記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: デイリーライフ

先日とある知人山田(仮)に語った自分の考えについて、以下、対話形式でまとめた直した。

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山田
あなたは何をしてきて、今、何をしているんですか?



ずっと自分で事業をしたいと思ってました。とは言え、起業家という狭い概念ではなく、ビジネスに限らずアートやスポーツ、NPOや政治など、分野は問わず自分で今まで「世界になかった新しいこと」をしたいと思ってました。当初はそんな強い思いではないけどだんだん軸になってきた感じです。

学部のときシリコンバレーの近くに留学したり、大学に入ってインターネット企業系のスタートアップが流行っていたので影響を受けたと思います。知人に薦められて読んだ『The world is flat』という本でインターネットが世界を変えていくのが面白い、自分もこの分野で何かしたいと思ってました。表面的にはいろんな活動をしていますが、基本的にはその流れで勉強や仕事などして今に至ってます。

フラット化する世界 [増補改訂版] (上)
トーマス フリードマン
日本経済新聞出版社
2008-01-19

フラット化する世界 [増補改訂版] (下)
トーマス フリードマン
日本経済新聞出版社
2008-01-19



山田
社会にインパクトを与えたい的な感じですかね?


単純に言うと、そうかもしれません。ずっと「世の中になかったような新しいものを創る」という曖昧なものにコミットしてきました。というのも、シリコンバレーにしても世界各地で次々生まれてくる「創造的破壊的革新と世間で言われているサービス」が全く面白くなかったのです。どれもこれも安全、安心、便利、快適の延長でしかない。この方向にひたすら進むだけなのか?何か人間の本質を捉えてないなってずっと思ってました。だから自分が「これこそ人に幸せや快楽をもたらすものだ!」というものを「プロダクト」的な視点でずっと考えてきました。

山田
それでそのような本質的な幸せや快楽を与えるプロダクトは見つかりましたか?



結局それは「価値」とは何かという話になります。それを探究するために人間や世界についても考えてきました。どうせ生きているなら凄いことをしたいというのが根にあって、だったら価値あることしないとダメで、じゃあ価値って何?っていう流れです。暫く探究してきましたが、その自分の「問い」自体が間違っていたと分かった。人間や世界はそもそもそういうものではない、と。

山田
そのような凄いことをしたい、価値あるプロダクトを創ろうと思っていた根底的な問題意識はなんですか?

根本の問題意識というと、もちろん、「安定した生活基盤を築きたい」「モテたい」「ゲームを楽しみたい」など自分の幸せや快楽状態を高め、継続するという人間としての当たり前の動機だと思います。

具体的な契機でいえば、一般的に社会では「常に自分を高める」「一秒も無駄にしないで仕事する」「挨拶をしなくてはいけない」「愛想をよくしないとだめ」「人によくしないとだめ」とかいう主張が前提にしている「善悪の規準とか価値観」に疑問がありました。もちろん、みんなそれに従っていて、そのとおりにすれば評価されているのは理解していますが、なぜそれに従う必要があるのか。ずっと考えてました。

もちろん、人間は狩猟採集時代から原始共同体を作り社会が発展してきたので、価値体系が複雑に発展し、社会の規範が出来上がり、先のような主張が出来てくるというのは誰でも分かることです。が、僕はもっと深くそれを知りたかった。もっというと、そういう主張に従わないでも社会から評価されたり、幸せな生活を送れる方法はないのか、と考えていました。

それは突き詰めていくと、結局、存在とは何か、なぜ何もないのではなく何かがあるのか?というハイデガーのような根本的な存在を問う存在論につながります。なぜ、僕の意識があるのか、この「いま、ここ」があるのかに答えないとそもそも価値論すら始まらない。

それで後で詳しく述べると思いますが、やはり結局こうして存在論の領域に入っていって暫く考えると、既述のこれらのベタなルールに従っていかないとだめ。いきなり言われても分からないと思いますが、要は誰もが分かる物語的に生きないとだめだという結論になりました。一周した感じですね。

山田
なるほど、かなり深い問題意識ですね。では、そもそも何か新しいものを作りたいという動機自体も変わったのですか?


ああ、それも詳しく僕の今の世界の見取り図を説明してから述べますが、結論だけいうと変わっていませんね。むしろ意図的にでも強くそっちの方向に行こうと思います。
 

山田
おーなんか興味深いですね、よく分かりませんが。世界の見取り図ってことですが、これはあなたの考えている世界の根本的な構造ということだと思いますが、それが
そんな机上の学びで分かるものなんですか?


その不安は僕もたしかにあったが、実際いろんな本を読み、今かなり掴めたと思う。本だけでなく人とあったりこれまでの経験が生きているのかもしれないですけど。

山田
では人間や世界について何が分かったんですか?




まず、スタート地点として、先も少し述べましたが、自己分析するとまずいちばん根底には、「自分が幸せになりたい」ってことがある。これは誰でも同じでしょう。ではその幸せって何かというと、自分の実存、主観的な「いま、ここ」というそれを「よい」ものにしたい、ということ。

山田
はあ、なるほど。今の主観的な生を最高状態にしたいってことですね?結局他人どうこうじゃなくて、というか他人どうこうと利他的なことも含めて、最終的に利己的な主観が良い状態にあればいいと。



そういうことです。だって日本をよくする、社会をよくする、家族のためって言ってもやっぱりそれは最終目標にはならないですよね。それは最終的にはそれにより快不快、幸福などの感情を抱く個人の実存に還元される。だって自分の実存が苦痛だったり、ちょっとしか楽しくなかったらいやでしょう。

山田
なるほどですね。それって基本的にはみんなそうなのではないですか?



