記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: ふと思ったこと

人間が物理的に身体でできることを考えてほしい。2秒いないに。大きくジャンプするとか、5Mくらいダッシュするとか、大声で叫ぶとか、じっとして動かないとか、コサックダンスするとか。いずれにせよせいぜい半径5M程度の円の中に収まる動きしかできない。

これってできることが自分の身体の周りに雲や霧のように可能性として漂っている感じがしないだろうか。量子論の素粒子のように。以下は電子の例。 

量子論では、原子核の周回軌道をとる電子の波は確率的に原子の周りを雲や霧の様に存在し観測してはじめて電子は粒になるとしている。 つまり電子は波動性を持っており正確な位置は確率的にしか言い表せないとしている。 
http://www.f5.dion.ne.jp/~mirage/hypams04/quantum_1.html 
素粒子は、観測するまで雲のように一部の範囲に確率として存在する。これは冒頭の人がこれから自由意志で動ける範囲と似ている。もちろんスケールは違うが、基本的な原理は同じなのではないか。

意識のない石ころとかは、その可能性のうちランダムに選択がなされ、意識あるものはそこから選べる。

よくわからん。

僕は海外に長くいるし、大学では帰国子女の人が多かったので、バイリンガルと知り合う機会が多い。英語だけでなく、中国語、韓国語など様々。

ただ、これは恐縮だが、バイリンガルは残念な人が多い。

さもしい人間。浅はかな人間が多い。もちろん、異文化に通じて、卓越したコミュニケーション能力や飽くなき向上心を持つ素晴らしい人間も知っているが、大きな傾向としてだ。

僕は一つの仮説を持っている。


バイリンガルの人は、語弊があるが、幸運にも自らの選択ではなくして武器をもっている。二ヶ国語をネイティブで使えるという武器だ。(微妙なやつもいるが)もちろん、幼い時期に異文化に溶け込み、全く話せない言語の習得という難題をクリアしたのだが、幼少期であれば自然と身につく部分が強い。当時は未知の環境に適合するのに子供ながら大変だったのも理解する。

だが、
まあ、要点をいってしまえば、対して頑張ってないのに武器となる能力を持っているのだ。高校、大学生、いやその後もずっとバイリンガルというだけで結構かっこよく思われちやほやされる。

そう、これに甘えてしまうのがダメなやつ。 

自分に強みがあるから、これ以上努力しようとしない。努力しないというと語弊があるが、卓越した能力を磨くために命がけで頑張るやつは少ない。

せっかく強い武器があるのだから、それを土台に毎日切磋琢磨してほしいものだ。

繰り返すが、大きな傾向の話で凄い人もいる。でもクソが多い、という話。 

哲学が好きというと物事を根源まで深く考える人、というイメージだろうか。まあ、それで合っていると思う。僕もけっこうそういう傾向がある。

物事には表裏があり、哲学についてもそれがいえる。

例えば、
砂浜で砂を作って何かの文字を作るとしよう。
最初のお題は「THANK YOU」。

普通の人は、ざっくり物事を把握している。
なので、この場合、ちょうどお箸くらいの長さの砂の塊のバーを沢山もっている。
それをポンポン置いていけば文字を作れる。

一方、哲学者は根源まで考えるので、
砂の一粒ずつを積み上げて文字を作成する。

何かをこの世界において目的に向かって行動する際に、一般的な人はさっとものごとが進むが、哲学者は時間がかかる。

しかし、汎用性は高いし性格で芸術的な仕上がりが実現できる。 

超能力としてテレパシーを使っているというと摩訶不思議であるが、普段親しんでいる重力や磁力なぜ働いているのか、というのも実は同じもんだ。素粒子物理学では、電磁気力は光子というボゾンのやりとりで生じると想定されている。要は小さすぎて目に見えない、人間の五感では捉えられないもので力をやり取りしている。

これをふと思ったのは以下のユングの集合的無意識についての発展解釈を読んだときだ。

 この「集合的無意識」とは、ユングの元々の考えとしては、人間という生物種が生まれた時から共通して持っている「型」みたいな概念でした。これは、DNAに例えると解りやすいかもしれません。人間は誰しも、その身の細胞の一つ一つにDNAを持っていますが、それを認識することは無いものです。しかし、DNAは人間にとって、その生物としての在り方を決める根本的なものです。集合的無意識も同様に、普段は認識することは出来ないのですが、あらゆる人間に生まれながらに存在し、その意識の奥底で各個人の意識の在り方に影響を与えるものだとしたのです。
 
 そして、この集合的無意識という理論は神秘行界で更に発展解釈されました。神秘行界では、古くよりアニマ・ムンディやアストラル界、アカシックレコードという概念が提唱されてきましたが、それらと同様に、集合的無意識とは各個人達がその無意識の奥で「繋がっている領域」とされたのです。これは、神秘行界で起きる様々な不思議な事柄をよく説明できるものでしたので、多くの人達に受け入れられました。
http://anima-mystica.jpn.org/jung/psy02.html 

