記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: デイリーライフ

人間は生物的な身体を持っている。その身体に基づいた感受性というものがある。言語能力だって、脳という物理的な制約がある。それにより”自然に”理解できる範囲というものがある。現代において、われわれは多くのことを言語を介して理解している。宇宙のこと、地球の裏側のこと、外国のこと、いや隣町のことでさえ、われわれは言語で理解した”つもり”になっている。でもそれは本当の理解ではない。本当の理解とは、そう、例えば家から出て駅まで歩くときのように、目の前に道があり、壁があり、信号があり、避けるべく通行人がいたり、こういうもの。そこに理解した感覚はなく、既にそれは真理になっており行動によって前提とされているものである。それを真理と呼ぼう。現代の情報社会において、そのように行動の前提まで深くわれわれに身体化されている情報はどれだけあるのだろうか。金融市場や新たな技術を使った商品、どれもこれも斬新に見える。それらは勉強すればその理屈は分かるかもしれない。でもそれは、行動に前提されるようなものではありえない。そう、真理ではない。それはわれわれの身体の感受性を超えている。現代において真理に到達するのは難しい。自分が本当に理解できることを軸に生きていけば真理へ辿り着く。

なぜ街に行きたくなるか。僕は昔から暇があると池袋の人混みを通り、そこそこ人のいるカフェで読書やぼーっとするのが好きだった。今もこうして新宿のカフェでぼーっとしている。

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こうやっていろんな人々がいるごちゃごちゃした都会が好きだ。上海にいるときもそうだった。

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なぜなのだろう。そこに生の本質を掴み取る契機があるのではないかと考えていた。

なぜ街に来てしまうのだろう。それが最近分かってきた。

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それは無根拠な生とう現事実を、人間という物語で忘れることができるからだ。いろんな見た目で色々な目的の人間が生きている。無根拠ながらそんなことは完全に忘却して自分の物語を生きる。各自それぞれが全く違うストーリーを持ち、それに没頭している。

街とは人間的なものだ。動物の世界にはない。人は何かの目的をもって街に来る。目的を探すという目的も含まれる。そこには人の「行為」の束がある。何かを意志して行う。申し開きできること。みんなが物語を生きている。

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そんな人々のいる、そんな人々が物語として作った街の中で見て、そして自分がその中にいることで無根拠の不安から逃れられるのかもしれない。

物語を作るのは欲望だ。こうした欲望の色が強ければ強いほどいい。池袋西口、新宿、上海。僕が好きな街はエロスに満ち溢れている。

ふと思ったことなのだが、

人と面と向かって直接コミュニケーションする

のと、

電話やスカイプなどで距離を超えて音声(+映像)ベースでコミュニケーションする

の本質的な違いは何か? 一般的には、音声がはっきり聞こえることと、ノンバーバルがはっきり見えるということだろうか。

もっと掘り下げよう。シュミレーションのしやすさだ。前者で重要なのは、相手に自分の声(やノンバーバルな表現)が「どのように聞こえるか」を的確にシュミレーションできる、ということではないか。言い換えると、相手の立場になって自分をよく見れる、ということ。自分の声や表現がよく伝わることよりも、 相手の立場に立って私とあなたのコミュニケーションを俯瞰できるからではないだろうか。自分がどう「受け取られるか」がシュミレーションしやすいのだ。
 
さらに場の予測可能性。対面のほうが予測可能性が高い。スカイプだと、相手がどういう状況か分からない。ネットが途切れるかもしれないし、相手の状況により急いだり切ったりしなければいけないような変化もありうる。直接対面していれば同じ環境なので同時に外的環境から影響を受けることになる。

まあ、よくわからないけど。
 

なぜfacebookやInstagramにしょっちゅうリア充写真を投稿している人を見ると「ムカつく」のか?自分の赤ちゃんの写真を毎日アップするもの、仕事での集いの写真をアップするもの、業界の重鎮との写真をアップするもの、昇進や褒められたことをいちいちアップするもの。

一般的には、「他人のことはどうだっていいじゃん」「それをうざがっている君自身に問題あるんじゃない?」などジェントルマンな返し来そうだが、深く考えてみたい。

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それは、一言で言えば「浅ましい人間に自分を重ね合わせる苛立ち」。或いは、「各自が自我の安定のために承認という椅子取りゲームをしているから」である。だから、限られた椅子にどんどん座ろうとする(=SNSに自分の物語を主張する)やつは自分の物語の安定を邪魔するものとして「うざい」のである。

詳しく説明しよう。

まず、そもそも「なぜ、SNSにリア充自慢をするのか」?

