記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 歴史・社会・哲学

哲学などなくても生きていけるのは間違いない。でも、哲学が役に立つこともある。

戸田山 和久
哲学入門』より、抜粋。 
唯物論的世界観を背景にした一枚の絵の中に存在もどきを収める、これをやるのは誰だ、という話だ。簡単に創造がつくようにこれは哲学者の専売特許ではない。なぜなら、この作業には進化の歴史についての仮説が含まれるからだ。本当に、ここに書いたようなシナリオに沿って、表象、自由、道徳などなどが進化したのか。これを最終的に決着をつけるのは科学だ。しかし、いまの段階では、直接にこのシナリオを検証・反証するだけの科学的知見はまだ十分ではない。

また、すでに進化学、動物行動学、霊長類学などが、表象、自由、道徳の進化に関係する知見を積み重ねてくれるのは確かだが、これらの知見を組み合わせて、統合された一枚の絵にしていくためには、全体の大まかなスケッチが必要だ。哲学者はそのスケッチを描く仕事をする。それ自体は、実証的裏付けの欠けた思弁にすぎないかもしれない。しかし、そのラフスケッチに細部を描き込み、経験的検証に耐える世界像に仕上げていく科学者の仕事はそれなしにはできない。太陽系の起源についての科学的モデルも、ラプラスやカントの思弁からスタートしたことを忘れてもらっては困る。これは逆に本書に描いたようなシナリオが科学的知見によって反証されるかもしれないということを認めることでもある、(33)
 
哲学入門 (ちくま新書)
戸田山 和久
筑摩書房
2014-03-05

 
さらに、黒崎政男『哲学者はアンドロイドの夢を見たか』でも哲学の意義を述べている。
 人間ははたしてデジタルコンピュータのようにある定められた規則に従って記号を処理している機械であるのかどうか。
このような問題は心理学や大脳生理学などさまざまな自然科学の成果を待って決定される問題だと思われるかもしれない。確かにそれは心理のいち面ではある。だが、人間の知識とはどのように成立しているのかということを知ろうとして、自然科学的な実験を人間について始める時、実験をそもそも始める視点というものをどこから科学者たちは得てくるのだろうか。例えば、天文学のディコブラーエを、生理学のヴェサリウスを思い浮かべるまでもなく、精密な観察があらたな理論を生むわけではない。脳みそをじっと見つめていればおのずと人間の知能についての理論が湧いてくる、といった素朴な意見の持ち主は今日ではおそらくごく少数であろう。つまり、ある種の人間理解が先行していなければそもそも人工知能についての実験も不可能である。だとすれば、人間の知識とはなにか、認識とは何かという問題を主題としてきた哲学、特に近世の西洋哲学の歴史はそのままでAI研究にとって不可欠なさまざまな観点を提供してくれる宝庫ともいうべきものである。(21) 
 科学的な実験しかり、普段の何気ない行動しかり、ある世界観や人間観を前提にしている。哲学はこれらを見直したり、変更したりできる。
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先日、私が哲学をしているという話をとある先輩に話たところ、哲学に対して以下のような考えをもっていることを教えていただいた。

「哲学は、生きる意味について考える学問だ」と思っている。でも、そんなもの答えのない問いだ。だから、哲学をやってそれを「考えても」仕方がないと思う。

これは、一般的に多くの人が哲学に対して持っているイメージではないだろうか。

哲学をやっているものとしてこれに”哲学的に”真摯にマジレスさせていただきたい。

先の先輩の命題は、「生きるということの目的は何か?」という風に言い換えられるが、まず、「生きる」と「目的」という語の意味をしっかりさせたほうがいい。

まず、簡単な「目的」のほうから。 

「目的」とは、
大学合格の目的のために受験勉強する
彼女が幸せになるために(目的)頑張る
お金を稼ぐために仕事する
などが代表的な「目的」の用法だろう。

僕らは基本的に何かをいているのは上記の例のような目的のためだ。普段の生活は、学校、仕事、レジャーなどだろうが、それぞれ「いい仕事を得るため」「お金を稼いで生活するため」「楽しむため」など目的がある。

「目的」とはそういうものだ。

では、その「目的」が問われている「生きる」とは何か?

