記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)意識ファースト!意識がよければ何でもOK。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※基本殴り書きで校正しておりませんのであしからず(というよりいい感じで汲み取ってください)著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 歴史・社会・哲学

昔から、論理学を学ぶたびに疑問があった。

論理学とはようするに、「AはBである」「BはCである」なら「AはCである」など、内容は置いておいて形式だけを扱い知識を拡大していくようなもの。それを学ぶなら有用なのだろうが、僕は、そもそも「AはBである」というこの判断がそもそも「何なのか」ずっと疑問であった。

なぜ、「AはBである」というのが最も一般的な構文というか、文というか、判断なのか。(おそらく普通は気にならないだろうが)

フッサールはなんとこの問いに真っ向から答えてくれている。ただ、その問題意識は、学問の基礎づけという目的ではあるが。

フッサールは学問の基礎といわれる「論理学」のさらに下にある「直接経験=志向的体験」を探究し
そこから論理学を基礎づける試みを開始した。その最初の成果が1901年頃の『論理学研究』(Logische Untersuchenugen)である。

「直接経験=志向的体験」から全てを考える。これは、客観世界の中に自分がいると考えるような自然的態度をエポケーして全くの無前提状態の態度である。この視点から全ては発生すると考えるのがフッサールの主張。 

 
われわれが親しんでいる
狭義の論理学:「この机は木製である」のように「主語」(この机)と「述語規定」(木製)と「存在」(ある)を備えた構文が基本となる。これを一般化すると、「SPである」であるが、これを基本にしてさまざまな構文形式が生じる。フッサールはこれを「直接経験=志向的体験」から基礎づけようとする。

「直接経験=志向的体験」から考察してみよう。

今、ぼーっとして、無前提状態になってほしい。

ある場からなにかが際立ってくる。このなにかが後の「対象」となるのであるが、この際立ちはなによりも意味的な際立ちである。場の中で同質的なもの同士はまとまり、異質的なものは分離する。ゲシュタルトのようなものが図として際立ってきて地から分離するといったこと。(原連合という)丸山圭三郎の「シンボル化」と同義。

 

ゲシュタルトのようなものが際立って触発してくると、注視がそれに向かう。そしてそれがどういうものかをさらに解明しようとする。たとえば、サイコロの場合ならば「白い」とか「立方体」…というようなのノエマ的意味の「規定a,b…」が見いだされるとともにそれらの意味が収斂する「基体」が分化していく。

つまり、志向性は突破されるべき諸現出(ノエマ的意味の諸規定)と、これらの諸現出を付着させる基体とを、分化させるのである。このことを出発点にして、後に主語
S(基体)と述語p(意味)といった論理学的カテゴリーが成立していく。だからフッサールはこの場面を「いわゆる論理学的カテゴリー」の最初のものの原現場だという。

いかがだろうか。ちょっと説明が足りない部分があるが、概要はつかめただろうか。

論理学にはいろんな規則があるが、「なぜそれが正しい?」とつっこまれたらあなたは答えられるか。僕はこれがもっとも根源的な答えだと思う。

ちなみに、論理学について、「なんで」って問うやつなんて普通いない。

むしろいたら「なんだこいつ」ってなる。 

グローバル経済の中、企業競争が激化しているが、多くの人は創造性がキーになっていると考えているのではないか。

たしかに、高度な技術を生み出し応用する力、普通では考えもつかないアイデアが企業の強さの源泉であることは分かる。

ただ、それより深い、根源的なところで最も重要な「課題」がある。

それは、組織を統率するというマネジメントの基本課題である。
言い方を変えると、相対主義的空気が蔓延し、輝かしい未来に本気で期待できない終わりなき日常を生き続けなければいけない現代人たちに、どうやって不自然な行動(企業で一生懸命会社のために働くこと)をさせるか、ということ。

普通に考えて、<世界>において、人間が毎日会社にいって仕事することは不自然であるが、<社会>での習慣をある程度身につけた人間たちはこれを日課とする。しかし、物質的に豊かになり考える余裕のできた人口が増えている。こうした人たちはこの当たり前の毎日を疑いはじめるし、どこに自分たちが向かっているかについても考えだす。

誰でも考えてみれば、人間はどこに向かっていることなんか分からないことがわかる。日々、友だちや家族と楽しく過ごしたり、海外旅行にいって新しい経験をする、仕事で頑張って評価される、などということの繰り返しがあり、途中子供ができるなどちょっとしたイベントがあるだけだろうと、全体を見渡してしまう。

もちろん、多くの人はこれら日常のなかに楽しみを見出し、明るい未来にリアリティを感じることができる。

でも、そうした人も含めて、マルクスが指摘しているような必要以上な労働で搾取されているような状態は放おっておかないだろうし、ある一つの企業にコミットするモチベーションも湧かない。

こういうある種、価値観の定まらない相対主義的ムードのただよう現代人を一つの方向を示し導くには、会社のプロダクトや社会的意義だけでなく、働き方、さらに一緒に人間はどうあるべきかなども考えれるはっきりとは把握できない人生の良きパートナーとしての役割が期待される。かなり難易度は高い。

