記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ:人間とは何か > 実存(意識)の構造

人はみな、被投的に始まってしまっている生を歩んでいる。被投的というのは要するに無根拠であり、神秘である。なぜ私が私としてこの色とりどりの世界を経験しているのか、誰も分からない。いや、誰もというか私は私のことしか分からないので、少なくとも私は分からない。でも、普段私(も他の人々も)そんなことは問わずに人間社会を生きている。

改めて考えてみると、私の生とは「いま、ここ」の持続、ウィリアム・ジェイムズ的にいえば「意識の流れ」がわれわれ各個人の生である。

この「意識の流れ」を「よく」したい。ポジティブなものにしたい。

と考えるのは、少し突き詰めて思考したらたどり着く考えではないだろうか。全てを自分の意識に還元するのだ。恋人や家族や友人のためというのも、結局はそれを思っていて最終的に嬉しい私に行き着く。

以下の本では、このように還元された意識内での「よいこと」を「ウェルビーイング」として、それをベースにサービスとか社会設計とか考えていくためにウェルビーイングをどう設計するかというエキサイティングな本である。

ラファエル A. カルヴォ & ドリアン・ピーターズ (著)『ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術』。監修は、渡邊淳司&ドミニク・チェン、翻訳は木村千里 。

ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術
ラファエル A. カルヴォ & ドリアン・ピーターズ
ビー・エヌ・エヌ新社
2017-01-24



アマゾンの頁での内容紹介は以下の通り。
人の「こころ」の領域にまでITが入り込んできた今、人間の潜在能力を高め、
よりいきいきとした状態(=ウェルビーイング)を実現するテクノロジーの設計、
すなわち<ポジティブ・コンピューティング>のアプローチが求められています。
近年注目されている「マインドフルネス」や「レジリエンス」、「フロー」なども
ウェルビーイングを育むための要因ですが、ではこういった心理的な要因とテクノロジーを、
どう掛け合わせることが出来るでしょうか。
本書では、ウェルビーイングに関する様々な分野の最新の研究成果を基に、
この問いを解き明かしていきます。
これからのテクノロジーの在り方や、向き合い方を考えるうえでの基盤となる一冊です。

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人間がよりよく生きるとはどういうことだろうか? 
心という数値化できないものを、情報技術はどうやって扱えばよいのだろうか? 
本書は、このような問いに答えようとする者に対して、示唆に富んだヒントを与えてくれるだろう。
(「監訳者のことば」より)
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大体想定していたことが書かれていたが、様々な具体的な情報や事例が出されておりこの分野について理解がとても深まった。面白かった部分を少し紹介し感想を述べる。本書で言われる「ウェルビーイング」という用語は、「心理的機能が人間として考えうる最適な状態にあることを強調した表現」であり、ポジティブ心理学の世界では広く受け入れられているようだ。ただ、この曖昧な定義をどう捉えるかについて3つのアプローチがある。
  1. 医学的アプローチ:精神機能障害がない状態
  2. 快楽的アプローチ:喜びの感覚の集合として(人生の何%がポジティブな感情で占められているか)
  3. 持続的幸福的アプローチ:人生に意義を見出し、自分の潜在能力を最大限に発揮している状態
の3つが現代のウェルビーイング理論の基盤となっているようだ。そしてここで取り上げられている理論はどれも単なる仮説ではなく、十分な実証的な裏付けがあるという。

少し細かく見ると、「快楽心理学」であればポジティブ感情の体験をもとにウェルビーイングを定義していく。カーネマンの議論も出てくるが、これは主観的ウェルビーイングである。研究方法は、もし幸せだという自覚があるなら、伝えてほしい、というもの。

ライフイベント、人生の満足度、充実度をはじめとする個人の人生に対する認知的評価と感性的評価からなり実際に国民総幸福量子数の開発に利用されているらしい。さらに時間軸の観点でいうと、個人の自己報告は「オンライン=リアルタイム」「想起」「長期間にわたる人生評価」の3つがある。

