記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 歴史・社会・哲学

われわれは一人ひとり自分の世界を生きている。歴史や社会という文脈の中に生まれ、他者と共同する価値観や感受性はあるが、それでも固有性を持つ。フェティシズムや世界像は誰ひとりとして同じではない。

今の時代はまだ、こうした一人ひとりの個性が十分に発揮できない。人それぞれ何かしらその人だけの固有があるということは、他の人が知らないということだ。他の人が知らない世界について知っている。外国語の翻訳のような高度なことでなくてよい。地元のラーメン屋について詳しいとか、ニート生活5年がどういうものか、とかどんなに小さなこと、無価値に見えることでもいいのだ。

human


さて、以下、筑波大学助教授の落合陽一さんとホリエモンの対談内容。いずれみんなが好きなことをして生きるという未来の話。

落合:いずれ、みんながエンターテイナーやアーティストになる。「そんなの自分には無理だ、エンターテイナーにはなれないよ」と思う人も多いだろうけど……。

堀江:絶対なれる! 俺、ヒモデブニート(※注)に「芸人を名乗れ」というミッションを与えたの。彼はいま「ヒモデブニート芸人」と名乗っている。そうしただけで、なんかバリューが上がった気がするでしょ?

【※注:堀江氏が運営するているHIU(堀江貴文イノベーション大学校。会員制のコミュニケーションサロン)の会員の通称“彷徨うヒモデブニート”氏のこと。仕事もなくてぶらぶらしてた不器用な若者】

落合:いつでもテレビに出られますね(笑)。 たしかに、誰にでも何か才能があるはずなんですよ。大学で学生と話していても、最初は何もやりたいことがないと言うんですが、半年ぐらいすると「実は音楽が好きで」とか言い出す。そこから独自のテーマが見つかったりするんです。自分ひとりぐらいならそれで食っていける。

堀江:知り合いに「アイスマン福留」という人がいます。40歳近くまで職を転々としてきたんだけど、最終的に落ち着いた仕事は「コンビニアイス評論家」。アイスマニアというだけなんだけど、けっこうテレビに出ているからね。

落合:たとえば商社などに勤めていたら、「芸人」になれる人は大勢いると思いますよ。接着剤の営業だけ10年やっていたという人もいる。そんな人は「接着剤芸人」になれますよね。

堀江:ミニマムな暮らしさえ受け入れれば、それでやっていける社会に変わったんです。肉を焼くのがものすごく得意なら「バーベキュー芸人」でいい。100人のコミュニティに1人くらいなら、たぶん成り立ちますよ。
http://news.livedoor.com/article/detail/12856473/

一人一宇宙であることを誇りに、自分だけが詳しいこと語ろう。

羽生名人、イチロー、錦織圭はみんな分かりやすい1つの領域にコミットできた。もちろんそこには悪戦苦闘があったはずで、継続した意志には敬服せざるをえない。でも、みんながみんなそういう登る山にコミットできるわけではない。

社会的にみれば何もできなかった人々は無数にいる。こういう人たちに何とか価値を見出すことは社会的に重要である。もちろん、僕らはみんな生存するために努力がまだ必要な時代にいる。社会的に無能な人間は、積極的に自分の経験が何か社会に貢献できるかを見出し、発信していくべきだ。

これからは、自分の好きなことをやるだけで、それが社会的に認められ、物語として承認される時代になる。今までは、業界や職種により一般的な世の中の「視点」が存在していた。しかし、これからは技術革新など環境の変化で誰もがWINWINになれる。

人はみな固有の経験をして育ち、自分だけの感受性を磨き、世界像を作る。これまではその物語を妥協して、社会一般に合わせる必要があった。それが就職である。しかし、これからはその物語をそのまま発展させて自分独自の物語を歩むことができる。これまでであれば誰からも承認されず、自我(物語)は安定する機会がなかったが、これからは今だに残る大きな物語(先の世間の視点)が解体され、個々の物語に重心が移っていく。

フロイト的に言えば、われわれはみな、幼少期の全知全能に回帰したいと願う。しかし、現実世界では同じようにそうしたベクトルを持つ他者と利害調整をし、現実法則に従う必要がある。今後は、こうした調整がもっと寛容になる。互いに承認の椅子取りゲームをしなくても、本来持つ感受性に沿って人を評価し、自分を発揮しているだけで、全知全能への回帰への欲望をまとめることができる。

こういう時代への移行には何をすればいいか?

