記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: デイリーライフ

僕はこのブログで松本人志について何度か書いている。僕は別に理想の人物、この人になりたいなあ、この人を目標にしたい!と思うような人物はいないが、定期的に見てしまったり、惹きつけられて、その人について知りたいと思うような人、といえば松本人志である。ごっつええ感じ、ガキの使い、ビジュアルバムなどはほとんど観たし、繰り返し観ている。

暇なときはよくガキ使を観ているが、偶然観ていた「ガキの使い きき緑茶」の一コマ。(以下に動画あり)

17:50からの「ええの?」のくだり
18:50「思てたほど違うこともないなぁ」

のところを取り上げたい。

何というのだろうか、なんの打算もない純粋な面白さを追求している感じがこの2つの笑いによく出ている。他の芸人だとどこか「仕事として笑わせなくてはいけない」とか「あの人のこう思われたい」とか何かそういう小さな打算が見えてしまう。松本にはそれがなく、純粋に面白く楽しい笑いを作りだそうとしている。というか、作っちゃっている、という感じ。

もちろんこれはこれで面白さを追求するという打算なのだが、それがなんというか広くみんなを笑わせるため、という感じなのだ。だから松本の笑いはたまにブラックであったり人を傷つけるように見えるが、根っこが「みんなが笑えること」だから嫌味がなく受け入れられる。本当にお笑いが好きでお笑いのことばかり考えたプロフェッショナルである。

NHKのドキュメンタリーで松本は、プロフェッショナルとは「素人に圧倒的な力の違いを見せつけること」だと言っていたが、それは四六時中笑いのことしか考えてない松本の笑いに対する気迫が感じられる。松本の人生観に、笑いがなければ人生面白くない。笑いが人生を意味あるものにする、というような直観があるのかもしれない。


 

ブスに生まれたらどうすればいいか」これは見かけによらず人類が直面する最も大きな問題の1つといえる。

被投性。
それは、われわれは気づいたら「私」としてこの世界を経験していたということ。ハイデガーもウィトゲンシュタインもその事実に驚愕している。全ての疑問はここに集約されるといってもよい。

われわれはある外見を持つ。もちろん、後天的な要素も多い。だが、遺伝子的にだいたいの作りは決まっているというのが現実だろう。また、静的なものではなく、外見は動きや表情なども綜合的に判断されるのでそういう意味では後天的要素も多い。

外見を他者がどのように評価するかは社会的なものである。江戸時代に描かれたふくよかな女性は現代ではあまり好まれない。また、歴史を辿れば何かしたらの魅力、たとえば生命力が強い、権力がある、経済的に富むなどの属性を持つものの外見が、よい外見となったのであろう。

こうしてみると、われわれは二つの被投性を持つ。まずは、私が持つ身体としての被投性。どのような固体になるかということ。そして二つ目は社会的な被投性。どのような外見が価値あるものとされるのかということ。同じふくよかで細めな女でも江戸社会と現代では評価が違う。

結局、機会の平等をいうのであればこのあたりも範疇にいれなければならない。かといっていわゆる美男美女になったらなったでそれにより能力や性格で不利になる可能性もある。例えば、ブスだと努力する傾向があるとか。そうすると一概にブスを救済して引き上げてあることは機会の平等ではない。そもそもどの判断基準で平等にすればいいかも決まってない。

ここではブスを取り上げたが、もちろん障害であったり社会的境遇なども所与な条件として同じ被投性である。被投性の問題をリベラルに考えると複雑になる。う〜ん、難しい問題である。 
 shiawase

宮台真司は社会学の入門書『14歳からの社会学』で<世界>と<社会>について以下のようなことを書いている。



<世界>という概念と<社会>という概念がある。<世界>というのは「ありとあらゆるものの全体」。それに対して<社会>は「コミュニケーション可能なものの全体」。今日では<社会>とは人間界のことだ。…部族段階の古い社会に生きる人々や、ハイハイしてなんでも口に入れる赤ん坊にとって、<社会>は人間界に限られない。<世界>がまるごと<社会>だ。あらゆるものとコミュニケーションできる。犬とも、猫とも、木とも、雲とも、お話ができる。
でも、時代が進んでいくについれ、あるいは、赤ん坊が成長していくにつれ、人は、<社会>の外にも<世界>が広がっていることに気づく。<世界>にはコミュニケーションできないものがあるのを知る。コミュニケーションできるのは人間だけだと知る。
<社会>の中では「承認」が問題になる。<世界>の中では「承認」どころかアリンコみたいな存在だ。「承認」を気にしている自分など 、とてもとても小さい。

