記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 歴史・社会・哲学

「倫理」と「道徳」の違いを言えるだろうか?

僕も中々うまくこれだと思えるものがなかったが、宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」でそれらの違いが触れられていて分かりやすい。

私たちの社会には、もともと一神教はいない。だからそういう神の前で感じ入る「罪の意識」もあり得ず、他人にも指弾されようが「我、これを信ず」と言い続けられるような「内的確かさ」もありえない。私たちの社会は「倫理」なき社会だ。倫理の代わりに見いだされるのは、自分の属する共同体のメンバーにとって良きことこそが良きことであると感じるような、共同体のまなざしによって自らを持する「外的確かさ」である。これを「道徳」という。「良心」という抽象的な観念は、神のまなざしを前にした「倫理」と、共同体のまなざしを前にした「道徳」という、排他的な二つの類型に分割できる。 (64)

以下は本書と関係ないが、倫理と道徳について考察する。

 「倫理」というのは、アプリオリに決っている善悪、神が設定するもの、物理法則などのイメージで、絶対的にこの世界にある善悪の基準といったところだろうか。一方、「道徳」というのは、周囲の人間のまなざしにより形成される善悪の基準である。

現象学的にいうと、まず人は社会的な善悪を知らない状態で生まれる。そして、人間社会のなかで、自分が嬉しいこと悲しいこと、そして間主観的に他人が嬉しいこと悲しいことを学んでいく。こうして善悪の基準という道徳のリアリティが強まる。

それ故、昨今のように人間関係が希薄になっている状況において、人はなかなかこの内的にリアリティをもてる善悪の基準(道徳)を形成できていない。そうすると、何をすればいいのか分からなくパニックに陥る。

機会があれば書きたいが、そもそも人間はエントロピーへの反抗というようなベクトルしかもっていないので、クオリアレベルでの善悪というものにはっきりした答えはなく、記憶の形成のうちにリアリティを持てる基準を作っていくしかない。 


 

最近、というかもう物心ついたときからか、
 現代社会は人のコミュニケーションが薄くなった
 インターネットなど外部に記憶装置があるので、 知識つめこまなくなった
 思考をしなくなった
など、「やばいんじゃない?」的な社会への警告をよく目にする。

こうした傾向は間違いなくある。
でも、これってどうなんだろう。
たしかに、昔の人みたいにLeonardo da Vinciとか井筒俊彦とかみたいな天才みたいな人はこういう便利な時代には出にくいだろう。

ただ、これは変化している環境全体の一部の話だ。
農作物の生産性があがり、コミュニケーションコストも下がり、エネルギー効率が上がり、複雑なパターンを認識するAIや天文学的数字を計算できるコンピュータなどにより、人間の外部環境が変わっている。

カール・マルクスは人間の思想は生産力によって決定されるとした。生産性が低い時代は、全体に配分できないが、それでも集団を維持する必要があるので僭主的になる。生産力が上がればみんな平等に近づいていくと。

これと同じで、食に限らずあらゆることが人間にとって便利に、より安全に、安定的になっている。そうすると人間のあり方も当然変わってしかるべきなのだ。
 
極端な話、不労不老状態になったら、今人間社会で言われている「べき論」的なことは皆無になる。

と、そうすると、、、

今、書いてて思ったが、これはこれでリスクだ。

べき論がなくなると求心力がなくなる。全員が勝手にしやがれ状態なれば、何か問題がおこったときまとまらない。また、万人の万人に対する戦いに戻ってしまう。

不老不労状態になっても、ある程度価値観はみなで共有が必要かもしれない。

ただ、今回述べたことの趣旨は、当面、こうした社会の変化は、まあいいんじゃないの?って感じだ。 

今日でついに30歳になった。今年から本格的に哲学を学ぶ。哲学史など知識を詰め込むだけの「哲学」学はしたくないが、まずは先人の知恵を復習し、哲学に限らず、脳科学や数学、歴史、社会学など広く接する予定である。本当に世界は何か、どう生きるべきかを根源的に問える哲学者になりたい。

まあ、まずはベタに既存の近代哲学や現代哲学を学ぶわけだ。

何故か?

