記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 歴史・社会・哲学

以下の本に「フィールグッド・ステイト」にまつわる話が展開されている。とても興味深い議論なので、紹介し意見を述べたい。
 
宮台 真司  (著), 鈴木 弘輝  (著), 堀内 進之介 『幸福論―“共生”の不可能と不可避について』 (NHKブックス)  2007年 



本書の趣旨は、われわれの幸福へと向けたソーシャルデザイン(社会設計)がいかにして可能かないし不可能かを論じることである。答えが出ない問いを社会学者3人で討論し、問題に取り組み続けることの必要性を感じさせる。

さて、本筋ではないがここで一つ指摘しておきたい。本書では「幸福」をよいものとし、それをどう社会で生み出していくかというのが出発点となっている。人間社会の経験的な観念である「幸福」それ自体については問わないようだ。あくまでも「人間」を前提に考えている。

さて、本題に入る。「フィールグッド・ステイト」についてだ。

まずはソーシャルデザインについて説明する。それは、何かのターゲットを基に社会を設計すること。既に多くの国でソーシャルデザインが既に行われている。立憲制の下で国民が統治権力に権力を付託した瞬間にデザインが始まったとも言えるし、古くは家産官僚制という形にせよ官僚制が登場した際にすでに始まっていたともいえる。

しかし、問題は「このデザインが「われわれ」の幸福へと向けたものであることが原理的に不可能だ」ということ。これは、かつて社会学者や政治学者しかしらなかったらしい。公正ないし平等という原則に反しないソーシャルデザインは原理的にない、という驚愕の事態である。

われわれの幸福といっても「われわれ」の範囲は恣意的で、「われわれ」内での公正や平等を測る場合も恣意的な選別と排除を前提とする。コンドルセの指摘にもあるがごく特殊な条件がないかぎり、投票での意思決定は、投票以前的な決定過程を前提とする。それゆえ、われわれは社会をそれが近代社会である限り恣意的な事実性factualityを前提としたうえで運営するしかない。このことを最も早くに理解したのがウェーバー。市民倫理と区別される政治倫理の結果責任性を論じた。 

ここで、ソーシャルデザインの一つ「フィールグッド・ステイト」について見ていこう。近代社会の正当性や正当性を保ち、それらを前提とした市民の積極的政治参加を通じて、不安のポピュリズムに勝るとも劣らない有効なアウトプットを調達するべく、徹底的に研究したうえでアーキテクチャを設計しようとする流れ。そうした類のソーシャルデザイン主義だ。
 
アーキテクチャ(環境の仕組み)とは建築構造よりも広い意味である。長居する客に退店を命じるまでもなく、冷暖房の温度、BGMの音量、証明の明るさ、椅子の硬さを管理すれば、自由意志を損なうことなく、人々の行動を方向付けられる。これがアーキテクチャによるコントロール。アーキテクチャのなかで自発的に心地良さ(フィールグッドな状態)を追求することで、人々は自覚されないまま動員されていく。

先の恣意性の問題がここでも見える。アーキテクチャをめぐる情報格差。真の意図を知っているのは、デザイナー(設計者)だけだ。だがレッシグいわく、アーキテクチャをめぐる情報格差は消せない。できるのは情報アクセス可能性を開くことだけだ。だが開かれた機会が利用される保証はない。

ソーシャルデザインがわれわれの幸福へと向けたものであることは、原理的に不可能だった。「われわれ」の範囲は恣意的であり、どんな構成原理も排除と選別を前提とする。近代社会は恣意的な事実性を前提として運営される以外はない。

フィールグッド・ステイトについてまとめよう。それは、人々の心地良さを求めようとする欲求を利用することによって統治された国家のこと。ディズニーランドがそうであるように、目障りなもの、面倒なものを徹底的に隔離・隠蔽しつつ、いくつかの選択肢を提示することで快適さを演出して、統治の疑念を抱かせないようにする。

