記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ:人間とは何か > 実存(意識)の構造

われわれの実存、主観的な生、生の在り方といってもいいが。要は意識があり体験している「いま、ここ」の流れ。
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これは三つの状態に分けることができる。まず、「ゲームモード」。これは、あるゲームの中で具体的な目的・目標に確信を持ち生きている状態。挫折や苦悩はあるが、具体的な目的・目標のために試行錯誤し努力すればいい。スポーツ、恋愛、仕事、ゲームなどに情熱を持ち、「どう生きるか」が問題にならない生の状態である。

第二には「無気力モード」である。これは、生きる気力がない、勉強や仕事など何もする気力がない状態。この状態では何か行動を促す「欲望」や欲求がなくなっている。「どう生きるか」という問いも出てこない。社会の中に入っていき「欲望」を喚起するなどの必要があるが、これは精神分析、心理学や生理学などの領域であり適切な処置が求められる。

最後の一つは「哲学モード」である。「ゲームモード」と「無気力モード」の中間的な状態。何をしたいかよくわからなくてモヤモヤしている。「生きる意味とは何か」「何のために生きているのか」といおうような「どう生きるべきか」について論理的に物事を考えすぎ、答えがでなくて行動を促すような確信がない状態。これは言語的な世界を生きる人間に特有の状態である。実は、第二の「無気力モード」はこの「哲学モード」の極みである。 

もちろん人の生はこの三つのどれか一つにぴったりと当てはまることはない。しかし、常にどれか一つを軸にして或いは二つ以上に跨りながら、さらに軸を変えながら生きているのではないだろうか。

ここで前提にしているのは、社会的な「人間」である。社会で育って言語的な世界を生きるようになったヒトである。

われわれが必要なのは、三つ目の「哲学モード」について、どのようにして「ゲームモード」に移行できるのかを知ることだ。それは要するに、「どう生きるべきか」ということに納得のいく回答をするということである。言い方を変えれば、「世界」についてのしっかりした了解の像を持ち、そこに自分を位置づける、ということだ。

人は、 動物のように本能的に生きておらず、言語的世界を物語に生きて現実に適応している。われわれは意図的にこの物語にコミットしないと、現実から剥離され宙を彷徨ってしまう。それが「哲学モード」であり、行き着く先は「無気力モード」である。

凄いと人に思われたら誰でも嬉しいだろう。なんとも思わない人などいないはず。

では、人は凄いと思われたら嬉しくて、しょぼいと思われたら悲しい、ということを前提にしてもいいだろう。

凄いというと、まず頭に浮かぶのはある特定の分野での熟練や天才。野球といえばイチローは凄い。誰もが尊敬する。日本の誇りである。

では、その分野で凄いだけでいいのか?

イチローは国際政治は語れないし、英語だってちゃんと勉強した人からすれば凄くない。違う分野にいけば普通以下になることもある。

じゃあ分野って何だ?
善悪の基準がはっきりしている領域といえる。野球の分野であればうまい下手というのが一義的に決まるのだ。

では、分野に別れる前の人間としての土台というものがあるのか?人格?そう、そういうものがあるかもしれない。何かの分野で成し遂げた人はその領域で凄いだけでなく、それに伴って人間としての土台も凄い。人格者として真理を見抜いている。というようなことも想像できる。

むしろ、学歴もなく社会的地位も運動能力もないような人はこういうみんな共通の土台の部分でどうにかして尊厳を保てる。全てが特定の分野での明確な善悪基準で測られたらたまったもんじゃない。

人は、いろいろな領域に属すことをオプションにしつつ、全人類共通の領域「人格」がある、と言っていいのか?それとも「人格」も1つの「分野」に過ぎないか?残念ながら後者が正しい。それも1つの分野にすぎない。リオタールというフランスの学者が指摘したように今の時代はただただいろんな言語ゲームという分野での善悪基準があるだけだ。