前に書いた記事を引用する。

あなたの周りでもSNS中毒者がいないだろうか?

四六時中facebookやらtwitterやらwechatに写真や近況をアップしている輩。

彼らは何故そんなことをするのか?


一般的には、「それは人から承認されるためだ」と言われるだろう。例えば、子どもの写真を毎日アップする野郎は「おれは親になって子育てしているいいお父さん」ということをみんなにアピールしてそのような理解を促す。イケてる友達と写真をとってアップするのは、「おれはこんないい友達持っている」ということを認めてほしい。要するに、何かのその人に関する事実を認めてほしいのだ。これが承認と言われる。

では、なぜ承認されたいのか?なぜSNSを通じてそんなに多くの人にアピールして承認がほしいか?

それは、自我を安定させるため。自分の物語を安定させるためだ。 人は動物と違って、物語を作って言語的に世界に適応している。だから、物語を保つことが死活問題なのだ。幻想を保つのだ。それは自分ひとりで信じていても、すぐ崩れてしまう。なぜなら人間社会で人と交わればすぐにボロが出るから。人望のある人間だと自分で信じていても、実際に人から承認されるには一定の実績の積み重ねが必要だ。そういう状況では、一人でも多くの人から承認が助けになる。一人より二人、三人、多くの人が「いいね」を押せばそれはあなたの物語を承認してくれたのだ。

人は自分の物語を保ちたい。だから承認が欲しいのだ。これは何も卑しいことではない。そういう動物なのだ。  

人は、自我を安定させることを至上目的としているので、その安定のために人の承認が必要。SNSは手っ取り早く他者からの承認を得ることができる道具だ。同僚とみんなで楽しくわいわいしている写真をアップすれば「楽しく仕事をしてる良い人生」という物語を他者に共有し、「いいね」を貰えればそれが他者からも認められ、物語は強められる。自分はこの物語を生きているという確信が強まり、自我が安定し現実に密着する。

では何故、こうして横目で他人が自我=物語を安定させているところを見ると、ムカつくのか?

二つ考えられる。まずは、その人への憐れみの共感である。結局、SNS上での「いいね」承認は脆い。みんな適当に「いいね」しているので、物語は大して強化されない。物語は、直接的なリアルな人々との交流、深い語りの中での交わりで強化されるものなのである。にも関わらず安易にSNSで承認を求める浅はかな人間に、むなしいことだと分かっていてもそのように簡単に物語を固めたい自分を重ねて苛立ってしまうのであろう。

もう一つは、限られた承認の椅子取りゲームで厚かましく椅子をどんどん取っていく他者への憤りなのかもしれない。誰もが認められたと思っていても、人々が与える承認には限りがあると思われる。限られた椅子にどんどん座ろうとする(=SNSに自分の物語を主張する)やつは「自分の物語の安定」の機会奪い、邪魔するものとして「うざい」と感じてしまう。

というわけで、何故SNSのリア充自慢がうざいのかを考察してきた。しかし、この行為自体、その人にとっては合理的なものなのである。本当に自分の物語の中で重要なものであればSNSで共有し、直接は会えない人々にも知ってもらい自分の物語への確信を強めていくことは実存的に価値あることだ。

落合陽一氏の『魔法の世紀』を読んだ。「ニーチェを読んでないやつとは話せない」でお馴染みの落合信彦氏の息子ということで前々から注目していた落合陽一氏なのだが、先日の「スマホで朝ナマ」に出演していたのを観てさらに興味を持ち本書を読んだ。