いいたいことをシンプルにいうと、ビジネスモデルとかプロダクト内容ももちろん大事であるが、従業員をどうやって巻き込ませるか、そこをうまく設計する必要がある。

前に哲学をする理由を述べたが、もう一個別の視点からある。

それは、コンテンツとして最も面白いから、というシンプルなもの。

ここでいうコンテンツとは、漫画、アニメ、映画、小説、音楽などに限らず、消費する物やサービスも含めて、ユーザーとしての主体に主観的な「体験」 を与えるものである。僕は、インターネットを使った何か主観的に楽しいuser experienceを与えるものを追い求めていたが、結局行き着いたのは哲学だ。

映画や小説、さらにはウェブサービスとしてfacebookとかツイッターは面白い。でも僕にとっては哲学が一番おもしろい。人間はどういうあり方をしているのか、社会はどうあるべきか、どう生きるべきかなどを根源的にもうこれ以上辿れないというところまで辿る。そうした作品を読むのはそれ自体とてもおもしろいコンテンツなのである。 

「宗教」とは何かと聞かれて、その本質を的確に言えるだろうか。

宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」でうまく定義している。

私の考えでは、宗教とは、「なぜ(他の村でなく)この村が疫病や飢饉に苦しむのか」「なぜ(他の家族でなく)一家が不幸なのか」「なぜ物理法則は(他ではなく)この法則なのか」「なぜ私は(他の世界でなく)こんな世界に生きるのか」「なぜ(他の人でなく)私の頭が悪いのか」という”世界の中の端的なもの”を、受け入れ可能なものに加工するメカニズムである。(33) 
ギリシャ哲学から近代、現代の哲学を学んでいると、やっぱりどんなに頑張っても原理的に分からないことがある。カントやウィトゲンシュタインが形而上学だとばっさり切り捨てた功績は大きいが、それでも未だにその解を求める動きがある。

僕自身もAIの発展などでだんだん人間の凄さとともにその「単純さ」や限界について理解してきた。(確信してきた、といったほうがいいか)

人間には明らかに”端的に”理解できないことがある。 

とういか、人間の実存「いま、ここ」というのは意味が開けるということとイコールである。その在り方自体の意味を問うことはできないのだ。


 

「倫理」と「道徳」の違いを言えるだろうか?

僕も中々うまくこれだと思えるものがなかったが、宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」でそれらの違いが触れられていて分かりやすい。

私たちの社会には、もともと一神教はいない。だからそういう神の前で感じ入る「罪の意識」もあり得ず、他人にも指弾されようが「我、これを信ず」と言い続けられるような「内的確かさ」もありえない。私たちの社会は「倫理」なき社会だ。倫理の代わりに見いだされるのは、自分の属する共同体のメンバーにとって良きことこそが良きことであると感じるような、共同体のまなざしによって自らを持する「外的確かさ」である。これを「道徳」という。「良心」という抽象的な観念は、神のまなざしを前にした「倫理」と、共同体のまなざしを前にした「道徳」という、排他的な二つの類型に分割できる。 (64)

以下は本書と関係ないが、倫理と道徳について考察する。

 「倫理」というのは、アプリオリに決っている善悪、神が設定するもの、物理法則などのイメージで、絶対的にこの世界にある善悪の基準といったところだろうか。一方、「道徳」というのは、周囲の人間のまなざしにより形成される善悪の基準である。

現象学的にいうと、まず人は社会的な善悪を知らない状態で生まれる。そして、人間社会のなかで、自分が嬉しいこと悲しいこと、そして間主観的に他人が嬉しいこと悲しいことを学んでいく。こうして善悪の基準という道徳のリアリティが強まる。

それ故、昨今のように人間関係が希薄になっている状況において、人はなかなかこの内的にリアリティをもてる善悪の基準(道徳)を形成できていない。そうすると、何をすればいいのか分からなくパニックに陥る。

機会があれば書きたいが、そもそも人間はエントロピーへの反抗というようなベクトルしかもっていないので、クオリアレベルでの善悪というものにはっきりした答えはなく、記憶の形成のうちにリアリティを持てる基準を作っていくしかない。 


 

最近、というかもう物心ついたときからか、
 現代社会は人のコミュニケーションが薄くなった
 インターネットなど外部に記憶装置があるので、 知識つめこまなくなった
 思考をしなくなった
など、「やばいんじゃない?」的な社会への警告をよく目にする。

こうした傾向は間違いなくある。
でも、これってどうなんだろう。
たしかに、昔の人みたいにLeonardo da Vinciとか井筒俊彦とかみたいな天才みたいな人はこういう便利な時代には出にくいだろう。

ただ、これは変化している環境全体の一部の話だ。
農作物の生産性があがり、コミュニケーションコストも下がり、エネルギー効率が上がり、複雑なパターンを認識するAIや天文学的数字を計算できるコンピュータなどにより、人間の外部環境が変わっている。