これは深く考えるべきだ。
生きるとは、自分の主観である。「いま、ここ」という五感や情動などからなる意識領野の持続、流れとでも言おうか。根源的に考えるなら、それは「直接経験の持続」とでも言えるだろう。

補助線に、物理学者であり哲学者のマッハの「直接経験」という概念を見てみよう。谷徹『これが現象学だ』より引用。(44−47)

まず、学問/科学の基礎は直接経験にあるという着想である。当たり前だと思われるかもしれないが、しかし、この直接経験が見失われてしまっている。私たちはその実態を理解し損ねている。この着想に深くかかわっているのが、マッハである。
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ふつう経験というと、経験科学的(心理学的)に考えるならば、例えば図1のように、外部から物理的刺激が到来して、それを私が受け取る(見る)ことによって、知覚経験が成立するといったイメージであろう。
 
ところが、マッハは図2のような絵を描いて見せた。これは右目を閉じて左目だけで見たときの光景である。絵の右側に見えるのは、マッハの鼻であり、その上の方に伸びているのは彼の眼孔である。そして、前方には鉛筆をもった右手と、両脚が伸びている(マッハは長椅子に座っている)。もちろん左手も描かれている。下の方に見えるのはマッハの髭である。これがマッハにとっての直接経験だった。

図2は、図1とは大きく違っている。図1では、対象(花)も私も同じように図の中に描かれているが、図2では私(とりわけ顔)は描かれていない。図1は客観的だと思い込まれているが、しかし、実は図2のような直接経験から出発して事後的に形成されるイメージである。言い換えれば、図2のような経験こそが根源的であり、図1のイメージは派生的である。あるいは、図2のような経験は、「主観的」だが、単に主観的というのではなく、まだ「客観的」ではないという意味で「主観的」であり、これこそが「客観性」の前提なのである。

「直接経験」の概念が理解できただろうか?要は、今自分の主観である「いま、ここ」のことである。私であれば、今パソコンに向かってタイピングしている「いま、ここ」のありありとした質感。もちろん、マッハの絵は視覚で得られる質感しか描かれていないが、そこには五感で得られるその他の質感(クオリア)や所謂心的なもの、内的な感覚も含まれる。「いま、ここ」で”直接”に経験されているもの全て、それが「直接経験」である。

「生きる」というのはこの「直接経験」の持続、流れ、或いは更新とも言えるだろうか。ここではとりあえずそれを「直接経験の持続」としておこう。「生きる」こととは「直接経験の持続」である。そこでは五感の感覚だけでなく喜怒哀楽や波乱万丈がある。それが「生きる」こと。

では、もとの問いに戻ろう。「生きることの意味」、それは「直接経験の持続の目的」といえる。

「生きること」が「直接経験の持続」だとすると、この「直接経験の持続」の「目的」を問うのはおかしい。レベルが違う話だ。問われるものである「直接経験の持続」を、「部活動の練習」の「目的」を問うようには扱えない。 

「生きる」ということ、要するに「いま、ここ」とはそもそも全ての根拠がある場所。先の「目的」という語もここに根拠を持つ。「生きる」中でいろいろな経験を積んでいろいろな「概念=語」を学ぶ。「目的」とは何か自分にとってよいことを終着点として置き、そのために何かする、という感じ。

なので、 「生きる」ということの「目的」を問うことはできない。これは、この「赤い」は「早い」という文がおかしいように語のレベルが違う。「生きる」とは、「目的」という語だけでなく、「赤い」「机」「走る」「眠い」「美しい」などあらゆる概念や語の根拠となるものである。

「生きる」というこの「いま、ここ」は、まったく謎で驚嘆することだ。すべてはここから始まっている。なので、これについて「目的」や「原因」を知りたくなるが、それとは別の次元のことなのだ。世界が存在している、この「生」というものの驚きと謎に全てが集約される。

ということで、「生きることの目的」を問うことで、答えを得ることはできない。


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ということで、その観点ではその先輩は正しいことになる。

でも、哲学とは「生きる意味を問う」ことに限定されるものではない。それは一言で定義するなら「概念を使って根源的に考え抜く方法と態度」であると言える。

先の例でいえば、「生きる意味について考える」と言っても、「生きる」という語の意味は?「考える」という語の意味は?そもそも「意味」の意味とは何なのか?というように、もっと深く根源的に問うことができた。(分析哲学と言われるアメリカの主流の哲学ではまさにこういう言語の問題が哲学の主題)