魔法の世紀
落合陽一
PLANETS
2015-11-27

 
クロード・シャノン、アイバン・サザランドやマーシャル・マクルーハンなど微妙に聞いたことのある科学者や文明批評家のオンパレードで「ふむふむなるほどね」の連続であった。ただの空想や個人的な体験ではなく現実での議論を抑えつつ自分の主張を行っているところは、さすが博士。

こうした細かい話は読み物として面白いので是非読んでいただくとして、やはりいちばん気になるのは落合氏自身が今後の世界がどうなることを前提に何に取り組んでいるかということ。一部だけコメントさせていただきたい。

まず、「情報が情報世界から染み出していく」ということについて。

「おそらく最終的に想定されるのは、物理世界のモノの一つ一つが、インターネット空間の情報と対応していく未来です。また逆にこれは全ての情報空間が物理空間に表出し新たな自然を作り出していく未来も示唆しています。情報空間が物理空間で表出し新たな自然を作り出していく未来にほかなりません。

そのとき、私たちの意識のフォーカスは何らかの象徴的機械から、それを取り巻く環境全体へと発散していくでしょう。そして、その物理空間は環境インターフェイスそのものとして機能することになります。これを僕は、「情報が情報世界から染み出していく」と表現しています。」56−57

地球上だけでなく宇宙全体の素粒子状態を情報空間が捉えているということなのであろうか。それは不確定性原理により不可能なのではないか。不確実性のないスケールでの話なのだろうか。もしこれが可能なのであれば、どこでもドアの思考実験でお馴染みのA地点の山田くんの素粒子状態を消去して、B地点で再現することもできる。そこまで行かないにせよ例えば、キッチンが私の行動に合わせて買い出しや料理をしてくれるみたいなレベルなのだろうか。

ポストモダンのおいて我々人間の「生」はカオスから象徴秩序へ、そして象徴秩序へのカオスの侵入、それによる象徴秩序の組み替え、という基本的な図式で描かれる。われわれは世界という複雑なカオスをどうにかしてパターン化し秩序化する存在であるが、本書の議論ではこうしたカオスをコンピュータが情報空間で全て秩序化することを想定しているのであろうか。

さらにこうも言っている。
「コンピュータが導入されることで、あらゆる体験は多次元になっていくでしょう。そこでは、あらゆる物質がコントロールできるようになり、あらゆる体験がデザインされていきます」(203)
 
であれば、われわれが生まれてからのあらゆる体験もデザインされる時代がくるのだろうか。

そのときに気になるのは、「情報空間が物理空間で表出し新たな自然を作り出す」意志はどこから出てくるのであろうか。人間は、パターン認識の知性と自己複製というベクトルを持つ生命の側面があるが、もし情報空間が物理空間に働きかけるようになるなら何かしらのベクトルが必要になる。そこはどのように設計されるのであろうか。

仮にまずは「不労・不老」を目指すようなものであった場合、これはいつか実現する。そうなれば世界はまさに楽園となる。何もしなくてもずっと生きていられる世界。誰もが夢見る世界である。

しかし、それでいいのだろうか?その先には何があるか。

落合氏は何かのメディアで「コンピュータになりたい」みたいな発言をしていたが、それが答えになるのかもしれない。それはある意味、脊髄反射で世界を生きるようなものであり「意識がなくなる」ことを意味しているのではないか。われわれは、今、ありありとした質感のある世界を、喜怒哀楽のある物語で生きている。しかしそれは、フロイト的に言えば、エスという全知全能回帰の原則と、現実世界で他者との利害調整の原則のぶつかり合いの中で起きる。

もしそれがなくなってしまい、あらゆることが予定調和で進むようなコンピュータの世界になってしまえば、僕らの物語的な生=意識的な生はなくなってしまうだろう。 

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この問題は実はマトリックスで地味に扱われいた。モーフィアスが序盤で「仮想現実世界(マトリックス)はあえて楽園ではなく、普通の世界にしている」と語っている。コンピュータが世界を支配しだした頃の仮想空間(マトリックス)は不老不労で何でも願いが叶う楽園のような場所で、何も努力しなくても生きていける世界だった。あまり詳しく書かれていないが、人間はそれでは満足できなかったらしく、現代のような各個人が試行錯誤しながら波乱万丈の生を歩む世界に戻したのだ。これは何の問題のない世界では意識が不要となり、消滅してしまったことを示唆しているのではないか。

