記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

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丸山眞男が「民主主義をめざしての日々の努力のなかにはじめて民主主義は見出される。」と言っていたが、これは法治主義も同じである。法律の勉強をしてみて分かったが、法を立法しただけでは社会は何も変わらない。それを立法の趣旨、条文、判例などを組み合わせてあらゆる他の法曹や一般人の批判にさらされながら紛争に当てはめて解決していく。この過程の中に法治主義がある。

弁護士や検察、裁判官がただ単に法律を沢山丸暗記しているだけでは意味がないのが分かるだろう。各条文にはその裏に過去に蓄積された解釈や判例など山ほどある。法律が制定された当初はいろいろな矛盾や抜け穴があっただろうが長い歴史の中で徐々にうまく機能するようになっているのだ。それは法律の運用という言語化できない社会全体のテクネーが社会に浸透してきたのだ。弁護士や検察、裁判所を中心に社会の構成員が法律を理解し、話題にできるようになっているのだ。

日本はまだまだ一般市民に法的な考え方は浸透していないが、法律で問題を解決できる、法律を運用できる社会はある程度整っている。これを他の発展途上国でやろうとすると同じく長い歴史が必要。そして、冒頭の丸山眞男の言葉のように社会の構成員が常に法律というものがどういうものか分かり、例えば裁判所の憲法違反の判決などに対してあらゆる方向から批判されるような社会、これこそが法治主義であるのだ。ただしい判決などは存在しない。しかし、ひとつひとつの法律の条文や判決などに対して社会の構成員全体が目を光らせている状態、これが法治主義である。

ちなみに中国では法治主義が根付くのはかなり難しい。現在でもそうだが政府(行政)の裁量が強いし、法律より政策が先ずる状態が何百年も続いているので、その浸透されたエートスを今後変えていけるのか。むしろ三権分立とかしないで中国独自の政府主導を中心の新しい社会のあり方を議論したほうがい早そう。 

TAC司法試験対策である中村充講師の「4A基礎講座リバイバルパック」を受講し終わり、法律って大体どういうものかイメージができた。

法律の目的は、「問題の公平な処理を正統性を持って実施する」ことだと言える。(もちろんその背景には人権など実現する価値がある。)どういうことか。まず、「問題の公平な処理」について。法律で決められていることっていうのはだいたい一般的にその時代の人がこうあるべきだという価値観になっている。例えば、人殺したら死刑という人もいれば、更生するため禁錮刑で20年という人もいれば、証拠が100%間違いないとはいえないので刑などできない、人権のため死刑はだめなどいろんな意見があるが、それが平均的にまとまり一般的な常識れべるに落ち着いた見解みたいなのが法律になっていると言える。(もちろん恣意的にどこかの団体に利益が出るようにできた法律もあるだろうが、通るにはある程度の常識的価値でないとだめ)なので、意外と法律って難しいものではなく常識的な価値観持っていれば普通に判断していれば分かる。

次に、「正統性を持って実施する」とはどういうことか。それは、実際に法律に基いて何かをするときにいちいち反論の対応をしていては何もできないので、もう決まったものは絶対やる、という正統性をみんなに理解してもらうために存在する。世の中諸行無常で、絶対というものはないが、ある程度明確にルールがないと集団で分業できない。そのためのルールの正統性を持たすのが法律であり、それをみんなが納得するために、民主主義が取られている。この正統性っていうのはどんな集団でもかなり重要。会社やスポーツチームでも同じで、何故これを私がやるのか、おまえがやるのか、というのに理由なんて突き詰めたらないけど、それをあると決めるのが正統性である。日本の企業組織では法治主義的に明確に役割や職権が設定、運用されていないが欧米ではより明確である。