そのことの何が問題かと言えば、それはフィールグッド・ステイトを維持するための環境負荷や外部にいる貧困者たちの存在者が忘却されてしまうからであり、またステイト内部の人々が自分で物事を考える契機を奪ってしまうからである。要は「知らぬが仏」状態への危惧。

以上が、本書で述べられていることである。

問題の前者、「環境や一部の人間が犧牲になること」はあってはならない。これは議論の余地はなく正論だ。ちなみにこれは先の恣意性の問題と同じだ。設計者以外が不利益を蒙る可能性の話だからだ。これはフィールグッドの定義をはっきりさせないと議論できない。フィールグッドがあらゆることを意識に還元して、それが「よい状態」とするなら、それ以上の社会設計のターゲットはない。要するに、外部(設計者など)を気にしたりもしないほどうまく騙されているとうことだ。完全に意識に還元された「よい状態」を元に社会を作れば、恣意性の問題も解決されるのだ。そのような恣意性すらも気にしない心の習慣を作ってしまえばいいのだから。

では、後者の「ステイト内部の人々が自分で物事を考える契機がなくなる」というのはどうだろうか。 要するに新しい刺激に対処できる能力を持っておかないとまずい、とうこと。設計者もびっくりの設計外の出来事が起こったら、問題が起きるのではないか?という意味。

この「知らぬが仏」問題、これも意識状態が完全にコントロールされる社会であれば問題ない。この時点では、人間は意識経験をコントロールされるほど人工知能に知能格差を拡げられている。既に人工知能が人間を遥かに超える知能や生存能力を持っている。何か新しい刺激(宇宙人がやって来る、隕石の衝突)があれば、それを人間が気付いて対処のではなく、社会設計と運営を司る人工知能にまかせておいたほうが有効であろう。

それゆえ、私たちが向かう道はシンプルだ。あらゆる生への関与を”徹底的に”意識に還元し、これをコントロールできるような人工知能を作る、この方向に進んでいけばよい。意識ファーストである。それがどれだけ先の話になるかは分からないが。 

哲学者キルケゴールが著書『死に至る病』でいう「絶望」とは何か?

端的に言うと、キルケゴールのいう絶望とは自己が様々なものとの関係性の間でバランスを欠いてしまっている状態。生きているのに死んでいるような感じ。どういうことか。要は人間は物語を持って現実に適応している。でも現実という外界に適応するために抑圧してきた物語もある。

そのような物語は外界に合わせようとすると感情などで反抗してくる。また、物語といっても言葉の束であるので、一貫性を保つのは難しい。大学を卒業してプログラマーやって、アフリカで働いて、歌手目指して、医者目指すみたいなことやっていたら、毎度他者から承認を得え物語を安定させることはできなくて、パニックになるだろう。

ではどうすればいいのか?
誰かが気絶した場合には、水だ、オーデコロンだ、ホフマン適材だ、と叫ばれる。しかし、絶望しかけている人があったら、「可能性を持ってこい、可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ」、と叫ぶことが必要なのだ。可能性を与えれば、絶望者は息を吹き返し、彼は生き返るのである。 
これがキルケゴールの答え。

では可能性はどうやって与えられるか?

教育哲学者の苫野一徳は、ルソーを手がかりに「可能性」とは、能力を挙げる、欲望を下げる、そして欲望を変える、の三つの道があるという。しかし、それは本質的ではない。現代の僕らはそもそも欲望がない。何かやりたいことを10個言えと言われてすぐに答えられる人は少ない。

これも物語という契機で考えることができる。われわれは物語を生きている。ただ単に「君はこういう世界を生きている」と言われたり、世界史を読んで「僕はいま、こういう流れにいるのか」と理解してもそれは物語として実存的に根付かない。僕らは日々リアルな世界で環境や他者と触れ合うことで世界像を更新していく。