とはいえ、ここまで先の世界を今憂いてもしょうがない。

落合氏の活動の目的についてこう書いている。

「ともかく「魔法の世紀」の最終到達点は、コンピュータ科学という名の統一言語で、知能・物質・空間・時間を含む、この世界のありとあらゆる存在と現象が記述され、互いに感応し合うことです。僕の活動の目的は、コンピュータの記述範囲を拡げることで場と場、モノとモノが相互作用する可能性を切り開いていくことにあります。」295

要は、今述べたようないろいろな可能性のある世界に少しでも近づき、実際にわれわれが生きている内に実体験しよう、ということだろうか。

機会があれば他の著書も拝読し理解を深めたいと思う。

魔法の世紀
落合陽一
PLANETS
2015-11-27

 

3月12日(日)01:00 〜 03:00、AmebaTVで生放送された「ウーマンラッシュアワー村本大輔の土曜The NIGHT」、期待通り面白かった。茂木氏の果敢な問題提起と村本氏の建設的な仕切りにより視聴者に色々考えさせる機会を与えたのではないか?

こちらで観れるようなのでまだの方は是非。

事の発端は、脳科学者の茂木健一郎氏が「政治風刺のない日本のお笑いはオワコンだ」という趣旨のツイートや発言がインターネット上を中心に炎上したこと。お笑い芸人のウーマンラッシュアワー村本大輔氏が、「茂木は全然分かってない」「日本の笑いは世界で通じない」など根拠なしの一方的なネット上の反応に疑問を呈し、直接茂木氏を自分の番組に呼んで議論をした。いろいろな意見を採り入れるために日本でお笑い芸人として活動する外国人芸人も参加。

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キャストは以下の通り。

ウーマンラッシュアワー村本大輔
茂木健一郎
いるかパンチ ステファン
タイムボムニック
ちなみに、アラサーの僕個人は以前、日本のお笑いが好きであったが最近は興味を失っている。中学と高校時代は「爆笑オンエアバトル」と「ガキの使い」を毎週録画して繰り返し観て、友達と漫才までしていた。ただ、大学に入り、仕事をしたり留学したり、政治経済や教養などにも触れるようになると日本のお笑いへの興味がなくなっていった。(それでもダウンタウンとさまぁ〜ずだけはDVDやネットでたまに観ていた)また、アメリカに1年、オーストラリアに1年住んでいたこともあり、欧米のコメディも多少知っているしデイビッドレターマンのlate showには憧れ、英語の勉強も兼ねよく観ていた。

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今回の「土曜The NIGHT」を観ていろいろなことを考えたが、全部は書ききれないので一点だけ!

今回の番組のポイントは端的に「日本のお笑い」が世界的に見てどうか?ということに集約されるが、そのためにはどの視点で「評価」するかが鍵となる。それは即ちグローバル社会のトレンドということになるのだが、そこを議論がなかったので、ここで捕捉したい。

茂木氏が(ある意味)知識人代表みたいな立場で参加していたのだから、もっとこういう「そもそも論」から話してほしかった。特に脳科学者として、「人間とは何か」「われわれはどこへ向かっているのか」「幸せとは」などそこを掘り下げてほしかった。村本氏はかなり中立的にいろんな話を聞こうとしていただけにもったいない。

なので僕がその辺りについてちょっと書いてみたい。かなり大雑把な議論で実証的な根拠も書いていないが、大体の方向性だけでも伝えたい。

まずは、われわれ一人ひとりが各々持っている感受性や価値観とはどのようなものなのか?について。

われわれの感受性や価値観、と言われるような個性は経験的に編み上げられる。基本的に人間は自己保存と種の保存のために方向づけ(ベクトル)されており、その生物が言語能力を持ちあらゆるものを対象化し各自が世界像を作っていく。多様な経験の中でベクトルはさまざまに複雑に変様し個性として人々の感受性や価値観は変わってくる。

また、人間は特定の風土的な影響を受け、万人の万人に対する戦いを防ぐために社会を築きそれを発展させてきた。一見理不尽と思える日本の上下関係や、村八分もこういう流れの中で生まれてきたものである。

そこから何が言えるか?

