的機能が人間として考えうる最適な状態にあることを強調した表現」であり、ポジティブ心理学の世界では広く受け入れられているようだ。ただ、この曖昧な定義をどう捉えるかについて3つのアプローチがある。
  1. 医学的アプローチ:精神機能障害がない状態
  2. 快楽的アプローチ:喜びの感覚の集合として(人生の何%がポジティブな感情で占められているか)
  3. 持続的幸福的アプローチ:人生に意義を見出し、自分の潜在能力を最大限に発揮している状態
の3つが現代のウェルビーイング理論の基盤となっているようだ。そしてここで取り上げられている理論はどれも単なる仮説ではなく、十分な実証的な裏付けがあるという。

少し細かく見ると、「快楽心理学」であればポジティブ感情の体験をもとにウェルビーイングを定義していく。カーネマンの議論も出てくるが、これは主観的ウェルビーイングである。研究方法は、もし幸せだという自覚があるなら、伝えてほしい、というもの。

ライフイベント、人生の満足度、充実度をはじめとする個人の人生に対する認知的評価と感性的評価からなり実際に国民総幸福量子数の開発に利用されているらしい。さらに時間軸の観点でいうと、個人の自己報告は「オンライン=リアルタイム」「想起」「長期間にわたる人生評価」の3つがある。

持続的幸福的アプローチは、エウダイモニア的アプローチとも呼ばれ、自律性、有能感、関係性を軸にした自己決定理論があり、さらに快楽的アプローチと組み合わせてフロー理論でお馴染みのチクセントミハイなどのポジティブ心理学、情動知能、仏教の心理学なども参照されている。

また、最後に生理学的に確認可能なウェルビーイングとして「生物学と神経科学」のアプローチも紹介されている。ここでは個人の感情を理解するために生理学的信号や脳信号を用い、遺伝子や身体の健康状態を調査したり、そうした生物学的システムと環境条件との相互作用を調査している人もいるらしい。脳波記録、筋電図検査、皮膚コンダクタンス、呼吸といった複数の生理システムの信号を使う。神経科学者は脳の電気的活動や科学的活動のパターンを特定しようとしている。

また、第2章ではブータンだけでなくイギリスやフランス、アメリカなども国家発展の尺度の見直しとしてウェルビーイングに取り組んでいることが紹介されている。第4章は、ウェルビーイングの決定因子として、ポジティブ感情、動機づけ&没頭、自己への気付き、マインドフルネス、心理的抵抗力・回復力、感謝、共感、思いやり、利他行動を挙げ、それをどうデザインしていくかという議論は本書の核であり、読み応えがある。また、第8章で紹介されている判断をともなわない注意「マインドフルネス」という概念は詳しく知らなかったので勉強になった。

さて、これを読んだ感想は、とても「心理学的」だということ。本書でいうポジティブコンピューティングの基本的なアプローチ方法はざっくり以下のようなもの。
  1. 主観を内省して、ポジティブだった意識状態を列挙→例えば上述の:ポジティブ感情、動機づけ&没頭、自己への気付き、マインドフルネス、心理的抵抗力・回復力、感謝、共感、思いやり、利他行動
  2. それらがどのように生じたのかを分析
  3. 分析結果を基にどうやってそれらを再現するかを研究
全て「現在の人間の感受性」で考えられている感が否めない。人間中心主義といえる。われわれは「スポーツの練習に没頭している」「家族や恋人と幸せな時間を過ごす」など経験的に学んだポジティブな状態を目指そうとする。というか、それ以外に「よいこと」をする際の指針はない。

しかし、われわれは環境や他の人や生物との相互作用の中で各個人が価値観や世界像を編み上げている。そして経験によりそれらは変わりつつまた新たな経験をするという循環。そこから何が言えるかというと各個人により何が「よいこと」になるかは違うということ。

そして、さらにいうとマルクスが主張したように生産性が向上したり人間関係が変わると下部構造により上部構造であるわれわれの感受性も変わる。例えばベーシックインカムが実現され、人との関係が薄くなっても生きていけるようになれば(極端な話)共感や感謝、思いやりなどはポジティブな状態に関係なくなるかもしれない。そもそもそのような存在の形態になったら、ポジティブな状態が気になっているか分からない。