カール・マルクスは人間の思想は生産力によって決定されるとした。生産性が低い時代は、全体に配分できないが、それでも集団を維持する必要があるので僭主的になる。生産力が上がればみんな平等に近づいていくと。

これと同じで、食に限らずあらゆることが人間にとって便利に、より安全に、安定的になっている。そうすると人間のあり方も当然変わってしかるべきなのだ。
 
極端な話、不労不老状態になったら、今人間社会で言われている「べき論」的なことは皆無になる。

と、そうすると、、、

今、書いてて思ったが、これはこれでリスクだ。

べき論がなくなると求心力がなくなる。全員が勝手にしやがれ状態なれば、何か問題がおこったときまとまらない。また、万人の万人に対する戦いに戻ってしまう。

不老不労状態になっても、ある程度価値観はみなで共有が必要かもしれない。

ただ、今回述べたことの趣旨は、当面、こうした社会の変化は、まあいいんじゃないの?って感じだ。 

今日でついに30歳になった。今年から本格的に哲学を学ぶ。哲学史など知識を詰め込むだけの「哲学」学はしたくないが、まずは先人の知恵を復習し、哲学に限らず、脳科学や数学、歴史、社会学など広く接する予定である。本当に世界は何か、どう生きるべきかを根源的に問える哲学者になりたい。

まあ、まずはベタに既存の近代哲学や現代哲学を学ぶわけだ。

何故か?

その理由を思いつくがままに書いた。順不同。


(1)
人間とは何か、に迫りたい 生理学、心理学、物理学などあるが、一番根源的なのは哲学。意識内で起こっていることの構造を解明したい。少なくとも自分で仮説を持ちたい。明日死んでもいいようにというならまずはこれだろう。

(2)
雑音の少ない過去の時代の人の考えを知る。というか今とは違う価値観を持っていた人々の考えを知りたい。僕らは単純に過去から未来にむけて一直線に発展している世界観を持っている。環境により人の感性は違う。これはいくら強調してもしすぎることはない。いくら他の時代の考え方をしようとしても、必ず今持っている経験を通じてしかみえない。

(3)
自分で表現できる言葉を学ぶ。難解な議論をできるようにしたい。全てが簡単に説明できるわけではない。大きなことをするには細かく詳細な議論をしなくてはならない。 人を大勢巻き込む大きなプロジェクトで必要。

(4)
体験を増やしたいけど、体験できることは収穫逓減でだいたい同じなのでこっちの領域に新しいことがありそう。たしかに学びという面では、物理空間での実行動による経験のほうが価値があるだろう。価値があるというか、自分への影響は大きい。でも、これまでいろいろ経験してきたが、収穫逓減的に学びが減っているのでここらでちょっと本から学びたい。

(5)
哲学すると、「殺意」が出なくなる。人間とは何か深く理解できると、人はだいたい環境に作られるとわかる。そうすると、変態や殺人鬼のことだって説明はつく。彼らを消しても何の解決にもならない。もう少しいうと、心の安らぎになる。

(6)
もうこれ以上考えないため。言葉は結局信用できないと考えている。だけど、やっぱり現代に生まれたからには言葉を使わなくてはいけない。今、徹底的に学んで、あとは言葉をあまり信用しないで今を生きるような生き方をしたい。
 
(7)
作家など物書きの仕事をしたい、というのもある。でも言葉と関わらない生き方にも憧れる。

(8)
哲学で、みなの固定観念を解きほぐしたい 。哲学は、みなの想定している通り、徹底的にものごとを考えぬく。この方法で、みなの固定観念をなくしたい。日々、些細なことで感情を露出している人々は、あまりにも文化や社会にとらわれすぎていて、自然的な世界に生きていることを忘れている。将来的にこうした主張を軸にした映画など取って社会に放りたい。

(9)
それ自体が楽しい。哲学というのは小難しい言葉を駆使して抽象的な思索をしているだけで非生産的だという批判がよくある。もちろん上述のようにいいことは沢山あるが、これは正しいと認めることもできる。認める場合、それでも、ある種一つの高貴な趣味として面白い。ギリシャ哲学や原始仏教、ウパニシャッド哲学などからはじめて今にいたるまでのその思考の変遷を辿ることは面白い。それが進化しているか否かは関係なく、ただのそれ自体が面白い。

(10)
大きな話を押さえておく。国際情勢、国内外の政治経済などを語って盛り上がることはほとんどない。友人とはなしても限界がある。話が大きすぎて、自分の生活と現実的にリンクしないのでこういう話をすると白ける。でも、たしかに人間のあり方を真剣に考え、社会の計画を立てる必要はあるし誰もがこの議論に参加すべきだ。僕も将来的に、「日本はアメリカケツ舐め追従はやめろ」とかそういう話をするつもりはない。そんなのは正直正確な情報もつかめないし、判断できない。でも、自分が事業をやるにしろ、サラリーマンやるにしろ、その舞台となるのは世界なのだから、マクロの動きやそこで生きる人間の本質について一度は本気で考えておく必要があると思うからだ。


以上。 

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