一人ひとりが、包み隠さず自分を表現し発信することが大切だ。ニートだろうが、犯罪者だろうが何でもいい。自分の固有の経験をもっと発信すべき。僕らは同じ人間という生物の身体を共有しているのだ。誰かしらの共感を得るはず、徐々にそこから物語を固めていけばいいのだ。

youtubeやブログからはじまり、今ではライブ中継やオンライン決済も簡単にできる。 どんどん個人がエンパワーメントされている。自分固有の能力を提供し、それを糧に生きていけるのだ。全世界で個人レベルでのクラウドソーシングは増々増えていくであろう。繰り返しになるが、われわれがすべきは自分の固有の経験や能力を明確化し、発信することである。

天才をどう作るか?

という議論、以下のYOUTUBEのグロービスの動画で観られる。

スピーカー:茂木健一郎 脳科学者 
聴き手:國領二郎 慶應義塾大学 教授 

という如何にも面白そうな布陣。

天才をどう作るか?

ts

このテーマを考えてみたい。

まず、「天才をどう作るか」という議論ができているこの時点で既に「天才=◯◯」という前提があることに注目すべきである。恐らくはLeonardo da Vinciとか、あるいは抽象的に「日本を良くするためにリーダーシップ取れる人」「破壊的イノベーションできる人」とか。 

これを突き詰めると、

「世界は◯◯のようになってほしい」という前提があり、その「ライン」で「その方向に凄い貢献できる人」がここで「天才」と呼ばれている。 


ん?


もしも、「世界は◯◯のようになってほしい」という明確なビジョンがあれば、それに必要な知識やスキルを与えればいいのではないか?旧帝国大学が官僚人材を作ったように。

問題の根本は、「世界は◯◯のようになってほしい」という明確なビジョンがないことだ。だから、そのラインで「凄い」人がどんな人か想像できず、育ていることができないのだ。

むしろそうしたビジョンを与えてくれる人、世界に流れを作ってくれる人が「天才」と言われる。

だから、そもそも僕らが分からないものを教えてくれるのが天才なのだが、その天才を作ろうとするのが背理だと分かる。

じゃあ錦織圭のような天才はどうなる?テニス界における天才であれば「テニスがうまい」という具体的なラインがあるにも関わらず、僕らは狙ってこうした天才を作ることができない。

これも実は同じこと。

「テニスがうまい」ということが複雑すぎて定義できないのだ。だからそれを目掛けた教育も存在しない。こういう筋肉があればいい。こういうスイングであればいい、という単純なものではない。

結局、天才は勝手に出てくる。

だから待っていればいい。

僕らがやるべきはある程度「定義できる優秀な人材」をしっかり教育を作って「定義できるよいこと」を着々と実現することなのではないか。


 

切り落とされたいまここ VS ビッグデータ について述べたい。これは昨日、ビッグデータをもとに「社会の誰もが幸せな実存を持てる」社会を作るということに対する反論になっている。

われわれには自由意志がある。
(ないというクソ野郎はもう一度しっかり考えてみよう)

社会はわれわれにある前提を与えるだけ。その前提を前に何を選ぶかはあなた次第。

道端で札束の入った財布が落ちていたとしよう。周りには誰もいない。あなたはどうする?

こう聞かれれば、近くの交番などに届ける、と答えるだろう。

しかし、実際にリアルな体験としてさまざまな状況の中(=ある前提の下)この財布に出会ったらどうするだろうか?

仕事を失い新しい職が見つからず2ヶ月収入がないとき。
安定した仕事について300万円のボーナスが出たとき。
上司に怒られてイライラしているとき。
明日の彼女とのデートが楽しみでルンルン気分のとき。
家族や周りの人との関係がうまくいってないとき。

その前提によって、同じ物理的な状況は異なるものに見えるはずだ。

さて、何が言いたいかというと、

因果関係を見つけることは非常に難しい。

例えば、私が「中国語のオンライン語学サービス」を作ろうとするとしよう。生徒のモチベーションを高めるための施策を考えるとき、そこにいろいろな想定をしなくてはならない。例えば、サービスをアプリ化したら、毎日夜にメッセージを送って中国語学習を頑張るように促す、とか。でも、それを人によってどう捉えるかは分からない。