はい、もちろん、そうです。みんな自覚無自覚を問わず、結局は自分の実存をよくしたいと思っている。自分という人間の生をよりよいものにしたい、と。家族や恋人や友達のためだと思っても突き詰めればそれを意図している本人の実存である。もっとも深く言えばハイデガーの現存在。

山田
なんですか現存在って?



要は、今あなたは「いま、ここ」の流れ行く体験をしていますね。それを体験している基体として自我を想定していると思いますが、実際そんなもの(自我)は確証できない。僕らが確実に言えるのは、この主観的な実存的「いま、ここ」の流れ。でもこれを指示するのは難しい。「主観」とか「今」とか「ここ」っていうのが既にいろんな社会的な前提を含んでいる。現存在というのは、できるだけそういう手垢にまみれた語を避けてクリーンにこの「現」に広がっている「存在」を指示しようとしたもの。人とか世界とか何も想定しないで。
ということで、実存をよくするためには、その実存(現存在)の構造をはっきりさせないとだめ。

山田
なるほど、深いですね。ではその現存在=実存はどういう構造なんですか?



動物との比較で言います。動物は外からの刺激に対して一義的に反応することで《世界》に適合している。これを本能的という。一方、人間は本能が機能していない。いい意味でも悪い意味でもなく。これは証明できないが、まあそう考えてください。人間は身分け構造として本能的に生きるわけではなく、言語の世界である言分け構造を生きる。言い方を変えれば物語を作って《世界》に適合しているのだ。それによっていいことも悪いこともある。

そもそも人間が対峙している《世界》はカオスだから、それにパターンという言語を被せて秩序を保っているのが奇跡。その超複雑なカオスからパターンを見出して、自分の中で世界を組み立てる。そして自分をその世界の中で位置づける、つまり「物語」を作るということ。

だから、その物語に何か最終ゴールみたいにはないし、ただ、「現実(カオス)に適応する」ためなのだ。

僕らは「◯◯会社のサラリーマン」「どこどこの学生」という物語なしに日々の行動を取ることはできない。もしそうした記憶がなくなれば、僕らは衣食住から離されてすぐに死んでしまうだろう。もちろん、友人や家族など物語を持って生きている人がサポートしているかもしれないけど。 

強いていえば物語を保つことが目的。

これは生物学的にも支持できるでしょう。言語的に世界を捉えるにはそうした語を記憶しなければいけませんが、それはシンボルの連鎖、連合として1つの世界に生きる僕という形=世界像で何とか保持されます。これがさらに時間軸により物語化して定着する。なぜか?もっとも資源を節約して世界に対峙するやり方が「物語」なのです。

といってもこの世界像にしろ物語にしろ普通にイメージするような綺麗に整ったものではなく、ぐちゃぐちゃで継ぎ接ぎでちゃんとした構造もないのが普通です。どの語がどの語と連合するかなどわれわれは分かりません。意図的に物語を強化しないと、よりぐちゃぐちゃになり、一本の線を軸とした形が崩壊します。こうなると、生きている意味がよく掴めなくなります。

山田
なるほどですね。そこから何が言えますか?


だから、もし今の生に何か問題があるなら、なにかこう「抜本的な解決」は望まないほうがいい。(まあ、実は普通の人はそんなもの望まず早い段階でつまらない世の中を受け入れていしまってるんですけどね(笑))何か満たされないようなもやもやはあって当然、というのをまず受け入れないとだめ。

そしてその虚しさを受け入れた上で、自分の過去を分析し、それをもとに、じゃあどういう未来を作っていくかという考え方にしたほうがいい。物語にそって生きていれば楽しくなる。そして実は、それはあなたがもともと探していたもの以上かもしれない。

山田
なるほど、その生の限界を認めなさい、ってことですね?



そうです。

「何か自分が常に楽しめる理想的なものがある」と想定してそれを探し回る。そして、探し回っている間はいつも満たされていない感じが続く、みたいな状態に陥ってはなりません。

これはだめ。

そんなものないのです!僕らの生はそのような構造になっていない。
そういうもんじゃないんだ。

山田
なるほど。たしかに言われてみればそうかもしれないと思いますが、ただのフィクションに過ぎませんか?実証されているわけでもないし。


たしかに、いきなりそれを言われればそう思うのが自然でしょう。それに答える前に、一度現象学という方法を導入したいと思います。

山田
なんですかそれは?


デカルトという哲学者は、方法的にあらゆるものを疑い続け確実といえる根拠を見出そうとした。そして最終的には今何かを見たり感じているものは本当のものか確定できないが、今自分がそういう意識状態があること自体は疑えない、とした。フッサールはさらにそれを推し進め、そのような疑えない意識状態(内在)から超越(疑える何かしらの判断や認識)が生まれている構造を明らかにしました。

僕らは内在としての意識経験からいろいろな超越的(確かめのない)な認識を得え世界像を組み立てていく。この構造は自分でも試して理解できると思います。例えば、内在的にはサイコロの手前の三面しか見えていないのにそれが立方体としての超越的な認識を導いている。こうして、いろいろな経験の中で疑いが晴れない世界像が複雑化し組み上げられる。先程述べた原始共同体から価値観が編み上げられ社会規範が出来たとかいうのもただの確信に過ぎない超越です。