よくSFで提起される問題だが、今の感受性では環境の変わった未来のわれわれの感受性はどうあがいても分からないのだ。それを予想しようとしている私は既に今の感受性で物事を考えている。だから何がいいたいかというと、こうした「心理学的」なアプローチがたしかに現時点では最も有効なのではないかと思っている、ということ。

マレー・シャナハン (著)『シンギュラリティ:人工知能から超知能へ』(2016)を読んだ。ドミニク・チェン  (監修, 翻訳)。細かくは読んでいないがさらっと。

アマゾンに載っている内容紹介の通りの内容であった。

松尾豊氏(東京大学准教授)推薦
人間の脳の活動すべてを、コンピュータで模擬できるとしたら?
そしてシミュレートされた脳を物理的な身体とつなぐことができたなら?
人工知能の発展の先に浮かび上がる問題の描き方は見事である。
そして、本書が最後に投げかけるのは壮大な問いである。
人工知能は人類にとっての希望なのか?


イギリスの人工知能(AI)研究の第一人者によるAI入門書。
本書では、「全脳エミュレーション」などの最先端のAI研究を手際よく解説し、さらにAIの政治・経済的インパクト、AIと意識の問題、そしてシンギュラリティ問題までを、さまざまな思考実験を通して考察する。
はたしてシンギュラリティはやって来るのだろうか?

人間の脳の仕組みと、それを全能シミュレーションするにはどういう過程があり、課題があるかということが分かりやすく書かれている。僕はてっきり、SF的に「素粒子状態」で全状態を把握するレベルを想像していたが、それはまぁ無理なので本書では機能を再現できる程度の解像度で現実味のあるレベルで展開されている。

いくつか思ったことを書く。本書の内容をおさらいはしない。


1,意識について 
AIにどうやったら「意識」が発生するか。それに伴い、人間はAIを人間のように扱わなければならなくなる、などの議論が出てくる。

哲学的に言うと、この議論は答えがないのだ。そもそも僕らは他者(他人や物)に意識があることも確かめようがない。僕と同じようなクオリア的な世界を気分や情動と共に生きている、と勝手に想定しているだけなのだ。だって、その人の主観に入り込んだりできないし、出来てもそれが確かめたことになるのかも分からない。

結局それらは経験的に学ばれた確信にすぎない。自分と同じような身体を持ち、同じように動き、言語をしゃべる。考えなくても自然と同じような人間であれば意識を持つと前提してしまっている。確かめられないが、疑いも湧き出てこないほど前提されている他者の主観を間主観性という。

猫が好きな人は日々その行動をみて相互にコミュニケーションを取っている。そういう人にとっては猫は意識があるという感度が強くなるだろう。一方、野良猫をうざがってるような人、さらにはいたずらで虐待するような輩は、意識のない「物」に近い形で捉えているだろう。

AIも同じである。機械であっても、人が意識を持っていると思わせる特徴があれば「意識がある」のだ。「her」というアメリカの映画ではある中年男性がAI(iPhoneのSIRIのようなもの)と毎日電話して恋に落ちてしまう過程を描いている。声だけでもコミュニケーションが成り立っていれば相手がプログラムだと理解していたとしても好きになってしまうのだ。この場合、当然意識を想定しているだろう。

だから結局、人間の感受性に依る。

余談だが、あらゆることは人間の能力と感受性のレベルに依存する。AIがいくら賢くなってもそれを理解するのは人間であり、人間はもう近い将来AIの提案を鵜呑みにするしかなくなる。なぜそういう判断かは人間の能力的に理解不能なのだ。

2,「自我」と「自己保存」
158頁に、「自我(自己同一性)」と「自己保存」について面白い考察がある。これらがAIに備わるのは「期待報酬の最大化」に繋がるかに依る、というもの。「自己同一的」であることが、そのAIの目的に必要なら生まれる。人間だって同じだ。僕らは社会を築いて人がある役割を一貫して担わないと社会が存続できないから自己同一性を保っている。職業や性格を忘れたら、怒られて軌道に乗せられる。結局、同一性は他者が同一として扱うことから生まれる。

AIにとっては「自己保存」も同じく報酬関数に依る。人間は自己保存自体が目的のようだが、AIはその報酬関数は設定次第だ。本書の例ではある機械部品の製造を最大化するには、工場に命令を出した後自分も部品のために分解する、というもの。