未来への道筋は過去のリアルな経験の蓄積の延長線上でしか開けてこない。これはハイデガーの歴史性からも分かる。過去の経験がバラバラなら未来へ何も見えてこない。

キルケゴールの答えは「自己は自己自身によって措定するのではなくて、絶対的な他者によって措定される」というもの。実はキルケゴールは敬虔なキリスト教徒であり、絶対的な他者とは「神」だ。神の下でキリスト者として、常に絶望の中にある自己はどうすればよいのか?自己は自己自身によっては安定や均衡に達する事はできず、常に有限性と無限性、可能性と必然性の間でフラフラする。この間のバランスをもたらしてくれるもの、つまり措定setしてくれるものが神ということ。

これは、神を中心にした筋立てで物語(自我)を安定させるという方法である。でもしかし、先に書いた通り本を読んでも納得感はない。過去の蓄積からその筋立てに正当性がないと、未来につながらない。まずは過去を反省的に考える。現代とはどういう時代か考える。どういう欲望を持っているか考える。そしておのずと物語が見えてくる。そこで宗教を手がかりにするのももちろんOKだ。しかし、重要なのはハイデガーも言うとおり、世界からではなく自分に固有なところから物語を作っていくことである。 

われわれは本能が壊れているから、物語(言語的な世界)を持ち、世界に適合している。無秩序では日々の行動が取れない。ただただ言語で対象化していても全体の見取り図はできない。そこには筋立てが必要。特に今のような多種多様なあらゆる情報が飛び込んでくる情報化社会においては特に一本の一貫性が必要。

「人間」とはそういう言語的な世界で作られた概念に過ぎない。われわれの存在の在り方は変わっていく。

ただ、現時点では「人間」であることに定位して考えよう。

われわれの生にとっての理想形は何か。麻生太郎が国会答弁でこんなことを言っていた。

生きていく上に大事なことは朝は希望を持って目覚め、昼は懸命に働き、夜は感謝と共に眠る。 

素晴らしい。まさにこれだろう。 社会の構成員である個々人の実存的生(われわれ)は、このような在り方であるべきだ。

目標ができたところで、ではどうすればいいのか?

近代以後、数世紀に渡り我々は自由に悩まされてきた。どのように生きるべきか、 その道筋が分からない。ポストモダンを経て何をすれば認められるのかどんどん分からなくなっていく。それでも、なにか卓越したものを作れてば少なからず賞賛されるのも事実。

しかし、卓越したことを行うには相当な強い動機や確信が必要。それはどうやって身につけるのか?

2つの視点がある。

まず、ヒトは基本的に、モチベーションにあふれている。子供が暇すぎて不安や絶望しているのを見たことはないだろう。でも、社会に入り「人間」になるにつれて他者との関係からモチベーションを抑圧してしまう。現実原則に従ってしまうのだ。この「抑圧」を無くそう!というのが一つの方向性。これは臨界期の幼少期の教育を見直すことと、既に育ってしまった大人の抑圧を取り除くことが考えられる。

もう一つは、教育方針として、各自、自分からより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得させることだ。本で読むエピステーメー的な知識だけでなく、身体でいろいろなものを経験しすること。世界でよく行動し、読書することだ。これをやらせる!ということ。理想的な人間像など僕らは記述できない。できるのは各個人が動き回っていろいろなゲシュタルトを得て自分なりの世界像に確信を持ち、どう生きるかにコミットできることだ。

もし自分の物語を見つけたら、上記の引用のような生を送ることができるだろう。ただモチベーションがあっても自分の道を見いだせなければ自我は安定しない。見つけ出すにはひたすら行動する必要がある。そういう教育が必要。これは一つ目のモチベーションと被っているが、もう少し表面的なスキルなども含む。

われわれはこうした環境を整えるべきだ。それが結論。 

教育にビッグデータが持ち込まれたらどうだろうか。効率よく生徒はスキルや知識を身につけることができる。僕がフランス語を習いたければ、30万円くらい払ってちょっとの労力、そうだな、今でいう毎週2回くらい3キロ走るくらいの労力を割くだけでペラペラになれるとしよう。

