記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 歴史・社会・哲学

気楽に殺ろうよ

と、
いきなり言われたらギョッとするだろう。

これはドラえもんの著者藤子F不二雄の異色短編集のタイトルであり13話入っている内の一つの短編である。全体的に世界の常識を覆したり、読者にそうさせようとさせる作品が多い。メインの「気楽に殺ろうよ」は大まかに言ってしまえば、主人公が朝目覚めると食欲と性欲の扱いが反転した世界に変わっている。

食欲とは個体を維持するためのものであり、個人的・閉鎖的・独善的な欲望といえるので恥ずかしいもの。食に関わる単語を口走るだけで人は顔を赤らめる。食事もカーテンを閉めてから行う。逆に性欲は種族の存続を目的としており、利他的・公共的・社会的・発展的な欲望であるので、公共の場所でもどうどうと行う。公園のベンチとかでもカップルが堂々と子作りに励む世界。他にも面白い設定があるがここでは触れない。細かい話は是非漫画を読んでください。

これを読んで何を思うか?

主人公は新しい世界に徐々に慣れていき、最後にはそちら価値観で行動できるようになる。そこから読み取れるのは人間の価値観が環境に作られた脆いものであるということか。

ただし、性欲と食欲の見方が逆転するのは論理的にも納得できてしまう。事実、性的な行動は未開社会ではほとんどタブー視されていない。性器だけ守るために何かをまとっている程度だろうし、性交も見られてもなんとも思わないかもしれない。動物を見ればもっとわかりやすい。

そう、だからこういう根本的な価値観も揺らぎえるのだ。僕らの経済観、政治観、職業観、生活観などなどそういう見方はもっとなんの根拠もないただ経験的に培われたものである。人殺しすらも、気楽に実行しちゃう。そんな風になることもできるのだ。

だったら、もっと世界をよりよくするようにみんなで人間社会を変えていこう、って。

いや、そのメッセージ性はない。
もっと実存的なことを言っている。
気楽にやろうよ、

take it easy

しっかし、藤子不二雄にしても手塚治虫にしても、何か絵のタッチとかストーリーがイカしている。言語化するのが難しいが、いい感じで現実から離れている感があり、没入できる。こういう漫画を書きたい。



 

近代的自我とは、明治期、西欧的文明が日本に移植された際、古い体制との整合性に悩んで生まれた心理的傾向のことだ。

これについて多くのことが言われているが、今日は僕が肌感覚で認識している日本人の「近代的自我」について書きたい。

まず、分かりやすい直観からいうと、例えばヨーロッパや中国だと「俺はおまえらとは別格だ。同じに扱うな。次元が違うんだボケ」という態度を取ることもある種許される。もちろん法律に抵触するのはだめ。外的で客観的な危害でなければよい。

日本だと、こういう態度は許されない。どんなにすごい人、イチローでも、羽生さんでも、地位のある安倍首相でも、孫正義でもどうに引きずり下ろして自分と同じ平等な権利を持つ人間とみようとする。彼らがもしツンツンして「おれをおまえらと一緒にすんな」的な態度をとったら庶民は猛烈に非難する。

ヨーロッパは行ったことないので分からないが、中国だと、凄い人はそれだけの才能を持った別格なやつと見なされている感じがある。それだけの才能があるなら、私たちとは違う、庶民の私たちと同じような振る舞いなんかしないのが当然、派手に金使ったり、傲慢でも、人当たり悪くてもよい。ただ、恵まれているんだから社会や弱者のために何かすべき、社会に何か還元しろ、というような圧力は自然と生まれる。

これは、庶民レベルでも言えることだ。友人や職場での人間関係などでも顕れる。近代的自我とは自由が基礎となる。個人が危害を他人に加えない限り何をしてもいいという近代的な価値観を体現しきれない日本。天才でなくても、毅然たる態度でプライド高く生きることももちろん問題ない。それが近代だ。だが日本ではそうもいかない。