3,AIの難点

本書の最後の方で、報酬関数のチューニングの問題が出ている。有名なロボット三原則を例に出している。「人間に危害を加えてはいけない」とロボットに組み込んでおいたとして、その報酬を最大化するために全人口を麻酔で寝たきりにしておく策に出るかもしれない。安静にしとけば危害を加えるリスクがなくなる。

これは哲学的に言えば、「語の多義性」の問題なのである。われわれは何となくある「語」は何かイデア的な意味を持っていると思っているが、それは違う。われわれは経験的に言語の使用の場、つまり言語ゲームに参加することで語の意味を学ぶ。コップは水を飲むもの、歯ブラシを立てるもの、怒ったとき人に投げるものかもしれないが、一番よく使われるものがその「意味」として辞書に登録される。普段われわれが観取する意味は、認識者の欲望に相関している。AIにとっても語は報酬関数に則して理解されるのだ。だから報酬関数の設定は難しい。この設定は言語でなされるのだから。

さて、AIがいろいろ世の中をよくするにせよ自分の生にとって最も重要なことは連続している生である。いくら自分の脳状態をコンピューターにアップロード出来たとしてもこっち側に残る今の私の連続性が私の全てである。ここに定位していろいろ考えていくべきだと思うのだが、実は意識に固執するのも今の人間社会に作られた一時的な感受性なのかもしれない。

シンギュラリティ:人工知能から超知能へ
マレー・シャナハン
エヌティティ出版
2016-01-29

 

下の赤ん坊の表情を見てほしい。

2016-08-29-19-24-00

ただただ、ひたすらに「世界がある」ことへの驚嘆である。

これがわれわれが失ってしまった「自然的思考」というものである。

では、「自然的思考」とは何か?木田元『反哲学入門』の議論を軸に考えてみよう。

反哲学入門 (新潮文庫)
木田 元
新潮社
2010-05-28


それを説明する前に、まず「哲学」とは何かを理解する必要がある。

哲学とは、
「ありとしあらゆるもの(あるとされるあらゆるもの、存在するものの全体)がなんであり、どういう在り方をしているのか」ということについてのある特定の考え方、切り縮めて言えば「ある」ということがどういうことかについての特定の考え方だと言ってもいい。

いま、「存在するものの全体」を「自然」と呼ぶとすると、自分がそうした自然を超えた「超自然的な存在」だと思うか、少なくともそうした「超自然的存在と関わりをもちうる特別な存在だと思わなければ、存在するものの全体がなんであるかなどという問いは立てられない。自分が自然のなかにすっぽり包み込まれて生きていると信じ切っていた日本人にはそんな問いは立てられないし、立てる必要もなかった。

西洋という文化圏だけが超自然的な原理を立てて、それを参照にしながら自然を見るという特殊な見方、考え方をしたのであり、その思考法が哲学と呼ばれた。

そうした哲学の見方からすると、自然は超自然的原理(イデア、純粋形相、神、理性、精神など)によって形を与えられ制作される単なる材料になってしまう。もはや自然は生きたものではなく、制作のための無機的な材料・質料にすぎない物、つまり物質になってしまう。超自然的原理の設定と物質的自然観の成立は連動している。
(著者は哲学は「自然に生きたり考えたりすること」を否定するものだとし、日本に哲学がなかったことを恥じる必要などない、日本人のものの考え方のほうがずっと自然だという)

ニーチェは、彼の時代のヨーロッパ文化がいきづまりにきていると見て、その原因をさぐった。彼はその原因が、超自然的原理を立て、自然を生命のない、無機的な材料と見る反自然的な考え方にあることを見抜く。

超自然的原理を設定して、それを参照にして自然を見るような考え方、つまり哲学を「超自然的思考」と呼ぶとすれば、「自然」に包まれ生き、そのなかで考える思考を「自然的思考」と呼んでもよさそうだ。著者が「反哲学」と呼んでいるのはそうした「自然的思考」のことなのだ。

