記述の基体(がらくた)

【ブログ】日々の思ったことを徒然なるままに書いております。基本殴り書きで校正しておりません。【世界観】人は動物のように本能で現実に向き合っているのではなく、言語を通じてのシンボル体系としての世界、その世界の中の私(自我)という物語で現実にしがみついている。【取り組み】(1)現をよく存在させたい。そのためのよりよい社会や世界に向かう。(2)卓越した創作をしたい。そのためにはより多くのゲシュタルト(パターン・観念・概念)を獲得→世界でよく行動し、読書。【価値観】結局は「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」【プロフィール】東京出身のアラサーです。※著作権についてはオプトアウトに対応させていただいております。何かに共感された方はご連絡ください。 【コメント欄へのフィードバックお待ちしております。個人的な質問、反論、脅迫などはTwitterへお願いします。】

カテゴリ: 仏教

出家するということは、世間からの情報と完全に断絶するということだ。

人はそれまで周りの人間やさらにはSNSで物語を承認されることでどうにか現実に適応していた。しかし、その承認獲得活動に嫌気が差し、人は出家する。世間から承認を得るのは難しい。変動の激しい社会に自分の物語を合わせるは努力が必要だ。

その競争から離脱し、そういう変動のない環境で自分の物語を固めていこうとするのが出家の本質であろう。

しかし、いくら社会からの承認競争を逃れても、物語という言語的世界を維持しないと人間は終焉する。ではどうするのか。人間として生きるのをやめ、一元的な世界を動物のように生きるのか。それとも、過去の社会の記憶を抑圧し、坊さん社会からの承認で上書きするのであろうか。

いずれにせよ、根本的な解決でないのは間違いない。

とある知人が出家したと聞いて、そんなことを考えた。
 shukke

仏教は世の中の構造を適確にフィクションで説明している側面と、人間がどう生きるべきかをうまく示唆してくれる。仏教には阿頼耶識という言葉がある。これは、人間が五感で感じたことや頭の中で思考したこと、意識に上ったことなどあらゆる現行が種子として保存される巨大データベースのことである。そして同時に日々の我々の行動や思考などの現行は阿頼耶識の種子が原因となる。これは心理学や脳科学的に見ても人間のあらゆる認知は記憶されているということや、認識が過去の記憶をもとに行なわれ、認識のもとの行動もそれ故記憶の影響をうけることと通ずる。世界の仕組みを上手く説明している。また、それだけではなく、だからどう生きるべきかという人間のあるべき姿も同時に教えてくれる。あらゆる現行が種子としてデータベースに残り、そのデータが後の思考や行動の基となる。だとすれば日々善いことをしていれば心も善くなりその逆は悪である。だから人の見ている見ていないは関係ないし、想像することすら気が抜けない。常に善を意識するような生き方をせよというのが阿頼耶識という概念のポイントである。

今、目の前にオフィスビルがある。その下には木が何本か植えてある。私から木は数百メートルは離れているがそれが木であると認識できる。でも、それは私の過去の記憶から推測しているので、そのもの自体を認識した、という訳ではない。例えば、和菓子とかチョコで葉っぱをリアルに再現したりするが、私が遠くから見た木も実はお菓子かもしれない。では、何故私は木だと判断したのか。それはオフィスビルの下の外観のために木を配置したのだろう、木は自然を彷彿させ人に安らぎを与えてくれる、ここはオフィス街である、オフィスとは人が働く場所である、働くとはお金を稼ぐこと、稼いだ金で生活をする、などなど木という概念1つをとってもその背後には途方も無い概念の前提(以下、「その他の概念」という)がある。

むしろ、「木」というものを完全に定義するものなどない。仮に私が見た木がお菓子でできていてももうそういうオフィスビルの下に植えてある木という認識が成り立つならそれは「木」である。その葉っぱが葉緑体を含むとかそういうことは今私がこれは木かどうかというのを判断する上で関係がない。そう、全ては関係の中で生まれる。私がここから眺めてオフィスの下にあるものを「木」と認識するのは、上述の無数の「その他の概念」があって成り立つ。そして「その他の概念」の各々すらも「木」と同じようにその他の概念によって成立する。

そして、それらの全ての概念というのは、人間の頭のなかにある記憶なのである。

これが仏教の縁起である。
 

吉田松陰は仏教に批判的であったそうだ。一般的に言われるには、松蔭が唱えた尊皇攘夷論は天皇を核として日本を団結させて外国を打ち払おうというもので、仏教とは相容れなかった一面があるとのこと。また、仏教は外来宗教でありしかも江戸幕府からあつい加護を受けていた。幕府は寺請制度で国民を寺の檀家にし宗門人別改帳を作らせて統治した。こうしてみると、別に仏教思想そのものというよりはそれが天皇を中心とする国家作りに相容れないから批判的だったのだろう。

