記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)意識ファースト!意識がよければ何でもOK。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※基本殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 歴史・社会・哲学

ウーマンラッシュアワー村本大輔はその歯に衣着せない物言いでズバリ本質を突き、最近よく知識人や経済界との交流している。「土曜The NIGHT」で社会学者の宮台真司にも本質を突く質問をいくつもぶつけていた。今日はその中でも、「なぜ本を読む必要があるのか」ということについて考えたい。宮台もこの問いに答えてはいたが、村本が根本的に知りたかったことには答えていない。

以下の動画の1:08:50あたり。



村本は繰り返し、
  • なぜ本を読むといいのか?
  • 読んだあとどうなるのか?
  • 読む必要はあるのか?

などと、「本を読むとどんないいことがあるのか」について質問している。ここを理解できていないから彼は本を読まないようだ。

しかし、これは至極的を得た質問である。たしかに本を読んで何になるんだろうか。普通の人は、読む体験を一つの娯楽的な体験として読むとか、知識を増やすとか、普段の生活や仕事に役立てる、程度の目的意識しかないのではないか。

宮台は「昔は面白いと思ったけど、今は大して面白くないと思ったりして、成長を確認できる。」と答えているが、これもあまり深い答えではない。(そこまで深く答えようとしていないようではあるが)

私がこの「本を読むとどんないいことがあるのか」という問い答えてみる。

一言で答えるなら、「世界と自己との関係を自己了解するため」といえるだろう。

われわれ人間は、「言語的に」世界を把握している。「私」という人間が「机」や「椅子」「ビル」「友達」「食べ物」などと関わりながらそれらの集合である「世界」という舞台に生きている。こうした漠然としているが常に、普段の生活の土台となっている前提は「言語的」なものだ。動物は言語を持たないからただひたすらに「いま、ここ」の刺激に反応して生きているだけ。

こうした「世界」は「言語」によって開示される。それは人間により恣意的に構成された「言語による世界」である。

しかし、われわれが普段経験している「いま、ここ」は、そうした「言語による世界」の極わずかな一部である。目の前に「民主主義」「ドナルド・トランプ」「中央銀行」「資本主義経済」は見えない。でもそうした概念(言語)により組み立てられた世界を通して「いま、ここ」を了解している。

人間は常に、「世界と自己」について「自己了解」しながら生きている。そしてそれは、「言語的」に、である。

では、本題の読書とは何か?読書とは、そうした「言語で組み立てられた世界とさらにその中で生きる自己」について自己了解を深めるものだ、といえるのではないか。自己了解がなければ、人間は生きていけない。なぜなら、人間は動物と違って世界を言語的に理解して行動しているからだ。世界や自己が何なのか分からなければ、今何をすればいいのか、理解できず行動が取れないで死んでしまう。

では、村本も言うように、彼のように「本を読まないでも成功している人がいる」のは何故か?それは、彼は多くの直接経験を通じて世界を理解しているからだ(もちろんこれも言語的にである)。本などテキスト経由の間接体験ではなく、実際の空間において人と接し交流することで、現実を了解する。本ばかり読んでいるような人もこうした直接経験がもちろん土台にある。要は程度の問題だ。直接経験は世界理解に必要十分条件だが、読書などの間接経験はそうではない。ただ、複雑な人間社会を理解するには助けになる。

本を読むことは、人間が言語的に世界を理解する上で助けになる。直接経験だけでは、現代のような複雑社会で多くの人を巻き込んで何か行うのは難しい。もちろん、本など一切読まずに直接経験だけの世界で生きることもできるが、人を多数動員するようなことはできない。

「マル激放送800回記念トークライブ」から「言語の暴走」についてまとめたい。ここではある意味「言語の本質」について述べられている。最後にyoutubeがあるので40分過ぎあたりのところからこの話をしているので要チェック。

人類が言語を獲得したのが、4万年前。定住が1万年前、文字言語は3000年。初期の言語は歌に近かった。悲しい歌を聴けば悲しくなるし、楽しい歌を聴けば楽しくなる。そういう文脈に密接した言語がもともとの在り方。