内在的な経験で常に世界像は変わっていく、というのは誰もが認めざるをえないでしょう。

これを推し進めていくと、僕らは言語的に世界を見ていることも認めざるをえない。五感で感じるあらゆるものは言語化できるはずです。できないものもあるでしょうが、それはないも等しい。伝達できたものだけが他者と共有され、大人数で整合性が取れてくると社会的な共同幻想となる。ミッシェル・フーコーも言った通り、「人間」という観念もただの超越に過ぎません。僕らの物の見方は既に沢山の社会や歴史の影響を被っているのです。内在だけに集中すれば、「人間」「社会」のようなあらゆる言語的なものが全く確実に見い出せないことが分かるはずです。

ここからは全て超越的なことですが、理詰めでこの構造をしっかり理解し、自分の経験と照らし合わせて反省しながら理解し腑に落とせます。確信を強める。

構造を説明しましょう。

僕らは最初は全知全能から始まる。子宮の中ではすべてが満たされる楽園。生まれてからも母親がすぐにあらゆることを満たしてくれる。そこから徐々に母親との間に邪魔者が入ることを学ぶ。その後、言語を学ぶ中でシンボル体系を築いていき、世界内存在している自我を持つ。自己意識です。世界の中に存在する自分、という視点で物事を見るようになる。

あなたは親から「おまえはこれこれという人間だ」と自我を与えられる。最初はかわいがられるので、なんかいえばすぐに満たされるという物語を持つ。これが今後の物語の軸になる。玉ねぎの一番内側の殻。時間が立つとどんどん自立していかなければならないが、それでもやはり最初の自我(物語)が軸にあるので自己放棄他人依存、自己拡大のベクトル(傾向)がある。その後もどんどん新しい物語が上書きされる。上書きは、他人と直接に交流する中で、リアリティが高められ定着していく。自分だけでこういう物語を生きていると独りよがりで空想しても定着しない。そして過去に定着したものであるほど軸となる。
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山田
なるほど、たしかに一貫性がある説明ですね。ただこれは実証されているんですか?神話や宗教と同じでは?



さきほど述べた通り、もちろんこれも超越でなので内在的な確実性は持ちえません。ただ、実証というのも同じくただの確信に過ぎません。何回か繰り返して目視で確認した、というレベル。この今説明したことは、説明したように自分の意識の在り方を内省すれば確信できると思います。少なくとも、本で読んだ科学的な世界像よりかは、自分の意識状態や過去を徹底的に考えればたどり着ける世界像だと思います。
そういう意味であなたが普段信じているような科学的、客観的と言われるものより深いものです。もちろん、これも超越的な世界像のone of themなのは否めませんよ。ただ、内在から出発して確実に近いところを辿っていくとこう考えざるを得ないので、ちゃんと考え抜けば科学の世界観より誰にとっても確実なものとなるでしょう。

山田
なるほど、哲学や思想のほうではどう言われてます?


はっきり同じことを言っているのはフロイト研究者の岸田秀さんですね。人間は本能が壊れているから自我を持つことで現実に適応していると。ただ、彼は「物語」という発想には無自覚ですし、なぜそうなっていることについては沈黙的です。あとは、フッサール、ハイデガーもそういう風に読むことも可能。

廣松渉の循環図式なんかも似たようなことです。人は自由に振る舞うほど、共同性が溢れ出る。現象学的な意味での志向性が現実構成をもたらし、この現実構成をベースに様々な実践的価値意識が抱かれ、現実構成と価値意識をベースに協働聯関が構成され、この協働聯関をベースにハイデガー的な用在性を介して志向性がもたらされる。この構造は自我を保つ(=物語を保つ)といえる。

フッサールに言わせれば、そもそも、言語的(にシンボル体系としての)世界を物語の中で「経験」 しないと「意味」を感じることができない。「意味」とは物語にどう位置づけられるかという実存的視点です。動物などはそういうのがほとんどないのでただ体験流があるだけで自分を意識する自己意識がない。AI研究者の松尾豊さんが言ってましたが、意識とは「世界をシミュレーションすること」と言ってます。世界の中に自分を位置づけそれを上から見ている構造の中で意識が生まれる。
 
山田
なるほど、ある程度共通の見取り図に収束している感じですかね?



そういっていいと思います。

結局、ハイデガーにしろデリダにしろ、問題意識は同じです。この言語的な世界から抜け出して過去に想定される一元的で動物的で本能的な世界にたどり着こうとするのがハイデガーで、その不可能性を強調するのがデリダと言えるでしょう。すでに僕が述べた超越的な見取図にしろ全ての文章が言語という社会的、歴史的なもののくぐって身につけた記号、一般性です。これを使って思考する限りそれのない一元的な世界には戻れない。でも、過去のプラトン以前などの状態を探っていけばある程度接近することはできるかもしれない。そこについてはまだまだ議論の余地があるでしょう。

結局今いった構造的な見取り図も超越に過ぎないのですが、ただ、疑いようのない内在からスタートして考えているので最も揺らぎにくい見取り図ということは間違いないです。普段はこんな構造なんて意識していません。僕だって日々、人から褒められたら嬉しいしけなされたらムカつくというゲームの中を物語を作って生きています。だからこの見取り図には特権はないです。暫定的に自分の生を見直すことができる見取り図、ってところです。 

山田
なるほど、たしかに人は物語を生きている、というのは内在から超越が生まれるという構造ほど確信を持てませんね。はっきり言ってしまえば、ただの一つの世界観ということですね。ただ、実存の構造を突き詰めていけばそう考えざるを得ないという意味で他の見取図よりも揺さぶりに強度があるといえそうですね。ではその超越的な見取り図を根っこから理解できてその見取り図にコミットできたらどうなるんですか?