ではなぜ「根源的に考える」必要があるのか?といえば、
  1. 誰もが納得できる考えに到達する営み→他者と共通了解を作る
  2. 自分と世界や他者との関係を見直して納得する→自己了解を得る
 そして、それも突き詰めれば結局は「自己への配慮」となるのかもしれない。

20世紀最大の哲学者ハイデガーは、こうした質問の中でも最もラジカルな「何故なにもないではないのか?なぜ無ではなく何かがあるのか?」という問いに生涯挑み続けた。

他者と十分な共通了解は既にできているだろうか?
また、自分と他者や世界との関係にあなたは十分な自己了解を得ているだろうか?

これが満たされるまでは「哲学」は意義ある営みであり続ける。
 

アメリカは普通の先進国になるのかしら?」と、4年前にちきりんが自身の社会派ブログに綴っていた。

世界の流れとして先進国はどこもお先真っ暗状態。なのでどこも自然と「大きな政府」志向となり、これがうまくいかないと巨額の財政赤字となりギリシャのようになってしまう。この流れに抗うことができるのは、特殊なシンガポールなどを除き、生まれた時から「市場原理と自己責任DNA」を持っているアメリカだけだ、という。

このアメリカが大きな政府を志向するオバマで8年間やってきた。リーマンショックでは巨大な金融機関を潰さず、さらにその後格差反対デモも起きている。アメリカは他の先進国と同じ方向に歩み始めているかに見えた。この8年間でアメリカの「誰でも平等に頑張ったものがその分だけ報われる」という最も大切な価値観が失われつつあったのだ。

過去に遡ると、民主党と共和党が基本交互に政権交代するのがアメリカであった。
 
オバマ(民主党)
ブッシュ(共和党)
クリントン(民主党)
プッシュパパ(共和党)
レーガン(共和党)
カーター(民主党)

そういう意味で今回の大統領選挙は、「アメリカがアメリカであり続けるか」が問われていたのだ。(というのがちきりんのブログの趣旨)

さて、
結果的に、
この価値観を守るため、誰もが「認めない」あの男が選ばれた。

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2016年の大統領選挙での注目は、アメリカが「トランプ(共和党)」を選んだことで「やっぱりアメリカ」だった、という点である。

グローバルエリートの代名詞、田村耕太郎氏が「ある白人スーパーエリートの中の隠れトランプの言い訳」と題してfacebookで彼の友人の意見を「興味深い一つの意見」としてシェアしていた。

会ったことはないが、ヤツは最低の男だ。でも今回は個人の人間性は関係なかった。注目すべきは、大統領だけでなく議会も知事も全て共和党が獲ったということだ。大統領選挙ばかり注目されていたが、実は、アメリカの価値観が揺り戻る側面もあったのだ。
 
オバマ氏の8年間でアメリカは、アメリカの最も大切な価値観である、『誰でも平等に、頑張ったものが、頑張った分だけ報われる』という価値観を失いつつあった。
小さな政府、最低限の規制、差別も逆差別もダメ、思ったことは言える言論の自由。このためにあの、ヘドが出そうな男に入れたのだ。
 
民主党政権下で、ポリティカル・コレクトネスやアファーマティブ・アクションが行き過ぎていたのだ。白人として恵まれた学歴や仕事にありついていることがまるで罪のように思われる時もあった。本当に窮屈な世の中だと思う。アメリカは、ヨーロッパのようになりそうだった。後8年民主党政権が続けば、アメリカはヨーロッパのようになり、活力を失っていただろう。いや、頑張らない人を助けるために頑張った人を責めて、30年前の中国のようになったかも。
 
私たちは差別主義者ではない。ピュアに実力や努力の成果をもっとフェアに判断すべきで、そこに人種や性的志向によるジャジメントを入れるべきではないと言っているだけだ。
富裕層に有利な税制で、隠れトランプだったわけじゃない。私のように、アメリカのあるべき価値観のために動いた『勝ち組隠れトランプ』はたくさんいたよ。
 「隠れ勝ち組トランプ」がアメリカのアメリカたる価値観を支えている。今回の大統領選挙で、世界的なトレンドに抗うこの「誰でも頑張ったものが頑張った分だけ報われる」というエートスがアメリカ国民に深く根付いていることが証された。トランプは大統領選を終え、オバマケアの撤廃を撤回など既に、大きな流れに完全には抗えないことを露呈しているが、今後もアメリカからのイノベーションに期待せずにはいられない。