考えてみよう。オバマ元大統領だって、大統領のとき誰からも凄いと尊敬されていたわけでもない。マズローの欲求5段階で一番低いところにいる人からしたらオバマが目の前にいても何も思わないだろう。それより今日の飯なのだ。利害関係のある政治家からしたら、大統領への敬意よりも「おれのゆうことが分からないクソ」かもしれない。

大事なことは、みんな自分が主人公の物語を生きているということ。自分が自分の物語の主人公としてこの世界に適合しているのだ。動物と違う言分け構造の世界に。

どんなに優雅な女も、どんなにとびっきりの社会的地位と容姿や人格を兼ね備えた富豪も、みんな自分の物語が第一で現実に適応している。他人の幸せとか社会のためとかそういうのは物語の上で重要になっているだけで、物語を剥ぎ取ったらそんな高尚なものはない。

みんな平等なのだ。同じ動物としてのヒトになれば同じ。そこが分かれば冒頭から述べているある分野で凄いとかそんなもんがどうでもよくなる。

あなたがやるべきは他人と競争することじゃない。ただ自分の物語を安定させること。その上に他人との競争があるかもしれないが、それはまさに「その上」でのことであり、物語という幻想なのだ。

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よく、サラリーマンを社畜とか、さらには奴隷とかいったりするが本当の奴隷は生半可なものではないだろう。

歴史上の所謂奴隷は、それはもう物のように扱われたのだろう。物のように輸送される。糞尿まみれで、窒息するようなぎゅうぎゅうに箱に詰められて。そして、一日中重労働させられる。サボればムチ打ち。

そんな奴隷の心情を察することができるか?

おそらくもし自分だったら、逃げるか、自殺するかをすぐに選ぶだろう。もちろん逃げ切れなければ殺されるのだろうが。

実際、そう思わないだろうか?その未来への絶望は、現代の日本の若者どころではないのだ。

では、なぜ自殺したり逃亡しないのか?

実はこれは重要な考察となる。

そもそも、なぜこんなことを考えたのかというと、以前紹介したアルヴァックスの著書『集合的記憶』での一部分に喚起された。

引用してみよう。

「古代の家屋では、奴隷に定められた場所は他の場所と区別され、奴隷はその区別された場所へは命令された時でなければ入れなかった。このように空間が2つの部分に分離されていたため、主人の心のなかでも奴隷の心のなかでも、主人は奴隷に対して無限の権利を持つというイメージが、永久に保持されていたのである。どれは、主人の眼から離れている時には、その隷属の身分を忘れることができた。」

 

「もし彼が、主人の居住する部屋の一つに入ったとしたらどうであろう。彼は自分が奴隷であることを新たに意識することになる。あたかも敷居を超えることによって、彼は、主人に対する従属関係の想い出が保持されている空間の一部に移ったと感じるかのようなのである。」(188)



どうだろう。少し前後の文脈の影響で分かりにくいが、要点は奴隷は「自分が奴隷だということ」を或る空間において意識するということだ。

本書では記憶というのは社会的な人間関係や言語、空間や時間により支えられると主張するが、奴隷はこうした社会的な存在ではないので、その想起能力は極めて限られている。ある場所にいると、「自分は奴隷だ、殴られる」というようなことを想い出すかもしれないが、そうした分かりやすい想起物がない場合、ただ単に「いま、ここ」という純粋持続があるのみだ。

普通に考えれば、奴隷の心胸は次のようなものだろう。「おれは、こんな肉体的苦痛を以後、死ぬまで何十年も続けていくのか、だったら死んだほうがましだ」と。しかし、こう考えるためには言語能力が必要だ。おれ、肉体的、苦痛、以後、死ぬ、十年、続ける、のような観念はどれも社会的なもので限られた社会との接触しかない奴隷は抱くことができない。

「いま、ここ」だけを生きるなら、どんな環境でも生き続けられる。逆にいうと、現代人は先のことや過去のこと現前にないことばかりに怯えているのだ。社会的な存在になりすぎていて、あらゆる空間など周囲の事物に過剰な意味を与えられている。