それで簡単に身についたらどうなるか。僕だけではない。他の人たちも簡単にフランス語を話せるようになる。文系の学生であればそうして、どんどんフランス語の原文を読み始める。全体のレベルが上がり競争は厳しくなる。そこにタイムラグができ一瞬競争環境が弱まるかもしれないが、また相対的にもとの水準に戻る。

なので、こういうスキルを身につける(=個人の競争力を高める) ことは社会的にあまり意味がない。

何にせよマズローの欲求5段階説でいう下の方の欲求、最低限生きていけるところが安定しているような社会を作ることが先決(まあ、それまではスキルアップのためのサービスも必要だが)。そうすればアーレントのいう活動に専念できる。ホリエモンたちがいう遊びが重要な時代。そしてホリエモンに言わせれば、すでにその状態は実現されているようだ。もう誰でも働かなくても生きていける。

それを技術的にやるか?

それに時間がかかるなら、人のマインドを変えることでも解決できる(そっちのが時間かかるかもしれないが)。

仮に路上生活すれば家賃はかからない。公園で洗濯や風呂も済ませられる。であれば、後は飯だ。これはコミュニケーション能力があれば解決する。図々しくも相手に嫌な思いをさせずに協力を引き出す力。コンビニ店員と仲良くなればいい。

そうして、最低限の生活保障を得た人間はどうするか。特に嫌な人間関係もなくなり、フロイト的な現実原則適応のための抑圧がなくなり全知全能へ回帰したいと思うようになる。何かに熱中するだけのベクトルが出て来る「はず」である。

正直これについては保証できない。いままで社会で抑圧されきった人間がこうした現実社会から離脱できるようになったとして、何かしらやりたいことが出てくるのだろうか。

われわれは人とぶつからないように教育された。人と協調するようなしつけ。ドリル教育。周りと同じやり方で同じようにやる。人とぶつかるのを恐れるエートス。欲望が抑圧される。そのような教育で育ったわれわれは何かする際に人に頼んだり命令したりするのを恐れるようになっている。

今必要なことは、1こうした大人たちの欲望を解放してあげること。2子供たちへの教育をモチベーションを殺さずにしてみんななかよくできるような教育をする、である。

まあ、こうした欲望が出てこなくても、問題なく生きていけるならそれでいいだろう。まずは衣食住の確保が先決。

VALUという他のネットサービスとは一線を画する凄いサービスが公開された。このサービスのキャッチコピーは「あなたの価値をVALUでシェア」である。

valu
サービスを一言で言うと、株式市場に個人が上場できるみたいな感じ。個人的な第一印象(おそらく多くの人が抱いただろう)は、個人を金銭的価値に還元することへの嫌悪感。一挙一動が監視され、公然で何か話していて噛んだり滑ったら自分の株価が下がる、みたいなことを想像してしまった。ここまで行かなくとも、基本はそういうことだ。現状、ホリエモンさん、イケハヤさん、はあちゅうさんなど新しいもの好きで資本主義ラブな感じな人々中心に流行っているが、個人を金銭的な尺度でモロに測ることへの反感がこれからもっと出てきそう。

VALUの公式ツイッターに固定されているミッションは以下の通り。 

VALUは、夢や目標をどう実現していいかわからない方、金銭的な理由で実現できない方などが、継続的に支援者を募れる場所をつくりたいという思いで開発しました。発行主の情報、タイムライン、優待情報などをご確認いただき、皆様の「応援したいVALU」が見つかると幸いです。

「どう実現していいかわからない方」「金銭的な理由で実現できない方」を支援したいかは謎だが、大きな社会の流れでいえば「個人のエンパワーメント」である。

簡単にいうと、このサービスは個人が株のようなもの(VA)を発行し資金調達でき、投資家はその売買で投資家から優待サービスを受けたり、キャピタルゲインを狙える。建前的には、「継続的に応援」と響きはいいが、実態は短期や中長期に限らずキャピタルゲインが大半の理由であろう。