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昨日堂目 卓生氏の著書を通じてアダム・スミスを「実存」を軸に紹介したが、スミスは「愛国心」についても極めて深い洞察をしている。これはナショナリズムや国とはそもそも何かを考える上で大変意義ある内容である。




祖国への愛は、人類全体に対する愛でも、祖国が地球の一部であるからではない。日本人が日本人であることに愛着をもつのは日本人が人類の一部であるからではない。

日本という国の中に、あるいは日本人という集団の中に、「自分と家族、そして自分が愛する人々」のほとんどが含まれてるからであり、自分たちの安全と繁栄が、”日本の安全と繁栄”に依存すると思うからである。そして、自分の行為が実際に影響しうる最大の社会が日本社会であると考えるからである。このように祖国への愛は、普遍的仁愛からではなく、”私的な愛着”から導かれる

祖国に対する愛は近隣諸国民に対する国民的偏見を生み、近隣諸国民に対する嫉妬、猜疑、憎悪を増幅させる。結果自国民に対しては守られる正義の感覚が他国民に対しては守られなくなる。国際法がしばしば蹂躙されるのはこのためである

国際問題に対する私たちの道徳的腐敗は、他国民への国民的偏見によって、そして中立的な観察者が存在しないことによって生じる

国民的偏見は諸個人が他国の人々と交流し、同感しあうことを繰り返すことによって弱めることができるであろう。他国の人々との交際を進め、同感しあうことによって異なった慣習や文化を理解するとともに生命、身体、財産、名誉が侵害されること、つまり正義については他国の人々も自分たちとほとんど同じ感覚をもっていることを知ることができるからである。

僕は、こうした取り組みを増やして世界に貢献したい。語学の事業をやるか、学生に留学をさせるか、外国人を呼びこむか、どういうやり方がいいのだろうか。 

私は人間と動物の最大の違いは「記憶」にあると思う。もちろん、二足歩行だとか内側の構造なり沢山の違いはあるが記憶できることが言語を生み「意識」を生み、人間の独自のクオリアの世界を開いた。記憶できることで、動物だったらつどつど対象を認識し判断するが、人間は似たようなものを同類の対象として観念を持ち快不快に結びつけて記憶する。

そして他人を見たり、水に映った自分を見たりして経験の基体としての自我を獲得し、それに結ぶ付けて世界像を形成していく。そして、何年か世界や他者と接することでわれわれが持っているような自然的な価値観や世界観が複雑に編み上げられていく。もちろん個人間でだいぶ違うものになるが、宇宙と身体は基本的には共通しているので各自の世界像には基本的な共通がある。しかし、細かいところは育った風土や社会関係で多様性がある。

ここでいいたいのは、われわれはこんなに色とりどりで多様な世界を持っているが、「根」は動物と同じ個体の保存、種の繁栄に衝き動かされる動物である。そこに記憶が加わり、時間軸で物事を考え、他者に憐れみを抱きつつ利己的に社会契約を結び人間社会ができ複雑に発展してきた。

前回、「人間らしさ=人間性」とは何なのかについて書いた。それはまさに上述の文脈でいえば、「記憶」があることで発展した人間社会の中にある。個々の違いを認めつつまとまるためのコミュニケーション、これが人間性なのである。僕なりひとことでいうなら、「人間性」とは、一人ひとりの人間が集まって「みんなで繁栄するため」の「あらゆる営み」である。

さて、
日本人は特に「本音」が大好きである。日本人は精神的な面では近代化されていないと言われるが、ルソー的な自然主義だけはよく根付いている。国家や国民のためだと称して「公」性を装っている政治家や役人や、真理探究のためだと高尚なことをいう学者より、本音で生きる「一般庶民の言葉」の方が心に響く、という。