しかし、われわれが今使っている概念言語は、文脈を捨象している。 ストリーミングだった歌をぶつ切りにした。悲しいという文字を見ても悲しくないし、楽しいという文字を見ても楽しくない。概念言語は目の前のありありとした「いま、ここ」を切り捨て、暴走する。そして文明は滅びる。だから、宇宙に無数に存在する生命体は出会うことはない。遠くにいすぎるのではなく、文明が短かすぎるのだ。

もっと昔の社会ではこの危険性を理解していた。概念言語が暴走してしまわないよう、コンテクストの中で言語を使う。ありありとした「いま、ここ」を保とうと努力するのだ。踊りとか祭りとかと表裏一体の形で言葉を使えば、他人を思いやり共同体のために生きることを身にしみて理解できる。概念言語だけの理解では行動に結びつかない。

言語は文脈を削除する。文脈から自由な言語は暴走する。大規模な定住社会の文明は言語によって支えられている。税金取られるのも社会貢献するのも、社会契約論なり何かしらの論理によって行われる。知らない人を仲間だと思うのは無理。有事のときは言語で理解した関係など役に立たない。

この図式はラカン的だ。ラカンの概念系をルーマンを用いて確認する。我々には<世界>(現実界)は直接与えられない。与えられるのは<世界体験>(想像界)に過ぎない。但し言語(うたと区別された概念言語)を獲得して以降、我々の<世界体験>は言語プログラム(象徴界)に媒介されている。 

宮台曰く、
「社会は概念言語だけでできていない。その外側に音楽や歌もある。概念言語は部分を問題にできるだけ。でも、音楽では世界のムードやモードがすべて一瞬に変わるということが起こる。概念言語ではないものに開かれた態度で生きることと、超越への感受性には親和性がある。言語外の部分でつながって言語を使う、という経験に乏しいやつらが、言語だけで物事が解決できると思い込んで社会を生き始める。そうすると性的な忌避が起こるし、退却が起こるのも当然」。

言語化されるまえのありありとした世界がわわれの生きる<世界>である。誰もがもう一度、言語の本質を見直すべきではないだろうか。

 

哲学などなくても生きていけるのは間違いない。でも、哲学が役に立つこともある。

戸田山 和久
哲学入門』より、抜粋。 
唯物論的世界観を背景にした一枚の絵の中に存在もどきを収める、これをやるのは誰だ、という話だ。簡単に創造がつくようにこれは哲学者の専売特許ではない。なぜなら、この作業には進化の歴史についての仮説が含まれるからだ。本当に、ここに書いたようなシナリオに沿って、表象、自由、道徳などなどが進化したのか。これを最終的に決着をつけるのは科学だ。しかし、いまの段階では、直接にこのシナリオを検証・反証するだけの科学的知見はまだ十分ではない。

また、すでに進化学、動物行動学、霊長類学などが、表象、自由、道徳の進化に関係する知見を積み重ねてくれるのは確かだが、これらの知見を組み合わせて、統合された一枚の絵にしていくためには、全体の大まかなスケッチが必要だ。哲学者はそのスケッチを描く仕事をする。それ自体は、実証的裏付けの欠けた思弁にすぎないかもしれない。しかし、そのラフスケッチに細部を描き込み、経験的検証に耐える世界像に仕上げていく科学者の仕事はそれなしにはできない。太陽系の起源についての科学的モデルも、ラプラスやカントの思弁からスタートしたことを忘れてもらっては困る。これは逆に本書に描いたようなシナリオが科学的知見によって反証されるかもしれないということを認めることでもある、(33)
 