社会で多人数と関わって何かを行うには「問題の公平な処理を正統性を持って実施する」を実現する法律が必要不可欠であり、その代替はいまのところない。

法律を学ぶためにTACのオンライン講座を7月から約半年受講し先日ついにフィニッシュした。私が受けたのは法科大学院、予備試験、司法試験への対策用の講座のパックだったので、もちろんこれらの受験を前提としている授業であるが、自分の場合、弁護士や検察になる意向はなく、受講の目的は
  1. 社会が機能する上でどういう法律があるのか
  2. 実際にどう使われて問題が解決されるのか
  3. それを踏まえてどうやって予防的に行動するか
など広く法律についての理解を深めて、近くは契約書などに関わることの多い自分の仕事に、遠くには社会の構造を法治主義的な観点でみるために役立てようという目的であった。だったら、法律関係の本読めばいいと言われるだろう。実際に結構本は読んだが、やっぱり具体的に法を使った事例を考えたり、人から教わらないと頭に入ってこない。それにこの手の体系的でボリュームのある勉強は、一定期間集中してやらないと理解できないので、モチベーションの維持が不可欠となる。そういう意味で本講義を受講したが、結果的に大きな学びとなった。要は上述の目的を全てある程度達成できたし、今後どうやったらもっと深く学べるかという方向性も分かった。

私が受講したのは、「4A基礎講座リバイバルパック」という一年くらい前の講座で全部一気にウェブ上にアップされるので自分のペースで学べる。大体30万円弱であった。このパックには64回の「論文解法パターン講義」と31回の「知識集中完成講義」が入っている。1回の講義は3時間前後なのでそれが95回ということ。これを確実にこなせば、実際司法試験に受かる最低限の知識と実力が着く。

私が受講したのは、中村 充 (なかむら みつる)講師(TAC・Wセミナー 専任講師)の講座である。理由はネットで検索して評判が一番よかったのと、知り合いの弁護士にもOKと言われ、さらに安かったからだ。中村講師曰く、「あらゆる法的問題は、彼が考案した“4段階アルゴリズム”( (1)当事者確定 (2)言い分 (3)法的構成 (4)あてはめ ) 「だけ」で解ける。司法試験合格に向けて最も有効な対策は、本試験と同じことをすること=本試験問題を解くこと。単に知識の存在・内容を頭で把握するだけでなく、実戦での“知識の使い方”を、身体に叩き込んで欲しい。」とのこと。

実際、試験対策で受講していない自分であるが、知識をある程度効率よく吸収するためには試験勉強対策がよいと思い選んだ。おそらく、伊藤塾などではもっと法律がそもそも何なのか、社会での意義など大局的なところから説明するため、あまりにも範囲が広くなり勉強の焦点がブレる。さらに私の場合、法律がどういうものとか世界史での位置づけとか憲法の意義とかは既に学んでいたので、より具体的な使い方や問題の解き方が知りたかったのでちょうどよかった。

実際の講義は、3時間前後の95回の授業のうち全く無駄なところがない。効率化の一方、ちょくちょくある講師のネタ的な雑談があることで、法律を学ぶ面白さとテレビ番組を見ているような面白さを両方楽しめるのでモチベーションを持続しやすかった。また、条文の細かいところまで深く考察し理解している条文フェチぶりは、講義の信頼性を高め授業に集中させてくれた。

最後に、法律を学びたいなら弁護士を目指していなくても司法試験や予備試験対策は役立つこと、また単純に面白いということを強調したい。今後、この講義や法律関係の読書から学んだことや感想を何回か書いていきたい。

■参考


ワールドカップが盛り上がっているが、ワールドカップにしろオリンピックにしろ「これからも国という単位が明確に存在し続けます」宣言である。こんだけの世界中のお祭なんだから意義を再考したほうがいい。我々世代の人間、というか私は何を目指すべきか、考えてみよう。

小室直樹氏は敗戦で非常にショックを受けて日本が二度と戦争に負けない強い国になるべくあらゆる学問を学んだ。私にはそのような自分を突き動かすほどの刺激はない。それに、今、日本を最強にするというのは時代には合わない。今の時代なら、日本の国民の生活向上するには、世界の問題を解決しなくてはいけないからだ。しかも戦争などあからさまな危機があるわけではないので意識しずらい。

