記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)意識ファースト!意識がよければ何でもOK。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※基本殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: デイリーライフ

最近、表題の件、そういう感じだ。

昔はメタ的に何ごとも見てかなり仏教徒並の寛容な心が軸にあったが、ここ数年、特に最近は自覚的に脱メタ化している。つまり、物語への臨場感のUPだ。何のことか分からないのであればそれでいい。

要は反社会的な行動、そのようなガチの悪ではなく、日々愚痴を言ったり、或いはろくに仕事もしないでふらついたり、批評ばっかりしているようなやつとかがクソにみえる。もちろん、根は哲学的思考をしているので、彼らがそうなるのが社会的な問題だというのは理解しているが、一人の人間として接するのであれば、そいつらとはむしろ関わりたくない。

ネガティブな行為、行動、想像、言語化するやつとは関わりたくない。

もちろん、役割上そういうことが必要なところは除く。その見極めができないとだめよ。


今の時代はどういう流れの中にあるか。これまでは幼少期に形成された全知全能の自我を、人間社会で生きる中で、押し殺さなければならなかった。そしてめげずに頑張ったものだけが過去の自我から一貫性をもった安定した自我を築くことができる。今後、われわれの多くが一般的に自我を安定させることができる社会になる。


これは言い方を変えると、これまで人はその人に合わない型か合わないゲームで勝負させてこられた。人と違うことしてていい、何やってってもいいよやる気があれば、という社会になっていく。もちろん、やる気がなくても生きていられるようにしたいけど、やる気があればハッピーでいられるようにするのが先決。


お金で売ると一般的な尺度で判断されることになる。結局、ものを売るには<世界>に置くわけだから、全ての人が対象になる。でもその商品に価値を見出してくれる人に認知されるにはマーケティングコストがかかる。その人に「分かる」形で表現しなくてはいけないし、その人に届けないとだめだからだ。


以上、メモ。

「いいね」ボタンから「率直だね」ボタンへシフトする流れにある。

もちろん、表現としては「率直だね」とはならないが、「何がよいか」つまり「いいね」の内実は、率直に生きることになる。

人は無理しなくていい。人それぞれ気づいたらもうある習慣を身に着けてしまっていて、どんな良し悪しの基準を持つか、どんなときに嬉しいか、悲しいか、モチベーションを抱くかは人それぞれである。だから、集団で何かを同じ方向にする場合、誰かは必ず無理をすることになる。

自分自身あるがままでも受け入れられてさらに生存することもできるような社会に向かっていく。

人間は生物的な身体を持っている。その身体に基づいた感受性というものがある。言語能力だって、脳という物理的な制約がある。それにより”自然に”理解できる範囲というものがある。現代において、われわれは多くのことを言語を介して理解している。宇宙のこと、地球の裏側のこと、外国のこと、いや隣町のことでさえ、われわれは言語で理解した”つもり”になっている。でもそれは本当の理解ではない。本当の理解とは、そう、例えば家から出て駅まで歩くときのように、目の前に道があり、壁があり、信号があり、避けるべく通行人がいたり、こういうもの。そこに理解したという反省的な感覚はなく、既にそれは前提になっており行動によって前提とされているものである。それを真理と呼ぼう。現代の情報社会において、そのように行動の前提まで深くわれわれに身体化されている情報はどれだけあるのだろうか。最先端の技術を使ったわれわれの生活を安心安全便利快適にしてくれる商品、どれもこれも斬新に見える。それらは勉強すればその理屈は分かるかもしれない。でもそれは、行動に前提されるようなものではありえない。そう、真理ではない。それはわれわれの身体の感受性を超えている。現代において真理に到達するのは難しい。自分が本当に理解できることを軸に生きていけば真理へ辿り着く。

なぜ街に行きたくなるか。僕は昔から暇があると池袋の人混みを通り、そこそこ人のいるカフェで読書やぼーっとするのが好きだった。今もこうして新宿のカフェでぼーっとしている。

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こうやっていろんな人々がいるごちゃごちゃした都会が好きだ。上海にいるときもそうだった。

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なぜなのだろう。そこに生の本質を掴み取る契機があるのではないかと考えていた。

なぜ街に来てしまうのだろう。それが最近分かってきた。

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それは無根拠な生とう現事実を、人間という物語で忘れることができるからだ。いろんな見た目で色々な目的の人間が生きている。無根拠ながらそんなことは完全に忘却して自分の物語を生きる。各自それぞれが全く違うストーリーを持ち、それに没頭している。

街とは人間的なものだ。動物の世界にはない。人は何かの目的をもって街に来る。目的を探すという目的も含まれる。そこには人の「行為」の束がある。何かを意志して行う。申し開きできること。みんなが物語を生きている。

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そんな人々のいる、そんな人々が物語として作った街の中で見て、そして自分がその中にいることで無根拠の不安から逃れられるのかもしれない。