その理由を思いつくがままに書いた。順不同。


(1)
人間とは何か、に迫りたい 生理学、心理学、物理学などあるが、一番根源的なのは哲学。意識内で起こっていることの構造を解明したい。少なくとも自分で仮説を持ちたい。明日死んでもいいようにというならまずはこれだろう。

(2)
雑音の少ない過去の時代の人の考えを知る。というか今とは違う価値観を持っていた人々の考えを知りたい。僕らは単純に過去から未来にむけて一直線に発展している世界観を持っている。環境により人の感性は違う。これはいくら強調してもしすぎることはない。いくら他の時代の考え方をしようとしても、必ず今持っている経験を通じてしかみえない。

(3)
自分で表現できる言葉を学ぶ。難解な議論をできるようにしたい。全てが簡単に説明できるわけではない。大きなことをするには細かく詳細な議論をしなくてはならない。 人を大勢巻き込む大きなプロジェクトで必要。

(4)
体験を増やしたいけど、体験できることは収穫逓減でだいたい同じなのでこっちの領域に新しいことがありそう。たしかに学びという面では、物理空間での実行動による経験のほうが価値があるだろう。価値があるというか、自分への影響は大きい。でも、これまでいろいろ経験してきたが、収穫逓減的に学びが減っているのでここらでちょっと本から学びたい。

(5)
哲学すると、「殺意」が出なくなる。人間とは何か深く理解できると、人はだいたい環境に作られるとわかる。そうすると、変態や殺人鬼のことだって説明はつく。彼らを消しても何の解決にもならない。もう少しいうと、心の安らぎになる。

(6)
もうこれ以上考えないため。言葉は結局信用できないと考えている。だけど、やっぱり現代に生まれたからには言葉を使わなくてはいけない。今、徹底的に学んで、あとは言葉をあまり信用しないで今を生きるような生き方をしたい。
 
(7)
作家など物書きの仕事をしたい、というのもある。でも言葉と関わらない生き方にも憧れる。

(8)
哲学で、みなの固定観念を解きほぐしたい 。哲学は、みなの想定している通り、徹底的にものごとを考えぬく。この方法で、みなの固定観念をなくしたい。日々、些細なことで感情を露出している人々は、あまりにも文化や社会にとらわれすぎていて、自然的な世界に生きていることを忘れている。将来的にこうした主張を軸にした映画など取って社会に放りたい。

(9)
それ自体が楽しい。哲学というのは小難しい言葉を駆使して抽象的な思索をしているだけで非生産的だという批判がよくある。もちろん上述のようにいいことは沢山あるが、これは正しいと認めることもできる。認める場合、それでも、ある種一つの高貴な趣味として面白い。ギリシャ哲学や原始仏教、ウパニシャッド哲学などからはじめて今にいたるまでのその思考の変遷を辿ることは面白い。それが進化しているか否かは関係なく、ただのそれ自体が面白い。

(10)
大きな話を押さえておく。国際情勢、国内外の政治経済などを語って盛り上がることはほとんどない。友人とはなしても限界がある。話が大きすぎて、自分の生活と現実的にリンクしないのでこういう話をすると白ける。でも、たしかに人間のあり方を真剣に考え、社会の計画を立てる必要はあるし誰もがこの議論に参加すべきだ。僕も将来的に、「日本はアメリカケツ舐め追従はやめろ」とかそういう話をするつもりはない。そんなのは正直正確な情報もつかめないし、判断できない。でも、自分が事業をやるにしろ、サラリーマンやるにしろ、その舞台となるのは世界なのだから、マクロの動きやそこで生きる人間の本質について一度は本気で考えておく必要があると思うからだ。


以上。 

世の中には、あらゆる学問がある。
学問とは、一定の理論に基づいて体系化された知識と方法ということで、以下のように沢山ある。


哲学
倫理学
美学
宗教学
心理学
言語学
文学
芸術学
歴史学
考古学
地理学(特に人文地理学)
人類学(特に文化人類学)
民俗学
国際関係 国内政治
政治学
行政学
政策学
経営学
法学
経済系
経済学
商学
会計学
一般系
社会学
地理学
数学
計算機科学
理学
物理学
化学
生物学
地学
地理学(特に自然地理学)
天文学