今の時代、特に日本人にとって、戦争というのは意識しずらい。ただ、国同士が争っているのはメディアなどで理解しやすい。しかし、世の中は徐々に良くなっていると思う。今目指すべきは、世界の統一である。各国はそれぞれ国内問題を抱えており、その解決のために外国に対して少しでも有利になるため、少しでも譲歩を引き出すために取り組む。中国が尖閣問題突きつけてくるのも国民意識形成したり、日本から譲歩引き出したいだけだ。こういう争いは、無駄である。もっと透明性高くすれば、状況はよくなる。

私の根本の考えは性悪説+若干の性善説であるが、性悪説の世界では情報の非対称性が問題となる。支配層ができるだけ被支配層を搾取しようとするからである。その場合、インターネットや技術の発展であらゆることが報道され、情報が透明化されており、国家機密までも表に出るようになっている。こういう状況は、世界から隠し事が減っていき、搾取する側とされる側の格差が解消される。そして、世界は1つになっていく。

世界が地球連邦みたいになっても、やっぱり地域ごとの争いは残るだろう。中国みたいにでっかく大まかにまとめあげていたらダメでアメリカみたいに地域ごとに(州ごと)独立採算でやらないとダメ。

ドワンゴの川上会長は世界がどんどん論理で動くようになっていると危惧している。例えば、オバマ大統領がいきなり公地公民制にすると言ったら、法治主義やメディア、デモなどあらゆる方法により論理が優先され、実施されない。全てが論理で動くようになる。みんなが論理的に納得出来ないと意思決定及び実行はなされない。ここでは、何事も論理で決まってしまうことを悲観しているのだが、こういう論理で世界をより良くしていくことが今できる最善のことだ。中途半端な論理は害であるが、熟考された論理は自体を改善するはずだ。それが地球連邦的形式か、思想や行動様式で分けた形か、原始的な生活へ回帰すべきか、どんな形になるか分からないが、論理的にあらゆる角度から進めていけば、統一の方向に向かうのは間違いない。

そこで自分は何ができるかというと、論理の基本となる法を駆使して世界の発展を推し進めたい。自然科学や数学では、何かの結論を導くときには100%の真実の客観的な事実を根拠にしなければならない宿命にある。しかしたとえば国際法で何か決めたり刑事裁判で有罪判決を出すにしてもそれは100%の絶対的真実に基いてなされるものではない。法学は自然界の現象ではなく、人間の行為を対象にするものだから、人間がそうだろうと思える程度の真実こそが重要なのである。そこには論理が重要。

法を実践する中心的な裁判でもそのような100%の真実を明らかにするよりは争っているお互いの人間が納得することこそ重要。そうすると法的な結論を出すときに公正な手続きに沿ってお互いの意見や言い分を十分に主張させること自体が重要になってくる。真実が何かというよりもむしろ両当事者の言い分を聞いて判断するという手法を身につけることが重要。こういう力を養い世界の発展に寄与しよう。

ちなみに世界を統一の思想や社会制度でまとめあげるというような野暮なことを言っているわけではない。世界には東洋思想、西洋思想などいろんな考え方があり、尊重すべきものがあるし、尊重すべきでも変えたほうがいいものもある。そういうことをしっかり考えて周りを納得させて改善していく営みが必要なのである。無視したり放置すべきことが最善の場合もある。 日本は世界で自分でルールを定めて社会を作っていく、ということが下手だ。この道を開くことは自分にとって大義になりうる。

この疑問にマネジメント層は常に最高の回答を用意しておく必要がある。一般の社員の人は、仕事をしていて「お願いします」や「遠慮してください」などと言われることはあるだろうが、それはつまり、「やれ」ということなの或いは「するな」という意味なのか。本当に自主的な行動を求めれれているのか、そのとおりにしなかった場合には何らかの制裁を受けるようなルールがあるのか。と思ったことはないだろうか?そういう疑問を末端社員は持つべきだ。だが、マネジメント層はそういう疑問を持たせないように努力する。