持続的幸福的アプローチは、エウダイモニア的アプローチとも呼ばれ、自律性、有能感、関係性を軸にした自己決定理論があり、さらに快楽的アプローチと組み合わせてフロー理論でお馴染みのチクセントミハイなどのポジティブ心理学、情動知能、仏教の心理学なども参照されている。

また、最後に生理学的に確認可能なウェルビーイングとして「生物学と神経科学」のアプローチも紹介されている。ここでは個人の感情を理解するために生理学的信号や脳信号を用い、遺伝子や身体の健康状態を調査したり、そうした生物学的システムと環境条件との相互作用を調査している人もいるらしい。脳波記録、筋電図検査、皮膚コンダクタンス、呼吸といった複数の生理システムの信号を使う。神経科学者は脳の電気的活動や科学的活動のパターンを特定しようとしている。

また、第2章ではブータンだけでなくイギリスやフランス、アメリカなども国家発展の尺度の見直しとしてウェルビーイングに取り組んでいることが紹介されている。第4章は、ウェルビーイングの決定因子として、ポジティブ感情、動機づけ&没頭、自己への気付き、マインドフルネス、心理的抵抗力・回復力、感謝、共感、思いやり、利他行動を挙げ、それをどうデザインしていくかという議論は本書の核であり、読み応えがある。また、第8章で紹介されている判断をともなわない注意「マインドフルネス」という概念は詳しく知らなかったので勉強になった。

さて、これを読んだ感想は、とても「心理学的」だということ。本書でいうポジティブコンピューティングの基本的なアプローチ方法はざっくり以下のようなもの。
  1. 主観を内省して、ポジティブだった意識状態を列挙→例えば上述の:ポジティブ感情、動機づけ&没頭、自己への気付き、マインドフルネス、心理的抵抗力・回復力、感謝、共感、思いやり、利他行動
  2. それらがどのように生じたのかを分析
  3. 分析結果を基にどうやってそれらを再現するかを研究
全て「現在の人間の感受性」で考えられている感が否めない。人間中心主義といえる。われわれは「スポーツの練習に没頭している」「家族や恋人と幸せな時間を過ごす」など経験的に学んだポジティブな状態を目指そうとする。というか、それ以外に「よいこと」をする際の指針はない。

しかし、われわれは環境や他の人や生物との相互作用の中で各個人が価値観や世界像を編み上げている。そして経験によりそれらは変わりつつまた新たな経験をするという循環。そこから何が言えるかというと各個人により何が「よいこと」になるかは違うということ。

そして、さらにいうとマルクスが主張したように生産性が向上したり人間関係が変わると下部構造により上部構造であるわれわれの感受性も変わる。例えばベーシックインカムが実現され、人との関係が薄くなっても生きていけるようになれば(極端な話)共感や感謝、思いやりなどはポジティブな状態に関係なくなるかもしれない。そもそもそのような存在の形態になったら、ポジティブな状態が気になっているか分からない。

よくSFで提起される問題だが、今の感受性では環境の変わった未来のわれわれの感受性はどうあがいても分からないのだ。それを予想しようとしている私は既に今の感受性で物事を考えている。だから何がいいたいかというと、こうした「心理学的」なアプローチがたしかに現時点では最も有効なのではないかと思っている、ということ。

哲学者キルケゴールが著書『死に至る病』でいう「絶望」とは何か?

端的に言うと、キルケゴールのいう絶望とは自己が様々なものとの関係性の間でバランスを欠いてしまっている状態。生きているのに死んでいるような感じ。どういうことか。要は人間は物語を持って現実に適応している。でも現実という外界に適応するために抑圧してきた物語もある。

そのような物語は外界に合わせようとすると感情などで反抗してくる。また、物語といっても言葉の束であるので、一貫性を保つのは難しい。大学を卒業してプログラマーやって、アフリカで働いて、歌手目指して、医者目指すみたいなことやっていたら、毎度他者から承認を得え物語を安定させることはできなくて、パニックになるだろう。

ではどうすればいいのか?
誰かが気絶した場合には、水だ、オーデコロンだ、ホフマン適材だ、と叫ばれる。しかし、絶望しかけている人があったら、「可能性を持ってこい、可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ」、と叫ぶことが必要なのだ。可能性を与えれば、絶望者は息を吹き返し、彼は生き返るのである。 
これがキルケゴールの答え。

では可能性はどうやって与えられるか?