このVALUというサービスの概要は他のブログや公式サイトを見ていただくとして、ここでは、その影響について考えたい。一般人にはメリットないとか、インフルエンサーに金が集まるだけなど短絡的な議論が目立つが、ここではこのサービスが健全に普及した場合、VALUの発行者、VALUの購入者(投資家)、VALUの社会的な影響の三つの視点から考察したい。

(1)VALUの発行者にとっての「VALU」とは?
まず、VALUの発行者について考えよう。既にホリエモンさん、イケハヤさん、はあちゅうさんなど個人で活躍されている方々が中心に高額でそのVAが取引されている。

個人で資金調達して何ができるのか
VALUのミッションは個人の資金調達「頑張る個人を応援できるプラットフォーム」であるが、個人がお金を集めてどうするのか?

そこが(まだ)曖昧なのだ。個人でできることは限られている。イケハヤさんのような個人ベースで何人か雇ったりしている人や、youtuberのような個人技だと使い道が分かりやすい。既に有名であるか、或いはしっかりしたビジョンを提示できる人なら、すぐにお金を集めることができるだろう。銀行いったり、会社作ったり投資家周りしなくてもいいし、さらに返済義務もない。(後述するが、必然的に頑張らなければいけなくなるのではあるが)

でも、ある程度の規模のことをやろうとすると組織を作らなければいけないわけで、VALUで集めたお金を資本金に株式会社を作ることになるだろう。そうなると、どうなるか。イケハヤさんが1000万円VALUで調達し、会社を作って事業をする。会社を作ったなら企業価値を高めることになる。イケハヤさんはこの会社以外にもいろんな活動をしているわけでVA=企業の価値ではない。でも、会社がうまくいけば株価も上がるし(上場、非上場に限らず)VAも上がるだろう。なのでまぁそんなに問題はないのかもしれない。(このあたりは利益相反になるとか、詳しい人に聞いてみたいところだ)

資金調達して得た金は自由に使えるか?
ここで、一つの疑問が出る。

資金調達したお金を、遊んだり生活費にして使い切ってしまうのではないか?

お金の使い道の公開義務はない。イケハヤさんは既に楽に1000万円ほど資金調達したが、それをどう使おうが法的には問題ない。

その問題は、投資家の態度に委ねられるだろう。評判=株価(VA)なので、定期的に情報開示(どうやって金を使っているかや今後の活動方針)をしろという圧力をかければ済む話だ。企業の場合は、公開企業であればIRをしてこれからどんな事業をするかを伝え、その結果を定期的に情報共有していく。

VA発行者も同じようなことが求められ、やらない場合は非難を浴びVAは売られ価値が下がる。これは発行者は避けたい。価値がさがると新たにVA発行時には低価格でしか発行できなくなるし、一番きついのは自分の価値が「誰にでも分かる形で」下がることだ。それ故、必然的に投資家と歩調を合わせることになるだろう。発行者がどれだけ頑張るかは「投資家」の日々の厳しい目にかかっている。これは株式市場と同じ。

これについてもう少し掘り下げたい。 自分の価値が客観的な数字で表されることについて、実存的な視点でみるとどうか?要は主観的な生、の観点。これはかなりしんどいと思う。既にメディアに広く出ている人はネットの掲示板など影でこそこそ言われており、ある程度の慣れはあるかもしれないが、それが一つの「超客観的な数字」に集約されてしまうのだ。2ちゃんねるなどは見ないようにすることはできるが、VALUの数字はそうはいかないだろう。

ちょっとした失敗で、株価が下がり変な根拠のない噂で暴落することもありえる。事実誤認などでの株価の動きは心臓に悪そう。逆に、正しく評価され数字でもそれが反映されたら承認された感は強いだろう。他人からの目も気になるはず。友達と会っても「今日株価悪いね〜」とかいう話題になるのだろうか。VA発行するならそのようなことを承知の上で行う必要がある。