しかし、「仮面」を脱いで「本音」を生きるのはそんなに素晴らしいことだろうか。

上述の通り、われわれ人間は基本的に動物と同じである。どこに向かっているかは分からないがとりあえず種の繁栄を目指している。個人個人は性欲と食欲に衝き動かされる存在である。人間はそれに記憶とそれに付随する理性があるだけだ。もし本音で語るなら、「あいつを殺したい」とか「強姦したい」とかそういうことを引き出したいのか。こんな野蛮な動物的なところは掘り返す必要はない。

われわれ人間は、この衝動を土台としつつも、個人の利益を留保して人間社会を築くという動物とは一線を画する選択をし繁栄を続けている。人間らしさとはこの社会をよりよく維持するためのコミュニケーションであるのだから、衝動を発露しては逆コースである。だれもが衝動を抑えているのだ。それが人間である。嘘でもいいから高い倫理観に満ちたドーンでっかい話をしたほうが遥かに実りがある。

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われわれはよく仕事ばかりで社会の歯車状態になっているときや、将来に漠然とした不安を抱いたり、どう生きていくのがいいか考えるときに「人間らしさ」=「人間性」を求める。

しかし、人間らしさとは一体何なのか。そんなものがあるのか?

ハンナ・アーレントは『人間の条件』の中で「人間性」 が古代ギリシアのポリスという極めて限定的な環境の中で生じてきたと主張している。「人間性」とは人類が誕生したときから自然にあったものではなく人為的に作り出されたものである。以下のアーレントについての考察は金沢大学教授の仲正昌樹氏『「不自由論」−「何でも自己決定」の限界』を参考にさせていただいている。






アーレントは「活動」が最も人間らしい営みであるとする。それは、物理的な暴力ではなく、言論や説得によって「他者」に対して働きかける能力である。言語を使うこと時代は別に古代ギリシア以前からあったが、ポイントは言語による「活動」が暫定的・一時的なものではなく人々の生活の中心に位置し、人と人を結ぶ最も本質的な媒体になること。いつも暴力でぶつかり合っている者同志がたまに言葉を発するだけでは活動とはいえない。 

ここで重要なのは、衣食住や生殖などの私的領域と完全に分離した公的領域があることだ。ここでは人々が自分の思っていることや感じていることを「活動」という形で他者の前で明らかにする領域、いわば全てが公開されている光の領域である。ポリスにとっての共通の関心をめぐって自由に討論する。

要は、人間の生活の動物的な部分をすべて私的領域という闇の中に押し込んで隠すことで、市民は他の人々の前で「人間らしさ」を演じることができる。「私的領域」を犠牲にした「人間らしさ」のお芝居=活動を通して、われわれの「人間性」が培われてきた、というのがアーレントの人間性論の中心的テーマ。

そうすると、アーレントが言いたかったのは、何も古代ギリシアがよかったのでそのころの人間性を取り戻そう、ということではなく、我々、西洋人及びその文明的影響下にある人間は、古代のポリスによって生み出された人間性に規定され続けているということである。ポリスが「人間」としての「我々」の起源になっている、という歴史問題を掘り下げて論じているのである。

そして、資本主義の下、経済的利害(私的領域)が人々の中心的関心事である限り、われわれは「人間」になりきれないのである。

アーレントはポリスでの「活動」を通宇治て生じてきた「人間性」の最大の特性「多元性」pluralityであるとしている。「多元性」は「市民」たちが公的領域において「他者」に対して「自己」の「意見」を表明することで、自らの個性を際立たせることを通じて生じてくる。一人ひとりが異なった世界観を持っているので、自分の立場を理解してもらおうとすれば、たとえ極めて親しい人間でも言語によって説得していくしかない、という認識のもとにポリス的な共同体が成立しているということ。人々の多元的な「語り」が公的領域で行き交うことにより我々の「人間性=人類」は次第に豊かになっていく。

近代社会はそうした「多元性」を確保するために自由と平等の理念を拡大しようとしたが、皮肉なことに結果的には「経済」上の利害関係が前面に出てきたため、多元的に語り合う「余裕」がなくなってしまった。

「人間が人間であること」を可能ならしめているものは「多元性」である。われわれの「世界」が「人間らしい」のは同質的で同じような考えを持っている人たちだけでなく、多様な人々がいて、「他者」相互の対話が信仰し、いろいろな物語が絡み合っているからである。ナチスはそうした多元性を構成している一つの要因である「ユダヤ人」を絶滅させ、アーリア人の支配する単元的な”世界”を創出しようとしたという意味で、「多元性=人間性」の破壊者なのである。彼らの一番の問題は大虐殺という非道的な手段ではなく、単一的な「人間」を作り出そうとしたことである。