こうなってくると、どう生きるべきか分かってくるでしょう。現存在をコントロールしやすくなる。僕は最近、どんなことでも楽しもうとするマイルドヤンキー的なギャルを尊敬してしまう。まさに宮台の言う終わりなき日常を生きている。無理しないで目の前を楽しむという物語。もちろん、物語を安定させるには、資本主義社会という物語である程度安定できる物語がよい。フリーターなどその日暮らしでは生活そのものが厳しいとそもそも自我は安定しない。
 
山田
なるほどですね。


よく「成功の掟」とかそういう自己啓発系の本を読むと必ず大きな夢を持つべきだとか、それをイメージしろって書いてありますよね。それって正しいんだけど、僕の場合、なんで正しいのか無根拠じゃないか、と思ってずっと馬鹿にしてました。でも、要はそうやって「夢を持って筋の通った物語を持つこと」が人間には必要だと悟りました。だってそれがないと現実に適応できないんですから。意図的に、無理にでも確固とした物語を生きる!これが必要なのです。 

先の質問に戻りますと、
「人は物語的に生き、現実に適応しているので、物語の維持が最も重要な課題」 
という世界の見取り図に僕は行き着いた訳です。
もちろん、これも世界像であるから超越なんですね。幾つか飛躍もあると感じる人もいるかもしれません。 

山田
ふむふむ。ではこのような原理的な見取り図を得た今、あなたはどう変わりましたか?最初は「価値あるサービス」の探究だったと思いますが。


やっぱり、生きていく上でモヤモヤが大分減りましたね。世界ってある部分は絶対に分からないけど、その他はこういう構造だったのか、という見取り図を得ましたから。まあそれも超越で覆る可能性はありますけど。僕はとりあえず、この世界像を基にゲーム(自分の物語)を楽しみたいと思います。

最初の質問に戻ると、ある意味僕は「人を幸せにするサービス」を求めてこの世界像に行き着いたわけですが、僕も漏れなくこの世界像の中にいます。僕も物語を生きているのです。だからやっぱり「現存在をよくするものは何か」を探してきて、今この見取り図によりそれが分かったのだから、それをやると思います。一般人に向けて、本当に価値あることを提供したいです。もちろん、それは究極的に現存在のためです。

山田
では一般的に人に生き方についてどのようにアドバイスしますか?

まずは自分の過去を振り返り、そこから確信を持てる未来を創っていこう、といいたいです。これまで田舎でほそぼそと生きてきたのに、いきなり東京に出てきて大企業で働く、というような物語はあまり一貫性がないですよね。ちゃんと過去を振り返って自分がやってきたこと、楽しかったことをベースに何をやるかを考えて道を選べばいい。そうすればどんどん一貫性のある物語が安定してくる。逆に、こういうふうに考えて選んだ道が、さっきの田舎の例のような一見一貫性がなくても物語として成り立つならそれでいい。
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山田
なるほど、分かりやすいですね。要は就職活動のときの自己分析みたいなものですね?


はい、まさにそういう感じですね。ただ就職活動の学生はやっぱり働くことについてや業界についての知識も本で読んだりした程度だからあまり分からないでしょうね。逆に学生時代インターンとかして働いていた人はどういうところに進みたいか物語に確信をもちやすい。だから、大学生のときに自己分析しても「これだ!」と思える道が見えないのは当然。そもそも僕らは無理やりに言語的な世界(物語)を生きようとしているわけですから。


山田
なるほどですね。そうやって多くの人が自分の物語に確信を持てるようになればいいわけですね。物語を持てないと不幸になる?


そうだと思います。例えば、社会問題を起こす人。犯罪者の多くは周り人たちの人間関係が安定していない。良好な人間関係を築けていない。これはよく「承認の欠乏」とか言われますが、要は物語というのは他人が認めてくれないと確信できないのです。僕らの現実のすべては間主観的に作られています。他人がそれをそう見ているから僕もそう見る、ということ。

あらゆる言語はそのように出来ています。自我という物語も他人に認められて初めて物語で現実に適応できる。おれはこういうすごい人間だ!と思っていても、誰からもそれにあった反応をリアルな世界で得られなければ確信もてないですよね。逆にたとえいじられキャラだろうと物語が安定していればそれでいい。もちろん人は幼少期に全知全能の物語を軸に持っているからそれに回帰したいという衝動はずっと残るから、満たされない感はずっと残ります。万人の万人に対する戦いを防ぐにはそれしかない。

ハーバード大学が75年に及ぶ研究で、幸せな人に共通する条件を抽出しました。それは「周囲の人々との良好関係」です。周りの人があなたのあり方を認めて(接して)くれる環境に身をおいていれば、自分の物語が確証でき、現実へ適応できる。それは金持ちだったりスーパスターだったりする必要はなく、リアルな身近な人間に認められていればいいのです。

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山田
なるほどっすね、


あと、「本音で語りあえる友達の大切さ」というベタな物言いの基礎づけにもなる。やっぱり語れる友達より大切なものはないんです。こんなどっかの高校教師がいうようなこと古いとか何の根拠があるんだ、と反論したくなることもありますが、実はマジで大事なのです。そんなもんいらねえじゃすまない根本的な問題です。彼らと語り、物語が強化され自我が安定する。そうすれば世界がはっきりと彩られます。