まず、「アメリカの政治風刺的なコメディ」と「日本のお笑い」も各々その背景がある、ということ。アメリカは自由や平等を理念して建国された特殊な国であり、国民が一丸となってこの理念にコミットしている。意外であるが、つい最近まであからさまな黒人差別もあり今でも差別はあるが、基本的にそういうものをなくしていくという「多様な社会を容認する方向」に進んでいる。

一方、日本は島国であり各地で自然発生的にムラが生まれ、それが何となく中国の影響でひとまとまりになったが全体がビシバシと統制されていたわけではなく、自然発生的な村社会が並立するような感じ。抽象的な言い方をすれば、欧米はやはりプラトン的に理念先行で超越的なものを措定し、それに与るものとして現実があるが、日本人はそう考えずに目の前のものをそれとして受け入れる。海に囲まれ外からの攻められることもほとんどなく、静的な長期的な社会が生まれる。中国などまさに逆で、内乱を抑え、外的から国を守るため統一されたからビシバシ権力を振るって社会を統治しないと国が崩壊する。

アメリカも中国に似ていて、自由平等を実現するために統治権力が強い(もちろん中国とその権力の使い方の方向は違うが)。 しかし、過去の歴史の教訓で「権力の暴走」には人一倍敏感なのである。憲法修正第二条では銃の所有が認められているが、これは統治権力の転覆の可能性を保つものである。

さらに、今回の話題である「アメリカの政治風刺のコメディ」も、「偉そうに高尚なこと言って、贅沢な暮らししている統治権力側の人間」への牽制という背景がある。絶対的に正しいことを言っているっぽい統治権力ですら、ただの人間だし間違っている可能性も充分ある。みんな平等な人間なんだぜ、っていう了解に引き戻すための努力だといえる。

翻って日本のお笑いはどうだろう?そんな背景は全くなさそうだ。権力がビシバシ統治して庶民が脅かされるという経験も特にしていない日本人。庶民が日常の中で生活を豊かにするため、楽しむために発生した「お笑い」。だからいつまでたっても中学校の休み時間のノリが続いているのである。傍から見たら、平和ボケと思われてもしょうがない。

村本氏はこう言う。日常で疲れているときとか凹んでいるときに、「自民党がどうとか原発問題など政治風刺的なコメディ」を観てももっと疲れるだけで、「日本のような目の前の日常を面白くみせるお笑い」のほうがいい、と。全くその通りだろう。結局、背景が違って生まれてきたのだから、消費される状況も異なって当然なのだ。

だから今まで二つともそれぞれの社会で存続してきたのである。それについては善悪はない。ただただ「その風土、社会の歴史でそうなっている」ということしかできない。

では、なぜ今これが問題になるのか?

それは端的に、社会が変わってきたからだ。

米最大のシンクタンクである外交問題評議会のリチャード・ハース会長が、フォーリン・アフェアーズ誌最新号に「世界秩序2・0」と題する一文で述べている。

1648年のウェストファリア条約で規定された国家主権を基本とする国際秩序に疑問を呈した。国家間の紛争や不安定を、主権尊重や勢力均衡を唱えて収めようとしても不可能な観光客、テロリスト、難民、電子メール、疾病、ドル、温室効果ガスなどを国際化した社会が招いてしまったので、従来の秩序1・0に代わり、「2・0」が必要だとの指摘である。http://www.sankei.com/column/news/161229/clm1612290006-n3.html
 

詳細は不明だが、社会同士が交わってしまい1つの国家だけでは対処できない国際的な問題が頻発していることが世界秩序を変えている。既にインターネットを通じて、世界中の情報を個人でも得ることができるし、海外に行くことも簡単だ。社会同士が深く交わるようになってしまったのだ。

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では何が言えるか?
ここでグローバルな「善悪の基準」が生まれてくる。

今、世界はグローバル社会へ向かっている。多様性を維持しながらあらゆる社会がマージされていく。これは自由と平等というリベラル的な価値の体現。この流れに抗うのは不可能に近い。世界中の情報が瞬時に入ってくるし世界中どこでも行けてどこでも住めてしまう世界では、もうそれを止めることはできない。