凄いやつはそれらしく振る舞って格の違いを見せつけるべき。

人は違って当たり前。西洋、中国の態度のほうが僕は好きだ。
kurohune

この世界はたしかに複雑なのだ。何が複雑って、人間がこれまで何千年もかけて作ってきた社会が複雑なのだ。

そのためには、歴史を学ぶ必要がある。歴史というのは、世界史とか日本史のことではない、もちろんそれも含むが、要は今現在社会で流れているあらゆる情報やまとまった知識だ。これらに基づいて人々の価値観、エートスは作られている。自分自身もそうだ。

すべての知識を網羅するのは無理であるし、情報化社会なので静的情報はインターネットで手に入るので外部においておけばいい。大事なのは社会の構成員の人間の本質と、その塊の社会の規則だ。これを抑えてインターネットにアクセスできれば大抵のことは群を抜いて成功する。

もちろん、それらは読書だけでは培われない。エートスを磨くには実践も必要。


 

美とは何か?

これについて早稲田大学竹田教授の現象学的な発想で根源的に説明している。「美醜」についてということで、こちらから内容をほぼそのまま紹介。内容変えずに一部だけ編集。

ただ、WIKIにも記載があるが、直接感覚を通さない、《精神美》或いは「超越美」も存在している。

つまり、一方で 美には直接の感覚による美があるが、他方、直接感覚に依存せず 精神的に感じられる美もある、と言っているのである。人はたとえば「彼の一生懸命な生きざまは美しい」「最後まで正義を貫いたこのお方の人生は本当に美しい」などということがある。また「美しい心の持ち主」と言うこともあるわけである


このような精神美については、竹田も解説していない。
竹田によると、「善」「美」はともに、人間のエロス的欲望の対象性。その中で、視覚や聴覚のイメージ性が問題となるような対象を、ふつうわれわれは「美」と呼んでいる、とのこと。

典型的な「善」といえば、「国のために尽くす」など正義のようなもの。
ただ、上記のように「最後まで正義を貫いたこの御方の人生は美しい」「美しい心」というような場合は、どうなっているのか。

この場合、「人生」「心」と特定の人を対象とするものが主語になっている。

「善い」と形容するのは一般的には、「行為」「行動」など人格を伴わない抽象的なもの。

われわれが一般的に持つ「人」のイメージは多くは視覚情報、外見から来ているだろう。なので、ここでも同じエロス的欲望の対象でも、抽象的な「善」ではなく、視覚的な「美」が使われているのではないだろうか。

とまあ、
以下の美醜の本質観取は本当に本質を突いている。

***
 


(1)美醜とは人間にとって何か


美とは何か?根本的に。


それには、なぜ人間は美醜という価値を必要とするのか、という話しをする必要があるので。ちょっと回り道をして僕の考えを述べる。


人間と動物の存在のいちばん大きな違いはなんだろうか。いろいろ言えるけれど、もっとも重要なのは、人間が「真・善・美」といった独自の「価値」の秩序をもっていること。人間がこういう価値審級(真善美といった価値の秩序)をもっていることが、人間の欲望の本質を規定している。


なぜそうなのかについて、プラトン以来、昔から多くの哲学者たちが仮説を立ててきましたが、それほど十分な展開は見られなかった。ぼくの考えでは、この問題に有効な方法をもっているのは現象学。でも方法については詳しく言えないので、僕の基本的な考えをざっと述べる。


動物にとっての世界を「環境世界」と言うなら、人間の世界の本質は、「関係世界」であるということです。「環境世界」は、「身体」に対して一義的な相関関係を持ちますが、関係世界では、この関係は多元的、多義的で、だから人間の身体は「幻想的な身体」。


人間の関係世界は、基本的には他者との「関係」世界ですが、これは人間が「自我」をもつことから来ている。動物の主体はいわば「身体」ですが、人間の主体は「自我」なのだ。動物は「身体性」にエロスの源泉をもつけれど、人間ではむしろ「自我」がエロスの源泉になっている。


それで、人間の「関係」は何が原理になっているかというと、「他者」との「幻想関係」。自分が他者をどう評価し他者が自分をどう評価するか、そういう関係が基礎ですが、この関係は、暗黙の約定関係、簡単に言うと暗黙のルール関係と言える。でもそれが約定関係、ルール関係だということは意識されていない。