今日は、組織においてマネジメント層の役割を説明しよう。行政組織でも民間企業でもそうだが、マネジメントの目的は、目標を達成するために組織の人間にできるだけ働いてもらうことだ。分かりやすいように小さな民間企業を例にすると、組織としては社長→取締役→部長・中間管理職→末端社員となる。(ちなみに社長→取締役というのはコーポレート・ガバナンス意識が薄い日本特有)上から下にいくについて、仕事内容が抽象的から具体的になり、その作業内容が明確になり定義しやすくなる。さらに範囲も固定される。それぞれの使命、というかやるべきことをみてみよう。

(1)社長と取締役
彼らは、会社の組織の仕組みを設計する。例えば、オンラインの英会話学校を作るなら、社長はフィリピンに拠点を構え、サービスクオリティの目標を定め、社員を雇う。同じようにそれに必要な財務や人事の管理部にも目標を設置して人にやってもらう。マーケティングや営業も同じだ。明確なビジョンと各部門の目標、評価方法を打ち出して、社員に「協力」してもらうのだ。社長は抽象的に、取締役はより具体的に設計に関わる。仕組みを作ることが求められるのでやろうと思えば仕事量は無限大。

(2)部長・中間管理職
彼らは社長と取締役が定めた目標を達成するためにその部門の範囲で仕組みを作り、改善していく。必要があれば、部門を超えて提案したり行動することも求められる。ただし、基本的な仕事の範囲は部門に限定されているので、その広がりは取締役には及ばないが、仕組みを作ることが求められるのでやろうと思えば仕事量は無限大。

(3)末端社員
部長・中間管理職の決めた仕組みを具体的に作ったり、その仕組みにそって働く人。仕事内容はかなり明確に固定されている。究極的にはカフェのレジ、ウェイターとかだ。あなたはお客さんが来たらレジで会計やって、また、飲み物作って運んでください。会計ではミスがあったり、お客さんからクレームあったら責任とってもらいます、みたいに明確なルールを決めておく。この仕事の対価としてこの給料、と決まっている。なので範囲外の仕事は依頼できない。

かなり単純化すると、組織とはこういうものだ。この組織のマネジメントで最重要なのは2つ。良い仕組みを作ること。社員が効率的に費用対効果大でアウトプットを出せる仕組みをつくること。また、モチベーションを保たせるためおもしろさを見いだせる仕事の設計も必要。そしてもう一つは、モチベーションを与えて、必要以上に働いてもらってアウトプットを増やす。

よい仕組みを作ることは、その事業内容と状況によってまちまちである。ここでは如何にモチベーションを上げるかについて考えたい。上述の三者の仕事上でのアウトプットを左右するモチベーションは何なのか。何故その仕事をするか、という根拠は何か。以下の表を見てみよう。
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給与と上場益はわかるだろう。社会的地位とは、社長とか取締役は凄いというイメージ、それに加えて会社のブランドも含まれる。達成感・やりがいは、オレやったったというあのやり遂げた感。あまりコンビニのバイトでは感じにくいが、自分でサービス設計して新聞にでも載れば高揚感は凄いだろう。忠誠心は、親に対して無条件で何でもしてあげるみたいな、見返りをもとめず行動する源泉である。契約履行とは、これやらないと解雇とかそれにつながる評価など制裁があるということ。

組織は、組織全員で1つのアウトプットを出すのである。上記の三者で普通、1,2,3の順で人数が多くなる。例えば社長1人、取締役3人、部長4人、中間管理職15人、末端社員100人とか。こう考えると組織は末端社員など下の層の頑張りが最重要である。社長と取締役の4人がそれぞれ10のアウトプットを出しても、40だが、100人の末端社員が2出せば200で、これが5になれば500だ。モチベーションは誰が高めるかと言えば、それは社長と取締役がやるべきだろう。なぜなら部長・中間管理職、末端社員はいくら頑張ってもそれに見合ったリターンが必ずしもついてこないから。