うわ、また勉強か、いやだいやだ
ん、何か来た まいいや
おお、勉強しなきゃ
ん勉強いやだな、でも読んでみると面白い、勉強しよ

などなど。結局その施策が人に対してどのような因果関係を作るかは分からない。そこで、いわゆる行動主義的な観点が導入される。要は、この施策を打った後、実際に勉強した人を集計する。さらに、この施策の前に毎日勉強している人は除外する。すると、今回の施策で効果があった(らしい)人が残る。

そしてその人達の属性を調べる。すると、◯◯という属性の人にはこの施策が効果がある、となる。もちろん、その中には偶然勉強を始めた人もいるし、施策が効いても翌日にはやめてしまう人もいる。このようなリアルな世界を、行動主義的なあらゆる多様を捨象したデータはどれだけ役に立つのだろう。

でも、それ以外に方法はない。アメリカの国の施策だってシリコンバレーのベンチャー企業だって、このやり方を超研ぎ澄ましたような延長にある。結局、各個人が実存的にどのような前提の前でどのような自由意志で決定をしたのかは分からない。

大事なのは、それらはいくらビッグデータを細かくとっていってもずっと「仮説」である、ということ。
bd


例えば、テキストだけのビッグデータはすぐに限界に行き着く。言語化すればあらゆるありありとした「いま、ここ」の質的経験が消えてしまう。先の語学の例でいえば、生徒の時点Aの状態を把握するために、「今、IT企業の受付をやっている25歳」「◯◯出身で小学校は〜」などなどいろんなテキスト情報がある。時点Aで今の気持ちをヒアリングしても「将来に対して不安」とかまあなんでもいいが、テキストとなってしまう。
 
ハイデガーも指摘しているように、われわれのありありとした「いま、ここ」の体験は、言語化してしまうと平板化してしまう。クオリア的ありあり感が捨象される。

これがビッグデータ処理における言語の限界。

では、画像、動画、音声、匂いなどを取ればいいのか?物理学に疎いので詳しくは分からないが、これらは素粒子のダンスの波長の違いだとしよう。だとすればそういう情報をビッグデータとして集めればいいのか。仮に僕の今からのすべての体験をあらゆる形式のデータで保存していくとしよう。五感すべて。もちろん、そのときの採取のための道具のスペックに依る。ここまでのビッグデータを全人口分とっていろいろ分析すれば(とんでもない天文学的数字の情報量!処理能力もとてつもなく必要になる)かなりのパターンを見出し未来を予測できるだろう。 

だが、上述した通りあくまで人工知能が見出した因果関係は「仮説」にとどまる。理論上、人間はそれに抗う可能性を持っているということだ。

時代が進むにつれリベラルになって人と人との繋がりが弱くなる。「自由」「平等」などの価値が実現されていくにつれ、人への非合理的な干渉がなくなり人と人との関係は薄くなる。

ただ、人と人の関係とは通常、助けを求め、求められたり、手を差し伸べたり、贈与したりすることによって成り立っているのではないか。

もともとはそうして共同体は成り立っていた。そこで人間はどうにかして生きていた。

しかし、近代以降そうした共同体での干渉が悪しきものとなり独立的な自由な人間という理想に向かうようになった。

すると、他人に少しでも干渉すると「自由」を損なった、人それぞれの意見や世界観がある、など各自がバラバラになっていく。そうすると、社会という荒野にむき出しの個人。人々に包摂されない個人となっていく。

すると本末転倒、もともとの共同体がなぜあったのか。それを忘れ人々はバラバラになり、自己承認をし自我を安定させてくれる他人も失うことになる。

今必要なのは、誰でもいいから深く交わり、熱く語り合うことなのではないか。

 af

ウーマンラッシュアワー村本大輔はその歯に衣着せない物言いでズバリ本質を突き、最近よく知識人や経済界との交流している。「土曜The NIGHT」で社会学者の宮台真司にも本質を突く質問をいくつもぶつけていた。今日はその中でも、「なぜ本を読む必要があるのか」ということについて考えたい。宮台もこの問いに答えてはいたが、村本が根本的に知りたかったことには答えていない。

以下の動画の1:08:50あたり。



村本は繰り返し、
  • なぜ本を読むといいのか?
  • 読んだあとどうなるのか?
  • 読む必要はあるのか?

