記述の基体(がらくた)

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カテゴリ: 歴史・社会・哲学

VALUという他のネットサービスとは一線を画する凄いサービスが公開された。このサービスのキャッチコピーは「あなたの価値をVALUでシェア」である。

valu
サービスを一言で言うと、株式市場に個人が上場できるみたいな感じ。個人的な第一印象(おそらく多くの人が抱いただろう)は、個人を金銭的価値に還元することへの嫌悪感。一挙一動が監視され、公然で何か話していて噛んだり滑ったら自分の株価が下がる、みたいなことを想像してしまった。ここまで行かなくとも、基本はそういうことだ。現状、ホリエモンさん、イケハヤさん、はあちゅうさんなど新しいもの好きで資本主義ラブな感じな人々中心に流行っているが、個人を金銭的な尺度でモロに測ることへの反感がこれからもっと出てきそう。

VALUの公式ツイッターに固定されているミッションは以下の通り。 

VALUは、夢や目標をどう実現していいかわからない方、金銭的な理由で実現できない方などが、継続的に支援者を募れる場所をつくりたいという思いで開発しました。発行主の情報、タイムライン、優待情報などをご確認いただき、皆様の「応援したいVALU」が見つかると幸いです。

「どう実現していいかわからない方」「金銭的な理由で実現できない方」を支援したいかは謎だが、大きな社会の流れでいえば「個人のエンパワーメント」である。

簡単にいうと、このサービスは個人が株のようなもの(VA)を発行し資金調達でき、投資家はその売買で投資家から優待サービスを受けたり、キャピタルゲインを狙える。建前的には、「継続的に応援」と響きはいいが、実態は短期や中長期に限らずキャピタルゲインが大半の理由であろう。

このVALUというサービスの概要は他のブログや公式サイトを見ていただくとして、ここでは、その影響について考えたい。一般人にはメリットないとか、インフルエンサーに金が集まるだけなど短絡的な議論が目立つが、ここではこのサービスが健全に普及した場合、VALUの発行者、VALUの購入者(投資家)、VALUの社会的な影響の三つの視点から考察したい。

(1)VALUの発行者にとっての「VALU」とは?
まず、VALUの発行者について考えよう。既にホリエモンさん、イケハヤさん、はあちゅうさんなど個人で活躍されている方々が中心に高額でそのVAが取引されている。

個人で資金調達して何ができるのか
VALUのミッションは個人の資金調達「頑張る個人を応援できるプラットフォーム」であるが、個人がお金を集めてどうするのか?

そこが(まだ)曖昧なのだ。個人でできることは限られている。イケハヤさんのような個人ベースで何人か雇ったりしている人や、youtuberのような個人技だと使い道が分かりやすい。既に有名であるか、或いはしっかりしたビジョンを提示できる人なら、すぐにお金を集めることができるだろう。銀行いったり、会社作ったり投資家周りしなくてもいいし、さらに返済義務もない。(後述するが、必然的に頑張らなければいけなくなるのではあるが)

でも、ある程度の規模のことをやろうとすると組織を作らなければいけないわけで、VALUで集めたお金を資本金に株式会社を作ることになるだろう。そうなると、どうなるか。イケハヤさんが1000万円VALUで調達し、会社を作って事業をする。会社を作ったなら企業価値を高めることになる。イケハヤさんはこの会社以外にもいろんな活動をしているわけでVA=企業の価値ではない。でも、会社がうまくいけば株価も上がるし(上場、非上場に限らず)VAも上がるだろう。なのでまぁそんなに問題はないのかもしれない。(このあたりは利益相反になるとか、詳しい人に聞いてみたいところだ)

資金調達して得た金は自由に使えるか?
ここで、一つの疑問が出る。

資金調達したお金を、遊んだり生活費にして使い切ってしまうのではないか?