教育哲学者の苫野一徳は、ルソーを手がかりに「可能性」とは、能力を挙げる、欲望を下げる、そして欲望を変える、の三つの道があるという。しかし、それは本質的ではない。現代の僕らはそもそも欲望がない。何かやりたいことを10個言えと言われてすぐに答えられる人は少ない。

これも物語という契機で考えることができる。われわれは物語を生きている。ただ単に「君はこういう世界を生きている」と言われたり、世界史を読んで「僕はいま、こういう流れにいるのか」と理解してもそれは物語として実存的に根付かない。僕らは日々リアルな世界で環境や他者と触れ合うことで世界像を更新していく。

未来への道筋は過去のリアルな経験の蓄積の延長線上でしか開けてこない。これはハイデガーの歴史性からも分かる。過去の経験がバラバラなら未来へ何も見えてこない。

キルケゴールの答えは「自己は自己自身によって措定するのではなくて、絶対的な他者によって措定される」というもの。実はキルケゴールは敬虔なキリスト教徒であり、絶対的な他者とは「神」だ。神の下でキリスト者として、常に絶望の中にある自己はどうすればよいのか?自己は自己自身によっては安定や均衡に達する事はできず、常に有限性と無限性、可能性と必然性の間でフラフラする。この間のバランスをもたらしてくれるもの、つまり措定setしてくれるものが神ということ。

これは、神を中心にした筋立てで物語(自我)を安定させるという方法である。でもしかし、先に書いた通り本を読んでも納得感はない。過去の蓄積からその筋立てに正当性がないと、未来につながらない。まずは過去を反省的に考える。現代とはどういう時代か考える。どういう欲望を持っているか考える。そしておのずと物語が見えてくる。そこで宗教を手がかりにするのももちろんOKだ。しかし、重要なのはハイデガーも言うとおり、世界からではなく自分に固有なところから物語を作っていくことである。 

ある天才エンジニアな若手(つまり理系)に哲学の話をした。彼は、死んだ後どうなるかについての哲学に興味があったが、僕は哲学はその問題を扱わず、死後を扱えるのは宗教だ、と言った。彼はそれは思考停止ではないかと言うので、哲学は「誰もが納得できる概念を使って組み上げていくものだ」と返すが不満そうであった。

そもそも暗黒時代の中世からデカルトの近代になり、物語的に世界を説明した恣意的な世界観は否定され始める。誰も調べようのないことを使って人に何かを強制するのは無理がある。そこで、みんなが納得できるような世界や生の説明をするようになる。それが近代以後、現代にも続く哲学の流れである。

まあ、これはこれでいいとして、

さて、僕はなぜ哲学をしているかというと「善い生」を生きたいし、みんなにもそうなってほしいからだ。しかしその理系の若手は結局は「 脳内の状態」がすべてなんだからそこを起点に科学的にやらないとだめだという。麻薬でも何でもいいから「気持ちいい」「幸せ」と思う状態を突き止めて、それを再現すればいい、という考え。

これについてはどうだろうか? 