こうなってくると、多様な人間たち、人種の坩堝をうまく共存させる必要が出てくる。そこでは「自由と平等」ということしか全員から賛同を得ることができないので、世界は必然的にこちらの方向に進む。

そう、「自由と平等」という理念に基づいてマージしていく必要が深刻になってきた。ここで善悪の基準が明確になる。

そこでアメリカと日本はどういう位置付けになるか?アメリカは既に理念から社会を作ってきた数百年の歴史がある。一方、日本は外国とほとんど交わらず長期的な関係を土台にした社会を作ってきた。これまでであれば、「環境が違ったのだから違ってて当たり前」であったが昨今のようなグローバル社会においては理念先行型が「善」とされる。

日本はまだまだその善悪基準に染まっていない。ただ、グローバルにはそういうトレンドがある。日本も安全保障や移民、原発の問題など抜本的な改革が必要になってきている。これまでのようになあなあではいけない。

強い統治権力のもとにビシバシ行動していかなくてはならなくなってきている。

そうなってくると、この権力の暴走のためにさまざまな仕組みが必要なのである。特に「デュー・プロセス(英語: due process)」など直接的に権力を抑制しなくてはならなくなる。その一環として政治風刺のお笑いが必要になってくるのだ。茂木氏はけっこう前から日本のお笑い芸人について辛辣なコメントをしていたが、今回明確に発言したのはやはりこの流れが強まってきたことが背景にあるのではないか。

ダウンタウンや明石家さんまが今更、政治経済や教養を学んで権力批判をすることはないだろうし、うまくいかないだろう。観たくもないし。だから、そういうことをできる人が出てくればいい。島田紳助はダウンタウンの漫才を観てその才能を見せつけられ漫才を辞めた。

今の芸人に限らず若者は、お笑い界の重鎮など気にしないで自分が面白い(社会のためになる)と思う政治風刺的な笑いをやってもいいのだ。それを見た大御所がそれについていけないと思ったら潔く席を譲るだろう。村本氏を観ているとそういう可能性を感じた。

人が何かを誰かに向けて発信する場合、それは誰かに何かしたらの変化を与えようとしているということだ。

あなたの周りでもSNS中毒者がいないだろうか?

四六時中facebookやらtwitterやらwechatに写真や近況をアップしている輩。

彼らは何故そんなことをするのか?

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一般的には、「それは人から承認されるためだ」と言われるだろう。例えば、子どもの写真を毎日アップする野郎は「おれは親になって子育てしているいいお父さん」ということをみんなにアピールしてそのような理解を促す。イケてる友達と写真をとってアップするのは、「おれはこんないい友達持っている」ということを認めてほしい。要するに、何かのその人に関する事実を認めてほしいのだ。これが承認と言われる。

では、なぜ承認されたいのか?なぜSNSを通じてそんなに多くの人にアピールして承認がほしいか?

それは、自我を安定させるため。自分の物語を安定させるためだ。 人は動物と違って、物語を作って言語的に世界に適応している。だから、物語を保つことが死活問題なのだ。幻想を保つのだ。それは自分ひとりで信じていても、すぐ崩れてしまう。なぜなら人間社会で人と交わればすぐにボロが出るから。人望のある人間だと自分で信じていても、実際に人から承認されるには一定の実績の積み重ねが必要だ。そういう状況では、一人でも多くの人から承認が助けになる。一人より二人、三人、多くの人が「いいね」を押せばそれはあなたの物語を承認してくれたのだ。

人は自分の物語を保ちたい。だから承認が欲しいのだ。これは何も卑しいことではない。そういう動物なのだ。この構造については別途他の記事で詳しく説明しているので見て欲しい。  

ただ、自我が安定していないのはこの社会では未成熟、ダメなやつと見られやすい。自我が安定しており、確固たる物語を生きている風のやつがよしとされる。そういう意味でSNSにつまらないことばかり投稿していると、(上述の理論を知っているわけではなくても)浅ましいやつだと感づくだろう。 

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