山田
なるほどっすね、やはり実際にあって面と向かって話すことは大事なんですね。


そうです。よく、できる仕事マンぶって「意味もなく人と会おうとするような暇人や馬鹿には会わん!」って言う人いますが、本質を捉えていない。人は語りあうことで物語を強化するんだから、会って現状を語るだけというのが実は一番生に必要なこと。それで話を聞いてもらいお互いに共通了解が生まれることで物語が明確になっていく。もちろん、アポとって会っても自分について語ろうとしないやつであればそれは馬鹿ですが。

山田
なるほど〜、そこにも繋がるわけですね。人と熱く交わることの大切さは誰でも重要だといいますが、理由についてはこれまで曖昧だったので、その背景が分かるとすっきりしました。他にアドバイスはありますか?あらゆる人に対して。


物語を意識的に、意図的に作っていく姿勢を持つことですね。やっぱり今世間(社会)で活躍している人って演技がうまいことが多いです。役者みたいに物語を演じるわけです。普通にニュートラルに考えたらコミュニケーション上、ただテキストを読み上げればいいけどそれじゃあ物語がない。誇張しすぎくらいに自分が明確にしたキャラクターとその物語を演じることが重要です。要は、幻想だと分かっていながらも、それに意図的にコミットすることが重要です。

この人間社会で大きなことを成し遂げる人は、ある物語に深く共鳴している場合がほとんどです。例えば、毛沢東は水滸伝を幼少期からよく読んでいた。
 

山田
なるほど、たしかにそれも本質ですね。結局、あなたが「何が価値あるか分かった」というのは、自我を安定するのが最終目的ということですね?その見取り図に従って具体的にはどんなことしたいのですか?


はい、そうです。具体的には2つの方向があります。まず一つは人々が「自我安定」するのを手助けするってことですかね。例えば、これまでずっと大企業で物語を作ってきたのに、いきなり会社潰れて異業種に転職したりしたら物語は安定しません。特に今の時代、自我の安定が難しいです。特にインターネットの発達で他の人が何をしているかグローバルに分かってしまう時代。上述したように、人の物語の軸は幼少期に作られます。みんな全知全能に戻りたい。でも妥協しながら物語を作っていく。そんな中、他の人達が自由にいろいろやっていて幸せそうなのをみると、「おれももっといい物語を持ちたい」と現状の物語に不満が出てしまう。ISとかも基本的にはその構図から出てきたんでしょう。

アマゾンの奥地の民族みたいな原始共同体ではみんな物語が同じようなものです。だから、幼少期の全知全能に戻りたいときはみんなで蕩尽(祭り)をしてたまに発散すればそれで社会が安定する。でも今は、物語が多様化し、みんな同時に祭りで発散、というわけにはいかない。フロイト心理学者の岸田秀は、現代ではお金の消費で各自が自分の発散(エスの解放)をしていると言ってます。

山田
なるほど。大変意義がありそうですね。なんとういうか本質的ですね。



そうですね、やっぱりもともと「安心、安全、便利、快適」に猛進する社会に疑問があったので。人間は意味の世界を生きていますから、数値化してそれを高めるという考えベースでは本質になりえません。

山田
同意します。でも、いくら自我が安定しても、負け犬的な物語は嫌じゃないですか?最悪ホームレスとか。



自我が安定するということにそれも含まれています。坂口恭平さんも言ってますが、楽しく充実した生活を送っているホームレスもいます。ただ、何かやりたいことがあるのに妥協し、挑戦しないでホームレスになっている人はダメですね。内側の深い自我への回帰が強まり安定しない。まあ、結局は周囲の人に認められていれば大体どんな負け組的人生でもいいものだ、と思ってます。実際わたしも上野でホームレスネットワークで楽しそうに生きる方々を見たことがあります。一方、高学歴で大企業に勤めている人でも人付き合い薄くて自我が不安な人もいます。

山田
なるほど。ただ大抵の人って素朴に自分の物語を生きているんじゃないですか?あなたのように論理的に哲学的に世界はどうなっているのかって気にしないのでは?


いいポイントだと思います。実存には、3つの状態があると思っています。ゲームモード、無気力モード、哲学モードです。詳しくはこちらに書いてありますが、基本人は物語に確信をもち疑わないゲームモードを生きています。でも、先程述べたようにそもそも僕らはどうにかして物語を持ち言語的に世界に適応している。意図的に物語を維持しないと世界像が崩れ、世界に適応できなくなります。物語が崩れ始め、疑問を持った状態が哲学モードといえるでしょう。これが深刻になると無気力になります。だから、僕は人々に物語の重要性を理解してもっと自分をコントロールできるようになってほしい。ゲームモードといえどもやはり物語を生きている以上必ずそれに疑問を持つわけです。ちなみにもちろんこれも超越です。

まとめると、ゲームモードに疑問を持ち、哲学モードや、無気力モードになってしまった人をゲームモードに引き戻すということですね。

山田
なるほど。疑問を持たずにゲームに熱中させる、即ち物語でしっかりと現実に対応させるということですね。もう一つは何ですか?具体的なアクションの方向性として。


もう一つは、ゲームモードの中で困っている人を助けることです。人は誰でも全知全能への回帰のベクトルを持っています。誰もが恵まれた環境で生きたいのです。ゲームモードの世界で貧困や生まれつきの原因でこうした環境からかけ離れた生活をしている人は、自我が安定している人が助けてあげるべきです。


山田
なるほど。まとめとして、これまでの探究の中での最大の収穫はなんですか?