お金の使い道の公開義務はない。イケハヤさんは既に楽に1000万円ほど資金調達したが、それをどう使おうが法的には問題ない。

その問題は、投資家の態度に委ねられるだろう。評判=株価(VA)なので、定期的に情報開示(どうやって金を使っているかや今後の活動方針)をしろという圧力をかければ済む話だ。企業の場合は、公開企業であればIRをしてこれからどんな事業をするかを伝え、その結果を定期的に情報共有していく。

VA発行者も同じようなことが求められ、やらない場合は非難を浴びVAは売られ価値が下がる。これは発行者は避けたい。価値がさがると新たにVA発行時には低価格でしか発行できなくなるし、一番きついのは自分の価値が「誰にでも分かる形で」下がることだ。それ故、必然的に投資家と歩調を合わせることになるだろう。発行者がどれだけ頑張るかは「投資家」の日々の厳しい目にかかっている。これは株式市場と同じ。

これについてもう少し掘り下げたい。 自分の価値が客観的な数字で表されることについて、実存的な視点でみるとどうか?要は主観的な生、の観点。これはかなりしんどいと思う。既にメディアに広く出ている人はネットの掲示板など影でこそこそ言われており、ある程度の慣れはあるかもしれないが、それが一つの「超客観的な数字」に集約されてしまうのだ。2ちゃんねるなどは見ないようにすることはできるが、VALUの数字はそうはいかないだろう。

ちょっとした失敗で、株価が下がり変な根拠のない噂で暴落することもありえる。事実誤認などでの株価の動きは心臓に悪そう。逆に、正しく評価され数字でもそれが反映されたら承認された感は強いだろう。他人からの目も気になるはず。友達と会っても「今日株価悪いね〜」とかいう話題になるのだろうか。VA発行するならそのようなことを承知の上で行う必要がある。

 
(2)VALUの購入者(投資家)にとっての「VALU」とは?
VALUの購入者にとってはどうだろうか?これは前述の通り、以下の三つだ。

  1. 好きな人を応援できる
  2. 優待サービスを受けられる
  3. キャピタルゲインを狙える
ひとつずつ見ていこう。

1,ホリエモンが好きなら、投資すればホリエモンは喜ぶ。或いは全然知らない人でもその活動方針やプロフィールを見て共感し投資してもいい。厳密に言うと、発行者が自身のVAを売るときには、彼らにお金が届くが、流通市場で売買しても彼らに金銭的な増減はない。ただ、長期保有する場合は、株価の下支えとなり彼らに貢献できる。

2,優待サービスは普通の株式と同じだ。ホリエモンの株(VA)を持てばそこでしか手に入らないホリエモンからの情報をゲットできたりする。意外とこれ狙いの人もいるかもしれないが、個人的には次のキャピタルゲインがメインだと思う。

3,そして一番大きいのがキャピタルゲイン。買った価格より高値で売れば差額が利益となる。まだ売れてないときに投資していれば、彼/彼女が成功したときに大きなキャピタルゲインを得ることができる。株式市場と同じで市場価格はその発行者(企業)に直接関係するニュースだけでなく間接的な情報も含め上下する。ホリエモンに投資していて、「日本政府がロケット事業への助成金を決めた」などのニュースが出れば一時的にホリエモンのVAは上がるだろう。(ホリエモンは宇宙事業をやっている)

所有権と議決権がないから、VA発行者のやりたい放題!?
さて、VALUが株式と違う最も大きな点は、それが所有権や議決権やを含まないということだ(あと配当も)。株式会社であればその所有者は株主である。VALUの場合、発行者を所有はできないししたくもないだろう。それにその人の方針に口出しできる議決権もない。だから、発行者のやりたい放題。

でも、実際にはそうならないだろう。ある程度の知名度を持ったら、公的に責任を負うことになる。なぜなら、(1)で書いた通り、その人の価値が客観的数字となり世界に公開される。下手なことをすれば価値が下がり、誰も相手をしてくれなくなる。

企業であれば、それが経営者、従業員、株主など誰の責任で潰れたのかは議論の余地があるが、個人の場合はその人が100%。自分であることはやめれない。自分が上場すると、あらゆる言動が監視されることになる。(もちろん、VALUの現状ではインフラとして普及していないのでそんなことにはならないが、これが証券取引所に上場されているような株のような流動性を持ち一般の人にも普及すればそうなる)

上場している個人が死んだらどうなるか
余談であるが、投資した株の個人が死んでしまったらどうなるのか?会社はgoing concernとして基本的には永久に存続する想定だが、個人はいつか死んでしまう。が、これは問題ない。むしろこれが醍醐味となるかもしれない。死んだら新規に株式発行はないだろうが流通市場は残る。例えば、最近田中角栄の本が売れたが、すると田中角栄株が値上がりする。こうして、過去の偉人は永久に歴史に残るのである。

(3)社会にとっての「VALU」とは?