物語を作るのは欲望だ。こうした欲望の色が強ければ強いほどいい。池袋西口、新宿、上海。僕が好きな街はエロスに満ち溢れている。

ふと思ったことなのだが、

人と面と向かって直接コミュニケーションする

のと、

電話やスカイプなどで距離を超えて音声(+映像)ベースでコミュニケーションする

の本質的な違いは何か? 一般的には、音声がはっきり聞こえることと、ノンバーバルがはっきり見えるということだろうか。

もっと掘り下げよう。シュミレーションのしやすさだ。前者で重要なのは、相手に自分の声(やノンバーバルな表現)が「どのように聞こえるか」を的確にシュミレーションできる、ということではないか。言い換えると、相手の立場になって自分をよく見れる、ということ。自分の声や表現がよく伝わることよりも、 相手の立場に立って私とあなたのコミュニケーションを俯瞰できるからではないだろうか。自分がどう「受け取られるか」がシュミレーションしやすいのだ。
 
さらに場の予測可能性。対面のほうが予測可能性が高い。スカイプだと、相手がどういう状況か分からない。ネットが途切れるかもしれないし、相手の状況により急いだり切ったりしなければいけないような変化もありうる。直接対面していれば同じ環境なので同時に外的環境から影響を受けることになる。

まあ、よくわからないけど。
 

なぜfacebookやInstagramにしょっちゅうリア充写真を投稿している人を見ると「ムカつく」のか?自分の赤ちゃんの写真を毎日アップするもの、仕事での集いの写真をアップするもの、業界の重鎮との写真をアップするもの、昇進や褒められたことをいちいちアップするもの。

一般的には、「他人のことはどうだっていいじゃん」「それをうざがっている君自身に問題あるんじゃない?」などジェントルマンな返し来そうだが、深く考えてみたい。

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それは、一言で言えば「浅ましい人間に自分を重ね合わせる苛立ち」。或いは、「各自が自我の安定のために承認という椅子取りゲームをしているから」である。だから、限られた椅子にどんどん座ろうとする(=SNSに自分の物語を主張する)やつは自分の物語の安定を邪魔するものとして「うざい」のである。

詳しく説明しよう。

まず、そもそも「なぜ、SNSにリア充自慢をするのか」?

前に書いた記事を引用する。

あなたの周りでもSNS中毒者がいないだろうか?

四六時中facebookやらtwitterやらwechatに写真や近況をアップしている輩。

彼らは何故そんなことをするのか?


一般的には、「それは人から承認されるためだ」と言われるだろう。例えば、子どもの写真を毎日アップする野郎は「おれは親になって子育てしているいいお父さん」ということをみんなにアピールしてそのような理解を促す。イケてる友達と写真をとってアップするのは、「おれはこんないい友達持っている」ということを認めてほしい。要するに、何かのその人に関する事実を認めてほしいのだ。これが承認と言われる。

では、なぜ承認されたいのか?なぜSNSを通じてそんなに多くの人にアピールして承認がほしいか?

それは、自我を安定させるため。自分の物語を安定させるためだ。 人は動物と違って、物語を作って言語的に世界に適応している。だから、物語を保つことが死活問題なのだ。幻想を保つのだ。それは自分ひとりで信じていても、すぐ崩れてしまう。なぜなら人間社会で人と交わればすぐにボロが出るから。人望のある人間だと自分で信じていても、実際に人から承認されるには一定の実績の積み重ねが必要だ。そういう状況では、一人でも多くの人から承認が助けになる。一人より二人、三人、多くの人が「いいね」を押せばそれはあなたの物語を承認してくれたのだ。

人は自分の物語を保ちたい。だから承認が欲しいのだ。これは何も卑しいことではない。そういう動物なのだ。  

人は、自我を安定させることを至上目的としているので、その安定のために人の承認が必要。SNSは手っ取り早く他者からの承認を得ることができる道具だ。同僚とみんなで楽しくわいわいしている写真をアップすれば「楽しく仕事をしてる良い人生」という物語を他者に共有し、「いいね」を貰えればそれが他者からも認められ、物語は強められる。自分はこの物語を生きているという確信が強まり、自我が安定し現実に密着する。

では何故、こうして横目で他人が自我=物語を安定させているところを見ると、ムカつくのか?

二つ考えられる。まずは、その人への憐れみの共感である。結局、SNS上での「いいね」承認は脆い。みんな適当に「いいね」しているので、物語は大して強化されない。物語は、直接的なリアルな人々との交流、深い語りの中での交わりで強化されるものなのである。にも関わらず安易にSNSで承認を求める浅はかな人間に、むなしいことだと分かっていてもそのように簡単に物語を固めたい自分を重ねて苛立ってしまうのであろう。

もう一つは、限られた承認の椅子取りゲームで厚かましく椅子をどんどん取っていく他者への憤りなのかもしれない。誰もが認められたと思っていても、人々が与える承認には限りがあると思われる。限られた椅子にどんどん座ろうとする(=SNSに自分の物語を主張する)やつは「自分の物語の安定」の機会奪い、邪魔するものとして「うざい」と感じてしまう。

というわけで、何故SNSのリア充自慢がうざいのかを考察してきた。しかし、この行為自体、その人にとっては合理的なものなのである。本当に自分の物語の中で重要なものであればSNSで共有し、直接は会えない人々にも知ってもらい自分の物語への確信を強めていくことは実存的に価値あることだ。

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