神がもっとも偉い、とか、男が女より偉いとか、子供は親の命令に従うべき、といったことは、自然の摂理ではなくて、ルール関係、暗黙の約定ですね。つまり、人間の関係世界は、総じてそういう暗黙の、また明示的なルール関係の網の目


また、この網の目を作る基本契機が「言葉」。人間の関係はそういう暗黙のルール関係の網の目ですが、これに対応して「自我」もある意味でルールの網の目。これはつっこむと複雑になるので基本線だけ言う。人間の自我は幻想的なもので、その内実は自己了解と関係了解の網の目。そしてそれが感受化(身体化)されているところが人間の「自我」の本質。それで、この感受化された関係了解の網の目が「「真・善・美」という人間の価値の秩序(価値審級)なのである。


「真・善・美」は、プラトンの言い方なので、ちょっと古めかしく聞こえるかもしれないけれど、この言い方はじつは相当正確。人間世界は、強い弱い、優劣、という秩序もあるけれど、人間的価値ということで言えばまず「よい」ということと「美」ということですね。「よし悪し」と、「美醜」という価値。もう一つは、「真と偽」。これは、必ずしも「事実」と「間違い」ということではなくて、「ほんとう」と「ほんとうではない」ということです。それが人間の心の価値の秩序の中心。


■美の本質はエロス的な欲望の対象で、特に感覚的な表象

「美」とは何なのか、ということで言えば、それは独自の重要性をもっている。つまり、「美」とは人間のエロス的な欲望の「対象」なんですが、特に感性的、感覚的な表象、イメージとしてそれは人間の心を引きつけるもの。


「善」と「美」はともに、人間のエロス的欲望の対象性

つまり、「身体性」、「感受性」に快を与えるもの、気持ち良さを与えるもの、そういうものをわれわれは「美」と呼んでいるわけである。現象学に「本質直観」という方法があるんですが、これで考えていくと、さしあたり、「善」と「美」はともに、人間のエロス的欲望の対象性だということになる。


ふたつは実際には入り交じっているけれど、大きく分ければこう言える。われわれが求めたくなるものが「意味」的な対象性となっているとき、それは「よいもの」とか「善」と呼ばれ、「身体性」「感受性」の対象となっているとき、それを「美」と呼んでいると言えます。現象学の考えではだいたいそういうことになる。


その「美」という言葉と、「エロス」という言葉は、イコールではないのか。


■「エロス」=ワクワクする感じ、自分を引きつける対象があるときにかき立てられるその情動性
「エロス」というのは、要するにワクワクする感じ。自分を引きつける対象があるときにかき立てられるその情動性といえばいいでしょうか。「エロス」は、狭い意味では性的な魅惑力のことですが、ひろくは、生き物が何らかの快の情動によって対象に惹きつけられる、という意味での力動と考えればいいと思います。

人間も含めてあらゆる動物の生の基本原理は「エロス」であるというのが、ぼくの考えの基本。あらゆる動物生は、エロス的可能性を求める力動と、不安や苦痛を遠ざけようとする力動の中で生きており、これをエロス原則と呼んでいる。フロイトが人間の生の根本動因をリビドーと呼びましたが、リビドーは性的な衝動力で、これでは狭すぎるというのがぼくの考え。
とくに人間のエロス原理は動物とは違って、身体的、性的な「快」を対象とする領域はかなり狭くて、むしろさまざまな「意味」を対象とする。つまりエロス的対象が幻想的。その中で、視覚や聴覚のイメージ性が問題となるような対象を、ふつうわれわれは「美」と呼んでいる。「美」の意味はもちろん転移しますが、もとはそういうこと。
大きなエロスの中に「美」というのがあるということだろうか。
エロスというのは、基本は主体と対象の間の引きつけの力というニュアンス。だから、対象となるものが「美」と言ったらいい。
ところで、「ブス」という言葉があるが、「醜」の方はどのように定義されるだろうか。
人間が基本的には避けたい、不安を起こすとか苦痛を予感させる、あるいはあまり近づきたくないもの、というのが基本ですね。美しいものが、なんだか知らないけどとにかく人を魅きつける力があるとすれば、反対で遠ざけたいものと言える。というのは、はじめ親は子供に「きれいきたない」という秩序を、「きたない!」という禁止ではじめる。だから「きたない」は、その領域への不安をもたらすもの。この領域はだから、一方で恐れの対象だが、もう一方で忌むべきもの(オブジェクション)であり、総体として嫌悪の対象となるわけだ。
(2)美醜の価値は編み変えられる