最後に、「VALU」の社会的な影響について考えたい。

一般人への影響:人を数字的価値に還元して判断するようになる
まず、よくネット上で聞かれるのは「一般人には何の影響もない」というもの。これは違う。個人が上場されるようになれば、当該の個人を「客観的な価値指標」で簡単に価値判断できるようになる(ここに人格を価値化することに対する批判が出るだろうが)。初めて会った人、知った人でもその人のVA(株価)を見れば、「時価総額10億円、すげ〜」と市場で揉まれた客観的な数字で分かる。こうなると、上場していない一般人も自分や周囲の身近な人達を「数字的な価値」で見る習慣が身につくかもしれない。これはあまり望ましくないように感じる。

経済活動の主な担い手が企業から個人へ
次に、これまでは、企業が上場し資金調達し社会的に責任を担いつつ、大規模な事業に取り組んでいた。これが個人に分散されていく可能性がある。VALUを提供している企業がどのようなビジョンを持っているのかは分からない。ビジョンの通り一部の「個人的に資金調達したい人」向けという軸は強いのだろうか?或いは、いずれは全ての人間が上場されるような極端な展開も視野に入れているのだろうか。

企業(法人)の世界を見てみると、日本には約400万の企業(個人事業主含む)がありそのうち約4000社(日本の全ての証券取引所)が上場している。ざっくり0.1%だ。ごくわずかの企業しか上場していないのだ。上場している企業は社会的な責任を明確に負っているが大半の企業は情報開示もしていない。(ちなみに個人で考えると、日本の人口を1億2700万人として0.1%は12万7000人くらい)

個人の上場が普及するには、社会が、個人が中心となり経済活動等が進むという在り方になる必要がある。上述の通り、ブロガーやyoutuberなど個人中心であればそれでいいが、現状の経済活動の主流は法人だ。企業が上場するというのは、大規模にビジネスするためだ。もちろん透明性高めた組織づくりとか、知名度高めて従業員のためになるなど細かな目的もあるが、主には事業拡大である。「資金調達=大きなことするため=多くの人で取り組む」である以上、法人というやり方が望ましい。なので企業がブロックチェーン技術使ってトークンを発行する仕組みは欧米で既に大規模調達の結果が出ている。

上場した個人が集まりチームを組んで、資金調達し頑張るということも考えられなくはない。従業員まで上場していて、上場銘柄の集まりの投資信託みたいになってしまう。そうなると世界やわれわれ個人の生き方も大部変わるだろう。そこまで進むとどうなるのだろう。時間をとって別途考えみたい。

ツイッターなどと同じように、こういうインフラ系のサービスは今後どのように使われるかは未知数である。この社会的な影響については何か小説みたいので描くのが一番分かりやすそう。そういうのがあると一つの道筋としてVALUのようなサービスの展開が加速するかもしれない。 

以上、VALUが健全に育った場合、発行者、投資家と社会にどのような影響があるかについてざっくり書いた。

「結婚はエラい、子供がいればもっとエライ」と思う人へ...4ページのマンガが話題」という記事に、グロービスの代表の堀義人さんがこの記事について以下のようなコメントをしていた。


この記事を読んで思ったことを書いてみたい。最近思うのは、子供を多く産み育てることが「日本」と言うコミュニティにできる最大の貢献なのではないか、という点です。
理由はシンプルです。仮に誰も子供を産まなければ、「日本」と言うコミュニティは消滅します。だけど、子供を産み育てることにより、「日本」は存続し続けます。もっと広く「人類」ととらえても同義ですね。人類の存続のためには、子供を産み育てることが重要です。
当然子供を産み育てるのは時間的にも経済的にも負担となります。今の言葉で言えば「コスパに合わない」ものです。だからこそ、社会的な敬意が払われて然るべきだと思います。
だけど、結婚していないこと、子供がいないことに後ろめたい気持ちを持つ必要はないし、社会は干渉するべきではないと思います。基本的に自由ですし、社会全体が多様性を認めることが重要だと思うからです。それぞれが多様の価値観のままでいいのだと思います。
ちなみに、僕はやはり多くの子どもを産み・育てた人はやっぱり偉いと思ってしまういます。その分だけ多くの「生」を与える機会も創っているからです。
でも、基本的にはみんなそれぞれでいいと思いますね。(^^) 