アーレントは「人間性」なるものが予め実体的に決まっているかのうような考え方を拒絶する。多元的な人々が相互に「語り合い」を続け、一つの「本性」へと一義的に収斂していくことがないのが、古代ギリシアのポリスで生まれてきた「人間性」である。 

さて、アーレントの政治哲学的考察から我々が導き出すことのできる最大の教訓は、「人間性」というのは各人に自然に備わっているものではなく、特定の制度の中で人為的に作り出されたものなので、非常に不安定で脆いということである。それを生み出したポリス的な制度が既に崩壊している以上、そのままの形で「人間性」を復活させることはできない。それでも人間的でありたいのであれば、ギリシアとは異なる新たな「人間性」 を創造するか、或いは労働、仕事といった活動以外の営みをゼロにする方向に進むしか無い。

既に数千年の人類史を持っているわれわれは今更みなで新しい「人間性」を打ち立てることなどできない。人間の進むべく道は後者しかない。そして、それは可能性がある。以前、このブログで『エクサスケールの衝撃』という本を紹介し、人間の不老、不労の達成の道筋が存在することを書いた。現在では、既得権益や政治の問題で、食料など生活を営む最低限の物資が既に世界中の人口全体をカバーするほど足りているのにもかかわらず、それが上手く配分されていない。これを乗り越えるには、抜本的な技術革新と生産性の向上である。全人口を悠々カバーできるほどのゼロコストの資源やバイオテクノロジーが実用化すれば政治や配分の問題も解決されるだろう。この方向に進んでいくしかわれわれが人間らしく幸せに生きる道はないのではないか。

エクサスケールの衝撃
齊藤 元章
PHP研究所
2014-12-18

 

相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が死亡するなどし、植松聖容疑者(26)が殺人未遂容疑などで逮捕された事件。戦後最悪の殺人事件とも言われているが、この事件について思うところを述べよう。

まず、肉体的にも精神的にも被害を受けた施設関係者の皆さまに、心よりお見舞いを申し上げます。 お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、ご遺族の皆さまにお悔やみを申し上げます。

さて、今回の事件についてどう思うか。

ここ1ヶ月くらいでもアメリカのフロリダでの銃乱射、フランス・ニースのテロ事件、ドイツ・ミュンヘンでの銃乱射、さらに本日もフランスの教会でテロと思われる人質事件。世界がおかしくなっている。

これらのほとんどにはISが関与していると見られているが、実際は表面的なものである。こうした無差別テロの最も根源的にあるのは経済的、精神的な困窮がある。社会に包摂されずに未来に希望も持てず絶望。このやるせなさを誰か特定の対象に帰すことはできず、社会一般にぶつけて自分の人生を終わらせる。もちろん、その間にもさまざまな要因があるのは間違いないが、基本的な構造はこうだ。

今回の相模原の事件は、経済と精神的な困窮の「社会的包摂の失敗」という世界的なテロの流れとは違う流れにある。もちろん、そのマクロ的な傾向の影響も含め、要因は以下の3つなのではないか。
  1. 大麻で判断能力が著しく低下
  2. 注目され承認を得たいという欲求
  3. 世界中で多発するテロにより大量殺人の模倣欲
まず、 第一にこの事件は大麻の影響が強いのではないか。どれだけの使用があったかは分からないが、かなり判断能力に問題があり、社会常識と大きくかけ離れた理性能力の低下があったはず。そして、教員になれなかったり低賃金で働いていた鬱憤があったのだろうが、そこから飛び出し社会的承認を得たいという欲求があったのだろう。

しかし、それが大麻の影響か、常識的には考えられない独自の正義で実行されてしまった。報道を見ると、今年の2月から「障害者の安楽死」について大義をリアルに感じていたようで、そう考えると薬物使用が決定的な要因といえる。さらに、世界中で日常的に起きつつあるテロによる大量殺人。こうしたニュースが潜在的に模倣欲をくすぶり、また実行までの規範的障害を低減させた可能性は高い。

とはいえ、まだまだ情報が少ないので分からないことが多い。

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