哲学入門 (ちくま新書)
戸田山 和久
筑摩書房
2014-03-05

 
さらに、黒崎政男『哲学者はアンドロイドの夢を見たか』でも哲学の意義を述べている。
 人間ははたしてデジタルコンピュータのようにある定められた規則に従って記号を処理している機械であるのかどうか。
このような問題は心理学や大脳生理学などさまざまな自然科学の成果を待って決定される問題だと思われるかもしれない。確かにそれは心理のいち面ではある。だが、人間の知識とはどのように成立しているのかということを知ろうとして、自然科学的な実験を人間について始める時、実験をそもそも始める視点というものをどこから科学者たちは得てくるのだろうか。例えば、天文学のディコブラーエを、生理学のヴェサリウスを思い浮かべるまでもなく、精密な観察があらたな理論を生むわけではない。脳みそをじっと見つめていればおのずと人間の知能についての理論が湧いてくる、といった素朴な意見の持ち主は今日ではおそらくごく少数であろう。つまり、ある種の人間理解が先行していなければそもそも人工知能についての実験も不可能である。だとすれば、人間の知識とはなにか、認識とは何かという問題を主題としてきた哲学、特に近世の西洋哲学の歴史はそのままでAI研究にとって不可欠なさまざまな観点を提供してくれる宝庫ともいうべきものである。(21) 
 科学的な実験しかり、普段の何気ない行動しかり、ある世界観や人間観を前提にしている。哲学はこれらを見直したり、変更したりできる。
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先日、私が哲学をしているという話をとある先輩に話たところ、哲学に対して以下のような考えをもっていることを教えていただいた。

「哲学は、生きる意味について考える学問だ」と思っている。でも、そんなもの答えのない問いだ。だから、哲学をやってそれを「考えても」仕方がないと思う。

これは、一般的に多くの人が哲学に対して持っているイメージではないだろうか。

哲学をやっているものとしてこれに”哲学的に”真摯にマジレスさせていただきたい。

先の先輩の命題は、「生きるということの目的は何か?」という風に言い換えられるが、まず、「生きる」と「目的」という語の意味をしっかりさせたほうがいい。

まず、簡単な「目的」のほうから。 

「目的」とは、
大学合格の目的のために受験勉強する
彼女が幸せになるために(目的)頑張る
お金を稼ぐために仕事する
などが代表的な「目的」の用法だろう。

僕らは基本的に何かをいているのは上記の例のような目的のためだ。普段の生活は、学校、仕事、レジャーなどだろうが、それぞれ「いい仕事を得るため」「お金を稼いで生活するため」「楽しむため」など目的がある。

「目的」とはそういうものだ。

では、その「目的」が問われている「生きる」とは何か?

これは深く考えるべきだ。
生きるとは、自分の主観である。「いま、ここ」という五感や情動などからなる意識領野の持続、流れとでも言おうか。根源的に考えるなら、それは「直接経験の持続」とでも言えるだろう。

補助線に、物理学者であり哲学者のマッハの「直接経験」という概念を見てみよう。谷徹『これが現象学だ』より引用。(44−47)

まず、学問/科学の基礎は直接経験にあるという着想である。当たり前だと思われるかもしれないが、しかし、この直接経験が見失われてしまっている。私たちはその実態を理解し損ねている。この着想に深くかかわっているのが、マッハである。
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ふつう経験というと、経験科学的(心理学的)に考えるならば、例えば図1のように、外部から物理的刺激が到来して、それを私が受け取る(見る)ことによって、知覚経験が成立するといったイメージであろう。
 
ところが、マッハは図2のような絵を描いて見せた。これは右目を閉じて左目だけで見たときの光景である。絵の右側に見えるのは、マッハの鼻であり、その上の方に伸びているのは彼の眼孔である。そして、前方には鉛筆をもった右手と、両脚が伸びている(マッハは長椅子に座っている)。もちろん左手も描かれている。下の方に見えるのはマッハの髭である。これがマッハにとっての直接経験だった。

図2は、図1とは大きく違っている。図1では、対象(花)も私も同じように図の中に描かれているが、図2では私(とりわけ顔)は描かれていない。図1は客観的だと思い込まれているが、しかし、実は図2のような直接経験から出発して事後的に形成されるイメージである。言い換えれば、図2のような経験こそが根源的であり、図1のイメージは派生的である。あるいは、図2のような経験は、「主観的」だが、単に主観的というのではなく、まだ「客観的」ではないという意味で「主観的」であり、これこそが「客観性」の前提なのである。