二箇所赤くハイライトさせてもらったが、まず一つ目。そう、今は自由の時代なのである。基本的には多くの人が人の自由を侵害してはならないという考えを持つ。しかし、そうすると、結婚しないで子どもを作るインセンティブがなくなる。

二つ目の赤字が重要。何故人は「生命を増やす=多くの生を生むこと」が「善」と考えるのか?確かに、われわれ人間は、動物であり生物である。いくら近代的な人間像が終焉しても、生物であることはまだ認めるだろう。生物は自己複製をする。子孫を残す。

わわれれ人間の「生」は特殊だ。みんなが質的なクオリアの世界を生きる。そこには喜怒哀楽がある。物語がある。生まれて来なければよかったと思って、自分で死ぬ人もいる。自殺しなくても、ずっと苦しむ人もいる。一方、毎日が楽しくて生まれたことに感謝感謝という人もいる。いずれにせよ、みんな独自の世界を持つ。一人一宇宙なのである。客観などはない。全て主観の中での出来事。

そうした「生」は量には還元されないはずだ。そうしたクオリア世界をもつ「生」を増やせばなぜ善いといえるのか?既にそこにはわれわれの経験的な知が含まれてしまっている。

そもそもよく聞く「人類の発展」とか「繁栄」というのはどういうことか。人数が増えればいいのか?100億、1000億、1兆?火星に移住し、それでも足りなくなったらどんどん新しい場所を宇宙の彼方に探しにいく。宇宙は限りないなら、それがずっと続くのだろうか。

しかし、僕らはもう普通の生物や動物ではない。言語的な世界へ超越している。ただ子孫を残せば満足はしない。「子孫を残すのが善い」と理解して初めて子孫を残すのだ。

結局「善悪」は人それぞれ、というのが最終結論になる。子孫を数として増やせば増やすほどいい!と力強く確信する人もいるはずだ(どういう経験を積んだらそうなるのかは謎だが)。逆に、人間がいなくなって自然を取り戻すという人もいるかもしれない。それはそれで認めるしかない。

でも、重要なのは「人それぞれ」を認める、つまり「自由の相互承認」である。人それぞれ違った場所と身体を持ってうまれ、違う環境で異なった経験をして価値観や世界観を築く。であれば、どう生きるか、社会はどうあるべきかの考え方も違う。大事なのは、それを前提にその違いを尊重しつつも互いに危害を加えないように生きることだ。結果的にはそうなる。

なので、堀さんのいう「生は多ければ多いほどいい」というのは、「自由の相互承認」の上での一意見に過ぎない。誰もにでも徹底して主張できるのは「自由の相互承認」以外にはない。

みなさんは、何かやりたいことを5つ挙げろと言われたらすぐに答えられるでしょうか?子供の頃には生き生きと将来に漠然とした希望を持っていたのではないでしょうか。しかし、人間社会、特に日本においてはそうしたモチベーションが削ぎ落とされる教育が行われ、そのような教育を受けた人たちに囲まれ生活する中で、モチベーションが抑圧されてしまっています。

私自身はモチベーションがかなりあるほうですが、周囲を見ているとみんなやりたいことがなかったり、完全に社会によってモチベーションが削ぎ落とされている人々を多々見かけます。

本来、人はやりたいことがあってそれに向かっていろんな困難を乗り超え生きていくものです。それが本来的な在り方です。「幸せ」を求めるのが生ではないです。もちろん、やりたいことがあって生き生きするなら「幸せ」も訪れますがそれが生の本質ではないです。

これらの前提を基に、今われわれの社会には何が必要か考えてみましょう。

n   前提1:われわれは人とぶつからないように教育された

Ø  人と協力して協調するようなしつけ。ドリル教育。周りと同じやり方で同じようにやる。

n   前提2:人とぶつかるのを恐れるエートス。欲望が抑圧される

Ø  そのような教育で育ったわれわれは何かする際に人に頼んだり命令したりするのを恐れるようになっている。

n  結論: 今必要なことは、

1.        こうした大人たちの欲望を解放してあげること。

2.        子供たちへの教育をモチベーションを殺さずにしてみんななかよくできるような教育をする


 であります。

僕は、特に1番目、既にモチベーションを抑圧されてしまっている大人たちの欲望を解放し、方向づけし生き生きとしてほしいと思っています。みんなが生き生きとすれば世の中もよくなるでしょう。 