たしかに、麻薬はやったことがないが気持ちいいのだろう。或いはセックスでもいい。こういうのは短期的に数時間なりパラダイスを味わえる。その時の脳内状態を測定できるとして、これを再現すればいいということになる。別の方法で、というよりはずっと麻薬やセックス、ということになるだろう。

これだと、身体が持たない。とまず反論できる。麻薬は身体を破壊するし、セックスはたしかに体力的に厳しい。しかし、彼がいうのは「このような快楽を身体に負荷のない形で再現する」ということ。 でも、それは科学の発展を待つというシンプルな道をまっすぐ突き進むしかない。仮にそうしたものができても、まずは贅沢品として一部の人しか利用できない。それにそうした快楽のために働く構図は生き残ることになる。

なので、僕が言っているのは「生」全体の話だ。短期的なことではなく、僕らは80年くらい生きるわけで、それをうまくマネージしなければならない。一番よいのは常に幸せな状態。麻薬のような快楽状態が80年続いてもいいが、それは上述の科学の発展の道筋である。そのためには、まずは地球上の人類全てが働かなくても衣食住が提供され、そうした快楽も無尽蔵に与えられることが前提となる。

達成できるかの問題は置いておいて、そこには2つの疑問がある。まず、衣食住が無償になればわれわれの感受性は大きく変わるはずだ。人と付き合う必要がないため、幼少期の経験も変わり他者の実存における位置づけが変わる。麻薬などの快楽も、現代のようなストレス社会を前提にしての快楽なので、そもそも日々自由であれば、それが必要かも分からない。二つ目に、そういう快楽があったとしても慣れてしまえば人間はさらなる快楽を求めるだろう。麻薬の奪い合いや、もっと刺激の強いものを求める。であれば今と構図は同じ。

なので、もっと本質的なことを哲学したいのだ。

では、われわれの「生」はどういう構造をしているのか。これは科学では分からない。いくら脳の素粒子状態が分かっても、それは事実的なことであり、それがどういう「意味」や「価値」を持つかは主観的に語られる以外にはない。

仮に全素粒子状態が24/7で捉えられるようになったとしても、主観で何が起きているかは私しか語れない。行動主義的にわたしが嬉しそう、幸せそうにしていれば「幸せ」とみなすことはできるだろう。さらに私の意識状態をシミュレーションしようとするなら、全宇宙の素粒子状態を把握しなければならないだろう。私は宇宙の繋がって「いま、ここ」の経験をしているのだから。

麻薬やセックスのようなただの「脳内の物理的な化学反応」的な快楽ではなく、幸せという人間独自の感情は、より高度なものだ。ただ、化学反応を起こせばいいわけではなく、外部世界や他者とも繋がった経験なのである。われわれの過去の全記憶が身体に保有され、それと外部からの刺激で意識が生じるので、それは全宇宙的な現象なのである。そんな計算まずできないだろう。猫の画像からの概念獲得にスパコン何台も使っているのに。なので、全素粒子状態からシミュレーションするやり方は不可能と結論。

そもそもそういう人間的な経験自体をなくしてしまえ!マトリックスみたくカプセルに入っとけばいいよ!みたいな世界を目指すのであれば、それはそれで確かに筋が通っている。どういうことか。要は、不労不老が達成されたら、今の「人間」の定義がなくなるだろう。人と接しながら他者関係をいきる人「間」が終焉する。これはフーコーが1960年代くらいから言っているが、まだまだ終わりが見えない。そして、もし人間が終わるのであればわれわれ「人間」はその先の実存的な在り方について原理的に語ることはできない。人とうまくやっていく必要のない状態で育ったヒトの在り方など想像もできないからだ。

だから僕は人間が人間である限り、まずは、物語的な動物としての生を前提にして考えていきたい。

われわれの実存、主観的な生、生の在り方といってもいいが。要は意識があり体験している「いま、ここ」の流れ。
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これは三つの状態に分けることができる。まず、「ゲームモード」。これは、あるゲームの中で具体的な目的・目標に確信を持ち生きている状態。挫折や苦悩はあるが、具体的な目的・目標のために試行錯誤し努力すればいい。スポーツ、恋愛、仕事、ゲームなどに情熱を持ち、「どう生きるか」が問題にならない生の状態である。