最大の収穫的発見は、僕らの進むべく道が分かったことですね。要は、僕が哲学モードから脱してゲームモードに戻れたことです(笑)これまでは正直何が正しいか分からなかった。最悪人殺しや自殺も論理的に支持できてしまっている無秩序状態でしたが、そこがはっきりした。われわれ人間が進むべく道とは、繰り返しになりますが、「意図的に物語を安定させる」ということです。僕らはどうにかして、言語的世界を保って現実に適応している。もしこれをやめるなら、言語を使わない意識のない状態に戻るしかない。なので、要は社会から外れて生きて幸せになろうとする「逃げ道」がない、と腑に落ちた。出家したとしても、やはり物語を安定させるのは難しいということが分かったことが要諦。厳しいことですが、「らしく」振る舞えないようなやつは諦めるしかない。そもそも生物が生命維持することはデフォルトで厳しいことですよね。

山田
なるほど。多くの人はそこまで考えてないでゲームを生きていると思いますが、確かにあなたのようにそこに疑問を持ってしまった人は、ゲームに戻るためにそのような見取図に行き着くことでまたゲームに戻れますね。最後の質問ですが、あなた自身今後どう生きていくのですか?


僕も漏れなくその見取り図(picture)の中にいるわけで、過去の中から発想して自分の物語を作らざるをえない。それは現実に適応するためです。いくらこの見取り図で世界をうまく了解していても、やっぱり普段のリアルなこと、人との出会いなどの中から世界像や価値観が揺さぶられることも沢山あるでしょう。それに他の人も基本はゲームモードです。恋人に、この見取図を詳しく説明して、「だから一緒にいたい」とか説明したらマズイですよね(笑)ゲームの中で経験的にどうしたら相手がどう実存的に感じるかと学ばなくてはいけません。基本的にはゲームモードを喜怒哀楽の中で試行錯誤し前進していくのみです。

個人的にはこれまで絶対これだ!という錦織圭でいうテニスみたいなものはなかったので、比較的コミットしてきた語学、スポーツ、中国などを軸に人の自我安定サポートに関わることをやっていきたいと思います。

山田
おお、面白そうですね!より具体的には?



ポイントを言うと、今言った見取り図(picture)と僕の得意分野から考えていく必要があります。人の自我を安定させるということとと、例えば、語学、スポーツ、中国の組み合わせ。自我安定させるには、端的に「時代に乗る」ことが重要です。僕は「時代に乗る」なんて発想昔は微塵もなかった。「なんてオリジナリティがないんだ、おれは0からオリジナルな発想をしてやる!という素朴さでした。

多くの人はここまで素朴ではないでしょうが、時代に乗れ!と言われてもその意義が分からないでしょう。やっぱり世界のトレンドを見ると、今はカントの「永遠平和のために 」ベースの世界観ではなく、社会同士がマージされている時代。そして中国も台頭しているのは隣国日本にとって影響大。そういう時代にあったことをしたい。具体的には日中の草の根交流は絶対今後必要。アメリカ・カナダみたいに。

そのために中国人の日本語学習と日本人の中国語学習を支援したいですね。そうすることで、彼らも自分の物語をはっきりさせていけるでしょう。ただもちろん、それはあくまでも大きな方向性なので、語学関連の会社に就職するとか、はたまた商社みたいな大企業に就職して直接経験の幅を拡げて世界観をリアルに拡大していくという選択肢もあります。はたまた全く違う業界やアーティスト的な仕事に関わるかもしれません。まあ、物語に位置付けられればどんな可能性もありますので、今のところは何ともいえませんね(笑)

山田
なるほど、
大分深いところから具体的なとこまで一貫してますね!表面だけみれば、ありきたりですが奥が深い…
本日はありがとうございました


faf

先日都電に乗っていたら、東池袋あたりでいわゆるホームレスのあのションベン臭が充満してきた。犯人はひと目で分かった。白髪交じりの汚い髭を生やしたおっさん二人組。60歳前後だろうか。ワンカップこそもっていなかったが、二人でへらへらしてなんと僕の右隣に座ってきた。臭い、臭いが座っていたい。なので左が空いていたので少しスライドした。真隣のおっさんはちょっと自意識をし、避けられて不満そうな感じを醸し出していた。

fa

そこから数分、臭いし無駄に席を2つに跨って座っていたので立とうとしたが、おっさん二人の話が面白くて聞き入ってしまった。どっかのチェーンのレストランのハンバーグについて「140グラムってどっから発想したんだろ?」とか「チカラめし明日いこっと」とか、その他競馬で負けた話など。

そして、極めつけはやよい軒のくだり。どうやら二人でよく行っているらしい。 おかわり自由の米を喰いまくっているらしく、

「あそこおれらのために米仕入れてるようなもんだろ」

と井上陽水の裏声みたいに一言。

正直笑いをこらえるのに必死であった。どんだけおかわりしてんねん!読んでた本で顔を隠した。

なんかこのおっさんたち、意外と楽しそう。世間からは相手にされないが、自分たちの世界を生きている。下手に高度化した社会の言語空間に生きないで、直接経験のあたりまえの世界だけを見るような生き方。

そんなものを一瞬感じてしまった。 

最近、おっさんたちと飯食う機会が何回かあった。おっさん=オーバー30と考えればいい。

何か、4,5人以上で飲むと特に何か芯食ってない会話になりがち。

おっさんたちは途中であくび連発。
あくびを見ると大変に気が萎える。 全然、興味ないんかい、早く帰って寝たいかい。とりあえず、会が終わっても情熱を互いに注ぎ合って何かをするような未来の影は皆無であることはたしかだ。

おっさんたちは、現実に失望している。別に、悩んでいるわけではない。日々楽しいことはある。でも、そういう日々の小さい幸せ以上のことは期待しなくなる。なんかでっかいことするとかしても、そんなことしたってそんな楽しくないし別に興味ない人は興味ないし、と思っちゃう。みんな自分の人生生きているから他人の人生には無関心。そう。だから、自分の人生をもっと素晴らしく!とも思わない。別にそれは失望とかではなく、ただ、別に今のままでいいからなのだ。

なんかこういう「何かおもしれえことないかな」状態のおっさんになると、「六本木で豪遊」「中国市場でボロ儲け」「アフリカ事業でボロ儲け」とか分かりやすく、別に社会的意義とか関係ない派手な話に乗りガチになってしまう。 

さて、
こういうおっさん的状況について僕はどう分析するか?