以上のようにマネジメントの基本は、仕組み作りとモチベーションを高めることにある。競争が激化する今の時代、成功したいならそのためにマネジメント層は死ぬ気で取り組まなければならない。

岩波新書の代表的作品「日本人の法意識」BY川島 武宜を読んだ。西欧諸国の法律にならって作られた明治の法体系と、現実の国民生活とのあいだに存在していた「ずれ」が今にいたるまでどのように変化、消滅してきたのかを考察している。

今我々が運用している法律の原型は何かご存知だろうか。日本歴史を学んだ人であれば周知の通り、憲法とその他の五大法典(民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法)のうち、憲法と刑法以外のすべては基本的に明治政府がドイツとフランスの法典を模倣して作ったものだ。なぜ模倣して作ったかといえば、それは、日本が列強に対して承認した屈辱的な治外法権の撤廃と関税自主権の回復するためという政治目的のためにこれらの法典を日本の飾りにしたのである。

要するに、まったく西洋の法律というシステムに対して、心や行動の準備のない人々に対していきなりシステムを覆い被せたのである。例えば根っからの野村證券のガッツのみの支店営業マンをシリコンバレーみたいなイノベーティブなライフスタイルのところに連れて行くようなもんだ。明治に西洋の法律が入ってきたが、農村、山村、漁村に旧来の生活様式を広汎に残しており、導入された法の規定が予定していた生活秩序とは異質のものであった。この「ズレ」がどのように変化をしてきたのかを考察したのが本書であり、著者はそれを以下のように表現している。

「伝統的な社会秩序とは異質的な内容をもつ法律を、外国(特に、先進資本主義社会)から継受した場合に、それらの法律が果たす社会統制の機能は何か。それらの法律と当該の社会との間にどのような相互作用が成立し、それらの法律と当該の社会との間にどのような相互調整の過程が進行するか」を追求すると、書いている。

著者がいう「法意識」は、本書の中で複雑に定義されているが、私が理解すると次のようになる。法律が、人の行動にどう影響を与えるかを考えた場合、例えば、人を殺したら死刑としても、それだけで直接人を律することはできない。ある人が人を殺そうと考えるとき、殺したらきっと警察が捜索してテレビとかで顔写真公開されて、捕まって、罰を受けるというイメージをするだろう。このイメージがリアリティを持てばそれは人を律しているということだ。そのためには、メディアで実際に逮捕されて死刑になった人を定期的に見せしめ、さらにはもしその人に死刑にされた知人がいればさらにリアリティは増す。

この「法意識」が法律と人の行動の間の作用の決定要因として重要であるというのが著者の仮説になる。本書の大部分は、権利及び法律についての意識、所有権についての意識、契約についての法意識、民事訴訟の法意識などに分けてその実体と変化を考察している。

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(権利について)
権利ということばは、徳川時代依頼の固有の日本語にはなかったので幕末の蘭学者が今日の権利ということばに相当するオランダ語のregtを訳するに際して、権利、としたことがはじまりのようだ。それまで徳川時代には、個人が土地や家屋を所有していたのであり、人々はこれについてある意味での権利の意識をもっていたはず。また他人に金を貸したものがその債務者に対して貸した金の返済を請求することができるという意識もあったようだ。それらのに権利という概念がなかったのは興味深い。

これは、日本の伝統的な雇用関係にある。雇い主は非雇用者に対して「権力」をもってはいるが、その労働を「請求する権利」をもっているというふうには考えられなかった。さらに非雇用者は、雇い主に対して、賃金を請求する権利をもっているとは考えず、働かせて頂いて、お金をいただく、と考えていた。だから「権利」の概念がないのだ。要するに、小室直樹的にいうと、西洋は神様の前ではみんな平等なので、平等前提で、義務と権利が発生するのだが、日本では、人が平等という前提が違い、雇用者>非雇用者という前提から始まっているのである。