「反哲学」或いは「自然的思考」は、ソクラテス以前に見出されたとされるが、近代の哲学者でも、ライプニッツなどは「なぜなにもないのではなく、なにかが存在するのか」と問いかけ、<存在する>というのはどういうことなのかを問題にしているし、20世紀のウィトゲンシュタインでさえ「神秘的なのは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである」という。ハイデガーはもっとはっきりと「哲学するとは<なぜ一般に存在者が存在するのであって、むしろなにもないのではないのか>を問うことである」と行っている。

「生きる意味は何なのか」「どう生きればいいのか」「よりよい社会とは何か」などの問題も全てこの上に成り立っている。そもそもわれわれが被投されているこの「世界」があることが驚きなのである。

科学技術の発展により、自然をメタ的に完全に解明しようとする人類は躍起になっているが、この赤ん坊のように素直に「自然」と向き合うことが自然なのではないだろうか。

2016-08-28-12-19-16

2016-11-17-23-55-11
 

『幻想の未来』は岸田秀の思想が最もよく体系的にまとまっている著書である。

欧米と日本との比較が目を引く。以下は本書の解説より抜粋。

岸田の言う自己放棄衝動と自己拡大衝動との解決しがたい葛藤を、唯一絶対神に自己放棄衝動を振り向け、神以外のものに自己拡大衝動を向けることによってこの葛藤をごまかす権威主義的性格を持った欧米文化に対して、日本文化は、直接的な人間関係の中でそれを表現するという線を守りながら、タテマエとホンネを使い分けるという形でその葛藤をごまかしてきた文化であるというのが、岸田の日本文化論の骨子である。(287)

岸田は人間について、
人間は自我の安定を求める
と、その本質を述べる。

自我とはそもそも何か?安定とは何か?などの詳細は本書を読んでいただくとして(ちなみに私は読んでもそこまで腑に落ちてない)、このテーゼを真と受け入れた場合、どうすれば自我の安定はできるのか?

それは、「絶対的な何か」を求めることである。

一昔前であれば、西洋であれば「神」、日本であれば「世間」のように絶対的な存在があり、そこに無根拠で幻想でしかない自分を帰属させることで安らかになった。それが駄目になると、今度は「真の自己」なるものを空想しだす。

「真の自己」のように個人に内在すると同時に普遍的であるものが存在していれば非常に好都合であるが、いくら探してもそのようなものは見つからないとなると、人びとは普遍性のほうはひとまずあきらめ、普遍的でないかもしれないが、たしかに個人の内部に蠢いている「欲望」に自我の支えを求めるようになった。(160) 

こうして欲望に自我の支えを求める。

実は僕自身「←いま、ここ」という感じだったので、これを読んだときは「わざわざ」と太宰小説の葉蔵が同級生に指摘されたが如く衝撃を受けた。僕も、欲望は世界の原理だからこれに従えば「よくなる」と無意識的に想定していた。カントやハイデガーの良心も突き詰めれば「降ってくるもの」に依拠するのでこれの範疇だし、陽明学もそうだろう。
 
自我は支えがなければ存立できない。その支えは、かつては個人の外部にあると考えられた神や世間に求められたが、いまや、これらに対する信仰や崇敬が崩れ、それらの自我の支えを個人の内部にある自己や欲望に求めたが、それもまた自我の支えにはならない。つまり、自我の支えは個人の外部にも内部にもない、それにもかかわらず、それ自体では存立し得ない自我の支えが必要である。そこで現代人は自我の支えを求めて、つまり、ないものを求めて右往左往することになった。日本人、欧米人を問わず、近代人がとらわれるようになった強い自我と弱い自我との葛藤は、この右往左往のあらわれである。(290)
 
欲望でもだめだとなると、僕らは何に根拠に生きていけばいいのか。つまらなければ死んでもいいし人殺しもOK、とうような価値観まで許される究極的な相対主義になりかねない。

少なくとも、自我があるということがどういう結果をもたらしているかを知った上でしがみつきつづけるべきであろう、というのが本書の結びであり、岸田の唯幻論の基本的な姿勢のようだ。
 


レヴィ=ストロースの『race and history』という短い論文を読んでいる。そこで、参考までに以前読んだ内田樹の『寝ながら学べる構造主義』を寝ながら読んだのだが、ここに素晴らしいレヴィ=ストロース理解の本質が書かれていた。何度も読んでいるのだが、今までは気づかなかったようだ。自分の観点が変わったのだろう。以下に、レヴィ=ストロースの人間観の本質をまとめてみる。