などなど、まだまだいっぱいある。

では、これらを一元的に全体像を理解する見方を紹介したい。

補助線は、「ラプラス」の悪魔である。
以下WIKIから引用。

ラプラスは自著において以下のような主張をした。
もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。

— 『確率の解析的理論』1812年

つまり、世界に存在する全ての原子の位置と運動量を知ることができるような知性が存在すると仮定すれば(ひとつの仮定)、その存在は、古典物理学を用いれば、これらの原子の時間発展を計算することができるだろうから(別の仮定)、その先の世界がどのようになるかを完全に知ることができるだろう、と考えた。この架空の超越的な存在の概念を、ラプラス自身はただ「知性」と呼んでいたのだが、後にそれをエミール・デュ・ボワ=レーモンが「ラプラスの霊(Laplacescher Geist)」と呼び、その後広く伝わっていく内に「ラプラスの悪魔(Laplacescher Dämon)」という名前が定着することとなった[1]。
この概念・イメージは、未来は現在の状態によって既に決まっているだろうと想定する「決定論」の概念を論じる時に、ある種のセンセーショナルなイメージとして頻繁に引き合いに出された。

要は、ある時点での状態と物理法則などの完全な法則が分かれば全部決定しているので予測可能ということ。これらの是非は今問わないが、考え方として、人間は少なからずこれを軸にしている。この考えの上に学問があるといっていい。 


要は、この初期状態からある法則にもとづいて超複雑に発展してきた無数の分岐経路、この分岐経路が世界である。その世界をある一定の視点から理論化して、実証していく、これがあらゆる学問であり、学問の違いは視点である。

哲学というのはその全体をメタ的にみるもっとも包括的な学問。 

先日、中国の厦門などいくつかの都市を観光してきた。

高速鉄道で行ったのだが、中国の駅の待合所は巨大な体育館のようにバカでかく壮大で、人の海である。

いろんな人が列車の到着を待っている。

この光景を見て、ちょっと不思議な感じがした。

そこから少し掘り下げてみたい。

物理的にはなんの強制もないのに、みんなが列車がある時間に来て、乗り込み、どこかへ行く、とうことを理解している。だから待っているのだ。

なんでそうなっているのか?なんで、みんなばらばらに行動してカオスにならずに、調和をなしているのか。(ちなみに中国では秩序は日本よりなくみんなばらばらだが、今はもっと大きい話)

それは記憶があるからだろう。

世界がどうなっているのかという基本的な記憶。さらに人間社会でこれまで生きてきた記憶。移動するさいの交通手段という記憶。今、どこかに向かっているという記憶。あらゆる記憶があってそこにいる。そしてある未来を想定している。


以下、本に面白い話が載っている。


 


コートルの手袋の話し。コートルという人がいて、その脳裏には祖母の屋根裏部屋の隅で、何本かのクラリネットに覆い被されるようにして置かれた「手袋」が、いまもありありと思い浮かぶという。祖父の使っていた手袋。しかし、実際には彼はその手袋を見たことがないし、祖父にも実際に会ったことがない。

ではどうして手袋のことが記憶に残ったのか?それはずっと以前に父親が人生について語ったテープに録音したことがありそれを10年ほど前にあらためて聞いてみたところ祖父の手袋について語っている部分が妙に印象深く載っこったからだという。

さて、この手袋の記憶はいったいどこにあるのか?コートルは問う。もちろん彼の頭の中にあると人は答えるだろうが、それだけではない。もともとは父の記憶の中にあったからこそ彼に伝わった。なので父の頭にもあったことになるし、テープに記録されているからテープの中にもある。また、コートルはこの話を講演であちこちでしているから、聴衆の中にもある。

さらに、祖母にあったり、何か他の手袋をみたりして、その手袋を思い出すとすれば、祖母や他の手袋の記憶装置の一部、それも強力で不可欠な一部だ、といえないこともない。このように手袋の記憶は頭のなかの一部に痕跡として孤立して存在しているものではなく、周囲の環境、本人の経歴、その他あらゆるものにもたれかかるかたちで成り立っている。

それどころかむしろこの「もたれかかる」ありようそのものが記憶の唯一可能なあり方。何かのコンテンツがあって、それが環境や経歴にもたれかかるのではなく、もたれかかりそのものが、記憶のコンテンツである。

記憶にはそれを成り立たしめるさまざまなものが必要。というよりむしろ、それを成り立たしめるさまざまなものが実は記憶の本体であるらしい。こうなると、記憶は、そこらじゅうにあまねく散らばって存在している。そう結論せざるをえない。

ここまでが本の内容。

 
一つ思考実験したい。
誰もが、目を閉じて思索にふけることは体験したことがあるはず。
では、以下の3つの場合、その思索の内容に違いがどうでるか?
 