(法律について)
法律のことばの意味を、西洋は、確定的固定的のものとする努力をするとともにそのようなものとして意識する社会であるが、日本は、法律のことばの意味を本来深くてき、非固定的のものとして意識し承認している社会である。法律の解釈のはばには限界があるから、ある判断基準が法律のことばの意味にはじめから含まれているのだと論証するのが困難な場合は、新たな法的判断規準を、法律のことばの意味に含まれていないものとして正当化する仕組みが西洋にはあり、これが慣習法とか条理である。

一方、日本は、このようにすることは稀で、すべての法的判断規準を法律のことばの意味の中に本来含まれていたものとして解釈することによって説明するのである。この西洋と日本の傾向はを裏付ける法律解釈の事実が多くあるらしい。日本人の法意識、特に法律の言語については、本来ことばの意味は不確定で非限定的なものだ、といようなものなのだろう。

他にも、道路交通法や売春取締法を例に、日本の法意識が、非現実的な法律を機械のごとく実施して取り締まるのはあまりにも融通の効かないやり方だと考える意識の例としてあげている。

(契約について)
近代法を貫く重要な要請の1つは個人のあいだの権利義務を明確な確定的なものとすることである。資本的企業はその取引活動の結果生じる財産状態について将来にわたって予測をたて合理的計算を行うことを必要とし、そのためには取引活動の手段たる契約によって生じる権利義務についての予測可能性ということが必要になるのである。

日本の場合、拘束力があるようなないような合意がある、という。もし問題がおこったら確定した権利義務を主張しないでその時に話し合いをして解決するということを予定しているのである。日本人が人と約束する場合には約束そのものよりもそういう約束をする親切友情がむしろ大切であり、こういう真心さえあれば約束そのものは必ずしも言葉通り非常に正確に行わなくても差し支えない、と考えている。日本人はその場の友好的雰囲気によって、約束そのものに十分注意を払わないことがある。

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このように鋭い考察を連発している。ここでは紹介し切れないがどれも具体的な例を示しているのが素晴らしい。他にも、所有権にについてや民事訴訟についての居敷も考察しているがここでは特筆しない。

著者はどのように本書をまとめているかというと、「明治以後の我が国における歴史的変化を要約すると、次のように言うことができるであろう。すなわち、支配=服従的な社会関係の買いたいと自由平等な個人のあいだの社会関係の成長、したがって特定個人的且つ情動的な制裁の退化と非特定個人的且つ理性的サンクション(特に法的サンクション)の成長。」と。さらに、全離婚数の中で協議離婚の数が減少し、家庭裁判所で処理された離婚の数が増えたり、意思に対しその民事責任を追求する訴訟が増えたり、また裁判で調停ですまされる事件が減少しているなど、日本的な法意識が変わりつつあることを確実視してる。著者のことばでいうと文字の次元における法律と行動の次元における法律のずれが解消されてきた、ということだろう。

実はこの本が書かれたのは47年前の1967年であるから今となっては結構古い。それでも内容は今でも通ずるところがほとんどである。しかし、大きな変化も認められるため、僭越ながら私が補足しておこう。おそらく、著者が指摘する法意識は1995年くらいまで1967年の時とあまり変わらなかったのではないだろうか。ゆっくりとずれが解消してきた程度だが、しかし、ここ20年くらいの変化は特筆すべきだ。