われわれは一人ひとり自分の世界を生きている。歴史や社会という文脈の中に生まれ、他者と共同する価値観や感受性はあるが、それでも固有性を持つ。フェティシズムや世界像は誰ひとりとして同じではない。

今の時代はまだ、こうした一人ひとりの個性が十分に発揮できない。人それぞれ何かしらその人だけの固有があるということは、他の人が知らないということだ。他の人が知らない世界について知っている。外国語の翻訳のような高度なことでなくてよい。地元のラーメン屋について詳しいとか、ニート生活5年がどういうものか、とかどんなに小さなこと、無価値に見えることでもいいのだ。

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さて、以下、筑波大学助教授の落合陽一さんとホリエモンの対談内容。いずれみんなが好きなことをして生きるという未来の話。

落合:いずれ、みんながエンターテイナーやアーティストになる。「そんなの自分には無理だ、エンターテイナーにはなれないよ」と思う人も多いだろうけど……。

堀江:絶対なれる! 俺、ヒモデブニート(※注)に「芸人を名乗れ」というミッションを与えたの。彼はいま「ヒモデブニート芸人」と名乗っている。そうしただけで、なんかバリューが上がった気がするでしょ?

【※注:堀江氏が運営するているHIU(堀江貴文イノベーション大学校。会員制のコミュニケーションサロン)の会員の通称“彷徨うヒモデブニート”氏のこと。仕事もなくてぶらぶらしてた不器用な若者】

落合:いつでもテレビに出られますね(笑)。 たしかに、誰にでも何か才能があるはずなんですよ。大学で学生と話していても、最初は何もやりたいことがないと言うんですが、半年ぐらいすると「実は音楽が好きで」とか言い出す。そこから独自のテーマが見つかったりするんです。自分ひとりぐらいならそれで食っていける。

堀江:知り合いに「アイスマン福留」という人がいます。40歳近くまで職を転々としてきたんだけど、最終的に落ち着いた仕事は「コンビニアイス評論家」。アイスマニアというだけなんだけど、けっこうテレビに出ているからね。

落合:たとえば商社などに勤めていたら、「芸人」になれる人は大勢いると思いますよ。接着剤の営業だけ10年やっていたという人もいる。そんな人は「接着剤芸人」になれますよね。

堀江:ミニマムな暮らしさえ受け入れれば、それでやっていける社会に変わったんです。肉を焼くのがものすごく得意なら「バーベキュー芸人」でいい。100人のコミュニティに1人くらいなら、たぶん成り立ちますよ。
http://news.livedoor.com/article/detail/12856473/

一人一宇宙であることを誇りに、自分だけが詳しいこと語ろう。

羽生名人、イチロー、錦織圭はみんな分かりやすい1つの領域にコミットできた。もちろんそこには悪戦苦闘があったはずで、継続した意志には敬服せざるをえない。でも、みんながみんなそういう登る山にコミットできるわけではない。

社会的にみれば何もできなかった人々は無数にいる。こういう人たちに何とか価値を見出すことは社会的に重要である。もちろん、僕らはみんな生存するために努力がまだ必要な時代にいる。社会的に無能な人間は、積極的に自分の経験が何か社会に貢献できるかを見出し、発信していくべきだ。

これからは、自分の好きなことをやるだけで、それが社会的に認められ、物語として承認される時代になる。今までは、業界や職種により一般的な世の中の「視点」が存在していた。しかし、これからは技術革新など環境の変化で誰もがWINWINになれる。

人はみな固有の経験をして育ち、自分だけの感受性を磨き、世界像を作る。これまではその物語を妥協して、社会一般に合わせる必要があった。それが就職である。しかし、これからはその物語をそのまま発展させて自分独自の物語を歩むことができる。これまでであれば誰からも承認されず、自我(物語)は安定する機会がなかったが、これからは今だに残る大きな物語(先の世間の視点)が解体され、個々の物語に重心が移っていく。

フロイト的に言えば、われわれはみな、幼少期の全知全能に回帰したいと願う。しかし、現実世界では同じようにそうしたベクトルを持つ他者と利害調整をし、現実法則に従う必要がある。今後は、こうした調整がもっと寛容になる。互いに承認の椅子取りゲームをしなくても、本来持つ感受性に沿って人を評価し、自分を発揮しているだけで、全知全能への回帰への欲望をまとめることができる。

こういう時代への移行には何をすればいいか?