 
(2)VALUの購入者(投資家)にとっての「VALU」とは?
VALUの購入者にとってはどうだろうか?これは前述の通り、以下の三つだ。

  1. 好きな人を応援できる
  2. 優待サービスを受けられる
  3. キャピタルゲインを狙える
ひとつずつ見ていこう。

1,ホリエモンが好きなら、投資すればホリエモンは喜ぶ。或いは全然知らない人でもその活動方針やプロフィールを見て共感し投資してもいい。厳密に言うと、発行者が自身のVAを売るときには、彼らにお金が届くが、流通市場で売買しても彼らに金銭的な増減はない。ただ、長期保有する場合は、株価の下支えとなり彼らに貢献できる。

2,優待サービスは普通の株式と同じだ。ホリエモンの株(VA)を持てばそこでしか手に入らないホリエモンからの情報をゲットできたりする。意外とこれ狙いの人もいるかもしれないが、個人的には次のキャピタルゲインがメインだと思う。

3,そして一番大きいのがキャピタルゲイン。買った価格より高値で売れば差額が利益となる。まだ売れてないときに投資していれば、彼/彼女が成功したときに大きなキャピタルゲインを得ることができる。株式市場と同じで市場価格はその発行者(企業)に直接関係するニュースだけでなく間接的な情報も含め上下する。ホリエモンに投資していて、「日本政府がロケット事業への助成金を決めた」などのニュースが出れば一時的にホリエモンのVAは上がるだろう。(ホリエモンは宇宙事業をやっている)

所有権と議決権がないから、VA発行者のやりたい放題!?
さて、VALUが株式と違う最も大きな点は、それが所有権や議決権やを含まないということだ(あと配当も)。株式会社であればその所有者は株主である。VALUの場合、発行者を所有はできないししたくもないだろう。それにその人の方針に口出しできる議決権もない。だから、発行者のやりたい放題。

でも、実際にはそうならないだろう。ある程度の知名度を持ったら、公的に責任を負うことになる。なぜなら、(1)で書いた通り、その人の価値が客観的数字となり世界に公開される。下手なことをすれば価値が下がり、誰も相手をしてくれなくなる。

企業であれば、それが経営者、従業員、株主など誰の責任で潰れたのかは議論の余地があるが、個人の場合はその人が100%。自分であることはやめれない。自分が上場すると、あらゆる言動が監視されることになる。(もちろん、VALUの現状ではインフラとして普及していないのでそんなことにはならないが、これが証券取引所に上場されているような株のような流動性を持ち一般の人にも普及すればそうなる)

上場している個人が死んだらどうなるか
余談であるが、投資した株の個人が死んでしまったらどうなるのか?会社はgoing concernとして基本的には永久に存続する想定だが、個人はいつか死んでしまう。が、これは問題ない。むしろこれが醍醐味となるかもしれない。死んだら新規に株式発行はないだろうが流通市場は残る。例えば、最近田中角栄の本が売れたが、すると田中角栄株が値上がりする。こうして、過去の偉人は永久に歴史に残るのである。

(3)社会にとっての「VALU」とは?

最後に、「VALU」の社会的な影響について考えたい。

一般人への影響:人を数字的価値に還元して判断するようになる
まず、よくネット上で聞かれるのは「一般人には何の影響もない」というもの。これは違う。個人が上場されるようになれば、当該の個人を「客観的な価値指標」で簡単に価値判断できるようになる(ここに人格を価値化することに対する批判が出るだろうが)。初めて会った人、知った人でもその人のVA(株価)を見れば、「時価総額10億円、すげ〜」と市場で揉まれた客観的な数字で分かる。こうなると、上場していない一般人も自分や周囲の身近な人達を「数字的な価値」で見る習慣が身につくかもしれない。これはあまり望ましくないように感じる。