はっきりいって、全然OK!このままでもOK!
もちろん、大義を目指していろいろ挑戦するのもOK!

人間の人生なんてそんなもん。どういう物語を生きて現実に適合するかが人間の生であり、一義的に刺激に反応して生きる動物とは違うところ。

着実に波のない物語を歩めば日々の幸せを楽しみながらず〜と生きれる。何かに挑戦すれば、大きなやりがいやはたまた大失敗を経験するかもしれない。

でも、どうせ生きるなら、「後者」がいい!

なんてベタなことは言わない。本当にどっちでもいいのだ。僕らは現実に適応できていればいい。死なないために、「私はサラリーマン」として自我を保ちお金をもらって飯食って生きれていればいいのだ。正解は1つ。

物語で現実に適応すること。それだけ。無味乾燥な、そんなことだけ。

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僕はこのブログで松本人志について何度か書いている。僕は別に理想の人物、この人になりたいなあ、この人を目標にしたい!と思うような人物はいないが、定期的に見てしまったり、惹きつけられて、その人について知りたいと思うような人、といえば松本人志である。ごっつええ感じ、ガキの使い、ビジュアルバムなどはほとんど観たし、繰り返し観ている。

暇なときはよくガキ使を観ているが、偶然観ていた「ガキの使い きき緑茶」の一コマ。(以下に動画あり)

17:50からの「ええの?」のくだり
18:50「思てたほど違うこともないなぁ」

のところを取り上げたい。

何というのだろうか、なんの打算もない純粋な面白さを追求している感じがこの2つの笑いによく出ている。他の芸人だとどこか「仕事として笑わせなくてはいけない」とか「あの人のこう思われたい」とか何かそういう小さな打算が見えてしまう。松本にはそれがなく、純粋に面白く楽しい笑いを作りだそうとしている。というか、作っちゃっている、という感じ。

もちろんこれはこれで面白さを追求するという打算なのだが、それがなんというか広くみんなを笑わせるため、という感じなのだ。だから松本の笑いはたまにブラックであったり人を傷つけるように見えるが、根っこが「みんなが笑えること」だから嫌味がなく受け入れられる。本当にお笑いが好きでお笑いのことばかり考えたプロフェッショナルである。

NHKのドキュメンタリーで松本は、プロフェッショナルとは「素人に圧倒的な力の違いを見せつけること」だと言っていたが、それは四六時中笑いのことしか考えてない松本の笑いに対する気迫が感じられる。松本の人生観に、笑いがなければ人生面白くない。笑いが人生を意味あるものにする、というような直観があるのかもしれない。


 

ブスに生まれたらどうすればいいか」これは見かけによらず人類が直面する最も大きな問題の1つといえる。

被投性。
それは、われわれは気づいたら「私」としてこの世界を経験していたということ。ハイデガーもウィトゲンシュタインもその事実に驚愕している。全ての疑問はここに集約されるといってもよい。

われわれはある外見を持つ。もちろん、後天的な要素も多い。だが、遺伝子的にだいたいの作りは決まっているというのが現実だろう。また、静的なものではなく、外見は動きや表情なども綜合的に判断されるのでそういう意味では後天的要素も多い。

外見を他者がどのように評価するかは社会的なものである。江戸時代に描かれたふくよかな女性は現代ではあまり好まれない。また、歴史を辿れば何かしたらの魅力、たとえば生命力が強い、権力がある、経済的に富むなどの属性を持つものの外見が、よい外見となったのであろう。

こうしてみると、われわれは二つの被投性を持つ。まずは、私が持つ身体としての被投性。どのような固体になるかということ。そして二つ目は社会的な被投性。どのような外見が価値あるものとされるのかということ。同じふくよかで細めな女でも江戸社会と現代では評価が違う。

結局、機会の平等をいうのであればこのあたりも範疇にいれなければならない。かといっていわゆる美男美女になったらなったでそれにより能力や性格で不利になる可能性もある。例えば、ブスだと努力する傾向があるとか。そうすると一概にブスを救済して引き上げてあることは機会の平等ではない。そもそもどの判断基準で平等にすればいいかも決まってない。

ここではブスを取り上げたが、もちろん障害であったり社会的境遇なども所与な条件として同じ被投性である。被投性の問題をリベラルに考えると複雑になる。う〜ん、難しい問題である。 
 shiawase

宮台真司は社会学の入門書『14歳からの社会学』で<世界>と<社会>について以下のようなことを書いている。



<世界>という概念と<社会>という概念がある。<世界>というのは「ありとあらゆるものの全体」。それに対して<社会>は「コミュニケーション可能なものの全体」。今日では<社会>とは人間界のことだ。…部族段階の古い社会に生きる人々や、ハイハイしてなんでも口に入れる赤ん坊にとって、<社会>は人間界に限られない。<世界>がまるごと<社会>だ。あらゆるものとコミュニケーションできる。犬とも、猫とも、木とも、雲とも、お話ができる。
でも、時代が進んでいくについれ、あるいは、赤ん坊が成長していくにつれ、人は、<社会>の外にも<世界>が広がっていることに気づく。<世界>にはコミュニケーションできないものがあるのを知る。コミュニケーションできるのは人間だけだと知る。
<社会>の中では「承認」が問題になる。<世界>の中では「承認」どころかアリンコみたいな存在だ。「承認」を気にしている自分など 、とてもとても小さい。