レヴィ=ストロースは家族だったり、神話だったりいろいろ分析しているが、ここでは「なぜ人間は近親相姦を禁止するのか」について見てみよう。

その理由を、
レヴィ=ストロースはを「女のコミュニケーション」を推進するためという。親族関係は親族の親密な感情に基いて自然発生的に出来上がったものではないのだ。ではなんなのか?親族関係はただひとつの存在理由しかない。それは存在し続けること。親族が存在するのは親族が存在し続けるため。

どういうことか?「
反対給付」というキーワードを見よう。これは、何か「贈り物」を受け取った者は、心理的な負債感を持ち、「お返し」しないと気がすまない、という人間に固有の「気分」に動機づけられた行為を指すものだ。この反対給付の制度は知られる限りすべての人間集団に観察される。
 

では、どうして反対給付を含む贈与システムがあるのか?

その起源を知ることは不可能だが、どういう社会的効果を持つかは分かる。
贈与と返礼の往還のせいで社会は同一状態にとどまることができない。おそらく人間社会は同一状態にとどまると滅びてしまうのだ。変化しつづけること、これが大事。

レヴィ
=ストロースは社会システムは変化を必須とするが、それは別に絶えず新しい状態を作り出すことだけでなくいくつかの状態がぐるぐる循環するだけでも十分に変化といえると考えた。ちなみに、熱い社会と冷たい社会という有名な区別もここで出る。

熱い社会とは、
社会システムの変化を絶えず新しい状態になるという歴史的な相のもとに構想する社会をいう。冷たい社会は歴史的変化を排し、新石器時代のころと変わらない無時間的な構造を維持している社会、野生の思考が領する社会を冷たい社会という。
 

贈与と返礼は社会を同一状態に保たない。さらに重要なことは、「人間は自分が欲しいものは他人から与えられるという仕方でしか手に入れることができない」という真理を人間に繰り返し刷り込む。何かを手に入れたいと思ったら、他人から贈られるほかはない。そしてこの贈与と返礼の運動を起動させようとしたらまず自分がそれと同じものを他人に与えることから始めなければならない。それが贈与についての基本ルールである。

少し見方を変えよう。
 

人間は3つの水準でコミュニケーションを展開する。

財貨サービスの交換、経済活動

メッセージの交換、言語活動

女の交換、親族制度
 

どのコミュニケーションにおいても、最初にだれかが贈与を行い、それによって「与えたもの」が何かを失い、「受け取ったもの」がそれについて反対給付の責務を負うという仕方で構造化されている。それは絶えず不均衡を再生産するシステム、価値あるとされるものが、決して一つのところにとどまらず、絶えず往還し、流通するシステムである。

さて、ここまでで大体の論点は出尽くした。以下、レヴィ=ストロースの
本質をまとめた箇所。

 レヴィ=ストロースの構造人が苦情の知見は、私たちを「人間とは何か」という根本的な問いへと差し向けます。レヴィ=ストロースが私たちに示してくれるのは、人間の心の中にある「自然な感情」や「普遍的な価値観」ではありません。そうではなくて、社会集団ごとに「感情」や「価値観」は驚くほど多様であるが、それらが社会の中で機能している仕方はただ一つだということ。人間が他者と共生してゆくためには、時代と場所を問わず、あらゆる集団に妥当するルールがある。それは「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」と「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」という二つのルール。


これはよく考えると不思議なルール。私たちは人間の本性は同一の状態にとどまることだと思っているし、ものを手に入れるいちばん合理的な方法は自分で独占して誰にも与えないことだと思っている。しかし人間社会はそういう静止的、利己的な生き方を許容しません。仲間たちと共同的に生きてゆきたいと望むなら、このルールを守らなければならない。


いったいどうやって私たちの祖先は、おそらく無意識のうちにこの暗黙のルールに則って親族制度や言語の神話を構築してゆくことができたのでしょう。私にはうまく想像ができない。しかし事実そうなのだ。だから、もし「人間」の定義があるとしたらそれはこのルールを受け入れたものと言う他ないだろう。人間は生まれたときから「人間である」のではなく、ある社会的規範を受け容れることで「人間となる」という考え。


