記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)意識ファースト!意識がよければ何でもOK。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※基本殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 歴史・社会・哲学

人という字は支えあってるとか漢字の成り立ちに絶対の信頼を寄せる話にうんざりする。
自然的に発生したものでなく人が作ったものなんだからその作った人の意思でどうにでもなる。
そいつ次第でどうでもなるんだからそれが絶対正しいみたいに今となっていうのはおかしいだろ。

社会で評価されることとされないことについて前書いたかもしれないが、
社会で評価されることは周りとうまく協力して集団行動の生産力に寄与することだろう。

地球上で起きていることを把握するためには、2つのアプローチから試みる必要がある。

事実と主観。

事実とは、真にそこに存在しており、誰もが存在を認めるようなもの。
大地、海、木、動物、人間、存在する物質すべてが事実である。

主観とはその人の脳内で合理的に理解でき、その人にとっては事実であること。
その人の脳内であればよく、真の事実である必要はない。
幻覚で人が見えて怯えている人にとって、それは紛れもない事実である。
こちらの主観は神秘的なものである。

前にも書いたことがあるが、正夢を見た未亡人の話。
戦争に行った夫の帰りを待つ中、妻は夢の中で夫が戦死するのを見た。
その後、妻が夢を見た時にちょうど夫が戦死していたことがわかった。

これをある精神分析者が、妻のこれ以外にも正夢になってない夢も無数に見ている
わけであり、これは特別な神秘的なものでもなんでもないといった。
冷静に考えるとこれは正しい。

しかし、小林秀雄という批評家はこれに反対した。
この夢が現実となった事実は妻の体験であり、主観的なものであって、
彼女にとっては紛れもない事実であると。

この話は私が最初に述べた、事実と主観を表すいい例である。

事実を学ぶには、地球の地理から地殻構造や地質学、また天候学、引いては宇宙の仕組みを理解する必要がある。さらに事実として人間が作り出した法律、政治、行政など社会を運営していく上での枠組みとしての事実も学ぶ必要がある。

さらに、現在の世界を支える技術の数々の技術がどのように実現されているかも知っておく必要がある。
それらを全て学ぶことができたら、世の中に存在するものの仕組みを理解するためにシュミレーションを自分ですることができるだろう。

次に主観について。
人間は主観が絶対である。その人が認知し、自分の中に取り込み、解釈されたことが世界なのだ。
例えば、コウモリが超高音の周波数でやり取りをしているのは人間には感知されないが、
自分の近くでこのやりとりがあってもそれは存在したことになるだろうか。

後ろで人が話ししていればそれは認知され、事実となるが、認知されないものは世界ではないのだ。
事実としては存在しても、主観から見ると存在しない。主観が人の全てだから、存在しないのだ。

よくUFOとか奇怪な現象が世界中で取り上げられたりするが、これは人間や人間の開発した機械などで認知することのできない何かの影響によるだろう。間違いなく人間では認知できない存在は地球上に無数にあるだろう。そもそも五感だけが全ての世界だと思いこんでいるからだ。それ以外にも事実としては無数に存在するものがあるのは確実であるが、いかんせん人間にとって主観が全てであるからそれが世界となる。

もしかしたら、宇宙人なるものは存在しているが、人間の五感では捉えられない次元で存在しているのかもしれない。時間軸が違ったら何も認識できないかもしれない。人間は物事を客観的に見ようとしているが、その方法自体が主観そのものであるため、真の客観は無理なのだ。

本当の客観的な真実を知りたければ、空間に存在するものを全て探知できる力が必要であり、それは天井の見えない話である。

人間と動物の違いは理性であるということを聞いたことがあるだろう。

理性とは本能を抑えることであり人間特有のものと言われているが、私の解釈は違う。
人間は本能に従い生きている。

動物は生きていくために、道具を使わない。もちろん堅いものを割るのに石を使ったりすることはあるが、こういうことではない。

人間は生活を安定させるために、集団生活をし、また分業をし、よりよい生活を求めた。その結果社会ができ、今のあらゆる便利な製品・サービスが溢れた現状になっている。

これらは全て一人の人間からしたら道具の延長なのだ。アマゾンで本が発注できたり、近所の蕎麦屋でカツ丼を食べるのも全て自分本位な社会という名の道具なのだ。

では、例えば飢え死にしそうな人間が目の前にある他人の飯を食べないのは理性ではないのか、という疑問が出るかもしれないが、今述べたことを考慮すればこれは本能に従ったに極まりない。

説明すると、この人はカツ丼を勝手に食べて問題を起こして社会からの評価を失うと、他の社会で得られる道具に悪い影響がでるのを知っているのだ。勝手に食べて問題になって、警察にお世話になったりしたら罰則があり、それが自分の生活や使える道具に影響するからだ。

本能に従い自分に都合のいい選択をしているだけなのだ。

ここで重要な考え方は、人間は一人で生きているのではなく、自分が生きるために集団により活かさせれいるのだ。考えてみると今、自分の生活で関わっているもの、家にあるものや学校、会社などで受けるサービスや経験は、いろいろな人の営みにより支えられている。

しかも今グローバル化が進む中、世界=自分になりつつあるのだ。世界中すべてが自分の手となり足となる道具ということである。だからこれからさらにグローバル化が進み、世界の利害関係が一致してくると、地球で起きていること全てが自分の道具となり社会となり、自分自身となる。

昔、石を使って堅い殻を割っていた人間の道具の利用が、今世界中の人間の行動全てが自分の道具となりつつあるのだ。自分=社会で生きている感覚を意識する必要がある。何故ならいまは地球規模であらゆるモノ、サービス、金、人が動き回り、それが加速しているからだ。

環境問題や貧困問題などのグローバルな問題の解決に目を向けることは自分の社会の利益に繋がることを理解したほうがいい。

↑このページのトップヘ