「美醜」の価値序列みたいなものは、アプリオリに存在しているものではなくて編み変えられる。変わるのである。


なぜ人間には「美醜」の価値秩序があるのかということを説明。大雑把に言うと……動物の主体意識はいわば「身体」が主人になっている。性欲とか食欲とか、直接的な欲望が自我を動かしている。エロス対象とエロス目標がほぼ固定されているわけである。


だから動物の場合「自我」というより「意識」と言ったほうがいい。「意識」はエロス的力動に基本的に奉仕する形になっている。「意識」が「身体性」に従属している。


人間では事情が異なる。ここでも「意識」を土台として規定しているのは「身体」だが、にもかかわらず、人間は生育をはじめると、このような動物原理からは逸脱していく。はじめエロス対象もエロス目標も自分の「身体」から離れないが、やがてそれは他者(母親)との関係性に転移。自分の「身体」が快い、から、「誰か」(母親)との「関係感情」が快い、へとエロス目標が移動する。


この「関係のエロス」の座をなすのが人間の「自我」で、それはいわば幻想的な「身体意識」なのである。空腹を満たしたいとか、身体的な快さを求めるとかいうプリミティブな「身体エロス」は土台としてはなくらないが、その占める割合はどんどん小さくなる。


問題なのは、「誰か」(母親)から可愛がられるか、認められるか、ということになる。だから「自我」が主人で「身体」は「自我」のエロス的欲求充足を満たすための「手段」のようになる。「身体」が「自我」に従属する。生育の過程で人間の「身体」が能力開発の場としてお解きなのである。問題になるのはそのため。


ともあれ、そんなわけで人間のエロス目標は、自己身体ではなくて「自我」。そこでエロス対象は、根本的には「他者」ということになる。それで人間は動物のように、まわりの環境世界との間でエロス対象を見出すのではなくて、他者との関係の世界中でエロスを見出していく。


「関係世界」が人間のエロス的対象と目標の世界。ところがこの「関係の世界」は環境世界とちがって、幻想的なもの。どういう意味で幻想的かというと、それはいわば「意味の網の目」なのだ。それは固定性も一義性ももたない。それはどんどん変様されるようなものです。


だから、動物のエロスは、主体と世界の関係がほとんど一義的なのに対して、人間のエロスは、主体と関係世界の相互的な変様を基盤とするような多義的で相関的な関係。この相関的な多義性は、「自己アイデンティティ」というものを基軸として編み上げられる。


それで、「美醜」の価値秩序がなぜ人間世界に存在するのかということですが、ぼくの仮説で言いますと、それは、人間の「身体」というのは、エロス感受の場ですが、人間関係が相互了解関係の網の目であるとすると(これが意味の網の目ということですが)、人間の「身体」の感受能力もまた、「自我」のあり方によって変様される。


つまり人間の「身体」もまた「幻想的な身体」なのです。動物の「身体」が主として、快苦、安心-不安という秩序に奉仕しているとすると、人間の身体性(感受能力)は、この「自我」論的変様として、美醜、善悪、真偽(ほんとう-いつわり)という秩序の中で生きる。鳥のオスの羽が美しかったりするのは、動物も「美」という感覚を持っているからなんだという意見もあるんですけれど、しかしそれは人間が持っているような幻想的な「美」ではない。


さっき人間の「自我」は、「関係のエロス」の座となると言ったが、少し例を挙げて言うと、人間のいちばんはじめの「関係」はふつう母親との関係。はじめ乳幼児は、お母さんがいないととにかく泣く。泣くことによってお母さんを呼びよせるわけですね。泣くというのは子どもの一つの能力(=できる)