30年も生きていない私でさえ、日本人の法意識が変わってきていると実感している。おそらくインターネットが普及し、世界中の情報を誰でも見れるようになり、また世界中へ情報発信できるようになって、日本的な関係が自然体でないことが知れ渡ってしまったからだろう。今では、人はみな平等であり、上司と部下、先輩後輩という関係性にしがみつくのは古臭いという意識が一般的になりつつある。仕事は労働力を売っているのだから仕事後の付き合いはきっぱり断ったり、先輩にだろうが自分の権利があることは心置きなく主張したりと、そういう人間は平等であり、その上で権利義務を規定して契約する的な考えが十分に理解されてきたと実感している。インターネット世代が社会の政策側の大多数を占める頃には西洋と遜色ない意識に到達するだろう。

またまた「憲法原論」からひとつ取り上げたい。要するに、日本には民主主義がないということなのだが、どうしてそれがなくなって何をすればいいのかを説明する。あえて、結論の何をすればいいかについて先に言うと、それはもう、丸山眞男の以下の言葉に尽きる。

「民主主義を目指しての日々の努力の中に、はじめて民主主義は見いだされる。」民主主義にも憲法にもゴールはない。それを求める努力こそが本当の民主主義なのだ。

では、日本から民主主義が芽生え、消えた流れを見てみよう。日本は明治維新後、資本主義化と民主主義化するために、人工的に日本人のエートス(行動様式)を変えた。西欧人がキリスト教の予定説から学んだ勤労の姿勢は、教科書でも徹底的に教えたし、二宮尊徳を上手く利用した。また、これまた予定説から生まれた平等の概念(神の前ではみんな平等)は、天皇を神格化することで達成した。キリスト教ならぬ天皇教である。こうして、勤労と平等を日本にうまく導入し、資本主義と民主主義で近代化を目指し日本は成長した。エートスをうまくシステムに合わせたのだ。

しかし、戦後、このエートスは続かない。1946年1月、昭和天皇は人間宣言をなさる。これにより天皇教は崩壊したのだ。もともとは神である天皇の前でのみんな平等であったのに、天皇が人間となってしまった。そしてアメリカが作った憲法により「平等」だけが与えられた。これを日本は機会の平等ではなく、結果の平等と誤解した。教育現場ではみんな同じでなければいけないという民主主義ではありえない思想が支配している。民主主義における平等とは身分からの平等であり、機会の平等なのである。

同じ誤解は「自由」についても言える。民主主義における自由とは元来、権力の制限を意味した。自由主義とはもともと専制君主や絶対君主の権力を制限することから始まり、この自由主義を守る砦が、議会であった。その議会から民主主義が生まれた。

こうした自由と平等は与えられるものではない。現に欧米人たちは、みずから平等や自由を勝ち取った。自由も平等もその前提となっているのは権力との戦いである。そのプロセスを抜きにしていきなり自由や平等を与えられるとどうなるのか、図らずもそれを示しているのは日本だ。権力と戦うこと無く人権を手に入れたものだから戦後の日本人は権力を監視することも忘れてしまった。その結果が官僚の独裁。民主主義とは国家権力との戦いなのだということを忘れると自由も平等も変質してしまう。こうした誤解の原因は、元をただせば、アメリカ人たちが善意からアメリカ流の民主主義憲法を日本に与えてしまったからだ。

■急性アノミー
戦後、天皇という機軸がなくなり、憲法がアメリカから与えられた結果、日本に起きたのは急性アノミーという状況だ。アノミーとは社会の病気である。人々は連帯を失い自殺する人が増えた。例えば、急に金持ちになり生活スタイルが変わるとそれまで付き合っていた友達との連帯はなくなり前と同じような友達付き合いができなくなり、以前からの金持ちには成り上がり呼ばわりされてしまう。この人はどこにも連帯を見いだせずついに自殺を選ぶ。これがアノミーでありアイデンティティの喪失である。これは心の病気ではなく社会が原因である。

中でも深刻なのは、世の中の「権威」が否定されることにより起こる急性アノミーだ。権威とは何かというと、威張っている存在という意味ではなく、何が正しくて何が正しくないかを決める存在だ。権威とは規範を定めるもの。人殺しがなぜいけないかは何も法律で定められているからではない。権威がそう決めているから人殺しはダメなのだ。