宮台の理解と若干ことなるが、私なりに解釈したい。

社会とは要は「言語」の世界である。つまり、一般性をもった概念(言語)を通じて世界と接している。言語で分り切れないものは、存在しないに等しい。でも、<世界>という連続体のカオスは想定できる。もちろん、社会的な人間は言語を使うことで、その<世界>が背理的に出てくるのだが。

さて、いきなりだが、メジャーリーグのイチローは凄い。
いやそこまでいかなくてもどんな分野でもその分野で豊富な経験を持ち実績を出している人は凄い。こういう人は、言語的思考をしなくても無意識に何かをできる。もちろん少しは言語的思考が入るだろうが、熟練するほど無意識になる。要は、チクセントミハイのいうフロー体験。

フロー体験とは、要するに<世界>に接している状態なのだ。言語的思考のタガが外れ、<世界>に向き合う。

もちろん、イチローといえども、そのような状態は極限られた時間である。でも、そういう体験を何度もしてるはず。それこそ、生命の本能的な在り方。もちろん、良い悪いの話ではないが、人間は言語を持ち一般性を通じた言分けられる社会としか接しなくなった。でも、原理的にはやっぱり<世界>ありきで、動物や植物はそこに生きている。人間もそっちが原初的自然である。

<世界>を知る人間は、<社会>で幸せな人が多い。なぜなら、言葉の世界を信頼していないから。それを包括するもっとありありしたありのままの<世界>を知っているから。われわれはその存在に確信を得たとき、言語の世界に過剰反応しなくなり、のほほんと気楽に生きていける。言語で理解してもだめだ。無意識に何かができるくらいの熟練が必要。座禅で目指すのもそういう<世界>だ。 
 fs

哲学者の千葉雅也氏がツイッターで「友人と会ったとき、この人と話してよかったと相手に思わせるための方法」として2つ紹介していた。
 
1 相手に話をよく聞いてもらえたという感じを与える。そのために、相手の話を適度に言い直しながら話す。
2 何かを断言してあげること。極論すれば何を断言してもいい。

であるという。

これは一つの観点として妥当であると思うが、私としては一つ疑問がある。 それは、「なぜ相手を立てなければならないのか?」ということ。哲学者であれば、最終的に自分の実存に紐付けて意見してほしい。要は、相手をいい気分にすることは引いては私のためにもなる、ということだ。

仮に相手の言っていることが、自慢ばっかりだとか、意見に同意できなかったり、極端な場合自分を誹謗中傷するものであった場合でも、そいつを言い負かしたり意見を変えさせようとするのはよくない。それだとお互い不満がつのりLOSEーLOSE状態で解散となってしまう。極端なクソが相手ならうまいこと縁を切ればいいが、そうでない場合、相手が多少うざくても関係を継続しておくべきである。

なぜか?

やっぱり人と交流することは必要だ。なぜなら、人間とは他人に自我を認めてもらう必要があるから。人は世界内存在という根本形式により生を体験しているが、それは他者と共に生きることを不可欠とする。人と交わり、人に自分を認めさせ、自分も人を認める中でこの在り方が支えられる。だから、相手といい関係を保つことは重要。

そしてさらに、これに私はは三つ目として、「相手の感受性を把握する」ということも付け加えたい。 言い換えると、「どのような物語を望んでいて、今どういう物語を受け入れているのか」ということ。

その人がどういう人なのかを理解することはその人と良好関係を維持する上で重要なことだ。

感受性とは何か?そもそも人間はどういう存在なのか?

人は、突き詰めれば各個体の生存と、種の繁栄のために生きている。だからどんな行為もそのベクトルに起源を持つ。でも、それをいったら個人の差がなくなってしまう。しかし、人は生まれてから各個人固有の体験をしていき、そのベクトルを編み変えていき独自の「感受性」を築いていく。そしてあらゆる体験はその感受性に従って実存に影響する。それゆえ、実存における最も重要な価値は各個人で異なる。

  1. 自分自身のために生きている
  2. 自分の好きな一人のために生きる
  3. 自分の好きな少人数の人々のために生きる
  4. 自分の好きな大人数の人々のために生きる
  5. 社会のために生きる

大きく分けると人は大体このどれかに価値を置きながら生きている。もちろん、意識的にはではなく、感受性が無意識の中で反応する。どこのためになったかで、自分の幸不幸が決まる。自分のためになったと確信できれば、第一類の人はハッピーだろう。

これは、別の観点から見ると、どのような自我を持っているか、ということ。つまり、世界内存在において自分はどんな物語に位置づけたいのか、そして、現実はどのような物語を受け入れているのか、ということ。「私はスポーツ選手になって世界で活躍したい」と考えていても現実でそうでない場合は、そのギャップに苦しむことになる。人は理想を下げるか、現実を変えていくかしかない。そして現実を変えるというのは他者にそう理解させるということ。

誰かとコミュニケーションを取るなら、その人の感受性がどのようなものか、そしてどんな物語に自我を位置づけているのかを理解すれば一緒に何かやったり関係を良好に保つために使える。
 kdukai

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