子どもはこの能力によって生きてるんですが、あるところまでいくと泣くのを我慢しなければいけなくなる。初めは泣くのを我慢するのはいやなんですが、ちょっと我慢することを覚えると、母親との関係が気持ちよくなる。


これが「関係のエロス」の起点です。もちろんこれは象徴的な思弁で、実際はもう少し複雑な関係が介在すると思うが。要するに、直接的な「自己のエロス」を一時断念(抑止)できると、母親との関係感情が「こころよく」なる。この経験が、幼児にはじめの「関係のエロス」を与える。母親の禁止やいうことをきくと、「愛される」。


これが内面化されて、「自我」が出てくるわけだ。エロスは、はじめは自我の身体性に固着してるけれど、直接的な「身体性」の乗り超えとして、だんだん関係感情に転移してくる。それで、てっとりばやくいうと、もう一方で人間には、象徴能力という独自のものがありますが、この「関係感情」の「こころよい」が、象徴能力と結びついてあるイメージや「形象」に転移することで、「きれい-きたない」という秩序が生じる。


つまり関係が「こころよい」が、形象化、感覚化されたものが「美」というものになる。美を「本質観取」するとそんなことが出てくる。「うつくしいもの」は「こころよいもの」とは違う。それは、直接性を失って、”主体の「むこう」”に、大なり小なり「憧れ」の対象となって存在している。それは直接、食べたり触れたりできないで、見る対象、聞く対象になって、直接的な身体的欲求満足から「隔てられている」わけである。


では、「好み」というのはどういうものか。たとえば、メス猫でも好きなオス猫と嫌いなオス猫とがいるように、動物にも「好み」があるように見える。それと美的なものとの関係というのはどうか?


猫の「好み」もある意味で美的なものと言えるかもしれないけれど、それは根本的には人間世界の「美醜」からのアナロジーでしょう。猫の好みは、生物学的な個体差だと思いますが、人間の好みはいわば「趣味判断」的な個体差。


「たで食う虫は好きずき」という言葉があるけれど、この美的趣味(=美意識)の違いの本質は何かと言うと、こんな感じになる。「美」は人間のエロス的対象の最たるもの。とくに人間のエロティックな対象は「美」的なもの(男女差がありますが)


ところがもともと「美」は幻想的なもので、何が各人にとって「美」であるか大きな個体差がある。フロイトは、子供はもともと性対象において多形倒錯で、人間の「性対象」はエディプス関係(による性発達のあり方)に応じて決定されるといいましたが、これになぞらえて言うと、各人にとって「美」は、その人の「ロマン的世界像」の形成に応じて変わる。


ロマン的世界は、子供が必ず通過する現実との「挫折感覚」(はじめは誰もが世界の主人公なので)から生じる、いわば「生の世界」に対するはじめの憧れの世界。これはじつはすでに言葉(物語やイメージ)によって編まれたもの。だからそれは動物の趣味と本質がちがう。


したがって、人間の「美醜」の感覚は本質的に変様しうるもの。どんどん変わっていくし、むしろ「美的な感受性」(=人間の感受的な身体性)が変わっていくということが、人間のエロスの本質。ついでに言うと「自己アイデンティティ」は、この人間の感受の身体性の変様の基体。人間の「自我」と「感受性=身体性」の関係は独特。


人間の「感受性」は幻想的な身体性であって、いわばそのひとの「美醜」、「善悪」、「真偽」の根本的なルールをなしている。これが本質的には人間の「自我」を支えている。だけど人間の幻想的な身体性はまた、人間の「自己」の意識的な活動(他者との関係行為)を通してしか自分の「身体性」を変様させられない。そんな具合。だけど、この、人間が他者関係を通じて自分の「身体性」を変様させていく、言い換えると自分の美醜や善悪のルールを絶えず刷新していく、ということが人間の生のもっとも根本的な本質である。


ともあれ、そういうわけで、「美醜」の感覚がまったく変わらなければ、人間はそもそも他者と関係というものを持てない。これが好きだとか、これがいやだということが一義的にセットされているとしたら、人間は悲しいものである。自分も、自分の関係の世界も変化させたり、展開させたり決してできないので。