「直接経験」の概念が理解できただろうか?要は、今自分の主観である「いま、ここ」のことである。私であれば、今パソコンに向かってタイピングしている「いま、ここ」のありありとした質感。もちろん、マッハの絵は視覚で得られる質感しか描かれていないが、そこには五感で得られるその他の質感(クオリア)や所謂心的なもの、内的な感覚も含まれる。「いま、ここ」で”直接”に経験されているもの全て、それが「直接経験」である。

「生きる」というのはこの「直接経験」の持続、流れ、或いは更新とも言えるだろうか。ここではとりあえずそれを「直接経験の持続」としておこう。「生きる」こととは「直接経験の持続」である。そこでは五感の感覚だけでなく喜怒哀楽や波乱万丈がある。それが「生きる」こと。

では、もとの問いに戻ろう。「生きることの意味」、それは「直接経験の持続の目的」といえる。

「生きること」が「直接経験の持続」だとすると、この「直接経験の持続」の「目的」を問うのはおかしい。レベルが違う話だ。問われるものである「直接経験の持続」を、「部活動の練習」の「目的」を問うようには扱えない。 

「生きる」ということ、要するに「いま、ここ」とはそもそも全ての根拠がある場所。先の「目的」という語もここに根拠を持つ。「生きる」中でいろいろな経験を積んでいろいろな「概念=語」を学ぶ。「目的」とは何か自分にとってよいことを終着点として置き、そのために何かする、という感じ。

なので、 「生きる」ということの「目的」を問うことはできない。これは、この「赤い」は「早い」という文がおかしいように語のレベルが違う。「生きる」とは、「目的」という語だけでなく、「赤い」「机」「走る」「眠い」「美しい」などあらゆる概念や語の根拠となるものである。

「生きる」というこの「いま、ここ」は、まったく謎で驚嘆することだ。すべてはここから始まっている。なので、これについて「目的」や「原因」を知りたくなるが、それとは別の次元のことなのだ。世界が存在している、この「生」というものの驚きと謎に全てが集約される。

ということで、「生きることの目的」を問うことで、答えを得ることはできない。


**

ということで、その観点ではその先輩は正しいことになる。

でも、哲学とは「生きる意味を問う」ことに限定されるものではない。それは一言で定義するなら「概念を使って根源的に考え抜く方法と態度」であると言える。

先の例でいえば、「生きる意味について考える」と言っても、「生きる」という語の意味は?「考える」という語の意味は?そもそも「意味」の意味とは何なのか?というように、もっと深く根源的に問うことができた。(分析哲学と言われるアメリカの主流の哲学ではまさにこういう言語の問題が哲学の主題)

ではなぜ「根源的に考える」必要があるのか?といえば、
  1. 誰もが納得できる考えに到達する営み→他者と共通了解を作る
  2. 自分と世界や他者との関係を見直して納得する→自己了解を得る
 そして、それも突き詰めれば結局は「自己への配慮」となるのかもしれない。

20世紀最大の哲学者ハイデガーは、こうした質問の中でも最もラジカルな「何故なにもないではないのか?なぜ無ではなく何かがあるのか?」という問いに生涯挑み続けた。

他者と十分な共通了解は既にできているだろうか?
また、自分と他者や世界との関係にあなたは十分な自己了解を得ているだろうか?