宮台の理解と若干ことなるが、私なりに解釈したい。

社会とは要は「言語」の世界である。つまり、一般性をもった概念(言語)を通じて世界と接している。言語で分り切れないものは、存在しないに等しい。でも、<世界>という連続体のカオスは想定できる。もちろん、社会的な人間は言語を使うことで、その<世界>が背理的に出てくるのだが。

さて、いきなりだが、メジャーリーグのイチローは凄い。
いやそこまでいかなくてもどんな分野でもその分野で豊富な経験を持ち実績を出している人は凄い。こういう人は、言語的思考をしなくても無意識に何かをできる。もちろん少しは言語的思考が入るだろうが、熟練するほど無意識になる。要は、チクセントミハイのいうフロー体験。

フロー体験とは、要するに<世界>に接している状態なのだ。言語的思考のタガが外れ、<世界>に向き合う。

もちろん、イチローといえども、そのような状態は極限られた時間である。でも、そういう体験を何度もしてるはず。それこそ、生命の本能的な在り方。もちろん、良い悪いの話ではないが、人間は言語を持ち一般性を通じた言分けられる社会としか接しなくなった。でも、原理的にはやっぱり<世界>ありきで、動物や植物はそこに生きている。人間もそっちが原初的自然である。

<世界>を知る人間は、<社会>で幸せな人が多い。なぜなら、言葉の世界を信頼していないから。それを包括するもっとありありしたありのままの<世界>を知っているから。われわれはその存在に確信を得たとき、言語の世界に過剰反応しなくなり、のほほんと気楽に生きていける。言語で理解してもだめだ。無意識に何かができるくらいの熟練が必要。座禅で目指すのもそういう<世界>だ。 
 fs

哲学者の千葉雅也氏がツイッターで「友人と会ったとき、この人と話してよかったと相手に思わせるための方法」として2つ紹介していた。
 
1 相手に話をよく聞いてもらえたという感じを与える。そのために、相手の話を適度に言い直しながら話す。
2 何かを断言してあげること。極論すれば何を断言してもいい。

であるという。

これは一つの観点として妥当であると思うが、私としては一つ疑問がある。 それは、「なぜ相手を立てなければならないのか?」ということ。哲学者であれば、最終的に自分の実存に紐付けて意見してほしい。要は、相手をいい気分にすることは引いては私のためにもなる、ということだ。

仮に相手の言っていることが、自慢ばっかりだとか、意見に同意できなかったり、極端な場合自分を誹謗中傷するものであった場合でも、そいつを言い負かしたり意見を変えさせようとするのはよくない。それだとお互い不満がつのりLOSEーLOSE状態で解散となってしまう。極端なクソが相手ならうまいこと縁を切ればいいが、そうでない場合、相手が多少うざくても関係を継続しておくべきである。

なぜか?

やっぱり人と交流することは必要だ。なぜなら、人間とは他人に自我を認めてもらう必要があるから。人は世界内存在という根本形式により生を体験しているが、それは他者と共に生きることを不可欠とする。人と交わり、人に自分を認めさせ、自分も人を認める中でこの在り方が支えられる。だから、相手といい関係を保つことは重要。

そしてさらに、これに私はは三つ目として、「相手の感受性を把握する」ということも付け加えたい。 言い換えると、「どのような物語を望んでいて、今どういう物語を受け入れているのか」ということ。

その人がどういう人なのかを理解することはその人と良好関係を維持する上で重要なことだ。

感受性とは何か?そもそも人間はどういう存在なのか?

人は、突き詰めれば各個体の生存と、種の繁栄のために生きている。だからどんな行為もそのベクトルに起源を持つ。でも、それをいったら個人の差がなくなってしまう。しかし、人は生まれてから各個人固有の体験をしていき、そのベクトルを編み変えていき独自の「感受性」を築いていく。そしてあらゆる体験はその感受性に従って実存に影響する。それゆえ、実存における最も重要な価値は各個人で異なる。

  1. 自分自身のために生きている
  2. 自分の好きな一人のために生きる
  3. 自分の好きな少人数の人々のために生きる
  4. 自分の好きな大人数の人々のために生きる
  5. 社会のために生きる

大きく分けると人は大体このどれかに価値を置きながら生きている。もちろん、意識的にはではなく、感受性が無意識の中で反応する。どこのためになったかで、自分の幸不幸が決まる。自分のためになったと確信できれば、第一類の人はハッピーだろう。