我が師匠である吉田松陰はおそらく仏教思想の本質も理解していただろう。本質というのは要するに日本の儒教や道教が混ざった仏教ではなく、原始仏教に近い縁起や空など、個人が悟ることを中心にした仏教である。松蔭は恐らくこれらを理解した上でさらに仏教批判をしたと見られる。というのも、松蔭は天皇を中心に国民国家を形成しようとした。国がまとまり、天皇の正統性を軸に統治した国。権力が統治しなくては社会インフラが整えられないのでこの発想は正しい。仏教の本質を理解すれば、それは個人の身勝手な幸福を追求する思想だと分かり、集団の救済にはならないことが分かる。一見、尊皇攘夷という非近代的な行動にみえるが、吉田松陰は明確に集団のために生きようとしたのだろう。

人気アニメ『ソードアート・オンライン』(Sword Art Online、略称:SAO)を拝見した。20分強✕25話ですぐに見れる。あらすじをwikipediaから引用。

2022年、世界初のVRMMORPG「ソードアート・オンライン」(SAO)の正式サービスが開始され、約1万人のユーザーは完全なる仮想空間を謳歌していた。
しかし、ゲームマスターにしてSAO開発者である天才プログラマー、茅場晶彦がプレイヤー達の前に現れ、非情な宣言をする。SAOからの自発的ログアウトは不可能であること、SAOの舞台「浮遊城アインクラッド」の最上部第100層のボスを倒してゲームをクリアすることだけがこの世界から脱出する唯一の方法であること、そしてこの世界で死亡した場合は、現実世界のプレイヤー自身が本当に死亡するということを……。
それから2年、最前線は74層、残りプレイヤーは約6000人となっていた。プレイヤーの一人である少年キリトは、ソロプレイヤーとして最前線で戦っていた。ひたすら最前線で戦うキリトは、同じく攻略組として戦い続ける女流剣士アスナとの絆を少しずつ深めていった。

これはエンタメ的に普通に楽しめる作品である。登場人物は、仮想世界を現実並みの臨場感で生きている。仮想世界で友人や家族を持ち、生きるものもいる。正直、原作者がどういうメッセージ性を持っていたのかは分からない。ただのエンタメの作品を作ったのかもしれないが、私にとっては仏教思想を想起させられた。
 

仮想世界でリアルな生活をしている主人公たちは、アニメ内で何度か「現実だろうがゲーム内だろうが関係ない、今感じているのが自分」みたいな趣旨の発言を何度かしている。これは仏教の唯識を彷彿させる。普通、人は夢から醒めたら、いくら怖い夢を見ても「何だ夢か」とその夢の中での体験を実体のないものであると見做す。その考えを延長すると、ソードアートオンラインの中の体験も実体のないものであり、自分が煩わされるべきものではない。しかし、ソードアートオンラインの中で登場人物はその世界に臨場感を覚え、それを実体とし、そこの生活が自己の人生と認めている。

ゲームから出れないし、ゲーム内で死んだら現実でも死ぬから、キャラクター達はそう思うのだろうか。これはどちらも精神的なことである。本当にゲームから出れないか、死ぬかは実際確かめようがない。しかし、全体的な状況でそう信じてしまっているのである。それを自分が確信したら、臨場感が現実世界から今の仮想世界に移るのは当然である。結局は自分の認識が全て。これを突き詰めて認識しか存在するようなものがない、という考えが仏教の唯識である。

唯識的に言えば、現実世界もソードアートオンラインの世界と同じく、ただただ世界という物理空間を五官の作用により情報をインプットして認識しているに過ぎない。ソードアートオンラインはこの物理空間が明確にコンピュータの情報処理で作られているが、それらが我々の現実世界の物理空間と区別する必要はない。少なくとも一人の情報の受け手としては、完全にイコールの存在である。今の現実世界から覚醒めることを悟りというが、これはようするに夢から醒めることとパラレル。夢を実体がないものとみなすように、今の世界も実体がない夢やゲームの仮想世界と同じであり、ただただ自分の認識がある、という理解が腑に落ちればそれは悟りである。

ちなみにソードアート・オンラインのキャラクター達は、悟りとは逆方向に進み、現実世界と仮想世界の両方にとらわれ二重に苦悩している。実体のないゲームにとらわれて苦しみ(時には幸せになる)ことを描くことで、世界はそもそも実体がないものであり、どこの本人が臨場感を抱くか、ということに尽きる。それを理解できれば環境に左右されずにすむだろう。

まず、完全に物理空間を実在するものと唯物論的に世界を考えてみよう。目の前の椅子は実体があり実在する。ここで言う実体とは他の何にも依らずそれだけで独立して存在しうるもの。我々、人間はこの物理空間がベースになっていて、その上に沢山の動植物や人間、建物などがあると考える。一つの大きな流れの中にいろんな参加者がいる、と。なので全ては物理現象である。

幸せ、というのは感情というか感覚で物理現象ではないように思うが、これも物理現象として説明できる。幸せな状態とは単純に体内でドーパミン(感情、興奮などにかかわる神経伝達物質)が出て、セロトニン(心のバランスを整える神経伝達物質)が出ている状態である。セロトニンが出れば幸せな状態になれる。その実現のための簡単なやり方はある。例えば死なない程度に自分で自分の身体をナイフで切る。そうすると大量にドーパミンが出て、そしてβエンドルフィンという鎮痛効果や気分の高揚、幸福感などが得られる神経伝達物質が出る。そして最後におもいっきりセロトニンが出る。同時に血糖値を高めたり、心拍数を速めたりするアドレナリンやノルアドレナリンも出る。だからおもいっきり怖がらせても最終的にはセロトニンのおかげで幸せになれる。リストカッタージャンキーがいるのもそのためである。