これが満たされるまでは「哲学」は意義ある営みであり続ける。
 

アメリカは普通の先進国になるのかしら?」と、4年前にちきりんが自身の社会派ブログに綴っていた。

世界の流れとして先進国はどこもお先真っ暗状態。なのでどこも自然と「大きな政府」志向となり、これがうまくいかないと巨額の財政赤字となりギリシャのようになってしまう。この流れに抗うことができるのは、特殊なシンガポールなどを除き、生まれた時から「市場原理と自己責任DNA」を持っているアメリカだけだ、という。

このアメリカが大きな政府を志向するオバマで8年間やってきた。リーマンショックでは巨大な金融機関を潰さず、さらにその後格差反対デモも起きている。アメリカは他の先進国と同じ方向に歩み始めているかに見えた。この8年間でアメリカの「誰でも平等に頑張ったものがその分だけ報われる」という最も大切な価値観が失われつつあったのだ。

過去に遡ると、民主党と共和党が基本交互に政権交代するのがアメリカであった。
 
オバマ(民主党)
ブッシュ(共和党)
クリントン(民主党)
プッシュパパ(共和党)
レーガン(共和党)
カーター(民主党)

そういう意味で今回の大統領選挙は、「アメリカがアメリカであり続けるか」が問われていたのだ。(というのがちきりんのブログの趣旨)

さて、
結果的に、
この価値観を守るため、誰もが「認めない」あの男が選ばれた。

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2016年の大統領選挙での注目は、アメリカが「トランプ(共和党)」を選んだことで「やっぱりアメリカ」だった、という点である。

グローバルエリートの代名詞、田村耕太郎氏が「ある白人スーパーエリートの中の隠れトランプの言い訳」と題してfacebookで彼の友人の意見を「興味深い一つの意見」としてシェアしていた。

会ったことはないが、ヤツは最低の男だ。でも今回は個人の人間性は関係なかった。注目すべきは、大統領だけでなく議会も知事も全て共和党が獲ったということだ。大統領選挙ばかり注目されていたが、実は、アメリカの価値観が揺り戻る側面もあったのだ。
 
オバマ氏の8年間でアメリカは、アメリカの最も大切な価値観である、『誰でも平等に、頑張ったものが、頑張った分だけ報われる』という価値観を失いつつあった。
小さな政府、最低限の規制、差別も逆差別もダメ、思ったことは言える言論の自由。このためにあの、ヘドが出そうな男に入れたのだ。
 
民主党政権下で、ポリティカル・コレクトネスやアファーマティブ・アクションが行き過ぎていたのだ。白人として恵まれた学歴や仕事にありついていることがまるで罪のように思われる時もあった。本当に窮屈な世の中だと思う。アメリカは、ヨーロッパのようになりそうだった。後8年民主党政権が続けば、アメリカはヨーロッパのようになり、活力を失っていただろう。いや、頑張らない人を助けるために頑張った人を責めて、30年前の中国のようになったかも。
 
私たちは差別主義者ではない。ピュアに実力や努力の成果をもっとフェアに判断すべきで、そこに人種や性的志向によるジャジメントを入れるべきではないと言っているだけだ。
富裕層に有利な税制で、隠れトランプだったわけじゃない。私のように、アメリカのあるべき価値観のために動いた『勝ち組隠れトランプ』はたくさんいたよ。
 「隠れ勝ち組トランプ」がアメリカのアメリカたる価値観を支えている。今回の大統領選挙で、世界的なトレンドに抗うこの「誰でも頑張ったものが頑張った分だけ報われる」というエートスがアメリカ国民に深く根付いていることが証された。トランプは大統領選を終え、オバマケアの撤廃を撤回など既に、大きな流れに完全には抗えないことを露呈しているが、今後もアメリカからのイノベーションに期待せずにはいられない。

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昨日堂目 卓生氏の著書を通じてアダム・スミスを「実存」を軸に紹介したが、スミスは「愛国心」についても極めて深い洞察をしている。これはナショナリズムや国とはそもそも何かを考える上で大変意義ある内容である。




祖国への愛は、人類全体に対する愛でも、祖国が地球の一部であるからではない。日本人が日本人であることに愛着をもつのは日本人が人類の一部であるからではない。

日本という国の中に、あるいは日本人という集団の中に、「自分と家族、そして自分が愛する人々」のほとんどが含まれてるからであり、自分たちの安全と繁栄が、”日本の安全と繁栄”に依存すると思うからである。そして、自分の行為が実際に影響しうる最大の社会が日本社会であると考えるからである。このように祖国への愛は、普遍的仁愛からではなく、”私的な愛着”から導かれる