第二には「無気力モード」である。これは、生きる気力がない、勉強や仕事など何もする気力がない状態。この状態では何か行動を促す「欲望」や欲求がなくなっている。「どう生きるか」という問いも出てこない。社会の中に入っていき「欲望」を喚起するなどの必要があるが、これは精神分析、心理学や生理学などの領域であり適切な処置が求められる。

最後の一つは「哲学モード」である。「ゲームモード」と「無気力モード」の中間的な状態。何をしたいかよくわからなくてモヤモヤしている。「生きる意味とは何か」「何のために生きているのか」といおうような「どう生きるべきか」について論理的に物事を考えすぎ、答えがでなくて行動を促すような確信がない状態。これは言語的な世界を生きる人間に特有の状態である。実は、第二の「無気力モード」はこの「哲学モード」の極みである。 

もちろん人の生はこの三つのどれか一つにぴったりと当てはまることはない。しかし、常にどれか一つを軸にして或いは二つ以上に跨りながら、さらに軸を変えながら生きているのではないだろうか。

ここで前提にしているのは、社会的な「人間」である。社会で育って言語的な世界を生きるようになったヒトである。

われわれが必要なのは、三つ目の「哲学モード」について、どのようにして「ゲームモード」に移行できるのかを知ることだ。それは要するに、「どう生きるべきか」ということに納得のいく回答をするということである。言い方を変えれば、「世界」についてのしっかりした了解の像を持ち、そこに自分を位置づける、ということだ。

人は、 動物のように本能的に生きておらず、言語的世界を物語に生きて現実に適応している。われわれは意図的にこの物語にコミットしないと、現実から剥離され宙を彷徨ってしまう。それが「哲学モード」であり、行き着く先は「無気力モード」である。

凄いと人に思われたら誰でも嬉しいだろう。なんとも思わない人などいないはず。

では、人は凄いと思われたら嬉しくて、しょぼいと思われたら悲しい、ということを前提にしてもいいだろう。

凄いというと、まず頭に浮かぶのはある特定の分野での熟練や天才。野球といえばイチローは凄い。誰もが尊敬する。日本の誇りである。

では、その分野で凄いだけでいいのか?

イチローは国際政治は語れないし、英語だってちゃんと勉強した人からすれば凄くない。違う分野にいけば普通以下になることもある。

じゃあ分野って何だ?
善悪の基準がはっきりしている領域といえる。野球の分野であればうまい下手というのが一義的に決まるのだ。

では、分野に別れる前の人間としての土台というものがあるのか?人格?そう、そういうものがあるかもしれない。何かの分野で成し遂げた人はその領域で凄いだけでなく、それに伴って人間としての土台も凄い。人格者として真理を見抜いている。というようなことも想像できる。

むしろ、学歴もなく社会的地位も運動能力もないような人はこういうみんな共通の土台の部分でどうにかして尊厳を保てる。全てが特定の分野での明確な善悪基準で測られたらたまったもんじゃない。

人は、いろいろな領域に属すことをオプションにしつつ、全人類共通の領域「人格」がある、と言っていいのか?それとも「人格」も1つの「分野」に過ぎないか?残念ながら後者が正しい。それも1つの分野にすぎない。リオタールというフランスの学者が指摘したように今の時代はただただいろんな言語ゲームという分野での善悪基準があるだけだ。

考えてみよう。オバマ元大統領だって、大統領のとき誰からも凄いと尊敬されていたわけでもない。マズローの欲求5段階で一番低いところにいる人からしたらオバマが目の前にいても何も思わないだろう。それより今日の飯なのだ。利害関係のある政治家からしたら、大統領への敬意よりも「おれのゆうことが分からないクソ」かもしれない。

大事なことは、みんな自分が主人公の物語を生きているということ。自分が自分の物語の主人公としてこの世界に適合しているのだ。動物と違う言分け構造の世界に。

どんなに優雅な女も、どんなにとびっきりの社会的地位と容姿や人格を兼ね備えた富豪も、みんな自分の物語が第一で現実に適応している。他人の幸せとか社会のためとかそういうのは物語の上で重要になっているだけで、物語を剥ぎ取ったらそんな高尚なものはない。