一人ひとりが、包み隠さず自分を表現し発信することが大切だ。ニートだろうが、犯罪者だろうが何でもいい。自分の固有の経験をもっと発信すべき。僕らは同じ人間という生物の身体を共有しているのだ。誰かしらの共感を得るはず、徐々にそこから物語を固めていけばいいのだ。

youtubeやブログからはじまり、今ではライブ中継やオンライン決済も簡単にできる。 どんどん個人がエンパワーメントされている。自分固有の能力を提供し、それを糧に生きていけるのだ。全世界で個人レベルでのクラウドソーシングは増々増えていくであろう。繰り返しになるが、われわれがすべきは自分の固有の経験や能力を明確化し、発信することである。

天才をどう作るか?

という議論、以下のYOUTUBEのグロービスの動画で観られる。

スピーカー:茂木健一郎 脳科学者 
聴き手:國領二郎 慶應義塾大学 教授 

という如何にも面白そうな布陣。

天才をどう作るか?

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このテーマを考えてみたい。

まず、「天才をどう作るか」という議論ができているこの時点で既に「天才=◯◯」という前提があることに注目すべきである。恐らくはLeonardo da Vinciとか、あるいは抽象的に「日本を良くするためにリーダーシップ取れる人」「破壊的イノベーションできる人」とか。 

これを突き詰めると、

「世界は◯◯のようになってほしい」という前提があり、その「ライン」で「その方向に凄い貢献できる人」がここで「天才」と呼ばれている。 


ん?


もしも、「世界は◯◯のようになってほしい」という明確なビジョンがあれば、それに必要な知識やスキルを与えればいいのではないか?旧帝国大学が官僚人材を作ったように。

問題の根本は、「世界は◯◯のようになってほしい」という明確なビジョンがないことだ。だから、そのラインで「凄い」人がどんな人か想像できず、育ていることができないのだ。

むしろそうしたビジョンを与えてくれる人、世界に流れを作ってくれる人が「天才」と言われる。

だから、そもそも僕らが分からないものを教えてくれるのが天才なのだが、その天才を作ろうとするのが背理だと分かる。

じゃあ錦織圭のような天才はどうなる?テニス界における天才であれば「テニスがうまい」という具体的なラインがあるにも関わらず、僕らは狙ってこうした天才を作ることができない。

これも実は同じこと。

「テニスがうまい」ということが複雑すぎて定義できないのだ。だからそれを目掛けた教育も存在しない。こういう筋肉があればいい。こういうスイングであればいい、という単純なものではない。

結局、天才は勝手に出てくる。

だから待っていればいい。

僕らがやるべきはある程度「定義できる優秀な人材」をしっかり教育を作って「定義できるよいこと」を着々と実現することなのではないか。


 

切り落とされたいまここ VS ビッグデータ について述べたい。これは昨日、ビッグデータをもとに「社会の誰もが幸せな実存を持てる」社会を作るということに対する反論になっている。

われわれには自由意志がある。
(ないというクソ野郎はもう一度しっかり考えてみよう)

社会はわれわれにある前提を与えるだけ。その前提を前に何を選ぶかはあなた次第。

道端で札束の入った財布が落ちていたとしよう。周りには誰もいない。あなたはどうする?

こう聞かれれば、近くの交番などに届ける、と答えるだろう。

しかし、実際にリアルな体験としてさまざまな状況の中(=ある前提の下)この財布に出会ったらどうするだろうか?