祖国に対する愛は近隣諸国民に対する国民的偏見を生み、近隣諸国民に対する嫉妬、猜疑、憎悪を増幅させる。結果自国民に対しては守られる正義の感覚が他国民に対しては守られなくなる。国際法がしばしば蹂躙されるのはこのためである

国際問題に対する私たちの道徳的腐敗は、他国民への国民的偏見によって、そして中立的な観察者が存在しないことによって生じる

国民的偏見は諸個人が他国の人々と交流し、同感しあうことを繰り返すことによって弱めることができるであろう。他国の人々との交際を進め、同感しあうことによって異なった慣習や文化を理解するとともに生命、身体、財産、名誉が侵害されること、つまり正義については他国の人々も自分たちとほとんど同じ感覚をもっていることを知ることができるからである。

僕は、こうした取り組みを増やして世界に貢献したい。語学の事業をやるか、学生に留学をさせるか、外国人を呼びこむか、どういうやり方がいいのだろうか。 

私は人間と動物の最大の違いは「記憶」にあると思う。もちろん、二足歩行だとか内側の構造なり沢山の違いはあるが記憶できることが言語を生み「意識」を生み、人間の独自のクオリアの世界を開いた。記憶できることで、動物だったらつどつど対象を認識し判断するが、人間は似たようなものを同類の対象として観念を持ち快不快に結びつけて記憶する。

そして他人を見たり、水に映った自分を見たりして経験の基体としての自我を獲得し、それに結ぶ付けて世界像を形成していく。そして、何年か世界や他者と接することでわれわれが持っているような自然的な価値観や世界観が複雑に編み上げられていく。もちろん個人間でだいぶ違うものになるが、宇宙と身体は基本的には共通しているので各自の世界像には基本的な共通がある。しかし、細かいところは育った風土や社会関係で多様性がある。

ここでいいたいのは、われわれはこんなに色とりどりで多様な世界を持っているが、「根」は動物と同じ個体の保存、種の繁栄に衝き動かされる動物である。そこに記憶が加わり、時間軸で物事を考え、他者に憐れみを抱きつつ利己的に社会契約を結び人間社会ができ複雑に発展してきた。

前回、「人間らしさ=人間性」とは何なのかについて書いた。それはまさに上述の文脈でいえば、「記憶」があることで発展した人間社会の中にある。個々の違いを認めつつまとまるためのコミュニケーション、これが人間性なのである。僕なりひとことでいうなら、「人間性」とは、一人ひとりの人間が集まって「みんなで繁栄するため」の「あらゆる営み」である。

さて、
日本人は特に「本音」が大好きである。日本人は精神的な面では近代化されていないと言われるが、ルソー的な自然主義だけはよく根付いている。国家や国民のためだと称して「公」性を装っている政治家や役人や、真理探究のためだと高尚なことをいう学者より、本音で生きる「一般庶民の言葉」の方が心に響く、という。

しかし、「仮面」を脱いで「本音」を生きるのはそんなに素晴らしいことだろうか。

上述の通り、われわれ人間は基本的に動物と同じである。どこに向かっているかは分からないがとりあえず種の繁栄を目指している。個人個人は性欲と食欲に衝き動かされる存在である。人間はそれに記憶とそれに付随する理性があるだけだ。もし本音で語るなら、「あいつを殺したい」とか「強姦したい」とかそういうことを引き出したいのか。こんな野蛮な動物的なところは掘り返す必要はない。

われわれ人間は、この衝動を土台としつつも、個人の利益を留保して人間社会を築くという動物とは一線を画する選択をし繁栄を続けている。人間らしさとはこの社会をよりよく維持するためのコミュニケーションであるのだから、衝動を発露しては逆コースである。だれもが衝動を抑えているのだ。それが人間である。嘘でもいいから高い倫理観に満ちたドーンでっかい話をしたほうが遥かに実りがある。

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