経済活動の主な担い手が企業から個人へ
次に、これまでは、企業が上場し資金調達し社会的に責任を担いつつ、大規模な事業に取り組んでいた。これが個人に分散されていく可能性がある。VALUを提供している企業がどのようなビジョンを持っているのかは分からない。ビジョンの通り一部の「個人的に資金調達したい人」向けという軸は強いのだろうか?或いは、いずれは全ての人間が上場されるような極端な展開も視野に入れているのだろうか。

企業(法人)の世界を見てみると、日本には約400万の企業(個人事業主含む)がありそのうち約4000社(日本の全ての証券取引所)が上場している。ざっくり0.1%だ。ごくわずかの企業しか上場していないのだ。上場している企業は社会的な責任を明確に負っているが大半の企業は情報開示もしていない。(ちなみに個人で考えると、日本の人口を1億2700万人として0.1%は12万7000人くらい)

個人の上場が普及するには、社会が、個人が中心となり経済活動等が進むという在り方になる必要がある。上述の通り、ブロガーやyoutuberなど個人中心であればそれでいいが、現状の経済活動の主流は法人だ。企業が上場するというのは、大規模にビジネスするためだ。もちろん透明性高めた組織づくりとか、知名度高めて従業員のためになるなど細かな目的もあるが、主には事業拡大である。「資金調達=大きなことするため=多くの人で取り組む」である以上、法人というやり方が望ましい。なので企業がブロックチェーン技術使ってトークンを発行する仕組みは欧米で既に大規模調達の結果が出ている。

上場した個人が集まりチームを組んで、資金調達し頑張るということも考えられなくはない。従業員まで上場していて、上場銘柄の集まりの投資信託みたいになってしまう。そうなると世界やわれわれ個人の生き方も大部変わるだろう。そこまで進むとどうなるのだろう。時間をとって別途考えみたい。

ツイッターなどと同じように、こういうインフラ系のサービスは今後どのように使われるかは未知数である。この社会的な影響については何か小説みたいので描くのが一番分かりやすそう。そういうのがあると一つの道筋としてVALUのようなサービスの展開が加速するかもしれない。 

以上、VALUが健全に育った場合、発行者、投資家と社会にどのような影響があるかについてざっくり書いた。

「結婚はエラい、子供がいればもっとエライ」と思う人へ...4ページのマンガが話題」という記事に、グロービスの代表の堀義人さんがこの記事について以下のようなコメントをしていた。


この記事を読んで思ったことを書いてみたい。最近思うのは、子供を多く産み育てることが「日本」と言うコミュニティにできる最大の貢献なのではないか、という点です。
理由はシンプルです。仮に誰も子供を産まなければ、「日本」と言うコミュニティは消滅します。だけど、子供を産み育てることにより、「日本」は存続し続けます。もっと広く「人類」ととらえても同義ですね。人類の存続のためには、子供を産み育てることが重要です。
当然子供を産み育てるのは時間的にも経済的にも負担となります。今の言葉で言えば「コスパに合わない」ものです。だからこそ、社会的な敬意が払われて然るべきだと思います。
だけど、結婚していないこと、子供がいないことに後ろめたい気持ちを持つ必要はないし、社会は干渉するべきではないと思います。基本的に自由ですし、社会全体が多様性を認めることが重要だと思うからです。それぞれが多様の価値観のままでいいのだと思います。
ちなみに、僕はやはり多くの子どもを産み・育てた人はやっぱり偉いと思ってしまういます。その分だけ多くの「生」を与える機会も創っているからです。
でも、基本的にはみんなそれぞれでいいと思いますね。(^^) 

二箇所赤くハイライトさせてもらったが、まず一つ目。そう、今は自由の時代なのである。基本的には多くの人が人の自由を侵害してはならないという考えを持つ。しかし、そうすると、結婚しないで子どもを作るインセンティブがなくなる。

二つ目の赤字が重要。何故人は「生命を増やす=多くの生を生むこと」が「善」と考えるのか?確かに、われわれ人間は、動物であり生物である。いくら近代的な人間像が終焉しても、生物であることはまだ認めるだろう。生物は自己複製をする。子孫を残す。