これは、別の観点から見ると、どのような自我を持っているか、ということ。つまり、世界内存在において自分はどんな物語に位置づけたいのか、そして、現実はどのような物語を受け入れているのか、ということ。「私はスポーツ選手になって世界で活躍したい」と考えていても現実でそうでない場合は、そのギャップに苦しむことになる。人は理想を下げるか、現実を変えていくかしかない。そして現実を変えるというのは他者にそう理解させるということ。

誰かとコミュニケーションを取るなら、その人の感受性がどのようなものか、そしてどんな物語に自我を位置づけているのかを理解すれば一緒に何かやったり関係を良好に保つために使える。
 kdukai

僕はある時期、週に1回ほど「油麺にこにこ」に通っていた。場所は早稲田大学にほぼ隣接している。都電荒川線の早稲田駅から徒歩3分。東京メトロ東西線の早稲田駅からなら10分程度。

ここでの油麺を食べる時間は、僕にとって、ある一つの体験なのである。ただ食べるのではなく、一つのエンターテイメントとしての時間が楽しめる。

それが「体験」であることは、ふとしたきっかけで気づいた。

少し経緯を書くと、
基本的には、「油麺」か「にこにこ」の2種類の油麺がある。
前者はシンプルな油麺で、後者はマヨネーズなどプラスαがちょっとある。

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これは「油麺」の写真である。左に漬物と右にコンソメスープがあるが、これが油麺を食すときに輝かしい体験を演出する。この組み合わせを考えた店主(以下、親父)に座布団三枚あげたい。

さて、
僕はある日いつものように油麺を食べていたところ、途中で漬物がないことに気づいた。親父に一言いうと、親父はすかさず漬物を提供してくれたのだが、そのときの一言が今でも忘れられない。


「もう終わっちゃった?」



な、なに!?
なんといった?

僕は自分の耳を疑った。

普通、同じ意味を表わすなら「もう食べ終わった?」「まだ残っている?」などと聞くのが普通だ。しかし、親父は違った。

親父はこの油麺の食を、完全に「一つの体験」として、エンターテイメントとして提供しているのだ。それに気づいてしまったのだ。僕は。だから、その体験が「もう終わっちゃった?」、なのだ。

そう、これはただの栄養補給でも団欒の場でもなく、娯楽としての体験。

店主の趣味のヘビメタかなんかよくわからないが、クラブでかかっていそうな音楽がミスマッチで逆にいい。 

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まずは、お酢を3周ほどかけ、ラー油を2周かける。
下のにんにくや醤油風味のタレと全体をかき混ぜる。細かく混ぜないと全体に行き渡らずムラができてしまう。

準備ができたら一気に食う。

4分の1程度くったら漬物とスープ。毎クォーターにこれを行う。
まだまだ続く体験に興奮は冷めない。

半分くらいになれば、酢を足す。

また混ぜる。

そしてラストのクォーターになる頃にはこのエンターテイメントの終焉に思いが到り少しさびしくなる。

最後は、どんぶりが空になる。

親父を呼んで650円を支払う。

いい体験であった。

今日も生き抜こう。 

ウーマンラッシュアワー村本大輔はその歯に衣着せない物言いでズバリ本質を突き、最近よく知識人や経済界との交流している。「土曜The NIGHT」で社会学者の宮台真司にも本質を突く質問をいくつもぶつけていた。今日はその中でも、「なぜ本を読む必要があるのか」ということについて考えたい。宮台もこの問いに答えてはいたが、村本が根本的に知りたかったことには答えていない。

以下の動画の1:08:50あたり。



村本は繰り返し、
  • なぜ本を読むといいのか?
  • 読んだあとどうなるのか?
  • 読む必要はあるのか?

などと、「本を読むとどんないいことがあるのか」について質問している。ここを理解できていないから彼は本を読まないようだ。

しかし、これは至極的を得た質問である。たしかに本を読んで何になるんだろうか。普通の人は、読む体験を一つの娯楽的な体験として読むとか、知識を増やすとか、普段の生活や仕事に役立てる、程度の目的意識しかないのではないか。

宮台は「昔は面白いと思ったけど、今は大して面白くないと思ったりして、成長を確認できる。」と答えているが、これもあまり深い答えではない。(そこまで深く答えようとしていないようではあるが)

私がこの「本を読むとどんないいことがあるのか」という問い答えてみる。

一言で答えるなら、「世界と自己との関係を自己了解するため」といえるだろう。

われわれ人間は、「言語的に」世界を把握している。「私」という人間が「机」や「椅子」「ビル」「友達」「食べ物」などと関わりながらそれらの集合である「世界」という舞台に生きている。こうした漠然としているが常に、普段の生活の土台となっている前提は「言語的」なものだ。動物は言語を持たないからただひたすらに「いま、ここ」の刺激に反応して生きているだけ。