みんな平等なのだ。同じ動物としてのヒトになれば同じ。そこが分かれば冒頭から述べているある分野で凄いとかそんなもんがどうでもよくなる。

あなたがやるべきは他人と競争することじゃない。ただ自分の物語を安定させること。その上に他人との競争があるかもしれないが、それはまさに「その上」でのことであり、物語という幻想なのだ。

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よく、サラリーマンを社畜とか、さらには奴隷とかいったりするが本当の奴隷は生半可なものではないだろう。

歴史上の所謂奴隷は、それはもう物のように扱われたのだろう。物のように輸送される。糞尿まみれで、窒息するようなぎゅうぎゅうに箱に詰められて。そして、一日中重労働させられる。サボればムチ打ち。

そんな奴隷の心情を察することができるか?

おそらくもし自分だったら、逃げるか、自殺するかをすぐに選ぶだろう。もちろん逃げ切れなければ殺されるのだろうが。

実際、そう思わないだろうか?その未来への絶望は、現代の日本の若者どころではないのだ。

では、なぜ自殺したり逃亡しないのか?

実はこれは重要な考察となる。

そもそも、なぜこんなことを考えたのかというと、以前紹介したアルヴァックスの著書『集合的記憶』での一部分に喚起された。

引用してみよう。

「古代の家屋では、奴隷に定められた場所は他の場所と区別され、奴隷はその区別された場所へは命令された時でなければ入れなかった。このように空間が2つの部分に分離されていたため、主人の心のなかでも奴隷の心のなかでも、主人は奴隷に対して無限の権利を持つというイメージが、永久に保持されていたのである。どれは、主人の眼から離れている時には、その隷属の身分を忘れることができた。」

 

「もし彼が、主人の居住する部屋の一つに入ったとしたらどうであろう。彼は自分が奴隷であることを新たに意識することになる。あたかも敷居を超えることによって、彼は、主人に対する従属関係の想い出が保持されている空間の一部に移ったと感じるかのようなのである。」(188)



どうだろう。少し前後の文脈の影響で分かりにくいが、要点は奴隷は「自分が奴隷だということ」を或る空間において意識するということだ。

本書では記憶というのは社会的な人間関係や言語、空間や時間により支えられると主張するが、奴隷はこうした社会的な存在ではないので、その想起能力は極めて限られている。ある場所にいると、「自分は奴隷だ、殴られる」というようなことを想い出すかもしれないが、そうした分かりやすい想起物がない場合、ただ単に「いま、ここ」という純粋持続があるのみだ。

普通に考えれば、奴隷の心胸は次のようなものだろう。「おれは、こんな肉体的苦痛を以後、死ぬまで何十年も続けていくのか、だったら死んだほうがましだ」と。しかし、こう考えるためには言語能力が必要だ。おれ、肉体的、苦痛、以後、死ぬ、十年、続ける、のような観念はどれも社会的なもので限られた社会との接触しかない奴隷は抱くことができない。

「いま、ここ」だけを生きるなら、どんな環境でも生き続けられる。逆にいうと、現代人は先のことや過去のこと現前にないことばかりに怯えているのだ。社会的な存在になりすぎていて、あらゆる空間など周囲の事物に過剰な意味を与えられている。

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集合的記憶
M.アルヴァックス
行路社
1999-11


 

理性と感情がよく対比されるが、理性というのは感情をどう処理するかについて、時間軸の調整をするものである。

理性は時間軸を含む世界、感情は「今」である。

宝くじで1000万円当たって嬉しくなって、数日で遊びに使ってしまうのは、興奮した喜びの感情を今すぐ使ってしまったということ。これを貯金してちょくちょく使うのは、嬉しい感情を抑えて、将来の嬉しい感情のために時間的に延期させたほうが綜合的に自分のためになると考えた結果。

もちろん、時間軸が伸びると物理的にも広範囲を考えることになる。 

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