  1. 真っ暗な暗闇で思索にふける
  2. カフェで思索にふける
  3. 大自然の中で思索にふける
普通に考えると、目を閉じて思索に入ると、それは普段と独立し、「完全に自分の内面だけの世界」に入りあらゆるものからニュートラルに思索できるという漠然としたイメージがあるだろう。

しかし、実際そんなことはないのはすぐわかる。

かならず、その状況に至った前の記憶、目を閉じる前の記憶が鮮明に残っているし、それまでに気にかけていた仕事の事とか友だちのこととかが意識の周辺をうろうろしているはずだ。

それに目を閉じる前の光景も重要。普段いっているカフェと、普段の生活から飛行機で5時間も離れた場所の大自然の環境とでは、その光景も、何かの刺激に対する反応方法も異なる。後者ならある種の変性意識状態になる。

さて、
少し話が逸れるが、記憶については謎が多く解明されていないことがばかりだが、長期記憶について一つの仮説があるようだ。それは、五感で感じたものは全て記憶に残っているが、検索することができず、手がかりなしなので意識にのぼる可能性がないか、少ないもの。

何か普段と違うことをして、ふと今まで思い出すことなかったことが脳裏に浮かぶなどということ。


さてさて、

ここまでの議論を通じて一つのことがいえる。

それは、われわれの実存(主観的な「いま、ここ」)は、自分の中にある記録だけでなく、周囲の世界があることで、むしろ両方あることで生じている。今の体験は今の五感情報が過去の記録とその印象などと相談され作られている。

しかし、そう考えると、ほんとうに人間とは世界と一体。

ドラゴンボールに出てくる精神と時の部屋に人がいったらどうなるだろう。

果てしなく真っ白な空間。

そこにずっといたら、記憶の大部分は思い出されることがなくなるだろう。


まあ、しっかし、本当にこの世界というものは面白いものだ。

なんでこんな感じの世界になっているのか。ライプニッツではないが、なぜ、何もないではないのか?

なぜ僕はあの人でなく僕なのか。

原理的に答えがでない問いというのは分かるが、面白いもんだ。

まとまりがないまま、つらつら書いてしまった。
 

日本がマイナス成長だとか、経済が縮小するとか、そんな話ばっかりだが、こういうこと言ってる人はだいたい現実を捉えそこねている。

経済は基本的に消費に依存している。かつての消費とは基本的に「必要なモノを買う」消費だった。旧ソ連の「行列」に典型的にみられるように。高度経済成長期の日本は三種の神器を揃えるために必死になって働いて日本全国のだいたいの家庭では多少のレベルの違いはあれ同じような耐久財一式を揃えた。1億の人民がこうした消費をすればそりゃとんでもない経済効果だ。子供とかもいるが、まあ一人平均で年間で100万円つかえば100兆円の経済効果。波及効果もいれればすさまじい。

経済成長を指標として意味があるのは、こういう時代だけではないか。


が現代の日本のように、生産が増大し、基本的な欲求や必要を十分満たしてしまってモノがありあまる段階になると、消費のあり方は一変する。わたしたちは現在、生きていくのにどうしても必要な最低限のモノとかサービスだけを消費しているのではない。

たとえば、クルマにしてもただ走ればいいというのではなくかっこ良くハイセンスじゃないとダメとか。たとえば、同じパソコンでも軽くて早いパソコン、同じ住むなら少々高くても東横線のようなイメージのいい私鉄沿線のマンション、外で食べるのならコダワリ屋のシェフのいるビストロの料理とか。

これらはボードリヤールの消費社会論でいうようなシンボルの消費と化している。

というよりは、利益を上げないと生きていけない企業が、隙間とかそういう意味消費を作り上げるしかなかった。市場が拡大していくことを企業の供給能力が追い越してしまった。

だから、こういう時代には、国全体は競争激しすぎて不況となる。しかし、何か意味消費とか革新的な事業で創造的なことができたら単体の企業ではとんでもなく成功するかもしれない。facebookとかそうだし、投資銀行とかも実体はないが創造的なテクニックで何とか金は儲けた。

そういう時代にどうすればいいか?

facebookみたいなイノベーションができるのはほんの一握りで、これらが多少増えても国全体はよくならない。

解決策は何か?