こうした「世界」は「言語」によって開示される。それは人間により恣意的に構成された「言語による世界」である。

しかし、われわれが普段経験している「いま、ここ」は、そうした「言語による世界」の極わずかな一部である。目の前に「民主主義」「ドナルド・トランプ」「中央銀行」「資本主義経済」は見えない。でもそうした概念(言語)により組み立てられた世界を通して「いま、ここ」を了解している。

人間は常に、「世界と自己」について「自己了解」しながら生きている。そしてそれは、「言語的」に、である。

では、本題の読書とは何か?読書とは、そうした「言語で組み立てられた世界とさらにその中で生きる自己」について自己了解を深めるものだ、といえるのではないか。自己了解がなければ、人間は生きていけない。なぜなら、人間は動物と違って世界を言語的に理解して行動しているからだ。世界や自己が何なのか分からなければ、今何をすればいいのか、理解できず行動が取れないで死んでしまう。

では、村本も言うように、彼のように「本を読まないでも成功している人がいる」のは何故か?それは、彼は多くの直接経験を通じて世界を理解しているからだ(もちろんこれも言語的にである)。本などテキスト経由の間接体験ではなく、実際の空間において人と接し交流することで、現実を了解する。本ばかり読んでいるような人もこうした直接経験がもちろん土台にある。要は程度の問題だ。直接経験は世界理解に必要十分条件だが、読書などの間接経験はそうではない。ただ、複雑な人間社会を理解するには助けになる。

本を読むことは、人間が言語的に世界を理解する上で助けになる。直接経験だけでは、現代のような複雑社会で多くの人を巻き込んで何か行うのは難しい。もちろん、本など一切読まずに直接経験だけの世界で生きることもできるが、人を多数動員するようなことはできない。

「マル激放送800回記念トークライブ」から「言語の暴走」についてまとめたい。ここではある意味「言語の本質」について述べられている。最後にyoutubeがあるので40分過ぎあたりのところからこの話をしているので要チェック。

人類が言語を獲得したのが、4万年前。定住が1万年前、文字言語は3000年。初期の言語は歌に近かった。悲しい歌を聴けば悲しくなるし、楽しい歌を聴けば楽しくなる。そういう文脈に密接した言語がもともとの在り方。

しかし、われわれが今使っている概念言語は、文脈を捨象している。 ストリーミングだった歌をぶつ切りにした。悲しいという文字を見ても悲しくないし、楽しいという文字を見ても楽しくない。概念言語は目の前のありありとした「いま、ここ」を切り捨て、暴走する。そして文明は滅びる。だから、宇宙に無数に存在する生命体は出会うことはない。遠くにいすぎるのではなく、文明が短かすぎるのだ。

もっと昔の社会ではこの危険性を理解していた。概念言語が暴走してしまわないよう、コンテクストの中で言語を使う。ありありとした「いま、ここ」を保とうと努力するのだ。踊りとか祭りとかと表裏一体の形で言葉を使えば、他人を思いやり共同体のために生きることを身にしみて理解できる。概念言語だけの理解では行動に結びつかない。

言語は文脈を削除する。文脈から自由な言語は暴走する。大規模な定住社会の文明は言語によって支えられている。税金取られるのも社会貢献するのも、社会契約論なり何かしらの論理によって行われる。知らない人を仲間だと思うのは無理。有事のときは言語で理解した関係など役に立たない。

この図式はラカン的だ。ラカンの概念系をルーマンを用いて確認する。我々には<世界>(現実界)は直接与えられない。与えられるのは<世界体験>(想像界)に過ぎない。但し言語(うたと区別された概念言語)を獲得して以降、我々の<世界体験>は言語プログラム(象徴界)に媒介されている。 

宮台曰く、
「社会は概念言語だけでできていない。その外側に音楽や歌もある。概念言語は部分を問題にできるだけ。でも、音楽では世界のムードやモードがすべて一瞬に変わるということが起こる。概念言語ではないものに開かれた態度で生きることと、超越への感受性には親和性がある。言語外の部分でつながって言語を使う、という経験に乏しいやつらが、言語だけで物事が解決できると思い込んで社会を生き始める。そうすると性的な忌避が起こるし、退却が起こるのも当然」。

言語化されるまえのありありとした世界がわわれの生きる<世界>である。誰もがもう一度、言語の本質を見直すべきではないだろうか。

 

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