そうすると、人間にとって「絶対的な美」というものはあり得ないわけだろうか。


そうである。ただ、あくまで「美醜」というのは関係世界を由来としているわけですから、ただ、「よりよい美」というものは必ずある。「絶対的な美」というのは、無限大と同じで極限理念、それはじっさいの数としては存在しない。でも、もっと美しいというのはある。


「美の普遍性」というのはどうだろう。


「美の普遍性」というのはある。ただ誤解が多いんですが、普遍性というのは絶対性という意味ではない。さっき言ったように「美」は美意識的な幻想的身体性によっているから、ぜんぜん固定的なものではない。


だけど、美の「本質」は、「関係のこころよい」ということが起点であり、その展開形としての各人のロマン的世界-憧れの構造を根にもっている。だから、美醜の秩序は、生き物の「エロス的可能性苦痛・不安」という全体的秩序の中で、「ロマン的可能性不安・オブジェクション」というエロス的な惹きつけと遠ざけの原理として必ず動いている。だから、そういう構造的な本質として必ず普遍性をもっているということ。


つまり美それ自体に、「普遍的な美」というものがどこかにあるということではなくて、誰でも自分なりの仕方で美というものを経験し、美しいというものに憧れたりする経験を持ち、一人一人の人間が抱く美というものの意味には必ず共通項がある。それが普遍性ということ。


「絶対的な美」はないが、「普遍的な美」はあるということ。


詳しく言うと、「普遍的な美」というようなものはなくて、「美」という秩序には普遍性がある、といえばいい。もう一度言うと、人間の世界は、環境世界ではなくて関係世界。他者との関係の中で「自己」を形成し、「自己」を通して自分の感受性、身体性を編み上げていく。


この行為自体が人間の生の「エロス」の源泉。美醜の秩序は、世間一般のルールというのではなくて、本質的には人間の感受性の根本ルール(善悪・真偽と並んで)。だから人間の世界は「価値審級」の世界。したがって、人間の世界がある限り、けっして「美醜」という序列はなくならない。


「普遍的な美」というと「美」の絶対基準があるように感じられますが、そういうことではなく美醜の秩序の普遍性ということで考えればいいと思う。

 

 

昔から、論理学を学ぶたびに疑問があった。

論理学とはようするに、「AはBである」「BはCである」なら「AはCである」など、内容は置いておいて形式だけを扱い知識を拡大していくようなもの。それを学ぶなら有用なのだろうが、僕は、そもそも「AはBである」というこの判断がそもそも「何なのか」ずっと疑問であった。

なぜ、「AはBである」というのが最も一般的な構文というか、文というか、判断なのか。(おそらく普通は気にならないだろうが)

フッサールはなんとこの問いに真っ向から答えてくれている。ただ、その問題意識は、学問の基礎づけという目的ではあるが。

フッサールは学問の基礎といわれる「論理学」のさらに下にある「直接経験=志向的体験」を探究し
そこから論理学を基礎づける試みを開始した。その最初の成果が1901年頃の『論理学研究』(Logische Untersuchenugen)である。

「直接経験=志向的体験」から全てを考える。これは、客観世界の中に自分がいると考えるような自然的態度をエポケーして全くの無前提状態の態度である。この視点から全ては発生すると考えるのがフッサールの主張。 

 
われわれが親しんでいる
狭義の論理学:「この机は木製である」のように「主語」(この机)と「述語規定」(木製)と「存在」(ある)を備えた構文が基本となる。これを一般化すると、「SPである」であるが、これを基本にしてさまざまな構文形式が生じる。フッサールはこれを「直接経験=志向的体験」から基礎づけようとする。

「直接経験=志向的体験」から考察してみよう。

今、ぼーっとして、無前提状態になってほしい。

ある場からなにかが際立ってくる。このなにかが後の「対象」となるのであるが、この際立ちはなによりも意味的な際立ちである。場の中で同質的なもの同士はまとまり、異質的なものは分離する。ゲシュタルトのようなものが図として際立ってきて地から分離するといったこと。(原連合という)丸山圭三郎の「シンボル化」と同義。