ユングの集合的無意識はお馴染みで、世界の童話などが同じ形式もっているので人間はだれでも深いところで同じような概念を持っているということ。これは間違いないだろう。というかこれは身体性が共通している限り根底に無意識的に共通概念がある、ということであっさり理解できる。僕はさらに発展させて、人間の身体全体に記憶が染みており、子孫に引き継がれたり、心臓移植すると移植した人に一部の記憶が宿ったり、分子生物学的に外部に放出された細胞が他人に入って記憶が移行することも想定している。

さて、上記の引用文は、それとはさらに違って、重力のボゾンのような感じで集合的無意識がやり取りされているという。これは斬新である。 個別に共通のものを持っている、のではなく、個々がやり取りして繋がっているから共通だ、というのだ。

たしかに蟻の集団をみると全体が一つの生き物のように統率されている。人間も目に見えない何かで繋がっているという発想もありえてしまう。

ただ、この領域に踏み出すと、全てが仮説になってしまう。人間では感知できないものが物理法則を司っている場合だ。クオリアとかもそういってしまえばおしまい。

難しい問題である。 

世の中には、あらゆる学問がある。
学問とは、一定の理論に基づいて体系化された知識と方法ということで、以下のように沢山ある。


哲学
倫理学
美学
宗教学
心理学
言語学
文学
芸術学
歴史学
考古学
地理学(特に人文地理学)
人類学(特に文化人類学)
民俗学
国際関係 国内政治
政治学
行政学
政策学
経営学
法学
経済系
経済学
商学
会計学
一般系
社会学
地理学
数学
計算機科学
理学
物理学
化学
生物学
地学
地理学(特に自然地理学)
天文学

などなど、まだまだいっぱいある。

では、これらを一元的に全体像を理解する見方を紹介したい。

補助線は、「ラプラス」の悪魔である。
以下WIKIから引用。

ラプラスは自著において以下のような主張をした。
もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。

— 『確率の解析的理論』1812年

つまり、世界に存在する全ての原子の位置と運動量を知ることができるような知性が存在すると仮定すれば(ひとつの仮定)、その存在は、古典物理学を用いれば、これらの原子の時間発展を計算することができるだろうから(別の仮定)、その先の世界がどのようになるかを完全に知ることができるだろう、と考えた。この架空の超越的な存在の概念を、ラプラス自身はただ「知性」と呼んでいたのだが、後にそれをエミール・デュ・ボワ=レーモンが「ラプラスの霊(Laplacescher Geist)」と呼び、その後広く伝わっていく内に「ラプラスの悪魔(Laplacescher Dämon)」という名前が定着することとなった[1]。
この概念・イメージは、未来は現在の状態によって既に決まっているだろうと想定する「決定論」の概念を論じる時に、ある種のセンセーショナルなイメージとして頻繁に引き合いに出された。

要は、ある時点での状態と物理法則などの完全な法則が分かれば全部決定しているので予測可能ということ。これらの是非は今問わないが、考え方として、人間は少なからずこれを軸にしている。この考えの上に学問があるといっていい。 


要は、この初期状態からある法則にもとづいて超複雑に発展してきた無数の分岐経路、この分岐経路が世界である。その世界をある一定の視点から理論化して、実証していく、これがあらゆる学問であり、学問の違いは視点である。

哲学というのはその全体をメタ的にみるもっとも包括的な学問。 

いろんな思想に、他者からの承認欲求を人間のデフォルトの欲求であるかのように書かれているが、それは違う。これは獲得したものである。
 
なぜ他者承認があるか?順をおってみよう。
 
生まれる
  1. 人を見て「人」の概念を獲得する
  2. 鏡などで自分をみて実存としての自分も「人」だと思う
  3. 空間に「人」を含めたいろんな生物が住んでいるという世界観を持つ
  4. ある「人」に憧れたり、好意を抱く 或いはひどく憎み嫌いになる
  5. 自分もそういう「人」から好かれる「人」になりたくなる 
これが承認欲求。

僕は普段、いろんなレイヤーの人と接するが、ちゃんと交流し仕事など何か一緒にするとか一緒に飲むとかいうと、ある程度いろんな社会層と接したり自らいろいろ学んでいるレイヤーが多い。

最近、ミーハーな大衆と関わることが多いが、やはりけっこう大変だ。論理が通じないし、そいつが聞きたくないことは無視されるし、理解できないこともこちらのせいにされる。また、愚衆のため判断基準がわかりやすすぎる。外見がしっかりして、テキパキやっている素振りを尊ぶ。もちろんこれはどの層においても重要だが、愚衆はこれが優秀の必要最低条件と見なす。

ただ逆に学歴とか職歴とかで分かりやすく良いものがあれば評価される。僕が普段接する層は逆にここらへんは重視しないでその人の思想なり、何をやってきたかのほうが重要だと考える。

数ヶ月こういう人と接する中で、だいたいやり方がわかってきた。

ただ、世界一般でみるとこの人よりも愚昧な連中はやまほどいる。もし政治をするとかで、そういう層に気を使いながら仕事することになればとてつもない苦労だろう。政治家の方も大変だ。

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