いかがだろうか? 実存主義を批判した構造主義から、実存に関しての本質的な示唆があった。われわれは、欲しいものはまず他者に与えないといけないし、常に変化し続けなければならない。もちろん、重要なことは、変化とは何も経済的に成功する方向にとか、進歩の一直線の幻想に囚われず、文字とおり気楽に変化すればいいのである。

 

 

丸山圭三郎を読んでいるとよく出てくる岸田 秀と木村敏。今回は岸田秀『ものぐさ精神分析』を読んでみたが、なんとも素晴らしい世界観を展開している。大きな括りでいえば丸山圭三郎とも同じで、世界の幻想性、原理的に満たされない欲望について一貫してうまく説明している。

丸山においては人間とは「動物+言語能力」により言語の世界を発展させてしまい本能が壊れていくという見方だが、岸田秀では人間=「欠陥動物」ということで「動物ーα」という人間観で述べられている。丸山においては全てはゲシュタルト、岸田においては全ては幻想ということで帰結は似ているが出発は違う。個人的には、少しシンプルすぎるが岸田の仮説のほうが一貫性があり分かりやすいのでこちらを支持したい。

では、以下に『ものぐさ精神分析』の要点をまとめる。「文化は本能の代理物である」ということ、「欲望は満たされ得ない」ということを軸に。

■前提となる人間観
まず、前提となる人間観を見てみよう。それは、胎児化説である。サルが未熟児で生まれ、「多分に胎児の特徴を残している」のが人間だという進化論的仮説のことである。胎児化の結果、本能のエネルギーが発現しているのにそれを発揮する器官が発達していない、というズレが生じ、そこでエネルギーは通路を見失って空回りする。

■結論
そこから何が帰結するか?簡単にいうと、「人間は欠陥動物であり、そうした「欠陥のある本能」の代用物、いわば松葉杖のごときものとして「文化」と「自我」を創り出さざるをえなかったのだ。

■「本能」とは何か 
さて、ここで壊れてしまった「本能」とはそもそもどういうものか?クモは“だれからも教えられず”に精巧な巣をつくって獲物を捕らえ、生きていく。こうした「予めプログラムされた現実との対処の方法、行動形式」を「本能」と呼ぶのだ。

■ 胎児として生まれてきた人間の「個体保存の本能」と「種族保存の本能」の湾曲
では、胎児として生まれきた人間はどういう過程をたどるのか。人間には「個体保存の本能」と「種族保存の本能」があるがこれらはどうなるのか。

■「個体保存の本能」
まず、「個体保存の本能」についてみてみよう。人間の幼児は感覚運動器官がきわめて未熟な状態で生まれ、親の保護=「厳しい現実からの遮断」のもとにあって、自他の区別がなく、欲求が直ちに満足されるという状態、客観的には無能であっても「主観的には全知全能の状態」から出発する。

そして、全知全能状態を夢見る習慣が根付く。人間はこの全能の状態、全きナルチシズムの状態を復元したい、という衝動を一生涯持ち続けるのである。こうして本来なら現実我を保存するはずの「個体保存の本能」は、全能の幻想我を保存する方向へずれてしまうことになった。

■「種族保存の本能」
では「種族保存の本能」はどうか。ここでの結論は、「文化とは本能の代理物である」ということだ。「種族保存の本能」の場合も同様で性欲の発現と生殖器官の成熟との間に数年の時間的なズレがあるため、人間の性欲は、まず「不能の性」として出発する。

性欲はあっても生殖器官はまだまだ未成熟だから性交は不可能。したがって性欲のエネルギーはもともと性器から分離されており、それが何に向けられどのようにして満足されるかは個人によってまちまち。つまりもともと人間は性倒錯者として出発するのである。たしかに、その後性器へと性欲を向けるようになっていくが、生殖へと向かう本能的な性欲を人間はもともと具えていないということになる。「性欲」すら人間は学習によって獲得するのである。
 
■「本能」は解体し、生命エネルギーは「ナルチシズム」および「倒錯的なリビドー」と化す
こういうわけで、人間においては「本能」つまり「個体保存と種族保存のために生命エネルギーを方向づける予め用意された通路」はほぼ解体してしまい、生命エネルギーは「ナルチシズム」および「倒錯的なリビドー」と化してしまった。