などと、「本を読むとどんないいことがあるのか」について質問している。ここを理解できていないから彼は本を読まないようだ。

しかし、これは至極的を得た質問である。たしかに本を読んで何になるんだろうか。普通の人は、読む体験を一つの娯楽的な体験として読むとか、知識を増やすとか、普段の生活や仕事に役立てる、程度の目的意識しかないのではないか。

宮台は「昔は面白いと思ったけど、今は大して面白くないと思ったりして、成長を確認できる。」と答えているが、これもあまり深い答えではない。(そこまで深く答えようとしていないようではあるが)

私がこの「本を読むとどんないいことがあるのか」という問い答えてみる。

一言で答えるなら、「世界と自己との関係を自己了解するため」といえるだろう。

われわれ人間は、「言語的に」世界を把握している。「私」という人間が「机」や「椅子」「ビル」「友達」「食べ物」などと関わりながらそれらの集合である「世界」という舞台に生きている。こうした漠然としているが常に、普段の生活の土台となっている前提は「言語的」なものだ。動物は言語を持たないからただひたすらに「いま、ここ」の刺激に反応して生きているだけ。

こうした「世界」は「言語」によって開示される。それは人間により恣意的に構成された「言語による世界」である。

しかし、われわれが普段経験している「いま、ここ」は、そうした「言語による世界」の極わずかな一部である。目の前に「民主主義」「ドナルド・トランプ」「中央銀行」「資本主義経済」は見えない。でもそうした概念(言語)により組み立てられた世界を通して「いま、ここ」を了解している。

人間は常に、「世界と自己」について「自己了解」しながら生きている。そしてそれは、「言語的」に、である。

では、本題の読書とは何か?読書とは、そうした「言語で組み立てられた世界とさらにその中で生きる自己」について自己了解を深めるものだ、といえるのではないか。自己了解がなければ、人間は生きていけない。なぜなら、人間は動物と違って世界を言語的に理解して行動しているからだ。世界や自己が何なのか分からなければ、今何をすればいいのか、理解できず行動が取れないで死んでしまう。

では、村本も言うように、彼のように「本を読まないでも成功している人がいる」のは何故か?それは、彼は多くの直接経験を通じて世界を理解しているからだ(もちろんこれも言語的にである)。本などテキスト経由の間接体験ではなく、実際の空間において人と接し交流することで、現実を了解する。本ばかり読んでいるような人もこうした直接経験がもちろん土台にある。要は程度の問題だ。直接経験は世界理解に必要十分条件だが、読書などの間接経験はそうではない。ただ、複雑な人間社会を理解するには助けになる。

本を読むことは、人間が言語的に世界を理解する上で助けになる。直接経験だけでは、現代のような複雑社会で多くの人を巻き込んで何か行うのは難しい。もちろん、本など一切読まずに直接経験だけの世界で生きることもできるが、人を多数動員するようなことはできない。

「マル激放送800回記念トークライブ」から「言語の暴走」についてまとめたい。ここではある意味「言語の本質」について述べられている。最後にyoutubeがあるので40分過ぎあたりのところからこの話をしているので要チェック。

人類が言語を獲得したのが、4万年前。定住が1万年前、文字言語は3000年。初期の言語は歌に近かった。悲しい歌を聴けば悲しくなるし、楽しい歌を聴けば楽しくなる。そういう文脈に密接した言語がもともとの在り方。

しかし、われわれが今使っている概念言語は、文脈を捨象している。 ストリーミングだった歌をぶつ切りにした。悲しいという文字を見ても悲しくないし、楽しいという文字を見ても楽しくない。概念言語は目の前のありありとした「いま、ここ」を切り捨て、暴走する。そして文明は滅びる。だから、宇宙に無数に存在する生命体は出会うことはない。遠くにいすぎるのではなく、文明が短かすぎるのだ。

もっと昔の社会ではこの危険性を理解していた。概念言語が暴走してしまわないよう、コンテクストの中で言語を使う。ありありとした「いま、ここ」を保とうと努力するのだ。踊りとか祭りとかと表裏一体の形で言葉を使えば、他人を思いやり共同体のために生きることを身にしみて理解できる。概念言語だけの理解では行動に結びつかない。