資本主義をやめるのは賢い選択とは言えない。他に代替がないし、ラジカルに変更するととんでもないカオスになる可能性もあるので。

そうなると今の環境をベースにするしかない。

激化する意味消費の競争の中では、この資本主義的経済の仕組みとは別の世界でセーフティネットを用意するしかない。家族の絆や中間共同体などで助け合うことができるネットワークを持つしか無い。そういう風に全体的に考えていくしかない。

今後も日本で不景気は間違いなく続く。中国やアフリカ、東南アジアの需要をうまくとりいれば部分的には高度経済成長期を享受することはできるが、それでも全体の一部分。革新的な企業も生まれ続けるだろうがそれはもっとほんの一部。

基本的な生き方としては、市場から必要な財とサービスを生活必需品は購入してOK。しかし、ちょっとした物の貸し借りとか子供預けるとか、病気になったら少し何か手伝ってもらうとかそういうのは市場から手にいれるとなると高すぎ。身近の人間関係で済むものはそういう繋がりからゲットしていく。そういう市場の外側の生活を作らなければいけない。

こうしたことは言うは易く行うは難しである。

が、これしかない。

今の若者はコミュニケーション能力がどんどんさがっていき。市場での取引など効率化されたものは得意だが、人間関係で何かを提供したりもらったりするのは慣れていない。

ただ、もうこれしか一般大衆には道がない。教育とかでどうにかするしかないのかね。僕もこの新しい未来のために貢献したい。 


日本では、覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕された元プロ野球選手、清原和博容疑者(48)の話題で持ちきりのようだ。政府が世間の目をそらすために仕組んだなど言われているが、事実として清原は覚醒剤を使用していたのは間違いないだろう。

ぼくは、正直このことを予見できていた。テレビでみる清原は、正直以下の乙武さんのコメント通りの人柄が見て取れる。

乙武氏は悲しそうに清原容疑者について「すごく内面が繊細で、弱くって。それを隠すために威嚇するような態度に出てしまうという方だった」とコメント。「弱い部分がこういうふうに出ちゃったんだなぁと思うと、今回、ショックだった」と寂しげに話した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160214-00000543-sanspo-ent

番長キャラで、周りから恐がられる存在。それを選手時代からずっと維持してくるのに限界があったのだろう。

僕は日本の社会的な特徴を読み取る。

清原のようなパワー系のスポーツ選手は、体育会的な集団では神的存在で、下から崇められる存在だ。特に客観的な実績もずば抜けた存在の清原は高校時代以降、ずっと下や周りから持ち上げられ続けていた。さらに豪快なキャラも総じて憧れのスターであった。当時は、実績もあり清原自身も何のためらいもなくこうした役割を担ってきた。

しかし、こういった神的なキャラは、無知な高校時代であれば機能するが社会という荒野に放たれたあとは、このキャラを保つのは至難の業。野球がうまいだけでは承認を得られなくなる。社会がどうまわっているかを理解し、適当な振る舞いがもとめられる。学ぶこと、自分の意見を述べること、リーダーシップを発揮すること、などなど。清原はそうしたことができなかった。野球という世界だけでの承認を得る方法以外になかった。そう、これはスポーツ選手全般に言えることのだ。

これは、体育会的な集団の悪しき慣習により無条件的に過剰な承認を与え続けた結果、それを否定し本当の正常な立ち位置に戻ることができなかった清原とそれを難しくする社会の構造が見て取れる。欧米や中国ではこうした無条件な承認はない。そもそもがみんな平等で尊重しあうのが基本だから(というか自分が最高、という感じ)他人を野球がうまいだけで無条件に崇めることはない。そこには人としての総合的な力が試されるので、実質的に清原のような存在は生まれない。

清原のようなタレントには、野球で得た直観を信じ、下手に社会的な人間にならないような生き方を続けていける能力があったと思う。だが、野球以外の場でそれを活かそうとする勇気がなかったのだろう。 

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