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集合的記憶
M.アルヴァックス
行路社
1999-11


 

理性と感情がよく対比されるが、理性というのは感情をどう処理するかについて、時間軸の調整をするものである。

理性は時間軸を含む世界、感情は「今」である。

宝くじで1000万円当たって嬉しくなって、数日で遊びに使ってしまうのは、興奮した喜びの感情を今すぐ使ってしまったということ。これを貯金してちょくちょく使うのは、嬉しい感情を抑えて、将来の嬉しい感情のために時間的に延期させたほうが綜合的に自分のためになると考えた結果。

もちろん、時間軸が伸びると物理的にも広範囲を考えることになる。 

ちょっと前に日本版レイ・カールワイツのシンギュラリティみたいな本「エクサスケールの衝撃」について記事を書いた。

近い将来、人間は不労&不老を達成することになる。

そうなったら「ユートビア」が訪れるだろうか。

映画「マトリックス」では、人類は仮想現実世界のマトリックスに閉じ込められているが、ストーリー上ではもともとマトリックスの世界はユートビアであったらしい。しかし、そこに生き甲斐を見いだせず、不労不老状態に耐えられず、もともとの我々の親しんでいる現代社会のような世界に設定され直したらしい。

もちろん、これは脚本家や原作者の考えであり実際にはどうなるか分からない。しかし、アニメ映画「楽園追放」などでもこういうモチーフがあったりと、既に便利な世の中でそういう予兆を見出している人が多いのだろうか。

この議論聞いて僕が一番思うのは、今の現代社会に生きる僕らの感性で、不老不労のユートビア世界を想像したらダメだ。僕らの価値観は幼いころに作られ、さらに今も補強されたり微々たる変化をしている。しかし、ユートビアの世界で生まれ育てばまた今の僕らでは文字通り想像もできない感性を持っているかもしれない。

ただ、一つ言えることは、過度期はかなり苦しいことになるだろう。

現代人の価値観をある程度もっていて、ユートビア状態になったら何をやっていいか分からなくなる。なぜなら、生きる基準がなくなるから。もともと、僕ら人間はこれだけ物質的に豊かになってもまだ人間はどこに向かっているのか、世界とは何であるかをしらない。

一つ、補助線に以下、養老孟司の「脳とシワ」というエッセイ集から男女関係について、結婚ってそもそもなんだ?みたいな話の文脈での一言。

男と女の関わりかたは、考えようによっては、無限にあるだろう。それはそれでいい。すべての関わりかたがそれぞれあっていいのである。しかし、もし結婚という形がこの世になければ、そうした関わりかたは、一切の物差しをなくしてしまう。そうなると、われわれはそれをどう考えるか、基準がわからなくなってしまう。それでは、一般論ができない。だから、人間は、結婚という制度を考えだしたのだろう、と。(50)

今の男女間の関係性というのは、結婚するという軸が社会にあるからそれをもとに社会的に男女関係が築かれている。幼稚園や小学校で異性に接するのは、両親を見て、自分も同じように異性と結婚し一緒に暮らすというような生き方を無意識的にインプットされている。こうしてその後の異性の関係は将来的な結婚(もしくは恋愛、不倫などもそこから派生)がかならずちらつくはず。

これは友人関係もそうだ。職場や学校などありきで、そういった関係があるだ。不労不老状態になると、何も拠り所がなくなるただのカオスである。強制的にどこかでときと場所を同じにして、知り合い、親交を深めるような機会がなくなる。

こうなると、人間はどうして良いか分からなく苦しくなる。だから、マトリックスで描かれるように現代人からすると拒絶したくなる世界なのだ。

ただ、繰り返すが、それは今の感性からの話である。

意外とニコニコ動画とか観ながら暇つぶししているかも。


脳のシワ (新潮文庫)
養老 孟司
新潮社
2006-07-28

 