■本能の代理物としての「文化」
そこで、文化の登場である。生命エネルギーにそれなりの方向付けを与えて「現実への適応をある程度可能にする必要」が出てくるが、それを行うのが「文化」である。だから「文化」とは「本能の代理物」だが、「現実への適応」と「ナルチシズムおよび倒錯的リビドーの満足」という矛盾することがらをそれなりに果たす必要があるので予め必然的な形が存在するわけではなく、いわば妥協の産物としてしか成立しえないのである。

以上。
この考えを軸に、自己、心理学、日本、言語などいろいろなことの見方を覆している。是非一度本書を読んでみてほしい。 
 
ものぐさ精神分析 (中公文庫)
岸田 秀
中央公論社
1996-01-18

 

清水 真木『感情とは何か: プラトンからアーレントまで』でデイヴィッド・ヒュームの感情論がまとめられているので、私なりに敷衍してみたい。
ヒュームは感情を情念というのでこれに統一する。主張は、
道徳は情念に基礎を持つ!情念は合理的な基礎を持たない。合理的な推論は行動に結びつかない、行動に結びつくのは情念だ!

という感じ。

順を追って見ていこう。
  1. 理性だけでは何の意志作用も生み出さない。合理的な推論は行動(選択、意思決定)とは結びつかない。行動に結びつくのは「情念」である
  2. 道徳的判断は私たちを行動に導く
  3. ゆえに、道徳的判断は「情念」を基礎とするものである
  4. 理性の力を用いて情念を修正することはできない。
  5. 理性が情念を制御しうるのは情念が発生するきっかけとなった観察に誤りが認められる場合、具体的には、事実の有無をめぐる誤認または「原因と結果の誤った組み合わせ」だけ

ヒュームが情動主義の立場を引き受け、感情が価値判断に先立つものであることを主張するかぎり、感情が合理的な思考の結果として導かれたものではないことを明らかにしたが、それだから何が言えるか?まだ不十分。

ここで疑問。感情に支えられた価値判断が恣意的でなく、「私たちが規範や道徳というものを共有しうる理由」を説明する作業こそ、課題ではないか。要は、どうやったら受動的な情念をもとに社会をよくしていくための合意を形成できるのか、ということ。

ヒュームの試みは一つの回答を与える。道徳的判断を支え、「よい悪い」を直感的に区別する情念としての道徳的感情、そしてこのチャンネルを具えた人間本性による社会的合意という枠組みに訴えるという解決方法を提示しているようだ。

ただ詳細がない。では、どうやって受動的な情念で社会的合意を形成していくのか。そこで、昨日のアーレントの感情論が役に立つ。たしかに、ヒュームの言うとおり、わわわれは合理的な推論ではなく「情動」に押されて「行動」をする。では「情動」を認識するにはどうすればいいのか。

詳しいことは昨日の投稿で書いたが、アーレントによると「公共性にコミット」することである。社会と深く交わり多様な人びとと交流する、これが大切。こうすると情動が強くなり、行動が取れる。

でも、そもそも「行動」する必要あるの?と問われればよくわからない。しかし、現代において人間は社会で生きるしかない。そこから離れていきるならまだしもそんなことは非現実的である。複雑な社会で生きることを決めたらなら、そこにしっかりと入っていき感情を明確化し、世界と自分の関係を明晰に理解し生きていくのがいい。

ちなみに、エイヤーの批判にも少し触れたい。エイヤーは情動に道徳的判断の基礎を置くことを批判。好き嫌いには真偽もない、感情にも真偽はない、だから価値判断にも真偽の区別はない、これが情動主義の基本的な考え方である、と。

しかし、われわれの実存を反省するなら、情動に押されて「いま・ここ」の経験が進行していることが分かる。ハイデガー的図式でいえば、情状性(情動)があり、それに基づいて世界に意味が開示される。肩がこっていれば目の前のハンマーは肩たたき道具になるし、犯罪者がいれば武器になるし、釘があれば打つ道具である。情動に押されて行動(企投)がある。価値判断という言葉が不適切だとしても、情動によりわれわれの行動は方向付けられていることは確かなこと。

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