家庭においては父が権威の役割を果たす。幼い子どもにとって父親は全知全能で何でも知っているように感じる。そこで子供は父に権威を感じる。そして父親の命令は正しいとかんがえる、そうした父の存在がやがて心の中で上位自我となるというのがフロイトの解釈。フロイトによればこの上位自我のおかげで、人間は本能をむき出しにせずに生きていける。

しかし、子供が大きくなれば、父が全知全能ではないと気づく。そうするとその子は家庭外に父親の代替物、つまり権威を求めようとする。キリスト教社会ではその役割を果たすのは神だ。さて、こうした権威が否定された時にその人間は、その社会はどうなるのか。そこに起きるのはまったくの無秩序で、何が正しく何が悪いのかわからなくなる。ある人は暴力的になりある人は無気力になる。その典型が第一次世界大戦後のドイツだ。敗戦後権威がなくなった。皇帝は逃げ出し、宗教も力を失って権威がなくなった。そして急性アノミー状態になった。そこに現れたのがヒトラーであり既成の権威をすべて否定しナチズムこそが権威であるとし、みなが飛びついた。

人間は自分の自由意志で動いているようについ思ってしまう。権威なんかなくても自分の頭だけで生きていけると思うわけだが、それは幻想に過ぎない。人間とは社会的な存在であって、本当の意味での個人は存在しない。人間が生きていくためには何らかのガイドラインが必要。そのガイドラインとなるのが規範でありモラルで、それを作るのが権威なのだ。

戦後の日本は、天皇教を抜き取られ、さらには家族制度もアメリカに取られたので、その結果本物の父親も権威を失った。急性アノミー状態である。こうして、父なき社会、権威なき社会になった日本を象徴するのが、高度成長と受験戦争だ。何が正しく何が悪いか決める権威がいなくなったので、ただひとつの尺度は金になった。みんな金持ちになることを目指して高度経済成長が始まった。父親が勉強するのは正しいことだといえばそれはモラルであるが、勉強すれば儲かるではモラルではなくただの損得勘定だである。

こうして子どもたちは両親を尊敬しなくなった。親を金属バットで殴ったりする事件が発生するのだ。また、アノミー社会では連帯感がないから友達をいじめてもなんとも感じないし、子供が凶悪犯罪を犯す。三島由紀夫は1970年11月25日自決するわけだが、その根底にあったのは天皇の人間宣言に対する抗議であった。彼は戦後の日本のアノミー社会を予見していたのだ。

■もはや日本に民主主義はない
北朝鮮の拉致被害者をずっと取り返そうとしなかった。日本政府は北朝鮮との関係改善を最優先にして拉致された日本人を取り返す努力を放棄してた。これこそ憲法違反だ。憲法の急所は基本的人権だ。基本的人権が守られていなければその憲法は死亡宣告を受ける。これに対してマスコミも憲法学者も憲法違反を指摘しないとは奇妙奇天烈なのだ。

明治憲法に始まった戦前日本のデモクラシーは、軍部の台頭により滅びたが、今の日本において軍部の代わりに現れたのが霞ヶ関の官僚である。エリート官僚は議会を乗っ取って議員の代わりに法律を作り、内閣を乗っ取り首相や大臣の代わりに政策決定している。さらに司法権力もものにしている。日本では市町村役場が第一審、県庁が第二審、霞ヶ関が最高裁の役割をしてしまっている。近代デモクラシー国家では、法律は議会が決めてその法に基いて政府が行政し、裁判所がその解釈する。法の乱用を防ぐためだ。しかし日本では法は役人が作り、役人がその法を運用し、さらに法の解釈までやっている。三権全て手中に収めている。

明治維新では、無理から日本に資本主義と民主主義を根付かせ実際に成功したではないか。今の日本は当時の西欧に食われてしまうかというような状態よりも危ない。冒頭で述べたように、自分たちで地道に行動していくしかない。

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