改めてレイ・カーツワイルの「THE SINGULARITY IS NEAR シンギュラリティは近い」を読んだ。遺伝子、ナノテク、ロボットについて詳細がぎっしりつまっており、広いが深く記述されている。正直ここまでくると、まったくその信ぴょう性などを吟味することができないが、彼の描く未来はリアリティがある。この後に出された日本人著者による「エクサスケールの衝撃」も同じような構成で面白い。

最後のほうに、レイ・カーツワイルの世界観が見て取れる記述があるので幾つか引用しコメントしたい。


情報は知識ではない。世界には情報が溢れており、知能の役割は、その中から顕著なパターンを見つけだし、それに基づいて行動することだ。…保持されるのは、重要な認識と洞察に限られる。このように知能は、情報を選別的に破棄して知識を創造している。

これはコンピュータサインティスト的というか、比較的一般的な見方であろう。

わたしの考えでは、生命の目的ーそしてわれわれの人生の目的ーは、より偉大な知識を創造して評価し、そして、より素晴らしい「秩序」に近づくことである。

これも、実はシンプル。ビッグバンからの物理法則に従った延長で生命がうまれ、人間が意識をもったというような素朴な世界観だ。生命はパターンの保持、そしてさらに大きな秩序を求めるということだろう。
 
わたしの見るところでは、宇宙の目的にも、人生と同じ目的が反映される。すなわち、より素晴らしい知能と知識に近づくことである。人間の知能とテクノロジーが、この宇宙という拡大する知能の最先端を形成するのだ。

上記の生命の目的と同じ。ただ、これらはかなり客観的な捉え方になっている。より存在論的にいうなら、人間の生「いま、ここ」では、パターンがどうこうなど関係ない。ただ、ただ、主観的な体験が進行していくだけだ。これが意識をもっている私にはすべてなのだ。この視点から論じてほしかった。

アイデアとは、知能を具体化したものであり、その所産である。

これも定義として興味深い。
 
人間社会の法体系は、主として意識の概念に基づいており、とりわけ(意識のある)人間に被害ーー特に深刻な意識的経験の形でーーを及ぼす行為や、人間の意識的経験を終わらせる行為(殺人など)に多大な関心が向けられている。

たしかに、社会は「意識」がどの人間にも備わっていて、それを基にルールを決めている。当たり前だが言われてみると斬新。
わたし個人の哲学は、相変わらずパターン主義ーー自分は基本的に、一定時間、持続するパターンだと考えるーーに基づいている。 
人間は常に細胞が入れ替わっているという話の流れでの記述。まあ、よく言われていること。

以上、レイ・カーツワイルは意外とシンプルな物質主義的な価値観を持っているようだ。




人と接していて何か「不自然」と感じることはあるはず。自分が他人にそういう印象を与えていることもあるだろう。

その「不自然」とは何か?

それを理解するためのキーはげゲシュタルトである。

ゲシュタルトとは人間が五感などから視覚、聴覚、内的感覚など情報をインプットされると、一定のパターンを認識し、それが一つの概念だと無意識的に体得される。これがゲシュタルトである。例えば赤ちゃんが猫を5回くらいみればそれが一つの概念として形成され、「ねこ」というラベルを貼れば言葉と概念がリンクされる。

さて、「不自然」というのは、ゲシュタルトが出来ていないにのできているかのように振る舞うことだ。知ったかぶりのようなもの。そして、このゲシュタルトができるかできないかは、自分ではコントロールできない。できるのは努力して理解しようとする過程だけ。例えば、民主主義とは何か、といろいろな本で勉強し、制度的に、歴史的にかなり細かく吟味すればゲシュタルトが形成されるかもしれない。もし、民主主義はみんなで話し合って決めることだ、程度であればゲシュタルトができているとは言わず、他人からみたら「不自然」なのである。

仮にある人が民主主義について知らなくても、それのゲシュタルトを持っている人が民主主義に話していればそれが自然か不自然かはすぐに分かる。 

要は、何かを理解するとはゲシュタルトができることであり、意識的に理解したということではない。それを履き違えると「不自然」となる。 

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