では物理空間を考えず、情報空間だけの世界を考えよう。ここでは物理空間とは情報に過ぎない。生きるとは、情報をインプットされて脳かどこかで演算処理をして心象というアウトプットを得る。心象とは意識内で感じるものである。我々は通常、五感というが、本当はもっと多い情報を取り入れているだろう。(6感なのか10感なのか分からないが。)視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚という情報を取り入れて脳内で処理して、心象として意識に上る。(五感と綺麗に区分けしているが、この境界も曖昧)心象とは勝手に意識に上がってくるコントロールできないもの。ある女性を見て美しいと思ったり、何か言われた結果喜んだりすることも心象だ。我々が認識していると思っているこの物理空間は我々の限られた感覚器により取り入れられた情報に基いて脳内で再現されたものである。コウモリは超音波の跳ね返りで世界を認識しているので我々のように視覚メインでの認識とは全く認識であるだろう。また、我々はこの皮膚で覆われた肉体に自我を感じるが、他の生物であればその個体から放たれる人間には感知できない気体をもとに、周囲10キロメートルを自分と考えることもあるかもしれない。

要するに、世界は全て情報なのである。実在しない。しかし、一般的に、人は物理空間という実体があると考える。つまりは心が無くとも目の前の椅子はあるということ。こういう見方をしているだろう。触れる、地面に立てるというと、何か物体として確実に存在しているものがあるように感じるがそれも触覚情報、視覚情報などが統合されて処理されアウトプットとして感じるものである。全ては情報である。

ではこの物理空間というインプットを人間に送りつけてくるものの正体は何なのか。脳の一部を取ると感覚器の機能の一部がなくなる。ということは、物理空間が実在するということなのか。いやその感覚器自体も情報なのである。だとすれば、この情報を源はどこなのか。

仏教の唯識では物理空間を否定している。生きる上で全ては識であると。識が実在するとも述べていない。だったら、この一貫性があるように見える物理空間は何なのか。唯識では、阿頼耶識という人間のデータベースがそれを生み出すとしている。外界の対象物は識別にすぎない。物は心にそなわる表象の投影に他ならない。外界の対象物は実在ではない。という。しかし、それはどっからくるのか。

唯識三年というが、このあたりを理解するのはかなり難しい。私の理解では、感情や感覚、思考など意識される「心象」だけが生きている上で確実に存在を確かめることができることであり、それ以外は確かめようがない。「心象」が存在しているといっても、実在とかそういう言語の意味的に「存在」といっているわけではなく、嬉しいときは嬉しいし、悲しいときは悲しいというその「感じ」ているのは事実であるということ。(この事実という言葉もやっかいであるが。)この辺りのことを言語を軸に思考していては理解できない。もし理解できてもすぐに頭から離れてしまう。唯識ではヨガをして、世界を言語を介さずただあるがままに捉え、唯識の概念を定着させていく。3年くらい頑張ればそれを実感でき、自分に定着していく。

ちきりんがブログで「健康寿命を延ばす本当の要因」について書いていた。要約すると、世の中にはお金と手間を惜しまず、玄米や有機野菜など「からだに良いモノ」を食べ、定期的に運動するなど、いろいろ気を使ってる人も多いが、実際に長生きしている人ってそんなの気にしないで生きている。自由に主体的に生き、必死で考えたり心からワクワクしたりしながら、いい刺激を(自分に)与え続けること、が長生きの秘訣なのではないか、ということ。

これは本当にそう思う。中国を見ていればよく分かる。中国では平均的な日本人よりはるかに不衛生で栄養価のない食生活で不健康な生活を送っている人は多い。しかし、生きるために必死にお金を稼ぎ、時には友達と遊び何かこう動物的に生き生きしている人が多い。そういう長生きしたおじいちゃんおばあちゃんをよく見る。逆に中国でも下手に学歴があったり知識が多い人だと日本人と同じように心配ばかりしている。

そもそも、この世に人間の健康を司る真理があるとしても、既存の栄養学とか生理学とかでその真理の1%も説明していないだろう。というか全く的外れかもしれない。むしろプラシーボ効果的にこれを食べれば健康になると信じこむことのほうがよっぽど身体にいい気がする。

健康のこともそうだが、貯金とかキャリアとか他人からの目とかに現代人は囚われすぎている。情報が多すぎてどれも十分に吟味できていないのだ。ならどうすればいいか。それは世の中のものは空想であり、自分の意識だけが絶対的らしいという考えのもと、あらゆるものを仮の役割として捉えながら適当に生きることだ。これはおそらく仏教思想の本質である。もちろん、仏教を学ばなくてももともとそういう考え方をしている人も多くいる。そういう人は勝手に長生きしているものだ。

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