言語は文脈を削除する。文脈から自由な言語は暴走する。大規模な定住社会の文明は言語によって支えられている。税金取られるのも社会貢献するのも、社会契約論なり何かしらの論理によって行われる。知らない人を仲間だと思うのは無理。有事のときは言語で理解した関係など役に立たない。

この図式はラカン的だ。ラカンの概念系をルーマンを用いて確認する。我々には<世界>(現実界)は直接与えられない。与えられるのは<世界体験>(想像界)に過ぎない。但し言語(うたと区別された概念言語)を獲得して以降、我々の<世界体験>は言語プログラム(象徴界)に媒介されている。 

宮台曰く、
「社会は概念言語だけでできていない。その外側に音楽や歌もある。概念言語は部分を問題にできるだけ。でも、音楽では世界のムードやモードがすべて一瞬に変わるということが起こる。概念言語ではないものに開かれた態度で生きることと、超越への感受性には親和性がある。言語外の部分でつながって言語を使う、という経験に乏しいやつらが、言語だけで物事が解決できると思い込んで社会を生き始める。そうすると性的な忌避が起こるし、退却が起こるのも当然」。

言語化されるまえのありありとした世界がわわれの生きる<世界>である。誰もがもう一度、言語の本質を見直すべきではないだろうか。

 

哲学などなくても生きていけるのは間違いない。でも、哲学が役に立つこともある。

戸田山 和久
哲学入門』より、抜粋。 
唯物論的世界観を背景にした一枚の絵の中に存在もどきを収める、これをやるのは誰だ、という話だ。簡単に創造がつくようにこれは哲学者の専売特許ではない。なぜなら、この作業には進化の歴史についての仮説が含まれるからだ。本当に、ここに書いたようなシナリオに沿って、表象、自由、道徳などなどが進化したのか。これを最終的に決着をつけるのは科学だ。しかし、いまの段階では、直接にこのシナリオを検証・反証するだけの科学的知見はまだ十分ではない。

また、すでに進化学、動物行動学、霊長類学などが、表象、自由、道徳の進化に関係する知見を積み重ねてくれるのは確かだが、これらの知見を組み合わせて、統合された一枚の絵にしていくためには、全体の大まかなスケッチが必要だ。哲学者はそのスケッチを描く仕事をする。それ自体は、実証的裏付けの欠けた思弁にすぎないかもしれない。しかし、そのラフスケッチに細部を描き込み、経験的検証に耐える世界像に仕上げていく科学者の仕事はそれなしにはできない。太陽系の起源についての科学的モデルも、ラプラスやカントの思弁からスタートしたことを忘れてもらっては困る。これは逆に本書に描いたようなシナリオが科学的知見によって反証されるかもしれないということを認めることでもある、(33)
 
哲学入門 (ちくま新書)
戸田山 和久
筑摩書房
2014-03-05

 
さらに、黒崎政男『哲学者はアンドロイドの夢を見たか』でも哲学の意義を述べている。
 人間ははたしてデジタルコンピュータのようにある定められた規則に従って記号を処理している機械であるのかどうか。
このような問題は心理学や大脳生理学などさまざまな自然科学の成果を待って決定される問題だと思われるかもしれない。確かにそれは心理のいち面ではある。だが、人間の知識とはどのように成立しているのかということを知ろうとして、自然科学的な実験を人間について始める時、実験をそもそも始める視点というものをどこから科学者たちは得てくるのだろうか。例えば、天文学のディコブラーエを、生理学のヴェサリウスを思い浮かべるまでもなく、精密な観察があらたな理論を生むわけではない。脳みそをじっと見つめていればおのずと人間の知能についての理論が湧いてくる、といった素朴な意見の持ち主は今日ではおそらくごく少数であろう。つまり、ある種の人間理解が先行していなければそもそも人工知能についての実験も不可能である。だとすれば、人間の知識とはなにか、認識とは何かという問題を主題としてきた哲学、特に近世の西洋哲学の歴史はそのままでAI研究にとって不可欠なさまざまな観点を提供してくれる宝庫ともいうべきものである。(21) 
 科学的な実験しかり、普段の何気ない行動しかり、ある世界観や人間観を前提にしている。哲学はこれらを見直したり、変更したりできる。
human

↑このページのトップヘ