 

ゲシュタルトのようなものが際立って触発してくると、注視がそれに向かう。そしてそれがどういうものかをさらに解明しようとする。たとえば、サイコロの場合ならば「白い」とか「立方体」…というようなのノエマ的意味の「規定a,b…」が見いだされるとともにそれらの意味が収斂する「基体」が分化していく。

つまり、志向性は突破されるべき諸現出(ノエマ的意味の諸規定)と、これらの諸現出を付着させる基体とを、分化させるのである。このことを出発点にして、後に主語
S(基体)と述語p(意味)といった論理学的カテゴリーが成立していく。だからフッサールはこの場面を「いわゆる論理学的カテゴリー」の最初のものの原現場だという。

いかがだろうか。ちょっと説明が足りない部分があるが、概要はつかめただろうか。

論理学にはいろんな規則があるが、「なぜそれが正しい?」とつっこまれたらあなたは答えられるか。僕はこれがもっとも根源的な答えだと思う。

ちなみに、論理学について、「なんで」って問うやつなんて普通いない。

むしろいたら「なんだこいつ」ってなる。 

グローバル経済の中、企業競争が激化しているが、多くの人は創造性がキーになっていると考えているのではないか。

たしかに、高度な技術を生み出し応用する力、普通では考えもつかないアイデアが企業の強さの源泉であることは分かる。

ただ、それより深い、根源的なところで最も重要な「課題」がある。

それは、組織を統率するというマネジメントの基本課題である。
言い方を変えると、相対主義的空気が蔓延し、輝かしい未来に本気で期待できない終わりなき日常を生き続けなければいけない現代人たちに、どうやって不自然な行動(企業で一生懸命会社のために働くこと)をさせるか、ということ。

普通に考えて、<世界>において、人間が毎日会社にいって仕事することは不自然であるが、<社会>での習慣をある程度身につけた人間たちはこれを日課とする。しかし、物質的に豊かになり考える余裕のできた人口が増えている。こうした人たちはこの当たり前の毎日を疑いはじめるし、どこに自分たちが向かっているかについても考えだす。

誰でも考えてみれば、人間はどこに向かっていることなんか分からないことがわかる。日々、友だちや家族と楽しく過ごしたり、海外旅行にいって新しい経験をする、仕事で頑張って評価される、などということの繰り返しがあり、途中子供ができるなどちょっとしたイベントがあるだけだろうと、全体を見渡してしまう。

もちろん、多くの人はこれら日常のなかに楽しみを見出し、明るい未来にリアリティを感じることができる。

でも、そうした人も含めて、マルクスが指摘しているような必要以上な労働で搾取されているような状態は放おっておかないだろうし、ある一つの企業にコミットするモチベーションも湧かない。

こういうある種、価値観の定まらない相対主義的ムードのただよう現代人を一つの方向を示し導くには、会社のプロダクトや社会的意義だけでなく、働き方、さらに一緒に人間はどうあるべきかなども考えれるはっきりとは把握できない人生の良きパートナーとしての役割が期待される。かなり難易度は高い。

いいたいことをシンプルにいうと、ビジネスモデルとかプロダクト内容ももちろん大事であるが、従業員をどうやって巻き込ませるか、そこをうまく設計する必要がある。

前に哲学をする理由を述べたが、もう一個別の視点からある。

それは、コンテンツとして最も面白いから、というシンプルなもの。

ここでいうコンテンツとは、漫画、アニメ、映画、小説、音楽などに限らず、消費する物やサービスも含めて、ユーザーとしての主体に主観的な「体験」 を与えるものである。僕は、インターネットを使った何か主観的に楽しいuser experienceを与えるものを追い求めていたが、結局行き着いたのは哲学だ。

映画や小説、さらにはウェブサービスとしてfacebookとかツイッターは面白い。でも僕にとっては哲学が一番おもしろい。人間はどういうあり方をしているのか、社会はどうあるべきか、どう生きるべきかなどを根源的にもうこれ以上辿れないというところまで辿る。そうした作品を読むのはそれ自体とてもおもしろいコンテンツなのである。 

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