仕事を失い新しい職が見つからず2ヶ月収入がないとき。
安定した仕事について300万円のボーナスが出たとき。
上司に怒られてイライラしているとき。
明日の彼女とのデートが楽しみでルンルン気分のとき。
家族や周りの人との関係がうまくいってないとき。

その前提によって、同じ物理的な状況は異なるものに見えるはずだ。

さて、何が言いたいかというと、

因果関係を見つけることは非常に難しい。

例えば、私が「中国語のオンライン語学サービス」を作ろうとするとしよう。生徒のモチベーションを高めるための施策を考えるとき、そこにいろいろな想定をしなくてはならない。例えば、サービスをアプリ化したら、毎日夜にメッセージを送って中国語学習を頑張るように促す、とか。でも、それを人によってどう捉えるかは分からない。

うわ、また勉強か、いやだいやだ
ん、何か来た まいいや
おお、勉強しなきゃ
ん勉強いやだな、でも読んでみると面白い、勉強しよ

などなど。結局その施策が人に対してどのような因果関係を作るかは分からない。そこで、いわゆる行動主義的な観点が導入される。要は、この施策を打った後、実際に勉強した人を集計する。さらに、この施策の前に毎日勉強している人は除外する。すると、今回の施策で効果があった(らしい)人が残る。

そしてその人達の属性を調べる。すると、◯◯という属性の人にはこの施策が効果がある、となる。もちろん、その中には偶然勉強を始めた人もいるし、施策が効いても翌日にはやめてしまう人もいる。このようなリアルな世界を、行動主義的なあらゆる多様を捨象したデータはどれだけ役に立つのだろう。

でも、それ以外に方法はない。アメリカの国の施策だってシリコンバレーのベンチャー企業だって、このやり方を超研ぎ澄ましたような延長にある。結局、各個人が実存的にどのような前提の前でどのような自由意志で決定をしたのかは分からない。

大事なのは、それらはいくらビッグデータを細かくとっていってもずっと「仮説」である、ということ。
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例えば、テキストだけのビッグデータはすぐに限界に行き着く。言語化すればあらゆるありありとした「いま、ここ」の質的経験が消えてしまう。先の語学の例でいえば、生徒の時点Aの状態を把握するために、「今、IT企業の受付をやっている25歳」「◯◯出身で小学校は〜」などなどいろんなテキスト情報がある。時点Aで今の気持ちをヒアリングしても「将来に対して不安」とかまあなんでもいいが、テキストとなってしまう。
 
ハイデガーも指摘しているように、われわれのありありとした「いま、ここ」の体験は、言語化してしまうと平板化してしまう。クオリア的ありあり感が捨象される。

これがビッグデータ処理における言語の限界。

では、画像、動画、音声、匂いなどを取ればいいのか?物理学に疎いので詳しくは分からないが、これらは素粒子のダンスの波長の違いだとしよう。だとすればそういう情報をビッグデータとして集めればいいのか。仮に僕の今からのすべての体験をあらゆる形式のデータで保存していくとしよう。五感すべて。もちろん、そのときの採取のための道具のスペックに依る。ここまでのビッグデータを全人口分とっていろいろ分析すれば(とんでもない天文学的数字の情報量!処理能力もとてつもなく必要になる)かなりのパターンを見出し未来を予測できるだろう。 

だが、上述した通りあくまで人工知能が見出した因果関係は「仮説」にとどまる。理論上、人間はそれに抗う可能性を持っているということだ。

時代が進むにつれリベラルになって人と人との繋がりが弱くなる。「自由」「平等」などの価値が実現されていくにつれ、人への非合理的な干渉がなくなり人と人との関係は薄くなる。

ただ、人と人の関係とは通常、助けを求め、求められたり、手を差し伸べたり、贈与したりすることによって成り立っているのではないか。

もともとはそうして共同体は成り立っていた。そこで人間はどうにかして生きていた。

しかし、近代以降そうした共同体での干渉が悪しきものとなり独立的な自由な人間という理想に向かうようになった。

すると、他人に少しでも干渉すると「自由」を損なった、人それぞれの意見や世界観がある、など各自がバラバラになっていく。そうすると、社会という荒野にむき出しの個人。人々に包摂されない個人となっていく。

すると本末転倒、もともとの共同体がなぜあったのか。それを忘れ人々はバラバラになり、自己承認をし自我を安定させてくれる他人も失うことになる。

今必要なのは、誰でもいいから深く交わり、熱く語り合うことなのではないか。

 af

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