わわれれ人間の「生」は特殊だ。みんなが質的なクオリアの世界を生きる。そこには喜怒哀楽がある。物語がある。生まれて来なければよかったと思って、自分で死ぬ人もいる。自殺しなくても、ずっと苦しむ人もいる。一方、毎日が楽しくて生まれたことに感謝感謝という人もいる。いずれにせよ、みんな独自の世界を持つ。一人一宇宙なのである。客観などはない。全て主観の中での出来事。

そうした「生」は量には還元されないはずだ。そうしたクオリア世界をもつ「生」を増やせばなぜ善いといえるのか?既にそこにはわれわれの経験的な知が含まれてしまっている。

そもそもよく聞く「人類の発展」とか「繁栄」というのはどういうことか。人数が増えればいいのか?100億、1000億、1兆?火星に移住し、それでも足りなくなったらどんどん新しい場所を宇宙の彼方に探しにいく。宇宙は限りないなら、それがずっと続くのだろうか。

しかし、僕らはもう普通の生物や動物ではない。言語的な世界へ超越している。ただ子孫を残せば満足はしない。「子孫を残すのが善い」と理解して初めて子孫を残すのだ。

結局「善悪」は人それぞれ、というのが最終結論になる。子孫を数として増やせば増やすほどいい!と力強く確信する人もいるはずだ(どういう経験を積んだらそうなるのかは謎だが)。逆に、人間がいなくなって自然を取り戻すという人もいるかもしれない。それはそれで認めるしかない。

でも、重要なのは「人それぞれ」を認める、つまり「自由の相互承認」である。人それぞれ違った場所と身体を持ってうまれ、違う環境で異なった経験をして価値観や世界観を築く。であれば、どう生きるか、社会はどうあるべきかの考え方も違う。大事なのは、それを前提にその違いを尊重しつつも互いに危害を加えないように生きることだ。結果的にはそうなる。

なので、堀さんのいう「生は多ければ多いほどいい」というのは、「自由の相互承認」の上での一意見に過ぎない。誰もにでも徹底して主張できるのは「自由の相互承認」以外にはない。

みなさんは、何かやりたいことを5つ挙げろと言われたらすぐに答えられるでしょうか?子供の頃には生き生きと将来に漠然とした希望を持っていたのではないでしょうか。しかし、人間社会、特に日本においてはそうしたモチベーションが削ぎ落とされる教育が行われ、そのような教育を受けた人たちに囲まれ生活する中で、モチベーションが抑圧されてしまっています。

私自身はモチベーションがかなりあるほうですが、周囲を見ているとみんなやりたいことがなかったり、完全に社会によってモチベーションが削ぎ落とされている人々を多々見かけます。

本来、人はやりたいことがあってそれに向かっていろんな困難を乗り超え生きていくものです。それが本来的な在り方です。「幸せ」を求めるのが生ではないです。もちろん、やりたいことがあって生き生きするなら「幸せ」も訪れますがそれが生の本質ではないです。

これらの前提を基に、今われわれの社会には何が必要か考えてみましょう。

n   前提1:われわれは人とぶつからないように教育された

Ø  人と協力して協調するようなしつけ。ドリル教育。周りと同じやり方で同じようにやる。

n   前提2:人とぶつかるのを恐れるエートス。欲望が抑圧される

Ø  そのような教育で育ったわれわれは何かする際に人に頼んだり命令したりするのを恐れるようになっている。

n  結論: 今必要なことは、

1.        こうした大人たちの欲望を解放してあげること。

2.        子供たちへの教育をモチベーションを殺さずにしてみんななかよくできるような教育をする


 であります。

僕は、特に1番目、既にモチベーションを抑圧されてしまっている大人たちの欲望を解放し、方向づけし生き生きとしてほしいと思っています。みんなが生き生きとすれば世の中もよくなるでしょう。 

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